神様のボートの上で

shiori

文字の大きさ
上 下
56 / 70

第十六話「最後の力」2

しおりを挟む
「麻生氏は兄にとって恩師であり同じ研究をする仲間だった。父も医者であり兄は自然と医者を目指すことになりました。幼い頃から身体の弱かった私の主治医をしてくれたのが兄でした。

 私は父が再婚した相手との間に産まれた子どもで、兄とは半分しか血は繋がっていませんが、年の離れた妹である私を兄は大切に可愛がってくれました。
 それは医者になったばかりである若い兄の使命感のようなものだったのかもしれませんが、身体が弱くてあまり学校にも通えず友達をなかなか作れない私にとって兄は大切な存在でした。

 兄が研究に没頭したのは私のせいなんです。兄は私を救うのに必死でした。歳を重ねるにつれてさらに病気によって体の自由が失われていく私に、兄はいつも”大丈夫、俺が絶対に何とか救って見せる”と励ましてくれました。

 私がこうしていられるのは兄のおかげなんです。だから自分の意識が別の身体に移された時も私は怖くありませんでした。
 それは兄が”悩みに悩んで選んだ最善の方法”だったのだろうと分かっていたから」

 柚季の兄は白糸医師だということを知っている私は複雑な気持ちだった。

「他の同僚の医師からは”やめておけ”と言われてきたことでしょう。

 私を何とかここまでして生かそうということは、現代医学から外れたことです。助かる可能性にしても、倫理的な障壁にしても、一人の医師が背負いこむ領域を超えています。

 それでも兄は諦めることなく、屈することなく私を救おうとしてくれた。

 今も、私が自由に外を歩ける身体を与えてくれた。
 倫理的なことを言えばあまり褒められたことではないのかもしれないですが、それでも私は兄に感謝しています」

 柚季は愛されているのだろう、私は思った。

 自分にはそこまで一人に対して尽くすことは出来ないと思った。どこかで諦めてしまっていると思う。

 
 そうして話しを続けながら、私は柚季にかける言葉を考えてた。
 そして、不意に柚季は驚く提案を私にしてきた。


「ちづる、こうして自由の身になった今だから聞きますが、もう一度”元の身体に戻ってみて”はどうですか?」


「えっ?」

 それは思わぬ言葉だった。今日の今までそんなこと、考えたこともなかった。柚季からそんな提案を受けることになるなんて・・・。

 そうだ、入れ替わりの力自体が超常的な力であり、その力に頼ることにも未だ抵抗があったし・・・。

 いや、本当に私自身が驚いていることは別にあった。

 それは”こんな当たり前に一度は考えそうな事を今まで私は一度も考えたことがなかった事”だった。

「私、そんなこと一度も考えたことなかった」

 言葉にしてゾッとした。柚季は私が元の身体に戻る日をずっと考えていたのかもしれない、でも私はそんな日が来ることを全く想定していなかった。このまま猫のまま短命な人生を遂げるつもりでいた。そして私はさらにはっと気づかされた。私の本当の願いに。

「私は思ってた。入れ替わって今までの日々の中で進藤ちづるの身体は彼にこそふさわしいって、彼にならこれからもずっと任せていいって。それだけの事を彼はこれまで成し遂げてきた。

 私は彼を尊敬してる、私には出来なかったことを、考えもつかなかったことを行動で示してきたから。

 それともう一つ、私は柚季には人として自由に生きてほしかった。だから協力してきたの、お父さんにも柚季にも自由に生きてほしい。
 それが私の願いだったの」

 私は内からあふれ出る気持ちを柚季に伝えた。柚季もお父さんもせっかくここまで頑張ってきたのだ、それくらい報われたっていいはずだ。


「ちづる、聞いてください。元の身体に戻るということは本来あるべき姿に還ることです。入れ替わりの日々を通じて様々なものを取り戻すことが出来ました。それらはちづるにとっても大切なものであるはずです。

 もうあなたのことを悪く言う人はもういません、今こそ本来ある形に戻る時なのだと思っています。

 ちづるはずっと戸惑い、迷う新島さんに手を貸してきました。それらは大きな原動力となり、こうして今、最高の形で目的が達成されようとしています。ちづるだって生きる力を十分に持っている、だってちづるは今も生きているんだから。

 私は兄が救ってくれた人生を無駄にしてほしくない、あなたには人を思いやる優しい心があるのだから。

 だから、今一度元の身体に戻って、新しい一歩を踏み出してください。

 入れ替わりの力は本来あってはならないものです、力をむやみを使えばそれだけの代償をいずれ支払うことになります、だから”これで最後にしましょう”、どうか人として幸せな一生を送ってください」


 私は突然のことで戸惑っていた。柚季の決意は固そうだ、一人でいる間ずっと考えてきたのだろう。私は一体どうすればいいんだろう。

「それじゃあ、柚季はどうするの? 私と入れ替わって猫の姿になって、どうするの?」

 突然のことに戸惑う私は絞り出すようにして声を出した。その声は少し震えていた。

「私は兄のところへ帰ります。私の役目もこれで終わりにしようと思ったので」

 柚季にとっては私を見守ることが役目と考えていたのか。
 それはただ私と入れ替わるための理由付けかもしれないけど、私は柚季と別れなければならないことになることに複雑な心境だった。

「これでお別れなの?」

「出会いも別れもある、それが人生というものです。ちづるは前を向いてこれからの人生を楽しんで生きてください」

 私はまた生きられるだろうか、今、あの頃感じていたような絶望も痛みも恐怖感もない、ここまでこれたのはみんなのおかげだ。だからこれは正しい選択なのかもしれない。みんなのところへ帰る、そこからまた始めよう、私は覚悟を決めた。

「柚季、辛い思いばかりさせてごめんね、私、言われた通り頑張ってみる。家族も友達も大切して、生きてみる」

「私も楽しかったですよ。こんな非日常的な体験、そうそう出来るものではありませんでした」

 私たちはゆっくり顔を見合わせてから額を合わせる。心臓の鼓動まで聞こえてきそうな距離で、私は緊張していた。
 
 これから日々を、将来をことを思いながら、私はこれからもう一度歩みだす。

 柚季と気持ちを合わせるように、覚悟を決めて額を突き合わせ、進藤礼二の身体へと意識が移り変わった。

 もうこれは何度目だろう・・・、そんなことを考える余裕もなく、私は立ち上がった。

 意識は正常だった、入れ替わりはうまくいったようだ。

「柚季、私、行ってくるね」

 きっかけは柚季のおかげだけど、私自身の意思でもう一度、立ち上がった。

「はい、きっとみんなが、あなたの帰りを待っていますよ」

 柚季の優しい言葉が心に沁みた。

 私にどこまでできるかは分からない、でももう私はこの力に頼らないことに決めた、柚季がそう勇気づけてくれたから、だからこれが最後。

「(新島君、待っていて、これから行くから!!)」

 熱く決意を固め、私は駆けだしていく。元の身体に戻るために、本来あるべき形に戻るために。

「さよなら、ちづる、新しい日々に祝福を」

 猫の姿に戻った柚季の姿が遠ざかっていく中で、私は柚季の別れの言葉を聞いた。
しおりを挟む

処理中です...