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第16話 帝国で暮らすアレシア(3)

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 カイルの視線の先で、見慣れてきた姫巫女姿のアレシアが、ネティとサラを従えて、宮殿の敷地を隣にある女神神殿分院に向かって歩いていた。

 アレシアが神殿分院を初めて訪れた日、そこで当たり前のように参拝に来ていた人々の話を聞き、共に祈っていた、と聞いてカイルは驚いていた。

 さらにその後、その勢いのまま、神殿付属の孤児院と治療院も訪れたと聞いて、カイルは驚きすぎて言葉を失った。

 アレシアは女神の祝福を受けたとされる姫巫女であり、リオベルデ王国の王女、いわば深窓の姫君ではないのか。
 そんな姫君があんなしっかりとした足取りで身軽にあちこちと出かけていくものなのか?

「あれから毎日、午前中は神殿分院に行くことにされたようですね。おかげで参拝者がうなぎ上りだとか。何しろ聖なる姫巫女様にお目にかかれるかもしれないわけですから」
 エドアルドが感心したように顎を撫でながら言う。

「サラからの連絡によれば、今日は市場に行かれるそうです」
「市場」
 カイルが無表情に繰り返した。

「はい。リオベルデでは、神殿の巫女達は自分達で絹織物を織り、刺繍も施すとか。姫巫女様の衣装も巫女達が仕立てたものです。その技術は民間にも伝えられ、王国の主要産業にもなっているそうですよ。アレシア様もそんなわけで、織物や刺繍など、手工芸品へのご関心が高いそうです。それで、そうしたものを扱う店を見て回られるとか」

「それもサラ情報か」
「はい。ご安心ください。人も多い場所なので、警備も増やしています」

「抜かりないな。さすがお前の妹だけある」
「嫌味ですか」

 エドアルドの返しに、カイルが両手を上げる。
「エディ、少しは素直に、言葉通りに受け取れ!」
 思わず叫んだカイルの顔を見ると、エドアルドはふと真顔になった。

「……カイル様。それはそうと。アレシア様にはまだお会いにならないのですか……?」

 カイルは神殿へと消えていくアレシアの後ろ姿から視線を外した。
 窓から離れ、執務机に戻る。

 黒い髪に、青みがかったグレーの瞳。整った顔立ちなだけに、感情を表さないとカイルはひどく近寄りがたく見える。

 しかし、側近中の側近であるエドアルドと2人きりの今は、カイルの顔には、どこか思わしげな表情が浮かんでいた。

 婚約者である帝国皇帝が自分と会おうとしない。
 普通の姫君なら、何事が起こったのかと、平静ではいられないだろう。

 そんな中、アレシアはいつも穏やかな表情をして、自分のペースを崩すことなく、慣れないはずの帝国での暮らしを続けていた。

 どうやらアレシアは、ただの「深窓の姫君」ではないのだ。
 無言のカイルに、エドアルドは心配な表情を浮かべる。
 カイルはまだ、アレシアをどうするのか決めかねているのではないか、と。

 * * *

「わあ、きれいね!」

 アレシアが思わず声を上げた。
 この日も、午前中の神殿でのお務めを終えた後、アレシアはネティとサラを連れて、市場に来ていた。もちろん、護衛の騎士も付かず離れずで警戒中だ。

 帝都アンジュランスの中央市場はとにかく大きい。

 市場内は扱う品ごとにエリアが分かれていて、食品でも生鮮食品を扱うエリア、精肉、魚を扱うエリア、各種スパイスや乾物を扱うエリアなど様々だ。

 その他に、日用品を扱うエリア、衣類を扱うエリア、さらには工芸品を扱うエリア、貴金属を扱うエリアなど、とても1日では歩ききれないほどだ。

 目を引く、金色に輝く貴金属の装飾品を扱う店は、案外市場の外側にあり、市場の奥の方に、手工芸品を扱う店が並んでいた。

 まず目に付く貴金属店といっても、そこは市場にある店なので、貴族達が行く高級な店とはかなり違う。

 お手頃価格の、若い娘向けのアクセサリーから、財産がわりのボリュームのあるマダム向けのもの、はたまた重さ単位で金を買ったり、換金したりする客がいたり、と賑やかな様子だった。

 アレシアは物珍しそうな表情をしつつも、どんどん市場の奥へと歩いていく。

「姫巫女様」
「姫巫女様、今日はご機嫌いかがですか?」

 あまりに毎日通ってくるせいか、アレシアの顔を覚えてしまった売り子達が気さくにアレシアに声をかけていく。

「姫巫女様、先日はありがとうございました!」
 神殿で一緒に祈ってもらったらしい若い女性が、顔を赤らめながらお礼を言う。
 アレシアはその1人1人と挨拶を交わしながら、目当ての店へと足を運んだ。

 そこは、市場の奥まった場所にある、手工芸品のエリア。様々な布を扱う商店で、店の一部を使って、刺繍を施した既製品の服も売っている店だった。

「こんにちは、ご主人」
「これは姫巫女様。ようこそいらっしゃいました。ちょうど、東国から珍しい帯が入ってきたところですよ」

 アレシアは目を輝かせた。
「まあ、これは本当にきれいね!」

 店主が見せたのは、帝国で一般的な飾り帯よりもかなり幅が広いものだ。しかも長さがある。
 生地も絹でどっしりとしていて、繊細な花模様が刺繍されていた。

「わたし達の飾り帯とずいぶん違うわね。どんな服に合わせるのか、興味があるわ」

 帝国は広く、リオベルデ王国もそうだが、多くの国々が帝国の傘下に入っている。
 言葉も文化も異なる場合も珍しくない。

 アレシアの生まれた国であるリオベルデでは、人々の服装は男女問わず簡素で、基本はすとんとしたシンプルなドレスにチュニックを合わせ、腰に帯を結ぶ。

 帝都アンジュランスの人々の服装はデザインも凝っていて、とりわけ女性は様々な場面に応じて、豪華なドレスを着替え続ける。

 屋敷内で着る普段着、化粧着、外出着、訪問着、夜会用の凝ったデザインのドレス、質を求める正装用のドレスなど。

「これは東国から届いたものですが、彼の地の人々は、なんでも直線断ちで仕立てる衣装を着ているそうです」

「まあ。一度見てみたいわ。ねえ、ネティ、この刺繍を見て。まるで絵画のようでしょう。風景画みたいね。こんな刺繍も新鮮だわ」

「姫巫女様は研究熱心ですね」
 店の主人が微笑んだ。

 その時、ふとサラはアレシアに向けていた視線を外した。そして、大きく目を見開く。

 店の入り口脇に騎士と立っているのは、黒髪の背の高い男性。隣に立っている茶色い髪の男性は、どう見てもサラの兄であるエドアルドに見えた。

 となれば、隣の男性は間違いなく、ランス帝国皇帝である。
 サラが目を細めると、エドアルドは無言でうなづいた。
 カイルはアレシアに声を掛けるつもりはないらしい。ただ、様子を見に来たようだ。

「アンジュランスの貴婦人達は、こうした異国の帯をほどき、テーブルセンターにしたり、ベッドカバーにしたりするのですよ。また、何本も合わせてドレスに仕立てれば、それはそれは豪華なものになります」

 アレシアは感心した様子で、店主の話に聞き入っていた。

「帝国特産の手刺繍の布も見たいのだけれど。貴婦人の最高級のドレスを彩ると聞いたわ」

 店の主人はうなづいた。

「姫巫女様の帯も、そうですね。どうぞこちらへ。職人によって仕上がる刺繍も様々です。貴族の方はお気に入りの職人を持つことも多いですよ。とりわけ刺繍をお好きなのが、オブライエン公爵家のご令嬢で……。こちらです。基本はオーダーメイドですが、バッグのように、小物はこうして、出来上がったものも扱っております」

 カイルは話の弾むアレシアと店主の様子をこっそりと観察しながら、アレシアに感心せざるを得なかった。

 この店に来たのは、これが初めてではないのだろう。
 買い物に来たわけでもないのに、店主も嫌がることなく、楽しそうにアレシアと話し込んでいる。

「姫巫女様の帯も、アンジュランスの職人の刺繍のようですね」
 店の主人の言葉に、アレシアはにこっと笑顔になった。

「お気に召していらっしゃいますか?」
 カイルはそろそろこの場を離れようと思っていたところ、思わず足を止め、耳を澄ませた。

「ええ」

 アレシアの柔らかな声が聞こえた。
「とても大切にしておりますの」

「……カイル様、そろそろよろしいですか? そんな真っ赤なお顔をして」
 はっとして、カイルは隣に控えているエドアルドを見る。

 思わず、アレシアの「大切にしている」という言葉に、胸を射抜かれていたらしい。

「そ、そうだな。もう戻らねば。仕事を抜け出してきているし。アレシアは刺繍に興味があるのだな、いいことを知った」

 エドアルドはチラリとカイルを見ると、最後の言葉は聞かなかったことに決めたらしい。

「姫巫女様のお衣装はすべて、神殿の巫女達の手仕事で作られている、と聞きました。伝統の技術が民間にも伝わって、織物と刺繍はリオベルデの主な産業の1つになっているとか」

 リオベルデは、他にはない、創世の女神神殿を持つ国。とはいえ、小国であることは間違いない。

 アレシアはリオベルデの産業を育てるためにも、どんなことにも目を配っているのだろう。それはまさに、国を預かる王族としての姿だった。

「エディ、アレシアが興味を持っているなら、資料として何点か買い上げればいい。リオベルデの発展は、帝国の益にもなることだからな」

 カイルの耳がまだ赤いのにエドアルドは気がついた。

「かしこまりました」

 エディは妹であるサラと視線を合わせると、身振りでカイルの意図を伝えた。
 うなづいたサラが、アレシアに話しかけている様子を確認して、カイルとエドアルドはその場を離れたのだった。
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