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第10章 決戦

第226話 無意識の海

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 暗い暗いどこかの中。冷たく感じるような何かが全身を触れている。肌から感じる感触は水の中に近いようだ。

 耳を澄ましても音は聞こえない。腕を動かしても捕まるような取っ掛かりすら見つからない。他にわかることがあるとすれば、ゆっくりと自身の体が落ちている感じだ。

「んっ.......ここは.......?」

 リリスはその時、自分が目を閉じていたことに気が付いた。どうやら暗く感じていたのは目を瞑っていただけだったらしい。

 そして、目の前に広がるのは水色から黒にかけてグラデーションになっている液体のような中。陽が刺す海に沈んでいるという表現が一番合っているかもしれない。

 口が開いているのに苦しくないし、呼吸ができる。本物の海とは違うようだ。周囲を見ても岩肌らしきものは見当たらない。手を動かしても何もつかめないのは当然だったらしい。

 すぐ顔の横から自分の赤い髪が水面を求めるようにたなびいている。しかし、その髪の長さは思っているよりも足りない。

 自分が古代サキュバスの力を得た時、本来肩甲骨辺りまでだった髪の長さは腰辺りまで伸びているのだ。しかし、今見る限りだともとの自分ほどの長さしかない。ということは、元の姿のようだ。

 光にすかすように手をかざす。その手はやはり自分が知っている手よりも小さかった。他にも、背中に映えている羽はどこにも見当たらない。

 そして、ふと振り返った時に暗い暗い闇が見えて来た。底は見当たらない。まるで深淵を覗いているような気分だ。

 また気づけば自分の周りはその大半が黒色の世界に近づいていた。光指す水色の部分は随分と遠くに感じる。

 自分はこのまま沈み続けていいのだろうか。自分の意識で手足が動かせる以上、水面に向かって泳いだ方がいいのか。

 しかし、その判断はあまり.......というか、してはいけない気がする。まだ大事な何かを忘れていて、大事な目的を見失ってて、まだ大事な何かを救えてない気がする。

 その時、リリスの視界の端は空気の泡のような何かを捉えた。すぐさまその何かを追って視線を動かしていくとそれは空気の泡だった。

 そして、気が付けば空気の泡は周囲からいくつも湧き上がっている―――――――いや、

 湧き上がっているように見えるのはあくまで自分が沈んでいるからだ。周りに浮かぶ大小さまざまな大きさの空気の泡はその場で何かを待つように止まっている。

 しかし、空気も必要のないこの空間で泡があるというのは不自然だ。触れないようにするべきか? それとも触れて確かめるべきか?

 そんなことを考えているとリリスはその空気が虹色の膜のようなものを張っていることに気付いた。まるでシャボン玉のようである。

 そして、その膜をよく見てみると虹色のように見えて虹色ではなく、もっとたくさんの色に溢れた何かでその何かが見覚えのあるような感じがしてならない。

 リリスはどこか懐かしいような気分になりながら、意を決してその泡を指で突く。すると、その泡は弾け、リリスの目の前で半透明な液晶ディスプレイのようなものを作り出す。

 そして、そこに映りだされたものは――――――――

『クラウン、私のものになりなさい』

『リリス、俺のものになれ』

 いつか見た目の前に広がる花畑。互いに傷心していて慰め合うように続けた会話。しかし、その会話一つ一つが心の支えであり、喜びであり、生きがいであった。

 大切な仲間が失って初めて結んだ同盟ではなく、本当の利害すら考えない相棒と呼べる存在。その時の記憶は死んでも忘れないリリスの大切な思い出だ。

 リリスは思わず近くにあった一回り小さめの泡を突いた。すると、その泡ははじけ再び液晶ディスプレイに映像を映し出していく。

 その映像はクラウンとベルの二人だけが映っているものだった。音はない。しかし、クラウンのあぐらの上で座るベルの表情はとても穏やかで安心しきっているような感じであった。

 それから、リリスは自分の記憶を補填していくかのようにさまざまな大きさの泡を突いていく。その度にはじけた泡は主にクラウンがかかわった光景であった。

 エキドナと出会い、兵長を失い、カムイと戦い、仲間と再会し、朱里と言葉を交わし、雪姫と向き合った。

 他にも神殿を攻略した時や次の街へ向かう道中での他愛のない会話。恥ずかしくなるようなクラウンの周りの変態的行動。

 それら全てが泡の中に収められていた―――――――大切な思い出として。その時、リリスは気づいた。

「ああ、ここは.......クラウンの無意識の中なんだ」

 そう言うと同時に自分の使命を思い出した。なんのためにここにいて、今はどこに向かっているのかを。

 リリスは先を急ぐように腕を動かして下へ下へと潜っていく。さまざまな泡が通り抜け、深度が増しているのか暗さも増してくる。

 しかし、不思議と何も見えないというわけではなかった。<夜目>を使ってるわけじゃない。暗いのに普通に流れてくる泡の存在に気付くのだ。

 その時、今まで見てきた泡とは違った泡が漂っていた。その泡は本来なら半透明でシャボン玉のような感じであるのにもかかわらず、暗い闇が纏ったような色をしていた。

 その泡をリリスは潜在的に恐れた。触れてはいけない何かだと直感が警告音を鳴らしてリリスの取りそうな行動を防ごうとしている。

 しかし、リリスはその警告音をあえて無視してその泡を指で突く。それはクラウンの意識の中である以上、もう逃げないと決めたわけであり、全てを受け止めると覚悟したから。

 そして、触れた時先ほどの半透明の泡より温度が低く感じた。どこか温かく感じていた泡よりも、今の泡は痛みさえ感じるような冷たさ。

『信用?ふざけているのか?俺たちは同盟でこうしているだけだ。お前など最初から信用してない』

「うっ!」

 その言葉はクラウンの声でありながら怨嗟のようなおどろおどろしいものを含んでいた。脳内に直接語りかけるようなその言葉は激しい頭痛を引き起こしていく。

 リリスは思わず頭を抱えうずくまる。強い力で頭を締め付けられているような感じがして、言葉で表現するには難しい。

 しかし、リリスは知っている。その言葉を。それはクラウンが聖王国を襲撃した後のこと。他愛もない会話でリリスがふと尋ねた時の言葉だ。

 あの時はただクラウンの逆鱗に触れないように気を遣っていて少し嫌な感じがしたが、そこまででもなかった。

 にもかかわらず、今はその言葉が鋭利な刃物とかして心を抉るように突き刺していく。空気は必要ないのに空気を求めるようにもがき、なぜか息苦しく感じていく。

 それだけ今はクラウンのことを大切に思っている証なのだろう。もはや大切以上のぞっこんというレベルかもしれないが。

 その感情が今は猛毒となって襲いかかる。クラウンに想いを募らせた分だけ精神的に多大なるダメージを負わせていく。

 恐らくあれがクラウンの精神の闇の部分ということなのだろう。これまでひた隠しにしてきた、決して見せようとしてこなかった闇の部分。

 こんなのを内に抱え続けたまま行動してれば、それは精神も摩耗していくだろう。いくらクラウンがそういうことに強い精神を持っていたとしても。

 ようやく痛みが引いてきた。これまでの感動に浸っていた時間を全て奪い去るように闇の記憶という黒い手はその姿を消した。

 しかし、リリスの苦悶の表情は変わらなかった。それは自分自身に対する怒りであった。自分はクラウンのことを想っている。しかし、そうでありながら、クラウンが隠していた闇を知ろうとしなかった。

 ずっと信頼関係が足りないのかと思っていた。それがクラウンの基準を満たせばクラウンからその闇の部分を語ってくれると思っていた。

 全ては傲慢だった。自分の勝手な思い込みでクラウンの闇の部分に触れようとしなかった。もう信頼関係は十分に築けていたというのに。

 クラウンの心に触れるのが怖かったというのはある。しかし、その一歩を踏み込まずに停滞を望んだのは自分だ。

 その自分を行動しなかったからこの結果を生んだ。そうとも考えられてしまう。もう少し、自分に勇気があって、クラウンの心に踏み込む勇気があれば.......そんな無駄な過ぎ去った仮定を考えても意味はない。

 その瞬間、リリスの頭に再び激しい激痛が走る。そして、流れていく光景はクラウンがラズリと戦った場面だ。いや、もっと詳しく言えばクラウンを庇った雪姫が斬られる光景だ。

 ゾゾゾゾゾッとクラウンのその時の感情が流れ込んできて、それがあまりも嫌な感覚で吐き気を感じてくる。

 怒り、憎しみ、怨恨、自己嫌悪、恐怖.......様々負の感情が一斉に頭の中へと飛び込んでいき、頭の中をかき回すようにしっちゃかめっちゃかにしていく。

 どうやら体の一部が黒い泡に当たってしまっていたようだ。リリスが耽っているうちにも体は沈み、黒い泡はその量を増やしている。

 気が付けば周りは黒い泡に覆われていた。リリスは苦悶の表情を浮かべながら左手で頭を押さえるとその泡を避けるように右腕で大きく真下に向かうようかいていく。

 そして、どこまでもどこまでも続く果てしない闇を目指しているとリリスは目の前に生み出されている何かに気付いた。

 それは黒い泡であった。黒い泡はリリスが目指していた闇の底のような部分から生み出されるように現れている。

 そして、よく見ればリリスが見てきた半透明の泡が吸われていき、代わりに黒い泡が吐き出されていく。

 その時、リリスは理解した。この海のような空間で見た闇は底のない深淵などではなく――――――――

 半透明な泡を吸い、黒い泡を生み出しているあれこそクラウンが縛られている呪いの本体なのだろう。

 リリスはその泡に向かって泳いでいく。ボコッボコッと生み出されている黒い泡は吐き出された勢いで浮上していく。

 この呪いがクラウンの良い記憶を憎悪にまみれた記憶に変えている元凶なのだ。そして、この黒い泡の奥に『核』はある。

 そして、リリスはその泡に近づいていくと意を決して腕を突っ込んだ。

 その瞬間、頭どころか全身を鈍器で殴られたかのような痛みに襲われる。

 怒り、憎しみ、恨み、遺恨怨念怨嗟鬱憤憤慨激憤悲憤辛辣憤慨私怨怨讐憤怒嫌厭嫌悪嫌忌――――――――

「あ"あ"あ"あ"あ"あ"!」

 呪詛のように流れ込むその言葉はリリスの精神を激しく蝕んでいく。もはや痛いどころの騒ぎではない。このままでは気が狂ってしまう。

 しかし、その先にクラウンが待っている。進まねば、もう取り戻すことはできない。

「待ってなさい! あんたに言いたこと山ほど増えたから!!」

 リリスは巨大な黒い泡に体をうずめると気が狂うよりも先に中心へと進んでいった。
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