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大魔導師の馬車

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「どこに行ってのじゃ。もしかすると、どこかに行ってしまったのではないかと心配したではないか」
 と、大魔導師はスねたようにそう口先をとがらせてそう言った。


「申し訳ありません。すこし館内を見て周っていましたので。それよりこれは……」


 外――。
 図書館前の庭園には馬車がとまっていた。
 後ろにはキャリッジと呼ぶには小さな箱がむすばれていた。


「海を見に行きたいと言うと、サルヴィアが馬車を用意してくれたのでな」


「これに乗るんですか」


 大魔導師ともあろう人が乗るにはあまりにボロい。


「案ずることはない。魔法をかけてあるから、見た目よりかは中身は広い」

「そうですか」

「さあ。乗るが良い」


 今日の大魔導師はずいぶんと機嫌が良かった。興奮を抑えきれないようで、ヘイルータンの手をつかんで、キャリッジのなかに招きいれた。
 ヘイルータンは自分の背中に、サルヴィアの殺気が突き刺さるのを感じ取っていた。


 キャリッジのなかはたしかに広かった。


 丸テーブルに四脚イス。革のソファの本棚。それに、キッチンまでついてあった。
 キッチンはカーテンで仕切れるようになっているようで、白い布が天井から垂れていた。ロフトもあるようで、ハシゴもかかっていた。ロフトには大きな窓がついてあって、外の景色を見られるようになっているようだった。


「なんか秘密基地みたいで良いですね」


「ここには誰もいないんだから、畏まらなくっても良いのよ」


 大魔導師は不意にくだけた口調でそう言った。膝近くまである靴を乱暴に脱ぎ捨てると、川のソファに寝転がった。


 その気取らない態度をはじめて見せられたときは、ずいぶんと前だ。


 公衆の前では老獪を気どっているが、プライベートではいたってふつうの少女なのだった。ダアゴとの政争に勝っているのだから、それ相応に歳を食っているはずなのだが、見た目が幼いせいで年齢不詳だった。


 もしかすると魔法で若作りしているのかもしれない。実年齢が気になるところだが、さすがに大魔導師相手に年齢を尋ねるわけにもいかなかった。


「どうして海を見に行きたいなんて言ったの?」 と、ヘイルータンも大魔導師に合わせて砕けた口調で問いかけた。


「海を見に行きたいっていうのは口実。ホントウはチョット息抜きがしたかっただけ。まぁ、気分転換よ」


「書簡がまだ?」


「そう。片付かない。ヘイルータンが手伝ってくれるおかげで、だいぶ楽にはなったけれどね。片付いたと思ったら、まだドッサリ送られてくるのよ」


「オレ。海を見に行くの、はじめてだ」
 と、ヘイルータンはそう言って、大魔導師が脱ぎ捨てた特殊な形の靴をととのえた。


「私もよ」


「え? 大魔導師さまもはじめてなの?」


 大魔導師さまじゃなくて、マツリって名前で呼んでって言ってるでしょ――とつづけた。


「そうよ。私も海を見るのははじめて。だってほとんどずっと、あの図書館のなかで閉じこもってるんだもの」


「マツリにも知らないことがあるんだ……」


「魔術師って連中は勉強ばっかりしてきたせいで、知らないことばっかりなのよ。私も含めてね。私は逆に、ヘイルータンにも知らないことがあるんだってビックリしてるわ」


「オレ?」


「ヘイルータンはどうしてそんなに優秀なの? ルーン文字を完璧に使いこなし、あらゆる言語を使いこなす。出来ないことなんて、なにもないんじゃない?」


「オレにも出来ないことはあるよ」

「なぁに?」

「笑えない」

「ん?」

「気づいてると思うけど、表情が上手く出せないんだ。笑えないし、泣けない」

「そうだったんだ。ムリにポーカーフェイスを作ってたわけじゃないのね」


 大魔導師はそう言うと、裸足で歩み寄ってきた。
 そしてヘイルータンの頬を左右に引っ張った。


「な、なにするんですか」

「すっごく柔らかい頬ね」

「痛いって」

「なにするんだ――って私のこと突き飛ばしてごらんなさいよ」

「そんなこと出来ないよ」

「出来るわよ。あなたなら」


 どんな意図があるのかまでは読み取れなかったが、ホントウに突き飛ばして欲しそうだった。こういうときの機微の感じ取りかたは、ヘイルータンには優れたものがあると自負している。


 さりとてムリに突き飛ばすわけにもいかない。大魔導師のそのちいさなカラダをソファの上に押し倒した。


 大魔導師はヘイルータンの首を抱きすくめるようにして手を回してきた。
 おのずとヘイルータンが大魔導師を組み伏せるようなカッコウになってしまった。


「ごめん」


「ねぇ。あなたは間諜じゃないわよね。図書館の情報や魔法書を盗み出すために来たわけじゃないのよね」
 と、大魔導師は黒真珠のうつくしい双眸に涙を浮かべて、ヘイルータンのことを見つめた。


「オレは間諜なんかじゃないよ」
 と、ヘイルータンはウソを吐いた。


 間諜――という言葉が正しいのかはわからない。魔法書を盗み出すために送り込まれた人間であることには違いなかった。


 ウソを吐いたことに罪悪感はあった。口でそう言っておきながら、懐には図書館から持ち出した禁書を抱えているのだ。


 とんだ大悪党だなとヘイルータンは自分のことをそう思った。


 伽羅と白檀の香りは、うつくしい悪女の証拠だとかなんとかテンが言っていたことを思い出した。
 女ではなかったが、悪人だという意味では当たっていたのかもしれない。


「サルヴィアがいつも私の顔を見て言うのよ。ヘイルータンは間諜に違いない。それもきっとこの図書館を破滅に追い込む間諜に違いない――ってね。そんなはずないと思うけど、でも、そうかもしれないと思うこともあるの」


 震える声で大魔導師がそう言った。


(もしや……)
 と思った。


 海を見に行くという旅のホントウの目的は、息抜きなんかではなくて、ヘイルータンのことを見定めようという魂胆があるのかもしれない。


「どれぐらいの旅にするつもり?」


「2、3日ね。それ以上は図書館を空けれないから」


 その日数の長さが、大魔導師の持っている疑念のおおきさだと思った。たった2、3日ということは、さして怪しんではいないのだろう。


 いかにヘイルータンが潔癖であったとしても、大魔導師の疑念を払拭しきれるものではなさそうだった。


 旅のあいだ、懐にひそませてある《獣解呪の書》を隠し通さなくてはならない。


 禁書の書架から持ち出すタイミングを間違えたかもしれない。


 常にサルヴィアの監視が付きまとっているなか、あの時間だけは監視がなかった。他にチャンスなどなかったようにも思う。


「危険はないの? 大魔導師――マツリのことを狙ってる人はいるでしょう。迂闊に外に出たりしても良いの?」


「このキャリッジは外から見ればボロボロなのよ。誰もこんなところに乗ってるなんて思わないわよ」


「でも、斥候とか出したほうが」


「斥候を出してるあいだに、館内にいる間諜が外に情報を送るかもしれないでしょ。私の動きは筒抜けだと考えたほうが良いの。いちおう護衛に、サルヴィアが数人の魔術師も付いて来てくれてるはずだし」


 意外と心配性なのね――と、ようやく大魔導師はヘイルータンの首から手を離してくれた。
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