できそこないの幸せ

さくら怜音/黒桜

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第七章 俺が欲しいのはお前だ

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「まさか本家から芸能人などというヤクザ稼業を輩出するとは。当主は何をお考えなのだ」
「稀代の神童を跡継ぎにしないつもりか」
「当主は先代と違って、身内に随分甘い方だから……」

どこから情報が漏れたのか分からないが、親戚の上層部が集う席で飛び交う話題は勝行の芸能界入りに関する話ばかりだった。メジャーデビューしても相羽の名は使わない契約をしていたのだが、顔がどこかのテレビで公開されてしまえばいつか身バレするのは分かっていた。この険悪なムードの中で「芸術大学を受ける」と宣言すれば、間違いなく非難の嵐だろう。四方に防衛線をがっつり張られている。父親らしい姑息な手口だ。

どのみち家長を説得できたとしても、今度はこの長老会のような分家の隠居勢を黙らさなければならない。父と彼らが決して仲良くない事を勝行は知っている。難攻不落の高難易度ダンジョンに向かう気分のようだ。母屋の廊下にある姿見の前でブランドスーツのネクタイをキュッと締め、勝行はふうと深いため息をついた。

(客間に行きたくないなあ)
「おい勝行。あの話は本当なのか」
「……兄さん」

背後から突然声がかかる。鏡越しに見た久しい身内の顔に勝行は眉をひそめた。
相羽修一《あいわしゅういち》。相羽修行の長男であり、次期当主候補である。そして勝行とは唯一血のつながる兄弟だ。

「帰ってらっしゃったんですね。お仕事お疲れ様です。法律事務所が繁盛していてご多忙だと伺っていましたが」
「そういう世間話はどうでもいい。質問に答えろ」
「……」
「お前、アイドルデビューしたんだってな?」

アイドルという職業に就いた覚えはない。静かに首を横に振り、いいえと答えるも「嘘をつくな」と胸倉を掴まれた。
兄と会話するといつもこうなる。癇癪もちの彼に理不尽に怒鳴られ、二言目には「お前ばかりが親父に甘やかされて」と愚痴られる。勝行にそんな覚えは全くない。

「それでなくても先代派と現当主派とで内部分裂が激しい時期だというのに。お前のせいで相羽の名前が穢れる。趣味で道楽まがいの活動は今すぐやめろ」
「お言葉ですが兄さん、僕はまだ高校生ですし、お父さんから許可をいただいた事を個人的に楽しんでいるだけです。相羽の名に恥じるようなことはしていません。少なくとも兄さんの借金まみれの娯楽よりはマシだと思いますが」
「うるさいっ。お前どうしてそのことを」

突然己の面目を潰された修一は、カッとなって勝行の頬を拳で殴りつけた。派手な打撃音が誰もいない廊下に響く。逃げずにパンチを食らった勝行は、切れた口の端を舌で舐めながら深いため息をついた。
本来の跡継ぎである兄が無抵抗の弟に手を出したと知られれば、内紛はもっと過激になるというのに。この兄は本当に何も分かっていない。「ちっ」と舌打ちし、ぎろり睨みつけるだけで修一はおどおどと目を逸らした。襟元を掴んできたその手首を片手で退け、ぐっと力を込めて握ると、「ひぃっ」と情けない声まで漏らす。
修一とは八つも離れているが、弟のことは逐一気に食わないらしく、上から目線で喧嘩腰に絡まれるなどしょっちゅうだ。だが本気で勝行が怒れば、間違いなく腕力も口論も叶わないことを知っている。

昔から要領の良かった勝行は神童と呼ばれ、祖父母の厳しい英才教育を受けて育った。その圧倒的な統率力、迅速な采配、冷静な判断力の全てが長兄より秀でているという理由だけで、相羽家は修一ではなく勝行を次期当主にするべきだという派閥と従来の長子継承を望む派閥が対立し、日々揉めている。
子どものうちから大人同士の身勝手な家督問題に巻き込まれ、勝は辟易していた。そしてきっと兄は、出来のいい弟を持ったことに対して理不尽に怒り、立場上脅かされる不安を日々抱いているに違いない。
元々年の差がありすぎて交流も少なかったが、会うたび厭味を浴びせられるせいで兄弟仲は決して良くなかった。

「勘違いしないでください。僕は兄さんの味方です」
「……くっ……」
「あなたの失態を全部もみ消しているのが誰なのか、いい加減ご存知のはず。未来の相羽家を支えるのは兄さんだ。もう少し慎重に行動願います」

奪った手首を離さないまま、勝行は修一にもらった苦言をそっくりそのまま返す。勝行の指摘に心当たりがあるのだろう、修一はぎりぎりと歯ぎしりをしながら目を泳がせていた。周囲に人がいないことを改めて確認した後、勝行は修一の耳元で低く囁いた。

「先日当主に相談されていた一千万の負債は、僕の方で処理しました」
「く、くそっ……あの親父は……やっぱりお前にだけはなんでも話すんだな」
「いいえ。僕が勝手に父の書斎から抜いてやったことです。兄さんの方こそ、ハッキングするのがお得意なのに、僕の蛮行に気づかなかったんですか」

そういう『パソコンの使い方』を教えてくださったのは兄さんです。
不敵に笑いながら、勝行はいつの間にか自分より小柄になった兄を見下ろした。

「父さんは何も知りません。兄さんの法律事務所は大繁盛していると、嬉しそうに酒の席で語っていますから。経費で女に貢いで倒産寸前だなんて、知る由もない。今日の懇親会でも、兄さんを自慢の後継者だと語られるでしょう」
「くっ……そ、そんな根回しをしてどうするつもりだ。お前の企みは一体なんだ、俺の弱みを握ってバカにして楽しいか」
「いいえ、僕は不肖の次男だ。後継者争いから早く離脱したいだけです。あと、僕はT大には進学しません。音楽の道に進みます」
「な、なんだと?」
「先代派の長老勢を潰すいい材料になりますよ。僕は勘当されてもいい、そのつもりで今日ここに来ました。あの爺様たちも、後継者として祭り上げる人間がこんなクズだったと知れば諦めるでしょう?」
「……」
「だからこそ、兄さんには聖人君主でいてもらわないと困るんです。僕は悪役でいい。ですから、お互いこの話は内密に」

トン。修一のツイードジャケットに軽く指を当て、念を押すように一言告げてから手を離した。今日は客間の応対で手伝いの者も出払っていて、都合よく誰も通らない。人気のない場所で絡まれたおかげで、兄に言いたいことが言えて若干すっきりすることができた。
しゅんと気落ちした様子の兄だが、プライドをずたずたにされて苛立ちが納まらないのだろう。その拳はわなわなと震えていた。勝行は見ないふりをして、もう一度姿見に向き合った。
修一に崩されたネクタイとシャツがよれてしわくちゃになっていた。タイピンもずれている。一度締め直すか……と思い、ネクタイをしゅるりと外した。その瞬間、後ろからゴンと激しい殴打音が聴こえ、世界が黒く闇に呑まれた気がした。頭痛と眩暈で立っていられなくなる。

(しまった……)

背後にいるのは誰だ。兄以外に別の人間がいる気がする。よもや話を聞かれたか。
意識朦朧とした状態で勝行はもう一度振り返った。鬼のような形相で、ふざけるなと叫ぶ兄の姿がそこにはあった。
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