今度はあなたと共に。

荒川きな

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序章――皇太子カルロ

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事件は、翌朝突然に起こった。


(………?何か硬いな)

 背中に痛みを感じ、カルロがハッと目を覚ます。手に意識をやって、眠る所をそっと触れてみる。


(やはり、硬い……。眠っている間に床にでも落ちたか?それでも、絨毯が引かれていたはずだ)

 自分の間抜けさに呆れつつも、落ち着いたまま思考を張り巡らせる。
 床に落ちたのか。結局はそう結論付けて、遂にその目を開ける。

 すると、見慣れぬ天井が彼の視界に飛び込んで来た。


「…………は!?ここは何処だ!!」

 思わず泡を食うように跳ね起きた。控えめに掛けてあった布団がヒラリと宙を舞う。汚らしい布団。
 思わず眉をひそめる。


(何だ、コレは‥‥‥‥?)

 カルロが無造作にその布団を持ち上げた。いや、布団というには余りにお粗末な布だ。
 質の悪く、よれた布は皇太子であるカルロには到底釣り合わない程で、不愉快極まりなかった。
 おまけに、硬くて狭いベット。カルロはそんな所に眠っていたのだ。


(誘拐された、のか?)

 そう考えても何ら可笑しくはない状況だった。辺りは窓さえなく、とても貴族が住むような所とは思えない。
 薄暗く、小汚い。貧民が住むような、みすぼらしい部屋だ。

 だが、ふと身体に違和感を覚えた。いつもより気怠げで、カルロの思うように体が動かせない。

 が、すぐにその原因は分かった。


「…………どういうことだ、?」

 思わず呟く。見下ろすと、の胸部に膨らみが二つ。それだけでなく、女性らしさを感じられる丸みの帯びた肌が服の裾から顔を覗かせている。

 そこから導き出せる結論は――――。


、起きてます?」

 カルロが一つの考えに思い至ろうとした時、不意に扉が開いた。実にタイミングが悪い。
 あろう事か、ノックさえもしていない。

 パッと、音のした方を見やる。
 使用人と思しき女だ。やけに素材の良いメイド服に身を包んでいる。


(この身体の給仕係か?こんな汚らしい部屋に?)

 カルロが小首をかしげた。まだ、何が起こるか予測不能である。
 大人しく女の様子を観察する。こんなことで下手な行動は取る訳にはいかないのだ。

 やがて、侍女がゆっくりと近付いて来た。その手には桶が抱えられている。チャプチャプという音が辺りに鳴り響く。

 顔でも清めてくれるのか。カルロが呑気にも、そう考えた時だった。


「………………!?!?」

 前触れもなく、突然カルロは肌寒くなった。ポタポタと、の毛先から水滴が滴り落ちる。
 薄い生地の服も湿り、透けて見えている。

 頭から桶の水を掛けられたのだと、ようやくカルロの理解が追い付いた。


「な、貴様、何をする……!」

 カルロが怒気を孕んだ声を女に向ける。目の前で嗤う女を、濡れた顔のまま睨みつける。


「何を………って、決まってるじゃないですか。今のお嬢様に相応しい姿にして差し上げたのですよ?
 とーーってもお似合いです!!………!と、言うか、」

 女はクスクスと笑いながら、カルロのを力任せに持ち上げた。
 

「何ですか?その、生意気な態度は!?
 貴方ごときが反抗的な態度を取るなど、到底許される行為ではありません!!ご当主様方に報告されたいのですか!??」

 先程の様子から一変し、女は怒鳴り散らした。彼には何を言っているのかが、まるで理解できなかった。
 苦痛で顔を歪める。


「ハッ、いい気味ね」

 女が嘲るように笑った。

 カルロはようやく痛みから開放された。女が手を離したのだ。水溜りの出来た地べたへと無造作に転がる。
 辺りは臭く、カルロは鼻が曲がりそうな気分になった。掛けられたのは単に水でなく汚水だったのだ。

 女が濡れた手を払う。「汚らしい」と呟いて。
 それから、やっと満足した様子の女が踵を返した。部屋から足早に出て行こうとする。
 が、カルロはそれを見ていることしか出来ない。

 あっという間に女が部屋の外へと出る。カルロを闇の中へと放り込むかのように、扉は無情にも閉ざされた。


(嗚呼、静かだ)

 ようやく訪れた静寂の中、カルロは昔のことをしみじみと思い出していた。家族のこと、使用人のこと、友人のこと、それから―――初恋の人のこと。

 それは過去に遡る。

 カルロがまだ幼い頃、勉強が嫌になって、何度も何度も隙を見つけては王宮から抜け出していた時期があった。

 ひたすら知識を詰め込んで実践しては、事ある毎に注意される毎日。取るに足らない灰色の世界。
 そんな窮屈な場所から逃げ出したくなったのだ。

 皇宮から出さえすれば、少しの間だけでも自由になれた。街に降りれば、殆ど誰も皇太子など気付かない。
 その時だけは自分に翼が生えたかのような気分になれた。何処へでも行けそうな、そんな気持ち。

 両親だけでなく、使用人からも手に負えなかったと今では自覚している。

 カルロが真剣に勉強を取り組むようになったのは、些細な事がきっかけだった。

 ある日、皇宮から抜け出したカルロは、何を思ったのかいつもより遠くの街へと向かった。
 その先で出会ったのがリリアだった。

 初めて行く街で土地勘のないカルロ。そんな彼に、無邪気な笑顔を浮かべて「街を案内してあげる」とリリアは言った。彼の手を優しく引いて。
 
 少女に流されるがままに街の中を歩き回った。肩書など関係なく、まるで友人のように。
 
 感情を惜しみなく全面に出し、明るく、心優しい彼女。
 彼女が貴族の令嬢だと知ったときは大層驚いたものだ。

 同時に、何故彼女が一人なのか疑問に思った。
 その時は聞けなかったが、時々見せる彼女の物憂げな表情には心が締め付けられた。

 いつかリリアを迎えに行こう。その気持ちは、まだ年端も行かない彼にやる気を与えるには十分だったのだ。

 あの頃のリリアは純粋で、優しく、天真爛漫な女の子だった。

 それが、あんな―――――。

 嫌なことを思い出しそうになり、カルロは過去を振り返るのを一旦止めることにした。
 兎に角、今はこの状況を把握する必要がある。

 そんなことを考えていると、偶然にも濁った水溜りへと目が行った。
 薄暗い中、自分の姿が水面に浮かぶ。見たことのある顔つきだ。


「‥‥‥‥!?」

 再び衝撃が走った。見たことがあるどころではない。
 愕然として声が出なくなる。なぜならば水面に映る女性は‥‥‥‥、

 ――――カルロのよく知るリリアだった。
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