神様のボートの上で

shiori

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第十話「終焉への序曲」2

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 玄関を出て新島家から離れたところで、ちづるがカバンから飛び出して先導する。

 もうすっかり月が昇り、夜空が広がる中を二人と一匹で歩いていく。
 果たしてどこに連れていかれるのか、そのこともわからないので、私はちづるの後を付いて行くしかなかった。

 新島家に寄っていて忘れていたけど、話さなければならない、聞かなければならないことは沢山あった。

 今も知らない事は多く、謎のまま放置してきたことは多い。
 夢で見たことも、なかなか聞く勇気が持てず確かめられないままになっている。

 どうして礼二さんが柚季さんとが入れ替わっているのか

 柚季さんは無事なのか

 そして白糸医師とちづるの関係

 ちづるがあの病院に入院していたときの主治医だってことは、もしかして入れ替わりの力のことも、柚季のことも白糸医師は知っている?

 考えれば考えるほど、赤月さんに連れられて取材に参加しただけなのに、私はとんでもない人物と会ってきたのではないかと思えて恐ろしい気持ちになった。

 しばらく歩いてやってきた、小さめの今は使われていないであろう古びた貸しビルを昇っていく。外よりもさらに暗いビル内を慎重に足元を確かめながら階段を上っていく。

 放置されてしばらく経ってしまったのか、すっかり埃が溜まり、薄汚れてしまったこんな場所に一体何があるというか。ちづるに言われるがまま連れてこられて、一体なぜこんなところに来たのか全くわからなかった。

 暗いビル内をなんとかついて歩いていった先、固く閉ざされた屋上の扉を開くと強く風が吹いた。
 ビルの大きさと比例した広さを誇る屋上にはほとんど物が置かれておらず、全体を覆うようにフェンスが広がっている。

「新島君はこの場所のことを知ってる?」

 夜風が吹く中、ちづるが口を開いた。
 小さめの貸しビルの屋上、金網のフェンスや避雷針以外はほとんど目立つようなものはない。

「知らない、初めて来たと思う」

 風で揺れる髪を片手で抑えながら、ちづるの方を向いて私は言った。


「そう、私の記憶、見てないのね」


 ちづるは落ち着いた口調で言った。陽の落ちた屋上ではちづるの瞳の色が色鮮やかに映った。

「断片的なものを時々見るくらいだよ、だからここの事は知らない」

 一体ここで何があったのか、ちづるはフェンスの向こう、外の世界の方を向いて、ゆっくりと先の言葉を言い放った。

「能力のことはまだわからないことが多いの、でも私も夢であなたの記憶を見たことがあったから、でも、見ないでよかったわ」

 今まで話してこなかったことを今更になってちづるは話す、今日までに何かしらの心変わりがあったという事だろう。
 ちづるは金網の向こう、地上の方を見ていた。人通りは少ないが、細い路上に時々車や歩行者が通り過ぎていく。


「ここはね、私が自殺をしようと飛び降りた場所なの」


 ちづるはそう静かに告げた。ほとんど人が来ることのないであろう屋上で、その時ちづるはどんな気持ちだったのだろう。どう決心をつけて一人で地上に飛び降りて行ったのだろう。


「あの週刊誌の記事を見たとき、そう、本当のことを知った時、閉ざされていた記憶が一気に流れ込んできて・・・、私は怖くて、でも確かめたくてもう一度この場所に来ていた。

 そして、この場所に立って、思い出した記憶が本当の事だって分かった。

 私は事故なんかじゃなくて、確かに自分の意思でここから飛び降りた。そして私のことを助けたのは白糸先生なの。
 先生は偶然ここを通っていて、私のことを見つけて急いで病院に搬送した。出血がひどくて大変な状態だったけど、先生の懸命な手術のおかげで奇跡的に助かったのよ。

 もちろん飛び降りてからずっと意識なんてなかったけど、先生は出来うる限りあるゆる可能性を考えて、命を救うための最善の方法を選んだと教えてくれた。

 その結果、身体的な後遺症がなかったのは奇跡だと、いろんな人から聞かされた。

 私はどうしてこんなことになったのか、入院中は思い出せなかった。でも、助かったからには生きなきゃいけないと思った。

 こんなこと突然聞かされても分からないかもしれないけど、でも、私にとっては大切なことなの」


 ここから飛び降りて助かっただなんてどんな奇跡だろう。こんな高いところから落ちればほぼ即死だろう。
 ここに連れてこられてようやくその信じがたい現実を理解した。

 ビルの上から見た地上は歩行者も自動車もとても小さく映る。飛び降りることを考えれば考えるほど恐怖感が身体を支配して足元がおぼつかなくなる。
 それは、それだけ自分が生きたいと思っている証拠なのだろうけど、それでも飛び降りる勇気があったということは、それは尋常な精神状態ではなかったのだろうと想像できた。
 寝起きでうっかり落ちてしまうのとは訳が違う、生きることへの諦めと同時に恐怖心もあったはずだ。

 あの白糸医師が偶然にも近くで目撃したことで助かったこと、あの白糸医師がと思ったが、それは医者としての義務感なのか本能的なものなのか、それとも何らかの打算があったのか、未だに頭に残る手術痕のことを思う。

 脳外科医でもある白糸医師が一体どんな処置をし、命は救ったのか。偶然とはいえこれは白糸医師にしかできなかったことだとすれば、運命的なものを感じずにはいられない。

「すでに感づいていると思うが、今、容疑者として俺の代わりに捕まっているのは柚季だ、お前は柚季のことを本当に助けるつもりか? そして、真犯人を探し出すつもりなのか?」

 やっぱり、柚季さんは進藤礼二と入れ替わって留置所にいるんだ。私は事態を一つ理解した。


「まだ真相はわかりませんが、自分で納得のいくところまで、自分なりに探し出そうと思っています」


 私は改めて決意を告げた。

「そうか、なら、俺も協力しよう。自由の身になったとはいえ、このままでは胸糞が悪いしな。柚季のことを助けることにもなるし、俺をハメたやつを見つけ出して、罪を償わせてやる」

 辛く耐えがたい尋問を経験しながらも、これだけ強い意志を再び蘇らせた礼二さんに驚いた。これならば心配なさそうだ。

「ということで、私たちからも何か分かれば伝えるし、出来る限りの協力はするわ。あなたはあなたなりに納得いくまで調査をしてちょうだい」

 ちづるまでここまで積極的なことにまた驚かされた。一体どんな心変わりなのか、でも今はありがたかった。不安ばかりのこの戦いにおいて、これほど心強いことはない。


「私、やってみる。またみんなが笑っていられるように、取り戻してみせるよ」

 本当の敵、それを見つけ出す日まで、私は決して諦めない。二人がこうして立ち直ってくれたのだから。
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