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魔剣狐、魔剣狩りと死合う
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体が炎に包まれている。
なのに不思議と熱くない。
いや、熱すぎないと言うべきだろうか。
例えるならお酒を飲んで体が凄く火照っているみたいなあんな感覚だ。
燃えている耳、同じく尻尾。特に後者はいつもより明らかにぶっとく大きく変化している。
そして握り締めた私の魔剣、『玉響』。
先刻斬られた筈の片腕と片足はいつの間にか傷が塞がっていて、お陰で元通り手足を使えるようになっていた。
良かった――これなら戦える。
そう安堵する私に刀狂いの魔剣使いが口にしたのは場違いな台詞だった。
「赤子を嬲り殺してもつまらんからな。まずは一通り教授してやる」
「何を言って――ッ!?」
問い掛けようとした私は耳に走った激痛に息を詰まらせた。
右の耳を切り飛ばされた。
溢れ出す血まで燃えているのが何だか幻想的だったがそんな事を言ってる場合じゃない。
見えなかった。
斬られて初めて、こいつが攻撃をしていた事に気が付いた。
いやそれよりもだ。
今しがた斬られたばかりの耳に手を触れると、まるで肉が蠢くようにして元の形を取り戻し始めている。
驚く私の耳朶を教官気取りの辻斬りの声が揺らした。
「魔剣は大きく二つに分類出来る。一つはオレのような単に握って使う剣。もう一つはオマエのような、肉体そのものと一体化しているタイプの剣だ――前者を『武装型』、後者を『合一型』と呼ぶ。誰が呼び始めたのかはオレも知らんから気にするな」
「……ッ。別に教えてとか頼んだ覚えないんだけど!?」
「聞かなくてもいいぞ?その場合、オマエの寿命が多少短くなるだけだ」
「きゃう……ッ!」
思わず口を返した次の瞬間、私を襲ったのは斬撃の烈風だった。
まるで剃刀の忍んだ風のように皮膚が裂けて血が噴き出していく。
女の子として表を歩けないレベルで傷だらけになった体がまたも目で見える勢いで治癒していくのが解った。
何とか慣れないなりに玉響を構えて残りの斬撃を凌ぎつつ、刀身から狐火を噴かせて攻撃を試みる。
私の精一杯を軽く剣風で弾いて何事もなく講義に戻る目の前の刀狂いが、私にはとてもじゃないけど同じ生き物には思えなかった。
「傷の治りが早いだろう。合一型の魔剣は宿主を死なせない為に全力を尽くす。そんな献身の賜物がその"超再生"だ」
だけど怖がる時間はもう終わりと決めてる。
何としても吠え面掻かせてやらなきゃと自分を奮い立たせて、今度は私から斬り掛かった。
剣なんてまともに振った事もない筈なのに何故か体が凄く良く動く。
こいつの言葉になぞらえて言うなら、玉響の献身って所なのだろうか。
「だがそれも魔剣同士の死合の中ではほんの微かな気休めに過ぎん。そう、例えば」
精一杯繰り出す渾身の剣戟を子供とじゃれ合うように凌がれながら、私は切り払いの一撃で玉響ごと後ろに吹き飛ばされた。
何とか踏み止まった私が見たのは、アニメや漫画で見たのをなぞるような居合斬りの構え。
一杯一杯の意識の中、「防げよ」という声を聞き取れたのは間違いなく奇跡だった。
「斬首、脳の破壊、心臓破壊、半身レベルの欠損……まあつまり即死級の損傷は凌げない。刀の献身をアテにしていると直ぐに死ぬ」
「~~~~ッ!」
首筋を目掛けて走る銀色をどうにか私の魔剣で弾いてみせる。
一瞬でも反応が遅れたら私の首はあっさり宙を待っていたに違いない。
反応と言っても殆ど反射で反応しているだけで、しっかり見た上で対処出来てるかと言うとそんな事は全くなかった。
そして一難去ってまた一難。
いや一難どころではない。
刀を水平に構えて腕を引く剣鬼。
それが突きの動作だと判断した時、私は本気で背筋が凍るのを感じた。
「斬っても治ると解っているから、こうして皆確殺を狙う訳だ」
目視で数えるのが困難な回数の刺突。
その全てが心臓、首、脳……つまりは確殺狙い。
一撃たりとも被弾の許されないそれに、私は声にならない声をあげながら玉響を振り回すしかない。
「オマエの立場で防ぐべきは全ての即死要因。逆に言えば、即死さえしなければ多少の損傷で命を堕とす事はない。
そしてオマエが他の魔剣に対してどう向き合えばいいかと言えば」
刺突の雨が漸く止んだ。
それが"与えられた"好機な事は解ってる。
だけど飛び付かない理由は一つたりとも思い付かないから我武者羅にでも前に出た。
力強く、ありったけの力を込めて握り締めた玉響で懐まで突き進む。
迎撃の為に振るわれる剣戟が胴を手足を十重二十重に切り裂いたけれど――無視する。
泣き出したいほど痛いけど、放っとけば治る傷にかまけてなんかいられない……!
「そう、それだ。即死と欠損以外全ての損傷を許容してひたすら剣を振るえばいい。
それが解っているだけでも生半な魔剣相手なら圧倒出来る。
耐久力に物を言わせた雑魚狩りの名手――合一型魔剣の強みは其処にある」
そんな事を言いながら、私が放った剣を一発たりとも喰らってくれない辺りにこいつの性根が透けていた。
こうして色々教えてくれる分にはまるで親切な先達みたいに見えるかもしれない。
でもこいつの本質はきっと筋金入りの剣狂いだ。
誰かと死合う事に心底悦ぶド変態のサイコパスだ。
対等の殺し合いを望みはしてもそれは自分が気持ち良く勝つ為の条件を整えてるだけに過ぎない。
そうじゃなかったらああくそ、嘘でも一発くらい喰らってくれてもいいじゃんか……!
「気張れよ、魔剣は育つモノだ。特に死の断崖は剣を佳く研ぎ上げる」
「……変態」
「酔狂と言えよ。俗な罵語は死合に合わん」
授業は終わりだ、とばかりに振るわれた太刀筋はあろう事に物理法則を無視していた。
それまで直線だった筈の軌跡が突如右に左に上に下に、文字通り縦横無尽に変化する。
それが先刻の斬風嵐と同じ要領で飛んで来るのだから悲鳴の一つもあげたくなった。
斬り刻まれながら地面を転がっていった私は、私が放って置けなかった黒髪の女の子の手前で止まる。
其処で初めて解った事があった。
女の子の体が微かに上下しているのだ。
「……良かった、まだ生きてる」
私みたいな合一型ではないみたいだけど、それでも早く済ませれば助けられるかもしれない。
その希望が絶望に染まり掛けた私の心をまさに炎の如く奮い立たせた。
剣を握り直して、息を整える。
もう二度とあいつの剣を見逃さないように集中力を最大まで高めながら、何が来ても迎撃が間に合うように陣を描く形で狐火を燻らせた。
そんな私を薄笑いで見つめ、尚もあの剣狂いは先達を気取るのだ。
「魔剣と呼ばれるのには理由がある。その最たるモノが異能の力だ」
「じゃあ――あんたのそれにも力が宿ってるって事?」
「応とも。これの銘は『麒麟』と言ってな、これまで五十程の剣鬼を斬っている」
「ごじゅ、ッ……!?」
「訊かれても仔細は答えねえぞ。もう十分に塩は送ってやった――オレの剣で魔剣同士の死合を識れた幸運に感謝しろ。オマエ以上に早く剣鬼の階段を昇った輩はそう居ないぞ」
「……何さ。礼でも言えっての?」
「まさか」
瞬間、奴の放つ殺気がざっと数倍は膨れ上がったのを感じて私は全身に力を込めた。
退く訳には行かない。
私の背中にはあの子が居る……巻き込んでしまったら本末転倒だ。
となれば必然、今私に出来る事は来ると解ってる脅威に対して全力で応じる事だけで――
「死力で魅せろと言っている」
動いたと見るなり展開した狐火の陣を荒れ狂わせた。
イメージするのは烏賊とか蛸の触腕だ。
狐のイメージとは合わないけれど、あの柔軟さと多彩さが今の状況には絶対必要だと判断した。
何が来ても絡め取って焼き尽くしてやる。
そう息巻いて迎え撃った私が次の瞬間に見たのは、まさに信じ難い光景だった。
「……ッ、出鱈目もいい加減にしろっての――!」
「温い事を抜かすなよ新参。これしき鍛えれば誰でも出来る余技だろう」
この野郎はあろう事に、私が想像力を必死に振り絞って伸ばした炎の触腕を全て斬りながら進んでいるのだ。
何で形のない炎を剣一本で斬り伏せられるのか理屈に想いを馳せると眩暈がする。
只一つ解るのは、やっぱりこいつは掛け値なしの化物だって事。
幾ら魔剣使いだからと言って、これだけの芸当を剣一本と技一つで成し遂げられる奴なんてそうは居ないと確信出来る。
「ッ、あ、あああ、あああああああああ……!!」
私が過去に全力と呼んでいた何倍の出力を出しているか検討も付かない。
身を以て感じる――魔剣は育つんだ。
振るえば振るうほど、戦えば戦うほど現実の利益として強さが付いてくる。
実感があった。
今の私はきっと、こいつと出会った頃の私の何十倍も強い。
となれば尚更、その超強くなった私を手抜きであしらえるこいつは何だって話になるんだけど……!
「こ、な、くそぉ……!」
何と言っても速い。
兎にも角にも速すぎる。
全撃が音を置き去りにしてる。
そしてそれが一秒で何十発、もしかしたらそれ以上飛んで来るのだ。
私がタフな合一型でなかったらとっくに挽き肉に変わってるに違いない。
現に再生が追い付かなくなり始めてる。
人が鼻血出そうなくらい集中して出してる限界突破の狐火越しに平然と切り刻んで来る手際と勘の良さはもう何かの悪い冗談としか思えなかった。
「良いぞ、悪くない……だが未だ足りんな。おい、ちょっと出力を倍にしてみろよ」
「ふッざけんな! 出来るか、そんな事……!」
「出来ねえならそれでも良しだ。その怠慢ごと切り刻むだけだからな」
「死ね!!」
唾飛ばす勢いで吐くけど実際それが出来なきゃ本当に死ぬと解ってるからやるしかない。
鼻からつぅと、今度は本当に鼻血が垂れて来たのが解る。
鼻血どころか脳まで血管が全部切れるんじゃないかってくらいの気分だった。
それでも此処は現実。
少年漫画の世界じゃない。
だから出力がいきなり倍とは行かず、徐々に徐々に限界を超えていくのが私みたいな雑魚にとっては関の山だった。
なのに全然追い付かない辺り、こいつは無茶振りでも何でもなく本当に倍を要求してたんだと解り戦慄する。
たかが防戦に倍以上の限界突破が必要だなんて、一体私とこいつの間にはどれだけの壁が存在しているのか。
(駄目だ、ジリ貧になってる……!)
このままじゃ、こいつの期待に応えられる応えられない関係なく押し切られる。
そう確信したから私は此処で初めて"こいつを斃す事"を意識した。
考えてみれば当たり前の事だ、遥かなんて言葉じゃ言い尽くせないくらいの格上に持久戦を挑むなんて愚の骨頂にも程がある。
(考えろ、ニナ! 出来る限り最短で……出来る限り完膚なきまでにこいつをぶっ倒す方法!)
"魔剣は育つモノだ。特に死の断崖は剣を佳く研ぎ上げる"。
全部このクソ野郎が教えてくれた事だ。
であれば今の私がやるべき事は、この最大の窮地――死の断崖スレスレの現在で実現可能な最高の魔剣を研ぎ上げる事。
「応えてよ、玉響……」
左足に斬撃が届いた。
膝から下を切り落とされて直立が保てなくなる。
今度は鎖骨を両断された。
胸に刻まれた斬撃は肺にまで届いて息をするのも難しい。
再生が追い付かないままどんどん刀傷ばかりが増えていく。
そんな中でも私は目を凝らして剣を振るい、頭と首と心臓、即死点を狙う攻撃だけは的確に防ぎ続けていた。
「私、まだ、死にたくないよ……」
話し掛けてもこのクソ魔剣は答えてなんかくれない。
それでも今、私が縋れるのはこの玉響以外にはなかった。
死にたくない、死にたくない。
こんなゴミみたいな人生のままで終わりたくない。
もう一回家族に会いたい。
お母さんとお父さんに孫の顔も見せられないまま終わってしまうなんて嫌だ。
まだ観てないアニメも気になってる映画も山程あったんだ。
狐耳と尻尾を隠してひっそり観に行きたい作品が公開されたばっかりだったんだよ。
死にたくない――まだ生きていたい。
私は、私で居続けたい。
格好悪くみっともなく涙を流して鼻を啜りながら戦う私はけれどもう限界で、事実一度は上がった出力が少しまた少しと下降していき……
「…………お姉さん、だれ…………?」
封じ込めていた諦めの感情が「もう駄目だ」と顔を出し掛けたその時。
私の後ろから、今にも途絶えてしまいそうなか細い声がした。
思わず振り向きたくなったけど――その衝動をすんでで堪えたのは偉いと自分を褒めてやりたい。
今振り向いたらこの顔が見えてしまう。
ぼろぼろ泣いて、鼻水まで垂れそうなこの情けない顔が見えちゃう。
「大丈夫。大丈夫だよ……安心して。私が、絶対あなたに辛い思いなんてさせないから」
ああくそ。
泣き喚いて逃げ出せば、もしかしたらまだ助かるかもしれないのにそれが出来ない。
折れかけていた心が、後ろから聞こえた幼い声で繋ぎ止められてしまった。
喘鳴のような息遣いの中で絞り出されたその声。
聞いているだけで心がきゅっと締まるような苦しげで痛々しいその声を聞いたら、泣き言なんて言ってられない。
「私が……わたしが……」
ほら、ほら。
死力尽くせよ篝ニナ――
「ぜったい、あなたのことを……助けるから、守るから……!」
――お姉ちゃんだろ、オマエは!
「良い」
瞬間で今度こそ倍以上に膨れ上がった狐火の向こうから声がする。
まるで美味い料理でも食べて思わず漏らしたみたいな。
そんな、悦に浸り切った成金の声だった。
「良いぞ――冴えて来たじゃねぇか狐ェ!」
うるさいってんだよこの変態野郎。
こっちはもう一杯一杯、とうに限界なんて超えてんの。
集中しすぎて頭が痛いんだから大声出すな、乱れちゃうでしょクソ野郎……!
「倍は超えたな、ならば次は更に倍だ!
それで駄目なら更に更に倍を――オレを殺すまで永久に出し続けろ!
クハ、ハハハ、ハハハハハ! さあオレを、この『魔剣狩り』をオマエが終わらせて魅せるがいい……!!」
言われた通り倍の出力を出してやったってのに事態は何も好転しなかった。
私の狐火陣、その全てを文字通り斬り伏せて乗り越えて来た無傷の刀狂い。
此処まで来ると絶望とか恐怖とか通り越してもう呆れしかない。
そんな強いのに何で雑魚狩りして愉しんでんだよと悪態すら漏れそうになる。
こいつにしてみれば刹那にも等しい時間だろうけど、私にとっては永遠みたいに長い戦いだった。
正攻法で勝てる訳ないだろこんな奴に。
一体どれだけ魔剣を遣う事に一意専心取り組んで来たのか考えただけで気が遠くなる。
認めてあげるよ、私の負けだ。
あんたは強い。
私みたいな雑魚の凡人じゃどうやったって敵いやしない。
だから、そうだから――
「付き合ってらんないっての、変態野郎」
雑魚は雑魚なりに。
正攻法以外の手段であんたを斃して生き延びる事にするよ。
「――ッ!?」
初めて剣狂いの顔に驚愕が浮かんだ。
狐火陣の向こうに出た化物が目にした私の姿。
時間にして十数秒ぶりだろうか。
だけど幸い、認めたくないけど教師が良かったからかな。
そんな僅かな時間でも、私と玉響には充分だったみたいだ。
……私の前に小さな火球が浮いている。
サイズで言えば小指の第一関節ぶんあるかどうかくらい。
これが私の、魔剣使い・篝ニナの正真正銘の集大成だ。
「あんたに言われた通り倍以上、いやそれ以上……ちゃんと用意したよ。
それを此処まで圧縮して、丸めて、ずっと溜めておいたの。あんたが必死こいてる間にね」
火力の圧縮と収斂。
普通に出したんじゃ大した事はなくても、溜めて溜めて押し固めれば結構な物にもなるだろう。
それこそ、剣鬼の命にだって届くような馬鹿力に化ける。その筈だ。
だから準備してた。
化物の侵攻を少しでも押し止めようと死力を尽くしながらその片手間で練り続けてた。
今の私が出来る力と技の集大成。
あんたが欲しがった、あんたを終わらせる為の特大狐火だ。
「言われなくても――――魅せてやるっての――――――!!!!!!」
溜めに溜め、纏めに纏めた余力の全て。
それが狐火陣の陥落というこれ以上ない好機を受けて放たれる。
生じる現象は何てことないごくごく単純。
私から見て前方向、敵目掛けての大火力大炸裂だ。
骨どころかその自慢の剣身さえ残さず消し飛ばす気合を全部込めた。
お望み通り魅せてあげる。
だから吹っ飛べ、これが正真正銘篝ニナの全力全開だ!
視界は愚かその外側さえ埋め尽くすような一面の赤が轟音と共に吹き荒れて、そして……
「哭け――――『麒麟』」
地の底から響くような歓喜の声と共に、私の信じた最強が一刀両断された。
轟いた一閃。
先刻までのと似ているけれどしかし決定的に違う。
紫電を纏った蒼い銀光、そんな矛盾に塗れた美しい剣を私は確かに見ていた。
その炸裂と同時に炎の大瀑布が文字通り張り裂ける。
そして波を超えて到達した斬撃が私の胴体を深く深く斬り裂いた。
「褒めてやる。上出来だ――まさか『麒麟』を哭かせる事になるとは思わなかった」
「か、ふ……ッ」
「褒美に教えてやるよ。オレの『麒麟』の能力は、事象そのものの切断だ」
肺が真っ二つにされたのだと理解した。
息が出来ない程大量の喀血が込み上げて口から溢れる。
「オレの業が追い付くならば、『麒麟』は概念だろうが一刀の許に斬滅する。
森羅万象を撫でるように斬り伏せる必滅の魔剣……魔剣狩りの得物としては外連が利いてるだろ」
自慢気な種明かしの声が何処か遠くに聞こえる。
地に着いた膝がもう持ち上がらない。
玉響を地面に突き立てて柱代わりにしていなければとっくに崩れ落ちていただろう。
その無様だけは避けたけれど、どの道大差はなかった。
立ち上がれない、息も出来ない、視界も霞んで前も見えない。
そんな体たらくの魔剣使いなんて……只の死体と何が違うというのか。
「もう一度言うがよくやったよ。褒めてやる――オマエほど魅せた新参は初めてだ。賛辞を胸に散るがいい」
死ぬのかなこれ。
死ぬんだろうな。
死にたくないな。
怖いよ、死ぬのは。
そんな諸々を押し殺して、全力で体を動かそうと力を込める。
末期の蚊みたいに小さく震えるしかない体で、私はそれでもこの背中を見ているだろう女の子に向けて声を掛けた。
「だい……じょうぶ……大丈夫、だからね……こわく、ないよ……」
そうだ、怖くなんかない。
あなたを怖がらす奴なんて全部お姉ちゃんがぶった斬ってやる。
「お姉さん――」
「私が、……お姉ちゃんが、居るから……だから……」
応えろ玉響。
踏ん張れ、ニナ。
オマエはお姉ちゃんだろ。
「だから……………………………………、――――――――――――」
嗚呼……体が熱い。
何だか無性に水が飲みたいや。
それが私の抱いた最後の思考だった。
◆ ◆ ◆
狐が倒れた死合の舞台に独り立つは『魔剣狩り』。
五十の剣鬼を屠った求道者の瞳は何処か寂しげだった。
心躍る戦の終わりはいつだって同じだ。
もう終わりか。
もう立てないのか。
たかが命脈を断たれた程度で……もう終わってしまうと云うのか、オマエも。
「楽しかったよ……前菜と呼ぶには胃もたれのする剣だった。篝ニナ、魔剣『玉響』……命ある限りは覚えておこう」
だが死合の終わりは斬殺以外に有り得ない。
剣鬼の最期は散華であるからこそ美しいのだと剣狂い、魔剣狩りの彼は心得ている。
予想を遥かに超える太刀を魅せてくれたその生き様を尊ぶからこそ殺すのだ。
頸を落とすべく足を前に出し、血を吸うべく紫電を嘶かせる麒麟を振り上げる。
それをいざ振り下ろさんとしたまさに瞬間、空から響く男の声があった。
「その辺で堪忍したってくれんか」
「――!」
今まで自分が気配すら感知出来なかった"誰か"の声。
飛び退くように頭を上げた魔剣狩りは、聳えるビルの屋上に立つ異形の人影を認めた。
よく言えば大柄。悪く言えば肥満体の、だらしない体付きの男だった。
だが最も異様なのはその首から上だ。
その男は、首から上が豚だった。
繋ぎ目のないフルフェイスの豚マスクを被り、ナチスの鉤十字が高らかに刻まれた軍服を纏った異形の男。
一目見ればどうやったって忘れないだろう強烈過ぎるその姿が一体誰を意味するか、この剣狂いは識っている。
「ゲッベルス――はッ、驚かせるなよ魂消るだろうが! 剣聖一家の家長がわざわざ迎えに来るか!?」
「阿呆が。何処の世界に手前の家族が血ィ流して倒れとるのに駆け付けない兄が居るんよ」
恐るべき豚面。
暴食の具現、満漢全席を平らげる魔剣使い。
悪名高き剣聖一家の長兄にして現家長。
――流星群のゲッベルスと云う男が無限に手を伸ばす魔剣狩りを見下ろしていた。
「ああ、堪忍言うてんのは其処の狐っ娘もやで。何処の誰かは知らんが、命張ってウチの子助けてくれたんなら無碍にも出来ん。
何せこの事態は完全に剣聖の不徳やからな……ま、精一杯介抱して労わせて貰うとするわ」
「帰れると思ってんのか?」
獰猛に笑って鯉口を切る魔剣狩り。
その名、その武功はゲッベルスの耳にも轟いて久しい。
だが彼の挑発に対し流星群の豚面が返す言葉は一つだ。
「逆に問うたろか?オマエ、剣聖の末妹に剣先向けて只で帰れると思っとるんかよ」
先刻、篝ニナに一生分の怖気を与えた魔剣狩り。
その全身の毛穴が逆立って危険信号を鳴らしていた。
理性は言う。勝てない。
本能も言う。勝てない。
鍛え磨いた業の全てを尽くしても、今の己ではこの化物を討ち取れない……!
「剣鬼が退くかよ。名折れだぜ」
「ガキが。誇りと無謀はちゃうって事、教えられなきゃ解らんか」
それでも――魔剣狩りは剣を抜く。
彼の生涯、歩む修羅道は常に不退転。
一度でも日和れば曲がると解っているから臆しはしない。
その救い難い性に豚面の男は只嘆息し、そしてマスクの底から覗く双眸を厳かに輝かせた。
「星も斬れん駄剣が、一端に剣鬼なぞ気取るな」
「いいや気取るさ――それがオレの修羅道だからなァッ!」
抜刀、魔剣『麒麟』。
事象切断の魔剣が主に握られ空へと駆ける。
纏う紫電の桁はニナに見せたその比ではない。
直撃すれば如何な格上だろうが命を奪える攻性の究極。
地から天を穿つ稲妻――
それを前にして尚流星の豚は不動だった。
不動のまま仁王立ちで待ち受けるその遥か上方。
雲一つない夜空にて、無数の星々が輝いて。
「――Sieg Heil」
勝利を言祝ぐ言葉が、禁じられた負の生き写したる詠唱が紡がれた刹那。
空から天罰が降りて、魔剣狩り諸共に戦場の街を消し飛ばした。
なのに不思議と熱くない。
いや、熱すぎないと言うべきだろうか。
例えるならお酒を飲んで体が凄く火照っているみたいなあんな感覚だ。
燃えている耳、同じく尻尾。特に後者はいつもより明らかにぶっとく大きく変化している。
そして握り締めた私の魔剣、『玉響』。
先刻斬られた筈の片腕と片足はいつの間にか傷が塞がっていて、お陰で元通り手足を使えるようになっていた。
良かった――これなら戦える。
そう安堵する私に刀狂いの魔剣使いが口にしたのは場違いな台詞だった。
「赤子を嬲り殺してもつまらんからな。まずは一通り教授してやる」
「何を言って――ッ!?」
問い掛けようとした私は耳に走った激痛に息を詰まらせた。
右の耳を切り飛ばされた。
溢れ出す血まで燃えているのが何だか幻想的だったがそんな事を言ってる場合じゃない。
見えなかった。
斬られて初めて、こいつが攻撃をしていた事に気が付いた。
いやそれよりもだ。
今しがた斬られたばかりの耳に手を触れると、まるで肉が蠢くようにして元の形を取り戻し始めている。
驚く私の耳朶を教官気取りの辻斬りの声が揺らした。
「魔剣は大きく二つに分類出来る。一つはオレのような単に握って使う剣。もう一つはオマエのような、肉体そのものと一体化しているタイプの剣だ――前者を『武装型』、後者を『合一型』と呼ぶ。誰が呼び始めたのかはオレも知らんから気にするな」
「……ッ。別に教えてとか頼んだ覚えないんだけど!?」
「聞かなくてもいいぞ?その場合、オマエの寿命が多少短くなるだけだ」
「きゃう……ッ!」
思わず口を返した次の瞬間、私を襲ったのは斬撃の烈風だった。
まるで剃刀の忍んだ風のように皮膚が裂けて血が噴き出していく。
女の子として表を歩けないレベルで傷だらけになった体がまたも目で見える勢いで治癒していくのが解った。
何とか慣れないなりに玉響を構えて残りの斬撃を凌ぎつつ、刀身から狐火を噴かせて攻撃を試みる。
私の精一杯を軽く剣風で弾いて何事もなく講義に戻る目の前の刀狂いが、私にはとてもじゃないけど同じ生き物には思えなかった。
「傷の治りが早いだろう。合一型の魔剣は宿主を死なせない為に全力を尽くす。そんな献身の賜物がその"超再生"だ」
だけど怖がる時間はもう終わりと決めてる。
何としても吠え面掻かせてやらなきゃと自分を奮い立たせて、今度は私から斬り掛かった。
剣なんてまともに振った事もない筈なのに何故か体が凄く良く動く。
こいつの言葉になぞらえて言うなら、玉響の献身って所なのだろうか。
「だがそれも魔剣同士の死合の中ではほんの微かな気休めに過ぎん。そう、例えば」
精一杯繰り出す渾身の剣戟を子供とじゃれ合うように凌がれながら、私は切り払いの一撃で玉響ごと後ろに吹き飛ばされた。
何とか踏み止まった私が見たのは、アニメや漫画で見たのをなぞるような居合斬りの構え。
一杯一杯の意識の中、「防げよ」という声を聞き取れたのは間違いなく奇跡だった。
「斬首、脳の破壊、心臓破壊、半身レベルの欠損……まあつまり即死級の損傷は凌げない。刀の献身をアテにしていると直ぐに死ぬ」
「~~~~ッ!」
首筋を目掛けて走る銀色をどうにか私の魔剣で弾いてみせる。
一瞬でも反応が遅れたら私の首はあっさり宙を待っていたに違いない。
反応と言っても殆ど反射で反応しているだけで、しっかり見た上で対処出来てるかと言うとそんな事は全くなかった。
そして一難去ってまた一難。
いや一難どころではない。
刀を水平に構えて腕を引く剣鬼。
それが突きの動作だと判断した時、私は本気で背筋が凍るのを感じた。
「斬っても治ると解っているから、こうして皆確殺を狙う訳だ」
目視で数えるのが困難な回数の刺突。
その全てが心臓、首、脳……つまりは確殺狙い。
一撃たりとも被弾の許されないそれに、私は声にならない声をあげながら玉響を振り回すしかない。
「オマエの立場で防ぐべきは全ての即死要因。逆に言えば、即死さえしなければ多少の損傷で命を堕とす事はない。
そしてオマエが他の魔剣に対してどう向き合えばいいかと言えば」
刺突の雨が漸く止んだ。
それが"与えられた"好機な事は解ってる。
だけど飛び付かない理由は一つたりとも思い付かないから我武者羅にでも前に出た。
力強く、ありったけの力を込めて握り締めた玉響で懐まで突き進む。
迎撃の為に振るわれる剣戟が胴を手足を十重二十重に切り裂いたけれど――無視する。
泣き出したいほど痛いけど、放っとけば治る傷にかまけてなんかいられない……!
「そう、それだ。即死と欠損以外全ての損傷を許容してひたすら剣を振るえばいい。
それが解っているだけでも生半な魔剣相手なら圧倒出来る。
耐久力に物を言わせた雑魚狩りの名手――合一型魔剣の強みは其処にある」
そんな事を言いながら、私が放った剣を一発たりとも喰らってくれない辺りにこいつの性根が透けていた。
こうして色々教えてくれる分にはまるで親切な先達みたいに見えるかもしれない。
でもこいつの本質はきっと筋金入りの剣狂いだ。
誰かと死合う事に心底悦ぶド変態のサイコパスだ。
対等の殺し合いを望みはしてもそれは自分が気持ち良く勝つ為の条件を整えてるだけに過ぎない。
そうじゃなかったらああくそ、嘘でも一発くらい喰らってくれてもいいじゃんか……!
「気張れよ、魔剣は育つモノだ。特に死の断崖は剣を佳く研ぎ上げる」
「……変態」
「酔狂と言えよ。俗な罵語は死合に合わん」
授業は終わりだ、とばかりに振るわれた太刀筋はあろう事に物理法則を無視していた。
それまで直線だった筈の軌跡が突如右に左に上に下に、文字通り縦横無尽に変化する。
それが先刻の斬風嵐と同じ要領で飛んで来るのだから悲鳴の一つもあげたくなった。
斬り刻まれながら地面を転がっていった私は、私が放って置けなかった黒髪の女の子の手前で止まる。
其処で初めて解った事があった。
女の子の体が微かに上下しているのだ。
「……良かった、まだ生きてる」
私みたいな合一型ではないみたいだけど、それでも早く済ませれば助けられるかもしれない。
その希望が絶望に染まり掛けた私の心をまさに炎の如く奮い立たせた。
剣を握り直して、息を整える。
もう二度とあいつの剣を見逃さないように集中力を最大まで高めながら、何が来ても迎撃が間に合うように陣を描く形で狐火を燻らせた。
そんな私を薄笑いで見つめ、尚もあの剣狂いは先達を気取るのだ。
「魔剣と呼ばれるのには理由がある。その最たるモノが異能の力だ」
「じゃあ――あんたのそれにも力が宿ってるって事?」
「応とも。これの銘は『麒麟』と言ってな、これまで五十程の剣鬼を斬っている」
「ごじゅ、ッ……!?」
「訊かれても仔細は答えねえぞ。もう十分に塩は送ってやった――オレの剣で魔剣同士の死合を識れた幸運に感謝しろ。オマエ以上に早く剣鬼の階段を昇った輩はそう居ないぞ」
「……何さ。礼でも言えっての?」
「まさか」
瞬間、奴の放つ殺気がざっと数倍は膨れ上がったのを感じて私は全身に力を込めた。
退く訳には行かない。
私の背中にはあの子が居る……巻き込んでしまったら本末転倒だ。
となれば必然、今私に出来る事は来ると解ってる脅威に対して全力で応じる事だけで――
「死力で魅せろと言っている」
動いたと見るなり展開した狐火の陣を荒れ狂わせた。
イメージするのは烏賊とか蛸の触腕だ。
狐のイメージとは合わないけれど、あの柔軟さと多彩さが今の状況には絶対必要だと判断した。
何が来ても絡め取って焼き尽くしてやる。
そう息巻いて迎え撃った私が次の瞬間に見たのは、まさに信じ難い光景だった。
「……ッ、出鱈目もいい加減にしろっての――!」
「温い事を抜かすなよ新参。これしき鍛えれば誰でも出来る余技だろう」
この野郎はあろう事に、私が想像力を必死に振り絞って伸ばした炎の触腕を全て斬りながら進んでいるのだ。
何で形のない炎を剣一本で斬り伏せられるのか理屈に想いを馳せると眩暈がする。
只一つ解るのは、やっぱりこいつは掛け値なしの化物だって事。
幾ら魔剣使いだからと言って、これだけの芸当を剣一本と技一つで成し遂げられる奴なんてそうは居ないと確信出来る。
「ッ、あ、あああ、あああああああああ……!!」
私が過去に全力と呼んでいた何倍の出力を出しているか検討も付かない。
身を以て感じる――魔剣は育つんだ。
振るえば振るうほど、戦えば戦うほど現実の利益として強さが付いてくる。
実感があった。
今の私はきっと、こいつと出会った頃の私の何十倍も強い。
となれば尚更、その超強くなった私を手抜きであしらえるこいつは何だって話になるんだけど……!
「こ、な、くそぉ……!」
何と言っても速い。
兎にも角にも速すぎる。
全撃が音を置き去りにしてる。
そしてそれが一秒で何十発、もしかしたらそれ以上飛んで来るのだ。
私がタフな合一型でなかったらとっくに挽き肉に変わってるに違いない。
現に再生が追い付かなくなり始めてる。
人が鼻血出そうなくらい集中して出してる限界突破の狐火越しに平然と切り刻んで来る手際と勘の良さはもう何かの悪い冗談としか思えなかった。
「良いぞ、悪くない……だが未だ足りんな。おい、ちょっと出力を倍にしてみろよ」
「ふッざけんな! 出来るか、そんな事……!」
「出来ねえならそれでも良しだ。その怠慢ごと切り刻むだけだからな」
「死ね!!」
唾飛ばす勢いで吐くけど実際それが出来なきゃ本当に死ぬと解ってるからやるしかない。
鼻からつぅと、今度は本当に鼻血が垂れて来たのが解る。
鼻血どころか脳まで血管が全部切れるんじゃないかってくらいの気分だった。
それでも此処は現実。
少年漫画の世界じゃない。
だから出力がいきなり倍とは行かず、徐々に徐々に限界を超えていくのが私みたいな雑魚にとっては関の山だった。
なのに全然追い付かない辺り、こいつは無茶振りでも何でもなく本当に倍を要求してたんだと解り戦慄する。
たかが防戦に倍以上の限界突破が必要だなんて、一体私とこいつの間にはどれだけの壁が存在しているのか。
(駄目だ、ジリ貧になってる……!)
このままじゃ、こいつの期待に応えられる応えられない関係なく押し切られる。
そう確信したから私は此処で初めて"こいつを斃す事"を意識した。
考えてみれば当たり前の事だ、遥かなんて言葉じゃ言い尽くせないくらいの格上に持久戦を挑むなんて愚の骨頂にも程がある。
(考えろ、ニナ! 出来る限り最短で……出来る限り完膚なきまでにこいつをぶっ倒す方法!)
"魔剣は育つモノだ。特に死の断崖は剣を佳く研ぎ上げる"。
全部このクソ野郎が教えてくれた事だ。
であれば今の私がやるべき事は、この最大の窮地――死の断崖スレスレの現在で実現可能な最高の魔剣を研ぎ上げる事。
「応えてよ、玉響……」
左足に斬撃が届いた。
膝から下を切り落とされて直立が保てなくなる。
今度は鎖骨を両断された。
胸に刻まれた斬撃は肺にまで届いて息をするのも難しい。
再生が追い付かないままどんどん刀傷ばかりが増えていく。
そんな中でも私は目を凝らして剣を振るい、頭と首と心臓、即死点を狙う攻撃だけは的確に防ぎ続けていた。
「私、まだ、死にたくないよ……」
話し掛けてもこのクソ魔剣は答えてなんかくれない。
それでも今、私が縋れるのはこの玉響以外にはなかった。
死にたくない、死にたくない。
こんなゴミみたいな人生のままで終わりたくない。
もう一回家族に会いたい。
お母さんとお父さんに孫の顔も見せられないまま終わってしまうなんて嫌だ。
まだ観てないアニメも気になってる映画も山程あったんだ。
狐耳と尻尾を隠してひっそり観に行きたい作品が公開されたばっかりだったんだよ。
死にたくない――まだ生きていたい。
私は、私で居続けたい。
格好悪くみっともなく涙を流して鼻を啜りながら戦う私はけれどもう限界で、事実一度は上がった出力が少しまた少しと下降していき……
「…………お姉さん、だれ…………?」
封じ込めていた諦めの感情が「もう駄目だ」と顔を出し掛けたその時。
私の後ろから、今にも途絶えてしまいそうなか細い声がした。
思わず振り向きたくなったけど――その衝動をすんでで堪えたのは偉いと自分を褒めてやりたい。
今振り向いたらこの顔が見えてしまう。
ぼろぼろ泣いて、鼻水まで垂れそうなこの情けない顔が見えちゃう。
「大丈夫。大丈夫だよ……安心して。私が、絶対あなたに辛い思いなんてさせないから」
ああくそ。
泣き喚いて逃げ出せば、もしかしたらまだ助かるかもしれないのにそれが出来ない。
折れかけていた心が、後ろから聞こえた幼い声で繋ぎ止められてしまった。
喘鳴のような息遣いの中で絞り出されたその声。
聞いているだけで心がきゅっと締まるような苦しげで痛々しいその声を聞いたら、泣き言なんて言ってられない。
「私が……わたしが……」
ほら、ほら。
死力尽くせよ篝ニナ――
「ぜったい、あなたのことを……助けるから、守るから……!」
――お姉ちゃんだろ、オマエは!
「良い」
瞬間で今度こそ倍以上に膨れ上がった狐火の向こうから声がする。
まるで美味い料理でも食べて思わず漏らしたみたいな。
そんな、悦に浸り切った成金の声だった。
「良いぞ――冴えて来たじゃねぇか狐ェ!」
うるさいってんだよこの変態野郎。
こっちはもう一杯一杯、とうに限界なんて超えてんの。
集中しすぎて頭が痛いんだから大声出すな、乱れちゃうでしょクソ野郎……!
「倍は超えたな、ならば次は更に倍だ!
それで駄目なら更に更に倍を――オレを殺すまで永久に出し続けろ!
クハ、ハハハ、ハハハハハ! さあオレを、この『魔剣狩り』をオマエが終わらせて魅せるがいい……!!」
言われた通り倍の出力を出してやったってのに事態は何も好転しなかった。
私の狐火陣、その全てを文字通り斬り伏せて乗り越えて来た無傷の刀狂い。
此処まで来ると絶望とか恐怖とか通り越してもう呆れしかない。
そんな強いのに何で雑魚狩りして愉しんでんだよと悪態すら漏れそうになる。
こいつにしてみれば刹那にも等しい時間だろうけど、私にとっては永遠みたいに長い戦いだった。
正攻法で勝てる訳ないだろこんな奴に。
一体どれだけ魔剣を遣う事に一意専心取り組んで来たのか考えただけで気が遠くなる。
認めてあげるよ、私の負けだ。
あんたは強い。
私みたいな雑魚の凡人じゃどうやったって敵いやしない。
だから、そうだから――
「付き合ってらんないっての、変態野郎」
雑魚は雑魚なりに。
正攻法以外の手段であんたを斃して生き延びる事にするよ。
「――ッ!?」
初めて剣狂いの顔に驚愕が浮かんだ。
狐火陣の向こうに出た化物が目にした私の姿。
時間にして十数秒ぶりだろうか。
だけど幸い、認めたくないけど教師が良かったからかな。
そんな僅かな時間でも、私と玉響には充分だったみたいだ。
……私の前に小さな火球が浮いている。
サイズで言えば小指の第一関節ぶんあるかどうかくらい。
これが私の、魔剣使い・篝ニナの正真正銘の集大成だ。
「あんたに言われた通り倍以上、いやそれ以上……ちゃんと用意したよ。
それを此処まで圧縮して、丸めて、ずっと溜めておいたの。あんたが必死こいてる間にね」
火力の圧縮と収斂。
普通に出したんじゃ大した事はなくても、溜めて溜めて押し固めれば結構な物にもなるだろう。
それこそ、剣鬼の命にだって届くような馬鹿力に化ける。その筈だ。
だから準備してた。
化物の侵攻を少しでも押し止めようと死力を尽くしながらその片手間で練り続けてた。
今の私が出来る力と技の集大成。
あんたが欲しがった、あんたを終わらせる為の特大狐火だ。
「言われなくても――――魅せてやるっての――――――!!!!!!」
溜めに溜め、纏めに纏めた余力の全て。
それが狐火陣の陥落というこれ以上ない好機を受けて放たれる。
生じる現象は何てことないごくごく単純。
私から見て前方向、敵目掛けての大火力大炸裂だ。
骨どころかその自慢の剣身さえ残さず消し飛ばす気合を全部込めた。
お望み通り魅せてあげる。
だから吹っ飛べ、これが正真正銘篝ニナの全力全開だ!
視界は愚かその外側さえ埋め尽くすような一面の赤が轟音と共に吹き荒れて、そして……
「哭け――――『麒麟』」
地の底から響くような歓喜の声と共に、私の信じた最強が一刀両断された。
轟いた一閃。
先刻までのと似ているけれどしかし決定的に違う。
紫電を纏った蒼い銀光、そんな矛盾に塗れた美しい剣を私は確かに見ていた。
その炸裂と同時に炎の大瀑布が文字通り張り裂ける。
そして波を超えて到達した斬撃が私の胴体を深く深く斬り裂いた。
「褒めてやる。上出来だ――まさか『麒麟』を哭かせる事になるとは思わなかった」
「か、ふ……ッ」
「褒美に教えてやるよ。オレの『麒麟』の能力は、事象そのものの切断だ」
肺が真っ二つにされたのだと理解した。
息が出来ない程大量の喀血が込み上げて口から溢れる。
「オレの業が追い付くならば、『麒麟』は概念だろうが一刀の許に斬滅する。
森羅万象を撫でるように斬り伏せる必滅の魔剣……魔剣狩りの得物としては外連が利いてるだろ」
自慢気な種明かしの声が何処か遠くに聞こえる。
地に着いた膝がもう持ち上がらない。
玉響を地面に突き立てて柱代わりにしていなければとっくに崩れ落ちていただろう。
その無様だけは避けたけれど、どの道大差はなかった。
立ち上がれない、息も出来ない、視界も霞んで前も見えない。
そんな体たらくの魔剣使いなんて……只の死体と何が違うというのか。
「もう一度言うがよくやったよ。褒めてやる――オマエほど魅せた新参は初めてだ。賛辞を胸に散るがいい」
死ぬのかなこれ。
死ぬんだろうな。
死にたくないな。
怖いよ、死ぬのは。
そんな諸々を押し殺して、全力で体を動かそうと力を込める。
末期の蚊みたいに小さく震えるしかない体で、私はそれでもこの背中を見ているだろう女の子に向けて声を掛けた。
「だい……じょうぶ……大丈夫、だからね……こわく、ないよ……」
そうだ、怖くなんかない。
あなたを怖がらす奴なんて全部お姉ちゃんがぶった斬ってやる。
「お姉さん――」
「私が、……お姉ちゃんが、居るから……だから……」
応えろ玉響。
踏ん張れ、ニナ。
オマエはお姉ちゃんだろ。
「だから……………………………………、――――――――――――」
嗚呼……体が熱い。
何だか無性に水が飲みたいや。
それが私の抱いた最後の思考だった。
◆ ◆ ◆
狐が倒れた死合の舞台に独り立つは『魔剣狩り』。
五十の剣鬼を屠った求道者の瞳は何処か寂しげだった。
心躍る戦の終わりはいつだって同じだ。
もう終わりか。
もう立てないのか。
たかが命脈を断たれた程度で……もう終わってしまうと云うのか、オマエも。
「楽しかったよ……前菜と呼ぶには胃もたれのする剣だった。篝ニナ、魔剣『玉響』……命ある限りは覚えておこう」
だが死合の終わりは斬殺以外に有り得ない。
剣鬼の最期は散華であるからこそ美しいのだと剣狂い、魔剣狩りの彼は心得ている。
予想を遥かに超える太刀を魅せてくれたその生き様を尊ぶからこそ殺すのだ。
頸を落とすべく足を前に出し、血を吸うべく紫電を嘶かせる麒麟を振り上げる。
それをいざ振り下ろさんとしたまさに瞬間、空から響く男の声があった。
「その辺で堪忍したってくれんか」
「――!」
今まで自分が気配すら感知出来なかった"誰か"の声。
飛び退くように頭を上げた魔剣狩りは、聳えるビルの屋上に立つ異形の人影を認めた。
よく言えば大柄。悪く言えば肥満体の、だらしない体付きの男だった。
だが最も異様なのはその首から上だ。
その男は、首から上が豚だった。
繋ぎ目のないフルフェイスの豚マスクを被り、ナチスの鉤十字が高らかに刻まれた軍服を纏った異形の男。
一目見ればどうやったって忘れないだろう強烈過ぎるその姿が一体誰を意味するか、この剣狂いは識っている。
「ゲッベルス――はッ、驚かせるなよ魂消るだろうが! 剣聖一家の家長がわざわざ迎えに来るか!?」
「阿呆が。何処の世界に手前の家族が血ィ流して倒れとるのに駆け付けない兄が居るんよ」
恐るべき豚面。
暴食の具現、満漢全席を平らげる魔剣使い。
悪名高き剣聖一家の長兄にして現家長。
――流星群のゲッベルスと云う男が無限に手を伸ばす魔剣狩りを見下ろしていた。
「ああ、堪忍言うてんのは其処の狐っ娘もやで。何処の誰かは知らんが、命張ってウチの子助けてくれたんなら無碍にも出来ん。
何せこの事態は完全に剣聖の不徳やからな……ま、精一杯介抱して労わせて貰うとするわ」
「帰れると思ってんのか?」
獰猛に笑って鯉口を切る魔剣狩り。
その名、その武功はゲッベルスの耳にも轟いて久しい。
だが彼の挑発に対し流星群の豚面が返す言葉は一つだ。
「逆に問うたろか?オマエ、剣聖の末妹に剣先向けて只で帰れると思っとるんかよ」
先刻、篝ニナに一生分の怖気を与えた魔剣狩り。
その全身の毛穴が逆立って危険信号を鳴らしていた。
理性は言う。勝てない。
本能も言う。勝てない。
鍛え磨いた業の全てを尽くしても、今の己ではこの化物を討ち取れない……!
「剣鬼が退くかよ。名折れだぜ」
「ガキが。誇りと無謀はちゃうって事、教えられなきゃ解らんか」
それでも――魔剣狩りは剣を抜く。
彼の生涯、歩む修羅道は常に不退転。
一度でも日和れば曲がると解っているから臆しはしない。
その救い難い性に豚面の男は只嘆息し、そしてマスクの底から覗く双眸を厳かに輝かせた。
「星も斬れん駄剣が、一端に剣鬼なぞ気取るな」
「いいや気取るさ――それがオレの修羅道だからなァッ!」
抜刀、魔剣『麒麟』。
事象切断の魔剣が主に握られ空へと駆ける。
纏う紫電の桁はニナに見せたその比ではない。
直撃すれば如何な格上だろうが命を奪える攻性の究極。
地から天を穿つ稲妻――
それを前にして尚流星の豚は不動だった。
不動のまま仁王立ちで待ち受けるその遥か上方。
雲一つない夜空にて、無数の星々が輝いて。
「――Sieg Heil」
勝利を言祝ぐ言葉が、禁じられた負の生き写したる詠唱が紡がれた刹那。
空から天罰が降りて、魔剣狩り諸共に戦場の街を消し飛ばした。
応援ありがとうございます!
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