神様のボートの上で

shiori

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第二話「神様の連帯地図0.1」3

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  帰り道、気持ちが沈んだまま歩く、何も知らないままなのは怖い、知ることで周りに迷惑が及ぶとしたら、それも怖い。でも進藤ちづるからこの身体を託されたんだ、できることがあるならやりきりたい、そういう気持ちは大事なこととして持っておかなければ。

「ちづるちゃん、ちづるちゃん無事だったのか」

 考え事をしながら帰り道を歩いていると、おそらく30歳前後の若いスーツ姿の男性が近づいてきた。
 体格は一般的なサラリーマンのように目立ったところはなく、顔立ちは優しそうでいて眼鏡を掛けている。髪も短くアクセサリーなども付けていなくて清潔感のある雰囲気を滲み出している。しかし今の私には全く面識のない人だ。
 
 おそらく本当の進藤ちづるなら知っている人物なのだろう。この人の情報は今の自分には全くない、こういう時、どう対応すればいいのか毎度困ってしまう。迂闊に話を続けてあまり面倒なことになるのはごめんだ。

「何か気分を損ねるようなことをしたのなら謝る。お願いだ、やり直そう」

 男性は一方的に言葉を言い放つと、両手を私の肩において懇願する。切羽詰まっているのかかなり力が入っていて華奢な女性の身体が痛んだ。
 しかし、私には一体何のことだかさっぱりわからない。

「どうしたんだ、どうして黙ったままなんだ、先生の事忘れてしまったのか?」

「ごめんなさい」

 先生?、サラリーマンだと思っていただけに余計に何者か分からず、私は耐えきれなくて両手を振り払い、その場から逃げだした。今の私には何が正解なのかわからない、でも余計なことに巻き込まれるのは嫌だった。



 スカートと髪を揺らしながら自宅まで走った、男性が追ってくることはなかった、どういう関係なのかはわからないが先生ということは真面目な人だったのだろう、追ってくる様子もなかったし。
 家の前まで走ってきて、ようやく心を落ち着かせた。なんだってこんなに災難ばかりに見舞わされるのだ、苦労が絶えないとはこのことだろう。

 進藤家の玄関のカギは開いていて、朝ちゃんと鍵をかけていたはずなのにと思いながら家に入った。
 ダイニングの電気がついている。母親が帰ってきているようだった。今回は家の中でも気は抜けない、自分の身を疑われるような不審な言動は避けていきたい、母親がどんな人物なのか分からないだけに再び緊張が走った。


 ”初めて”の母親との遭遇に、私は気を引き締めた。


「ただいま」

 確かな人の気配だけを感じながら私はできるだけ自然なトーンで言った、もちろん何が自然なのかどうか判断はつかないのだけれど。

「おかえりなさい」

 返事が返ってきた、それだけでここにいるのは私一人ではないと分かってドキっと胸が高鳴った。
 ダイニングに入ってようやく母親の姿を確認できた。写真で見たのと同じだから間違いない。母親はビールを飲んでいた。
 ダイニングテーブルの上にはすでに何本かのアルコール飲料の空き缶が無造作に置かれていて、母親の顔は紅潮して虚ろ眼だった。
 服装は仕事から帰ってきたままなのか私服姿ではあるが、オシャレにしていて大人っぽさも十二分にあり、色っぽさが紅潮した表情からも伝わってくる。
 化粧をしたままの表情を見ると、一体いつから飲んでいたんだと疑問に思った。

「ちづる、身体の調子はどう?」

 母親は顔をこっちに向けてから言った。声に疲れはあるものの気品ある大人びた声だった。

「大丈夫だよ、ちゃんと学校にも行ってるよ」

 私は出来るだけ気を落ち着かせて答えた。

「そう、ならよかったわ。何かあったらすぐに言いなさい。ああ、それと、お父さんのことは弁護士に任せてるから、誰かに聞かれても迂闊に返答しないようにね、何も知らないフリをしていればいいわ」

 何のことかはわからなかったが、事情を聞く勇気はなかった。

 父親のことは本当は気になるところだが、それを聞くのは難しい。家出をしているのか事件に巻き込まれているのか、それとも出張か何かなのか、もしかして離婚手続き中で別居真っ最中なのか、情報が足りな過ぎて今の段階では見当もつかない。

 母親はテレビを見ながら酒を飲むばかりで、私とはあまり会話も続かないので大人しく自室に戻った。なんだかいろんなことがあって疲れて、その日はすぐに寝てしまった。



 進藤ちづるの身体に入れ替わって四日目の朝、昨晩母親がいたダイニングまでやってきた。私が寝た後も随分遅くまで晩酌をしていたようだ、昨日までと打って変わって随分と汚れていたダイニングと台所を掃除して朝食を取る。

 弟や妹がいるために、早寝早起きの習慣が付いていたのが幸運だったか、掃除を済ませて、ゆっくりとはしていられないが朝食を取っていても学校には間に合いそうだ。
 父親が帰ってこないこともあってか、母親は母親で私のまだ知らない苦労を色々としているのだろう。時間にあまり余裕もないので簡単にヨーグルトとバターロールを食べた。

 一方、母親は本当に仕事で疲れていたのか部屋でずっと眠っていて、起きてきそうにはなかった。それほど飲みたくなるほどのストレスとは何なのか私には想像もつかなかった。
 単なる酒豪であったならそれはそれでいいと思うのだけど、そう単純でもないだろうと思う。

 部屋へ戻り制服に着替えて、鏡の前で身支度をしているとチャイムが鳴った。
 一体こんな朝から来客とは一体どなた様だろうと思いながら、いそいそと玄関まで行くと、やってきたのはすでにお馴染みとなった幼馴染の裕子だった。

「おはよう、一緒に登校しましょ」

 突然の来訪に驚いたが、特に用事があってここまで来たわけではなさそうだ。

「うん、すぐ支度するから待ってて」

 私はそう言って部屋に戻る。ノーメイクなのを見られたかもと思ったが、そんなことを気にするほどの相手でもないかと振り返って思った。
 親しい仲ならメイク前の姿もよく見ているだろう、勝手な想像だがそう思うことした。

 おそらくこうして迎えに来て一緒に登校するのも珍しいことじゃないんだろう、心配性なのか、付き合いがいいのか、そんな事も考えたがあまり待たせるといけないので、すぐに部屋に戻ってカバンの中身を確認したり、化粧をしたり、支度を済ませ、ちづるの教え通り律義に鏡の前で再度ウイッグがズレてないかとかリボンがちゃんとまっすぐになってるかとか入念に確認して、玄関を出た。



「今日はね、二人で食べようと思ってお弁当作ってきたの、サンドイッチだけどね」

 女の子と二人での登校は新鮮そのものだ。元の身体なら朝からデート気分で最高なのだが、きっとそんな喜び方もしている場合ではないんだろう。
 裕子は学校にいるときより活き活きとしていた。これが素なのだろう、二人きりの時だけ素に戻る、それだけ私のことを信頼しているということか、私にとっては”出会ったばかり”であっても仲が良いに越したことはない、私はできる限り信頼に応えないといけないと肝に銘じた。

 私は裕子と二人でいるときは出来るだけ元気よくテンションを上げて振舞うことにした。

「ちづる、最近変わったなって思って。男子と仲良くしてたり、なんだか私、ちづるが遠くに行ってしまったみたいに思っちゃって、怖かったの。ごめんね、考えだしたら不安になっちゃって、それで予告もなしに迎えに来ちゃって」

 こういった事態は予測できていたけど、どうすることもできない。今の私には不安にさせないように明るく振舞うしかない。

「いいよいいよ、私たちの仲だから、気にしなくたって。こっちこそ準備に時間かかっちゃって、待たせちゃってごめん」

「全然まだ登校するには早い時間だよ」

「それもそっか」

 急いだ分時間に余裕があった。
 こうして元気な女の子の姿を朝から見るのは実に気分がいい、朝からこんなラブコメのような展開が味わえるなんて進藤ちづるは幸せだなと思ってしまった。

 少しは裕子と自然に話せるようになったかもしれない、朝から自信に繋がる大きな収穫だ。早く女の子と会話するのに慣れないと、私は一層気合を入れ直した。



 昼休みに裕子の持ってきてくれたサンドイッチを二人で食べていた時に決まったことだが、今日は裕子の家で泊まることになった。私と裕子は放課後、そのまま裕子の家へと向かった。一度帰って支度をした方がいいんじゃないかと提案したけど、用意はしてるから大丈夫とのことで直接向かうことになった。

「今日はおいしいラーメン振舞っちゃうよ!!」

 裕子は料理人のように腕まくりをして気合をアピールした。
 気分が良さそうで、それはそれはありがたいことであった。

「ふんふんふ~~ん、さて麵を入れてっと」

 エプロン姿で台所に立って裕子は意気揚々と鼻歌を歌いながらラーメン作りをしてくれた。ラーメン好きの裕子はよくラーメンを作ってご馳走してくれるのだそうだ。そんな入れ知恵を進藤さんから事前に聞いていた。

「どう?、今日のは美味しいかな?」

 そういって出されたのはシンプルな中華そばだった。優しい味わいのスープが疲れた体に沁みてなんとも食べやすかった。

「美味しいよ、温かくて心に沁みる味だね」

「えへへっ、そうかな、気に入ってもらえてよかった」

 裕子は誉め言葉に満足げだった。お互い上機嫌でお腹いっぱいラーメンを食べた。
 こうしていると女の子の部屋に入るのも、少しずつ慣れてきたのでは?、と少しは思えるようになってきていた。
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