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第一章 白石結実篇
他のMっ娘の紹介でした……
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M女に呼びだされたS男──。
梶井俊夫──。
ついつい“このひとMなん号だったっけ?”などと“暗算?”してしまったのだが……。というより、これまで関わってきたM女たちの顔を思い浮かべ、それを逐一数えあげていたら“アレレ? 李奈は一体なん号だったっけ?”などと、かえって無茶苦茶なことになってしまったのだが……。
確かに彼がS、そして女たちのほうがMたちなのだがそれはプレイ中にかぎっての話だ。
このMなん号といった話は一般的パートナー同士の誕生日だとか結婚記念日だとかといった話に似た主題なのかもしれない。それを数え間違えたりなどしたら、まさに、“主人と奴隷の弁証法”とでもいったような事態が生じてしまうのだった。とはいえ幸いなことにM女たちのほうから、“ねぇ御主人様、私は一体Mなん号だったでしょうか?”、などと訊いてくるわけではなかった。
しかし前門のM女=飯田舞香はやはり何かを感じ取ったようすだ。微かに小首を傾げたあと俊夫のほうを見て微笑みながら、
「ねぇいま、何考えてた?」
と訊いてきたのだった。
待ち合わせ場所は彼女が決めた……。
最寄り駅は彼の部屋の最寄り駅の反対口の喫茶店なのだが、店の内装が木目を生かした小洒落たもので、彼には少々、“気取り過ぎている”感じだった。客たちが布製のブックカバーで四六版の新刊書を読んでいるような……。彼の評価がどうしてもそういったものになってしまい勝ちなのは、彼自身なかなかの読書家だったからだ。頭フサフサ以外完全にオヂ! といった外見からは多少意外な感じだったが、実は眼前のM女=舞香とも、ある読書会で知り合ったのだった。
(そうか彼女、M六号って計算になるな──。そして李奈がM三号で、その彼女から数えて三人目が彼女だ)
そうした“暗算”のあと敢えて言語化を避け、“これじゃまるでボケ老人だな”、などと思う。自嘲? いや──。もはやそれを嘲って済ませられる年齢ではない。
(若いコと話すとこっちも若返ることができるなんていうバカがいるが、ありゃ嘘だな)
彼の思考はさらにそんな風に進んでいった。
舞香もすでに三十一歳の熟女なのだが、俊夫から観ればまだまだ若い。
(パッチリした眼は瞳が鳶色──。鼻の高さもまさに理想的? ……っていうよりやや可愛いのほうに寄っているかな? あのエクボだって……。そう……。あれは確かに紛れもなくエクボだ。二十歳過ぎればエクボは小皺だなんていうバカもいるが、たとえなん歳になったって、このコのエクボは永遠にエクボだ)
と、思考がポジティブになってきたところで、彼は意識的に彼女の眼を観た。微笑んでいるが、やはり瞳は笑っていない。
こういえばあながち嘘ではないといったラインで、言葉を紡ぐ。
「いや何、ちょっと次作の構想をね……」
「またフランス書院文庫官能大賞の公募?」
「ああ、まあ……」
「文學界新人賞とかにはもう応募しないの?」
「そっちのほうはやっぱ、若い君たちのほうがさ……」
「でもオヂの官能小説っていうのも……」
「俺の官能小説はオヂのオヂによるオヂのための官能小説だよ。オヂってやっぱ金持ってっからっ……。俺はねえけど……。同世代でその金まわさなくっちゃっ……」
「アッ、狡ッ──」
官能小説のヒロイン描写──。マンネリを避けるには実在のモデルを設定するにかぎる。いまさっきの思考は実際、“……永遠にエクボだ”といった辺りが採用可能なんじゃないだろうか? ダメだろうか?
一瞬の沈黙のあと、ふたたび舞香がそのピーチ色の唇を開いた。
「でっ? 結実ちゃん、どうだった?」
後門のM女=白石結実に関するド直球な質問だった。
先週末、問題の彼女と初めて会った喫茶店はいわゆる“街の会議室”で、こんな小洒落た喫茶店ではなかった。彼女自身の装いも“就活かよッ?”と思わせるようなもので、とはいえ、“俺なんかのために大手の採用担当に会うような格好を?”、などとポジティブに考えれば、俊夫はそれなりに嬉しくなってきたりもしたのだった。ちなみに普段の彼はスポーツマン・フォビアとでもいうような文弱なのだが、ある野球監督がいっていた“ポジティブ・シンキングに意味はなし”、という言葉だけは、ちょっと気に入っていたりもするのだった。
(でも若いコに会うときゃやっぱ……。でないと俺、朝日に焼かれるドラキュラ伯爵の気分……)
ともすれば新作の構想という名の妄想へと流れていってしまい勝ちな思考を、舞香のアーモンド形の瞳をアンカーに引き戻す。
「彼女、飯田さんの紹介だなんていってたけど、なんかちょっと、そういうのって傷ついちゃうな……。オヂってウサギのハートなんだよ……。寂しいと死んじゃうってヤツ……」
「キモいなぁ、モオウッ……。それにそんなことで傷つくって、どうなの?」
「いや、だってそうだろ? SMのパートナーシップってのは本質的にはビジネスライクなもんなんだろうけど、このひと、俺がほかのひととそういうことになっちゃったってべつに平気なんだ、なんて考えちゃうとさ……」
「ふーん。随分勝手ないい草ね? こっちなんかM十一号だっていうのに……。結実ちゃんでちょうど一ダースになっちゃうよね?」
対峙する瞳孔がシュッと窄まったような気がした。鎌をかけられているのだろうか? どうするべきだろう?
「──いやその……。一応同時進行はしてないつもりだけど……。それと自分からMなん号だなんていい方、なんかちょっと、よくないなって思うな……。飯田さんはMなん号なんかじゃなくて、世界でたった一人の飯田さん一号だよ……」
何をいい話にしようとしているのだ? 俊夫も自分でいっていて自分でキモいのだが、案の定その科白は、あっさりスルーされてしまった。
「でもさ、俊君が自然消滅させたって思ってるベルちゃんとかアンナちゃんとか、呼びだしかかるのいまでもずーっと、待ち続けているみたいだよ。金髪の腋毛ボーボー生やしちゃってさッ。ちなみにこの情報、奈緒さんだって承認済みだからね」
“奈緒さん”──。俊夫と舞香とが知り合う切っかけになった読書会の主催者である。
その読書会、ごくごくシンプルに『奈緒さんの会』などと呼ばれているのだが、さらに会合場所が『スナックなお』で、そこのママでもある奈緒本人はもう少しカジュアルな会にするつもりだったようだ。
だが番狂わせは近所にあった城南大学永山研修センターで、もともとそこはサークル棟の別館のような位置づけだったのだが国際文化学科だとか表象文化学科だとか、煩型の学生たちの溜まり場になってしまっていたのだ。そしてそこの学生たちが大挙襲来! という事態になったわけだ。
ゲシュテル、ディフェラン、サバルタニティ……。
まったりハルキでも読んでいこうかといった会が、なぜか革命前夜みたいな大騒ぎになってしまった。もっともそれはコップのなかの嵐で、所詮“文”のなかだけで“の抗争”、垂直の空騒ぎに過ぎなかったのだが……。
一計を案じた奈緒が召喚したのが彼女の大学時代の“御主人様”──。現在“都の北西”の大学で教育学部英語英文学科教授を勤めている渡部博人だった。“御主人様”? そう……。彼女もまたM女なのだ。その奈緒と博人とが焼け木杭に火になることもなく、彼が引っ張ってきた俊夫とそういった関係になってしまったという話はまたべつな話なのだが、とにかくいまは、“結実ちゃん”の話だろう。
舞香の眼ヂカラがフッと弱まる。そしてパッチリした瞳もやや伏し眼勝ちになり……。
「でも結実ちゃん……。ホント、可哀想なんだァ……」
と、一人ごちるようにいった。しかし一瞬あって正対した瞳は、いままでよりさらに攻撃色を強めている。
「ねぇ俊君ッ、彼女の話、ちゃんと聴いてくれたんだよねッ?」
「ウッ、ウンッ……。まあね……」
とはいえデリケートな問題なのだ。言葉の選択に、本当に苦労させられる。
「ちょうど時事問題にもなってたからね……。そんな辺りから、お互い、いろいろとね……」
「時事問題?」
「ウン……。現在話題になってるのは男性のほうの体臭問題なんだけど、議論の過程じゃ当然、女性にだってクサいひとはいるよって話にもなってくるわけで、そんな話を聴くたびに彼女、一瞬心臓が止まりそうになるんだっていってた……。でも彼女、それで炎上しちゃったあのひとに関しては、なんか同情的だったなぁ……」
「で? 俊君は?」
「ウン、俺も……。まぁ男のクセに文学なんかやってるような奴ァ大抵、野球少年でもサッカー少年でもなく、腕力もなくて、当然イジメにも遭ってたりするわけで、ウザいダサい、そんでもってやっぱクサいなんてこともいわれ続けてきたわけで……。あの言葉それ自体にはグサッてくるもんがあったわけだけど、でもね、一日数回のシャワーなんて話はまぁ無理っちゃァ無理な話なんだけど、けどあれ、女性たちからすりゃ暗に自分たちがいわれ続けてきたことだったんじゃないのかな? なんてね……。そういったら彼女、激しくウンウン頷いてた……」
「ふーん」
「やっぱ俺はリベラルな連中が、毎度のことながら情けないなって思うのね……。あの連中、いまこそれいの台詞でもって、踏ん張ってみるべきなんじゃないのかな……。たとえ自分たち自身がクセぇっていわれたんだとしたってさ……」
「れいの台詞?」
「ウン──。私は君の意見には反対だが、君がそれをいう権利については命にかけて守る、……とかってヤツ? でも渡部君なんかもさ、そりゃヴォルテールの台詞で近代主義で、社会主義崩壊以降の現代的リベラルとはなんの関係もないよ、なんて大きな話にしちゃってさ、いま眼の前にあるあの問題からは、どうも腰、引けちゃってんだよね……」
「でも俊君もさ、いま眼の前にあるこの問題からは、やっぱ腰、引けちゃってんだよね。結実ちゃんもう五年間もつき合ってた彼氏に、半年前、振られちゃってさ。それでまだ立ち直れてなくて……。理由には入ってないっていいわけっぽいアナウンスはあったようなんだけど、別れ話のなかでトラウマになってる体臭のことも、やっぱいわれちゃってさ……。だから俊君のこと、紹介したんだよ。親友のため、断腸の思いでね。Sの御主人様で二十四人のM女たちでシェアしてるクズ野郎なんだけど、ニオイに関しては相当な猛者で私たちM女たち五十人弱はプレイ前一週間はシャワーもウォシュレットも全面禁止で、オマケに腋毛まで生やさせられているんだよ、なんてね」
「そっ、そういう話は、あまりひとには……」
「ふーん。でももういっちゃったから……。読書会の男たちみんなが狙ってたフランス人留学生とロシア人留学生、ニオイが面白そうだからって理由で二人ともモノにしちゃって、でも大してニオわなかったからって理由で二人ともすぐ振っちゃったんだよ、なんて話もね。結実ちゃんにいわせるとそれってやっぱニオイがOUTだったんだよ、って話になるんだけど、ホントにそんな話なわけ? 要するに据え膳、食べなかったわけだよね?」
木目を生かした小洒落た店内……。BGMのジャズピアノのボリュームも抑制されていて……。そんななか、ラヴェルの『ボレロ』のようにヒートアップしていくM六号、……もとい、飯田さん一号=舞香の声のボリュームが気になって仕方がない俊夫である。
梶井俊夫──。
ついつい“このひとMなん号だったっけ?”などと“暗算?”してしまったのだが……。というより、これまで関わってきたM女たちの顔を思い浮かべ、それを逐一数えあげていたら“アレレ? 李奈は一体なん号だったっけ?”などと、かえって無茶苦茶なことになってしまったのだが……。
確かに彼がS、そして女たちのほうがMたちなのだがそれはプレイ中にかぎっての話だ。
このMなん号といった話は一般的パートナー同士の誕生日だとか結婚記念日だとかといった話に似た主題なのかもしれない。それを数え間違えたりなどしたら、まさに、“主人と奴隷の弁証法”とでもいったような事態が生じてしまうのだった。とはいえ幸いなことにM女たちのほうから、“ねぇ御主人様、私は一体Mなん号だったでしょうか?”、などと訊いてくるわけではなかった。
しかし前門のM女=飯田舞香はやはり何かを感じ取ったようすだ。微かに小首を傾げたあと俊夫のほうを見て微笑みながら、
「ねぇいま、何考えてた?」
と訊いてきたのだった。
待ち合わせ場所は彼女が決めた……。
最寄り駅は彼の部屋の最寄り駅の反対口の喫茶店なのだが、店の内装が木目を生かした小洒落たもので、彼には少々、“気取り過ぎている”感じだった。客たちが布製のブックカバーで四六版の新刊書を読んでいるような……。彼の評価がどうしてもそういったものになってしまい勝ちなのは、彼自身なかなかの読書家だったからだ。頭フサフサ以外完全にオヂ! といった外見からは多少意外な感じだったが、実は眼前のM女=舞香とも、ある読書会で知り合ったのだった。
(そうか彼女、M六号って計算になるな──。そして李奈がM三号で、その彼女から数えて三人目が彼女だ)
そうした“暗算”のあと敢えて言語化を避け、“これじゃまるでボケ老人だな”、などと思う。自嘲? いや──。もはやそれを嘲って済ませられる年齢ではない。
(若いコと話すとこっちも若返ることができるなんていうバカがいるが、ありゃ嘘だな)
彼の思考はさらにそんな風に進んでいった。
舞香もすでに三十一歳の熟女なのだが、俊夫から観ればまだまだ若い。
(パッチリした眼は瞳が鳶色──。鼻の高さもまさに理想的? ……っていうよりやや可愛いのほうに寄っているかな? あのエクボだって……。そう……。あれは確かに紛れもなくエクボだ。二十歳過ぎればエクボは小皺だなんていうバカもいるが、たとえなん歳になったって、このコのエクボは永遠にエクボだ)
と、思考がポジティブになってきたところで、彼は意識的に彼女の眼を観た。微笑んでいるが、やはり瞳は笑っていない。
こういえばあながち嘘ではないといったラインで、言葉を紡ぐ。
「いや何、ちょっと次作の構想をね……」
「またフランス書院文庫官能大賞の公募?」
「ああ、まあ……」
「文學界新人賞とかにはもう応募しないの?」
「そっちのほうはやっぱ、若い君たちのほうがさ……」
「でもオヂの官能小説っていうのも……」
「俺の官能小説はオヂのオヂによるオヂのための官能小説だよ。オヂってやっぱ金持ってっからっ……。俺はねえけど……。同世代でその金まわさなくっちゃっ……」
「アッ、狡ッ──」
官能小説のヒロイン描写──。マンネリを避けるには実在のモデルを設定するにかぎる。いまさっきの思考は実際、“……永遠にエクボだ”といった辺りが採用可能なんじゃないだろうか? ダメだろうか?
一瞬の沈黙のあと、ふたたび舞香がそのピーチ色の唇を開いた。
「でっ? 結実ちゃん、どうだった?」
後門のM女=白石結実に関するド直球な質問だった。
先週末、問題の彼女と初めて会った喫茶店はいわゆる“街の会議室”で、こんな小洒落た喫茶店ではなかった。彼女自身の装いも“就活かよッ?”と思わせるようなもので、とはいえ、“俺なんかのために大手の採用担当に会うような格好を?”、などとポジティブに考えれば、俊夫はそれなりに嬉しくなってきたりもしたのだった。ちなみに普段の彼はスポーツマン・フォビアとでもいうような文弱なのだが、ある野球監督がいっていた“ポジティブ・シンキングに意味はなし”、という言葉だけは、ちょっと気に入っていたりもするのだった。
(でも若いコに会うときゃやっぱ……。でないと俺、朝日に焼かれるドラキュラ伯爵の気分……)
ともすれば新作の構想という名の妄想へと流れていってしまい勝ちな思考を、舞香のアーモンド形の瞳をアンカーに引き戻す。
「彼女、飯田さんの紹介だなんていってたけど、なんかちょっと、そういうのって傷ついちゃうな……。オヂってウサギのハートなんだよ……。寂しいと死んじゃうってヤツ……」
「キモいなぁ、モオウッ……。それにそんなことで傷つくって、どうなの?」
「いや、だってそうだろ? SMのパートナーシップってのは本質的にはビジネスライクなもんなんだろうけど、このひと、俺がほかのひととそういうことになっちゃったってべつに平気なんだ、なんて考えちゃうとさ……」
「ふーん。随分勝手ないい草ね? こっちなんかM十一号だっていうのに……。結実ちゃんでちょうど一ダースになっちゃうよね?」
対峙する瞳孔がシュッと窄まったような気がした。鎌をかけられているのだろうか? どうするべきだろう?
「──いやその……。一応同時進行はしてないつもりだけど……。それと自分からMなん号だなんていい方、なんかちょっと、よくないなって思うな……。飯田さんはMなん号なんかじゃなくて、世界でたった一人の飯田さん一号だよ……」
何をいい話にしようとしているのだ? 俊夫も自分でいっていて自分でキモいのだが、案の定その科白は、あっさりスルーされてしまった。
「でもさ、俊君が自然消滅させたって思ってるベルちゃんとかアンナちゃんとか、呼びだしかかるのいまでもずーっと、待ち続けているみたいだよ。金髪の腋毛ボーボー生やしちゃってさッ。ちなみにこの情報、奈緒さんだって承認済みだからね」
“奈緒さん”──。俊夫と舞香とが知り合う切っかけになった読書会の主催者である。
その読書会、ごくごくシンプルに『奈緒さんの会』などと呼ばれているのだが、さらに会合場所が『スナックなお』で、そこのママでもある奈緒本人はもう少しカジュアルな会にするつもりだったようだ。
だが番狂わせは近所にあった城南大学永山研修センターで、もともとそこはサークル棟の別館のような位置づけだったのだが国際文化学科だとか表象文化学科だとか、煩型の学生たちの溜まり場になってしまっていたのだ。そしてそこの学生たちが大挙襲来! という事態になったわけだ。
ゲシュテル、ディフェラン、サバルタニティ……。
まったりハルキでも読んでいこうかといった会が、なぜか革命前夜みたいな大騒ぎになってしまった。もっともそれはコップのなかの嵐で、所詮“文”のなかだけで“の抗争”、垂直の空騒ぎに過ぎなかったのだが……。
一計を案じた奈緒が召喚したのが彼女の大学時代の“御主人様”──。現在“都の北西”の大学で教育学部英語英文学科教授を勤めている渡部博人だった。“御主人様”? そう……。彼女もまたM女なのだ。その奈緒と博人とが焼け木杭に火になることもなく、彼が引っ張ってきた俊夫とそういった関係になってしまったという話はまたべつな話なのだが、とにかくいまは、“結実ちゃん”の話だろう。
舞香の眼ヂカラがフッと弱まる。そしてパッチリした瞳もやや伏し眼勝ちになり……。
「でも結実ちゃん……。ホント、可哀想なんだァ……」
と、一人ごちるようにいった。しかし一瞬あって正対した瞳は、いままでよりさらに攻撃色を強めている。
「ねぇ俊君ッ、彼女の話、ちゃんと聴いてくれたんだよねッ?」
「ウッ、ウンッ……。まあね……」
とはいえデリケートな問題なのだ。言葉の選択に、本当に苦労させられる。
「ちょうど時事問題にもなってたからね……。そんな辺りから、お互い、いろいろとね……」
「時事問題?」
「ウン……。現在話題になってるのは男性のほうの体臭問題なんだけど、議論の過程じゃ当然、女性にだってクサいひとはいるよって話にもなってくるわけで、そんな話を聴くたびに彼女、一瞬心臓が止まりそうになるんだっていってた……。でも彼女、それで炎上しちゃったあのひとに関しては、なんか同情的だったなぁ……」
「で? 俊君は?」
「ウン、俺も……。まぁ男のクセに文学なんかやってるような奴ァ大抵、野球少年でもサッカー少年でもなく、腕力もなくて、当然イジメにも遭ってたりするわけで、ウザいダサい、そんでもってやっぱクサいなんてこともいわれ続けてきたわけで……。あの言葉それ自体にはグサッてくるもんがあったわけだけど、でもね、一日数回のシャワーなんて話はまぁ無理っちゃァ無理な話なんだけど、けどあれ、女性たちからすりゃ暗に自分たちがいわれ続けてきたことだったんじゃないのかな? なんてね……。そういったら彼女、激しくウンウン頷いてた……」
「ふーん」
「やっぱ俺はリベラルな連中が、毎度のことながら情けないなって思うのね……。あの連中、いまこそれいの台詞でもって、踏ん張ってみるべきなんじゃないのかな……。たとえ自分たち自身がクセぇっていわれたんだとしたってさ……」
「れいの台詞?」
「ウン──。私は君の意見には反対だが、君がそれをいう権利については命にかけて守る、……とかってヤツ? でも渡部君なんかもさ、そりゃヴォルテールの台詞で近代主義で、社会主義崩壊以降の現代的リベラルとはなんの関係もないよ、なんて大きな話にしちゃってさ、いま眼の前にあるあの問題からは、どうも腰、引けちゃってんだよね……」
「でも俊君もさ、いま眼の前にあるこの問題からは、やっぱ腰、引けちゃってんだよね。結実ちゃんもう五年間もつき合ってた彼氏に、半年前、振られちゃってさ。それでまだ立ち直れてなくて……。理由には入ってないっていいわけっぽいアナウンスはあったようなんだけど、別れ話のなかでトラウマになってる体臭のことも、やっぱいわれちゃってさ……。だから俊君のこと、紹介したんだよ。親友のため、断腸の思いでね。Sの御主人様で二十四人のM女たちでシェアしてるクズ野郎なんだけど、ニオイに関しては相当な猛者で私たちM女たち五十人弱はプレイ前一週間はシャワーもウォシュレットも全面禁止で、オマケに腋毛まで生やさせられているんだよ、なんてね」
「そっ、そういう話は、あまりひとには……」
「ふーん。でももういっちゃったから……。読書会の男たちみんなが狙ってたフランス人留学生とロシア人留学生、ニオイが面白そうだからって理由で二人ともモノにしちゃって、でも大してニオわなかったからって理由で二人ともすぐ振っちゃったんだよ、なんて話もね。結実ちゃんにいわせるとそれってやっぱニオイがOUTだったんだよ、って話になるんだけど、ホントにそんな話なわけ? 要するに据え膳、食べなかったわけだよね?」
木目を生かした小洒落た店内……。BGMのジャズピアノのボリュームも抑制されていて……。そんななか、ラヴェルの『ボレロ』のようにヒートアップしていくM六号、……もとい、飯田さん一号=舞香の声のボリュームが気になって仕方がない俊夫である。
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