神様のボートの上で

shiori

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第二話「神様の連帯地図0.1」4

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「それじゃあ、次はあたしがお風呂入ってくるね」

 夕食後、先に私がお風呂に入った。私が部屋に戻ったところで続いて裕子がお風呂場へと向かった。私は扇風機で火照った身体を冷やす、もうすっかり暑さを感じる季節になっているだけに、心地いい風に揺られると心まで癒されるようだった。

 裕子はどれだけ私のことを知っているのだろうか、濡れていない私の髪を見ても何も反応しなかった。それが気づかなかっただけなのか、それとももう知っているからなのか。
 私自身知ってしまった以上、いちいちウイッグを濡らす必要はない、気付いてしまってからはお風呂の時は外して入ることにしている。そこまでして普通の人間の装うのは気が引けた。

 もしも、それはそれで

 私は正直に生きる道を選んだ、肩まで届く髪が扇風機の風にあおられて揺れる、それだけで進藤ちづるが背負ってきた重みを感じ取ることができた。

 過去の傷は消えない、それは確かにそうかもしれない。

 何気なくぼぉっとテレビを見ていた。夜のニュース番組、普段は興味もないしあまり見ない、この時間は漫画を読んだりゲームをやってたり、お笑い番組とかバラエティを見てたりすることが多かったっけ。

 テレビ画面を眺めながら、他にすることもないので体育座りのまま虚ろ眼でニュースキャスターの声に耳を傾けた。

「今月初めに起きた麻生一家殺人事件、三人の命が奪われた凄惨な事件から早一か月が過ぎようとしています。

 一か月近く過ぎた現在も唯一の容疑者は犯行を否認しており、いまだ解決に繋がる進展は見せておりません。

 ここで改めてこれまでの事件の経緯を解説します。

 事件があったのは今月初めのことです。

 被害に遭ったのは麻生玄峰さん、麻生絵理子さん、麻生雫さんの3名で、三人は自宅にいたところを次々に刃物で何者かに刺され、出血多量のより殺害されたものと思われます。

 事件の容疑者として逮捕されたのは進藤礼二容疑者で、犯行に使われたと思われる血の付いたナイフを手に握って玄関で立っているところを、偶然配達員が発見し110番通報し、現行犯逮捕されました。

 警察の調べによりますと進藤容疑者は数日前に失業し、何日も自宅に帰っていなかったようです。今回の事件は容疑者の失業によるショックからの衝動的犯行であるとみられていますが、現在も容疑者は犯行を否認しており、立件も含めさらなる証拠の必要性が求められ、警察の捜査が続いています。
 捜査状況として、事件現場では犯行時の目立った目撃証言は現在のところ確認されておりません。しかし、すでに捜査は長期化しており、捜査本部はまもなく立件も視野に入れて、事件解決を早める方針を明らかにしています。

 今回の事件によって亡くなられた麻生玄峰さんは脳科学の権威で、非常勤で病院に勤務する傍ら、大学で講義や研究をしており、医学界に大きな影響と功績を与えた人物です。ともに研究を続けてきた同志である研究者の方々からは今回の事件に心を痛めており、一刻も早い事件の解決が望まれています」


 まるで見えない誰かから”大切な話だから、よく聞くように”と前置きされたかのように、アナウンサーの言葉一つ一つの意味が脳にまで染み入るように伝わってくる。

 私はアナウンサーの言葉を脳内で噛み砕きながら、その意味するところを無心のまま集中して吟味していく、じっとテレビの画面から目を離すことができなかった。その間だけは扇風機の音も時計の針も気にならず、すっとアナウンサーの声だけが耳に届いていた。


 今までずっと、ニュースの報道なんて他人事のように聞き流してきた。まるで気に留めることなく過ごしてきた、だからこの時まで自分に、いや、進藤ちづるに関係のあることだなんて考えが及ばなかった。
 まさか自分が当事者側の人間になるだなんて、初めてのことで何をどう判断すればいいのかわからない。
 何が真実で何が誇張なのか、何が間違いなのか、何も判断する材料はなく、どう受け止めればよいのかわからなかった。


 自分の考えが勘違いであればいいのに・・・、しかし状況がすべてを物語っている、ずっと帰ってこない父親、名前も顔も同じ、同一人物としか考えられないだけの状況証拠がそろっていた。

 頭の整理が追い付かず、”進藤ちづる”とはなんなのか、まだ何も理解できていないことで不安だらけだった。

「ちづる、どうかした?」

 情報整理していたところにまだ髪の濡れた風呂上がりの裕子がお風呂から帰ってきた。ずっとテレビを見ながら考え込んでいた私を不思議そうに見つめている。


「ねぇ、?」


 確信を持てない不安に耐えられず、考えるより先に自然と言葉が口から出ていた。裕子なら知っているのではないか、そんな確信だけはなぜか頭にあった。
 自分で出した声なのに、恐ろしく怖くなって心臓の鼓動がドクンっと聞こえた。


「ちづる・・・、もしかして”記憶”をまた、忘れちゃったの・・・?」

「えっ・・・」


 しまったと思った、心臓の鼓動が早くなる、考えもなしに言葉が出てしまったために確実にやってはいけないことをやらかしてしまった。
 どうこの場を乗り切ればいいのか、そんなことばかりが頭を駆け巡って、本来すべき思考を鈍らせる。アタフタとして返事もまともに出来ない。

「一体いつ・・・、そっか、あの時、男子生徒とぶつかって保健室に運ばれて・・・、それからずっとなんだ」

「私・・・、私・・・っ」

 この場の空気に飲まれるように、反射的に泣きそうな気持ちで声が震えていた。

「ちづる、よく聞いて。

 裕子は私の肩を強く掴んでじっと鋭い瞳で私の眼を見つめた。
 私に言い聞かせるように、裕子の言葉には強い意志が込められていた。
 
・・・?」

「ええ、交通事故で頭を打って、それでしばらく入院していたの、なんとか意識を取り戻したけど、その代わり記憶の一部をなくしてしまったのよ」

 それは私の、私の知らない進藤ちづるの過去だった。


”あなた、今まで疑問に思わなかったのかしら。どうして誰も不審がらないのか、あなたには進藤ちづるの記憶がないのに”


「そっか・・・、あの時の言葉は」

 これが進藤ちづるが隠していた秘密?

 だからあの時入れ替わっても、他人から身体の心配はされても、記憶違いなどで誰にも不審がられなかったのか。今更ながらすべて合点がいった。
 だが、私はなんとか裕子には私が”本当の進藤ちづる”ではないことは隠し通さなければならない、だからここでなんとかうまく話を合わせないといけない。

「ごめん・・・、私、どうしたらいいかわからなくて・・・、怖くて、何を覚えていて、何を忘れてしまったのか、頭がごちゃごちゃしてわからなくって、自分の記憶をどこまで信じて、どこまで信用すればいいのか、もう、わからないの」

 言葉の放流が止まらなかった。もう、どこまでが自分の感情で、どこまでが進藤ちづるの気持ちを代弁して言っているのか、しかし、どうにかしてこの場をやり過ごすしかなかった。


「大丈夫、あたしはずっと忘れない、あたしはずっとそばにいるから」


 裕子は私の身体を包み込むようにぎゅっと抱きしめた。お互い涙が止まらなかった。真実はどうであれ、裕子はもう一度記憶を喪失してしまったという私の言葉を信じた、それだけでこの場をやり過ごせると思い安心することができた。

 もちろん身体が入れ替わったなんていうおとぎ話を、たとえ真剣に話したところで信じてもらえるかはわからなかったから、今はこれでいい、真実を知られないほうが都合はいいはずだ。

 でも、これだけ私のことを想ってくれているのに、本当のことを話せないということに罪悪感を覚えた。


 私たちはちょっと狭いけど一緒のベッドに入った、背中越しに裕子の温かさが感じられた。まさか女の子と同じベッドで寝ることになるなんて・・・、急なことでドキドキが止まらなかった。身体が入れ替わってからというもの、初めてのことだらけだ。

「あたしね、本当はずっと不安だったの」

 暗い部屋の中で、はっきりと裕子の声が聞こえた。

「うん、昼間にも聞いた」

 裕子は私が思う以上に私のことを考えてくれてる、それが痛いくらいに伝わって胸が苦しくなった。

「ちづるが事故にあってから、記憶の事とかもあって今までと同じように一緒にいられないんじゃないかって。悲観的だってことはわかってるんだけど、考えだしたら止まんなくって。あたしのことまで忘れちゃったらどうしようって、余計なことまで考えちゃうんだ」

「大丈夫、忘れないよ、私が生きている限り」

 背中越しに裕子の手を握った。裕子がそれにこたえるように強く握り返してくれる。

「ありがと、なんだか安心した」

「私も安心した、裕子がいてくれてよかったよ」

 裕子は私の言葉で静かになった。そのまま静寂に包まれそうなところで、私は一番の疑問を裕子にぶつけることにした。

「ねぇ、私のお父さんは本当に麻生さんを?」

 私は不安そうな声で先ほどの質問を繰り返した。進藤ちづるは何も教えてはくれなかった、自分で調べて答えにたどり着かなければならない。

「ほかに容疑者の候補になっている人はいないみたい」

「それじゃあ、裕子は私のお父さんが三人を殺したと思うの?」

 残酷な質問だけど聞かずにはいられなかった。

「あたしは信じたくないけど、ほかに容疑者が見つからなかったら、このまま裁判にかけられちゃうのかな。専門家じゃないから詳しいことはわかんないけど」

 裕子は真剣に考えながら言った。まさかこんなことになってるなんて・・・、こんな大きな問題ごとを抱えるはめになるなんて、これからのことが不安で仕方ない。

 しかしさらに深刻なことに、事件の被害者の中に”クラスメイト”が含まれていることをこの時の私はまだ気づいていなかった。
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