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 ホエル号。
 船橋にある砂時計。


 本物の砂時計ではない。立体映像だ。「8」の字のような透明な器。上の器から、下の器へと、黄色の砂が絶え間なく落ち続けている。


 これが――。
 ロロムクの余命だと言う。


 もうすでに落下している砂の分量のほうが多い。上の器に残されている砂の量はわずかだ。砂時計に触れてみる。触れても意味はない。感覚もない。映像が、わずかに乱れるというだけだ。


 ホエル号は都市を出立して、ふたたび灰色の大地のうえを飛行していた。


 正面窓。
 灰色の砂漠が見て取れる。


 その窓の手前にある椅子に、ロロムクは腰かけていた。
 電子媒体の本を読んでいるようだ。


 ロロムクが読書をしているあいだ、船内は静寂だった。ときおりホエル号が歌をくちずさむ。砂時計が砂を落とす音が静かにひびく。それぐらいの音しかない。


 目を覚ました当時に比べて、俺の世界への解像度があがっている。


 人工知能を搭載したホエル号。
 文字拾いという仕事。
 ロロムクの機械の身体と砂時計。


 周囲のことが理解できると、自分、という存在の輪郭がハッキリしてきた。自我が芽生えたとでも言うべきか。
 でも、曖昧なものがハッキリしてくるにつれて、奇怪なことも見えてくる。


 ホエル号。
 船橋。


 椅子を買い足したおかげで、いまは2脚になっている。
 居住部屋にあるベッドも買い足したので、2台になっている。


 都市で買い足すまでは、椅子のベッドも1つしかなかった。眠るときは、俺はロロムクと同じベッドで寝ていたのだ。恋人だと言うから、そういうもんなのかと思い込んでいた。


 しかし、不可解である。
 この船には、俺が生活していた痕跡が皆無なのだ。


 記憶喪失になる前の俺が、残したものが1つとしてない。
 椅子やベッドの数にしてもそうだ。1つしかなかったということは、俺はいなかったということだ。


 本当に俺はロロムクの恋人だったんだろうか? 違う気がする。でも、違うということはロロムクが嘘を吐いているということだ。なぜ? ロロムクは記憶喪失の俺に、どうして嘘を吐く必要があるんだろうか?


 わからない。
 俺は、自分が何者なのか、いまだわからない。


「まるで私たちは正反対です」
 と、ロロムクがそう口を開いた。


 ちょうど1冊読み終えたそうだ。ディスプレイを閉じていた。


「反対?」


「ええ。ゼロには過去がない。だから過去を取り戻そうとしている。そうでしょう?」


 俺が考えていたことを、ピタリと言い当てられたので、びっくりした。でも、ロロムクなら、俺の考えぐらい、お見通しでも不思議ではないと思うことも出来た。
 なにせ、俺に知識や言葉をあたえたのは、ロロムクなのだ。


「ちょうど、そのことを考えてた。俺はまるで誰かに切り取られたみたいに、以前のことが思い出せない」
 と、俺は冗談めかして、自分の頭をノックして見せた。


「ゼロに過去がなく、そして私には未来がない。だから私は未来を求めようとしている。私とゼロは正反対のものを手に入れようとしています」


 余命の話をされると、冗談としては受け取れない。砂時計はいまも落ち続けているのだ。でも、その通りだと感じた。


 俺は過去を見て、ロロムクは未来を見ている。まるで背中合わせ。正反対の方向を見ている。


「でも、魔法の使い方がわかれば、ロロムクは助かるかもしれない。そうなんだろ?」


 俺はそう言いながら、ロロムクの隣にある、新しく買った椅子に腰かけた。


「ええ」
 と、ロロムクはうなずく。


「いま読んだ本のなかには、何か書かれてた?」


「いいえ。私の身体を回復させる手がかりになりそうな記述はありませんでした」
 と、ロロムクはかぶりを振った。


「はやく、魔法の具体的な使い方を見つけないとな」
 と、俺は砂時計を一瞥した。


 あとどれぐらいの時間がロロムクの残されているのか、明確な数値はわからない。決して長い時間ではない。


「生きながらえることが出来れば幸運です。しかし、見つけられなくても、それはそれで構いません」


「構わないって、でもそれだと死んじゃうんだろ」


「生き物は、いずれ死ぬものですから」


「いやまぁ、そりゃそうだけど……」


「知っていますか? 真空にさざめきがあることを」
 と、ロロムクは、天井を指さした。


 その指先へと視線を向ける。
 ただのホエル号の天井だ。いくつものパイプが天井を通っている。ロロムクが指さしているのは、もっと先。
 天井ではなく、宇宙なのだろう。


「真空のさざめき?」


「粒子が生まれては消滅している。100億分の1秒。いえもっと短い。10兆分の1秒。あるいはもっと短いΔtデルタタイムで、粒子が生まれては消えていく。その粒子と同じことです。私の一生など、この宇宙を流れる膨大な時間のなかでは、一瞬にも等しい。そう思うと、1年も100年も誤差です。明日死ぬのも、100年後に死ぬのも、そう変わりません」


 ロロムクはしばらく天井を見つめていた。


「やりたいこととか、やり残したこととかないのか?」


「挙げるとすれば読書でしょうか。魔術師が遺した本だけでなく、私はもっとたくさん本を読みたい。かつてこの宇宙で生きた者たちの遺した思想を、読み取ってあげたい。それぐらいでしょうか」


 文字拾いうんぬんという以前に、ロロムクは読書が好きなのだろう。
 ロロムクが読書をしている姿はよく見かける。その姿勢から、読書が好きなのだという感情が伝わってくる。


「大丈夫。魔法という能力そのものの存在は確認されてるんだから。あとは使い方さえわかれば良いんだ。俺も手伝うから、あきらめちゃダメだ」


「ゼロがそう言ってくれると、頼もしいですね」
 と、ロロムクは口元に手を当てて笑った。


 笑われたので、俺の気持ちを揶揄われたような気がした。
 たしかに俺は無力だ。俺が言っても、口だけだ。でも、なにも笑うことないじゃないかと思った。


 しかし、ロロムクは俺を揶揄う意味で笑ったわけではないと気付いた。
 泣いていることを隠すために笑ったのだ。ロロムクのその笑い声は、不自然で、俺の胸を痛ませた。


「そろそろ睡眠の時間なのですよ」
 と、ホエル号が言った。


 星に流れる時間は不規則だ。しかし、人間には人間のリズムがある。リズムを崩すのは難しい。


 睡眠時間になったらホエル号が教えてくれる。起床時間になったら、ホエル号が起こしてくれる。


 俺もその時間に合わせて生活している。ロロムクが寝ているときに、俺だけ起きていてもやることがない。


 ホエル号が船内を暗くした。


「今日はもう寝る準備をしましょう」
「うん」


 俺とロロムクは鉄梯子をあがって、居住部屋へと移動した。俺のベッドが増えたため、ベッドは2台になっている。


 船橋があるほうが前とすると、左にロロムクのベッドがあり、通路をはさんで右に俺のベッドが置かれていた。


 俺は靴を脱いで、ベッドに潜り込んだ。


 身体を洗う必要はない。宇宙空間にはどんな微生物がひそんでいるかわかったもんではない。そのため、船内では一定以上の雑菌が増えないように設定されているらしい。
 それも環境操作システムの一環だということだ。


「ひとりで眠れますか」
 と、ベッドに入ったロロムクがそう尋ねてきた。


「俺のこと、子供か何かだと思ってないか? さすがに1人でも寝れるよ」


「そうですか」


「前まで俺といっしょに寝てたけど、ロロムクは厭じゃなかったのか」


「どうしてです? 恋人なのですから、なにも問題はないでしょう」


「うん」


 恋人なら、そうなのかもしれない。
 でも、俺は本当にロロムクの恋人だったのか。それがわからない。ロロムクに尋ねる勇気もない。ロロムクの言葉を疑いたくはない。


「おやすみなさい」
 と、ロロムクは言った。
「うん。おやすみ」
 と、返答した。
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