”小説”震災のピアニスト

shiori

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第13章「雨とピアノの回廊を登って」4

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 私のプログラム、その始まりは『Rain』という曲の独奏だった。
 隆ちゃんとの思い出の曲、パッヘルベルのカノンのようなピアノの独奏曲として私はこの曲を最初に弾くことを決めていた。

 前奏としての2分程度の短い演奏であるが、私の気持ちがいっぱいに詰まっている。

 先程、控室へ向かう途中のエントランスで雨の音を聴いたのは偶然とはいえ、運命を感じずにはいられなかった。

 私は鎮魂歌のような心情でこの静かで物悲しい、ピアノの音だからこそ心に響く、優しい旋律を最初に演奏することを選んだ。

 2分間の黙祷のように、震災で犠牲になった多くの人を送るために、私は心を込めてこの『Rain』を演奏する。

 熱気に包まれた会場が静まり返り、聞き入るように私の独奏に耳を傾ける。

 ピアノの音色だけで私の気持ちを伝えたい、そんな願いを込めて、私は目を閉じ、穏やかな表情で、被災した人たち、帰らぬ人となった人たちを想いながら演奏する。

 この曲自体が大切な存在を失い、雨の中でも傘を差しながら物悲し気に佇む少女の姿をイメージして作られている。

 それは、病院にいた時の私そのものにも感じられる。

 片耳が不自由になり、声が出せなくなり、両親を失った、あまりにも多くのものを震災と共に一気に失ってしまった私。

 でも、そんな私を隆ちゃんや式見先生は見捨てることなく支えてくれた、優しく接してくれた。この演奏はそんな優しい手ほどきをしてくれたことに対する感謝の気持ちでもある。

 人は支え合って生きていける、だからこそ困難も乗り越えて、前へと向かって踏み出すことができる、私はそういう当たり前で大変なことを、支え合うことの大切さを伝えたい、そして、一人でも多くの人をこの演奏で癒しながら、勇気を届けたい。

 失うことの辛さは、私が一番よく分かっているから。

 だからこそ、私がこの演奏を届けることに意味があるのだと、信じている。

 いつかはきっと雨は明ける、太陽が雲の隙間から眩しい光を届けてくれる。

 悲しいことばかりがずっと続きはしない。きっと、前向きに進んだ先には、それぞれの幸せがある。

 ゆったりとしたテンポで、心に沁み行くようなメロディーが2分間の時を刻み終えた。


 演奏が終わると、ゆっくりとオーケストラ達が次なる演奏に向けて、一斉に構える。
 木管楽器であるフルートやオーボエ、クラリネット。
 金管楽器であるホルンやトランペット、トロンボーンにチューバ。
 弦楽器にヴァイオリンやチェロ、コントラバス。
 そして、打楽器であるテインパニやシンバル、ピアノ。

 私は瞳を見開いて、指揮棒を手に持つ指揮者と視線を合わせる。
 私はゆっくりと頷いて、指揮者は再びオーケストラの方に目をやってタクトを振るう。

 待ちわびた演奏が始動し、オーケストラ達の力強い演奏が奏でられる。
 私もオーケストラ達の音を聴きながら、気持ちを一つにしピアノを弾く。

 私が本選に選んだ曲、それは思い出深いラフマニノフの『ピアノ協奏曲第二番』だった。

 隆ちゃんが私にもう一度音楽へと向かわせる勇気をくれたピアノ協奏曲。
 この曲を聞くことで、私はやっぱりピアノが大好きなんだと、こんなにも弾きたい気持ちが自分の中にあるんだということを思い出させてくれた。

 それに私自身がラフマニノフのことが好きなのも選曲の理由の一つだった。

 もちろん、隆ちゃんが卒業式の翌日に演奏してくれたことがきっかけだったけど、私はこの4年間の間に沢山ラフマニノフの曲に触れながら自分自身もその魅力に惹かれていった。

 長い時間を掛けて培われていったセルゲイ・ラフマニノフへの想い。

 演奏会での記録的な大失敗を経験し、完全な自信喪失により精神的な病を患い、闘病生活を経て、創作への意欲を回復させて作り上げたピアノ協奏曲第二番。

 それは彼の執念でもあり、本当に才能があるからこそ達することのできた名声だった。

 演奏家としても一流で、作曲家としても一流のラフマニノフ。
 その中でのもこのロマン派音楽を代表する、この『ピアノ協奏曲第二番』は難曲でありながらも美しい名曲として今もなお多くの人に愛されている。

 ゆったりとした演奏から展開部に入ると、劇的に目まぐるしい指さばきを要求され、私は食らいつくようにテンポやリズムを合わせながら、気持ちを込めて鍵盤を叩き、正確にかき鳴らしていく。

 気の抜くことのできない伴奏部分をオブリガートにまとめながら、力強いメロディー部分を表現豊かに演奏させ、オーケストラ達の交響曲的な豪華で華やかなな演奏に、一つの大切なパーツとして自らの演奏を溶け込ませていく。

 第一楽章、第二楽章、そして第三楽章へと引き継がれる壮大な協奏曲。

 演奏しながらもバイオリンの音色に酔いしれながら、終曲へと向かうクライマックス部分に入ると一層気持ちを高ぶらせながら、最後まで気を抜くことなく、駆け抜けるように壮大かつ雄大な力強い演奏に持ち得る才覚の限りを尽くし、練習に明け暮れた成果を表現しようと、今にも釣りそうな指を堪えながら、軽快な指さばきを披露する。

 天上へと続く山々を駆け上っていくように、盛り上がりを見せるオーケストラ達の演奏と共に、力の限りを尽くして、私は最後まで駆け抜けた。

 演奏が終わった瞬間、やり切った達成感と共にスッと身体から力が抜けていく中、割れんばかりの拍手が観衆から贈られる。

 聴くものすべてを唸らせ、納得させる、賞賛すべきプログラムの終焉。
 壮大な協奏曲の終わりに送れられる拍手は、この演奏を聴かせてくれたことへと感謝の想いそのものだった。
 

 私は震えあがるような感情の渦の中で、自分の身体に起きた衝撃的な事態に、演奏を終え、盛大な拍手を受けながら気付いた。


 ただ、演奏を披露することに集中し、陶酔するように演奏だけに全意識を向けていて気付かなかったが、私の今まで聞こえなかった片耳が、なんと”聞こえるようになっていた”

 自分でも驚きが隠せない、信じられない奇跡だった。

 何の違和感もなく、両耳に響き渡る拍手。

 私は胸いっぱいに広がる感動に、心から打つひしがれた。

 なんというギフトだろうか、頑張ったご褒美にしてはあまりに出来過ぎた事態に、自分でも何が起きているのか分からないほどであった。

 無我夢中であった私には分からない、何時から聞こえるようになったのか。
 だが、この演奏の中で取り戻したことは確かなことだった。

 私は一瞬の衝撃から目を覚まし、立ち上がって観衆に改めて目を向け、私の演奏を聞いてくれた聴衆に向けてゆっくりと笑顔を浮かべて、やり切った満面の笑みで聞いてくれたことに感謝して大きくお辞儀をし、堂々とステージを後にした。
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