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第四章 カミングアウト
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光は嘘が苦手だ。つくのも、つかれるのも。どんなに誤魔化してもいつか絶対バレる気がしていた。だから帰宅途中の車内で勝行からじろじろと己の首筋を見つめられる度、光の背中には冷や汗が垂れた。
いっそ包み隠さず全部言ってしまった方が、隠すよりよっぽど気楽かもしれない。ただそれを誤解されることなく、うまく伝えることができるかどうか。
それに保健室のドア越しに聴こえた言葉の中で、唯一鮮明に聞こえた言葉が引っかかる。
『俺たちは兄弟です。村上先生と保さんのような肉体関係ではありません――』
兄弟。家族。恋人。同性愛。異性愛。普通。普通じゃない。そもそも『肉体関係』とは、どこからの何を言うのだろう。
もしそれが保や晴樹に教えてもらった『セックス』という意味で合っているならば、濃厚なあのディープキスは?
夏休みに風呂場でしたことは?
忘れているのか、それともあれは勝行にとってセックスでもなんでもなくて、子どもみたいな義弟のわがままな自慰に付き合っているだけと思っているのか――。慣れない言葉と拙い情報が光の頭の中で複雑に絡まって、思考回路はショート寸前だ。
(そうだ、きっとハルキのあれは、勝行のと一緒。俺のオナニーを手伝ってくれただけだ。セックスじゃない。なんの他意もないし……悪いことなんてしてない)
「な、なあ……勝行……」
「どうした?」
「……あの……」
いざとなったらなんと言って切り出せばいいかわからない。後部座席でもごもごと口の中で言えない言葉を咀嚼した後、光はいつも通り「キスしたい」と口を尖らせた。突然すぎる要望にきょとんと首を傾げて呆れたような顔をしていたけれど、勝行は軽く当てるだけのキスを一つ落とす。それから「今夜、寝る時にね」と耳元で囁いた。とても意味深で、大人びた色気漂う声が響く。
「今日は撮影、来ないから」
「……ん」
それだけで光は頬をふにゃんと緩ませるほど嬉しくて、飲み込んだ言葉のことはするっと忘れてしまった。
今宵の自宅は久しぶりに二人きりだった。平和で穏やかな日常時間。片岡は最近同じマンションの別室を待機用に買い取ったらしく、そこで夜を過ごしているそうだ。スマホの電話ボタンを押せば、ナースコールレベルの速さで自宅に飛んでくる。
晩御飯をゆっくり堪能した後、勉強すると言って自室に籠った勝行はなかなか出てこなかった。しばらくはリビングを片付けたり、ピアノを弾いて一人時間を紛らわせていたけれど、光はちっとも落ち着けなかった。早くうんと蕩けるようなキスをしてもらいたくてしょうがない。それにこの広い家で一人きりなのは、壁一枚向こうにいるとわかっていても少し心細い。せめて同じ部屋に居たい。
何故だろうか。好きだと自覚した途端、いつものように遠慮なく突撃する図々しさが持てなくなった。なんだか気恥ずかしくて、キスはまだかと言いたいのにうまく声に出せない。昨日まではいつでもどこでもスラっと言えたのに、不思議なものだ。
それでも我慢できなくなった光は、また洗濯物を持ち込むふりをして勉強中の勝行の部屋に向かった。もちろん無駄に気を利かせて夜食のコーヒーも手に持っている。
「なあ勝行ー、ドア……」
両手がふさがっているのでドアを開けてもらおうと思い、扉の前に立った。その時、部屋の中から静かに怒る勝行の声が聴こえてきて思わず固まった。
「だから何度も言ってますけど、俺たちはもう兄弟です。ご心配に及ぶようなことはありません」
「違います、あんなに辛い目に遭ったんですから、心のケアが必要で。あの子はとにかく家族の愛情に飢えてるだけです。他人の世話は必要ありません」
「大丈夫です、俺の受験に影響しないよう、生活してますから……! 村上晴樹を解任してください」
――なんの話だ?
またしても人の会話を盗み聞きしてしまった罪悪感が募るものの、誰かと口論している内容が気になりすぎる。光はドアの前で耳をそばだてた。相手は電話越しの父親のようだが、なぜ晴樹の名前が出てくるのか、気になって仕方ない。
「先日の事件もその前も、光は被害者です。相羽家に仇名すようなことはなにもないじゃないですか……父さんがそんなことを言うとは思っていませんでした」
「模試の結果は本番の結果とは違います。……大丈夫です、あいつがいても勉強はきちんと進めていますから。光のせいで成績が落ちたとか、言わないでください」
(……なん、て?)
驚き言葉を失った。勝行の成績が、自分のせいで下がった?
聞きたくないセリフの連続。光はこれ以上盗み聴きする気分になれず、廊下に数歩引き下がった。度重なる闘病生活や警察沙汰の繰り返しで、散々迷惑をかけて多忙な勝行の勉強時間を奪っている自覚もある。もしそれが本当だとしたら自分は勝行を好きになる資格なんてどこにもないし、愛してほしいと願うわけにもいかない。目の前の大学入試が成功しなければ、あの日教えてもらった勝行の夢は、WINGSの未来は叶わないのだ――。
しんと静まり返った廊下。切れかけた橙色の電球がうっすら点滅した。コーヒーの香りだけが途絶えず漂っている。
ふいにがちゃりと扉が開いて、勝行が姿を現した。目の前に洗濯物を持って立っている光を見つけ、驚いて「どうしたの」と問いかける。それから両手の塞がった姿を見て、ごめん気づかなくてとすぐに謝ってきた。洗濯物を受け取りながら笑顔を返す。
「ちょうどコーヒー飲みたいなと思ってたんだ。すごいな光、先に淹れてきてくれるなんて。俺の念力でも通じたかな」
「……と、当然だろ」
「もしかしてずっと待っててくれた? 電話してて気づかなくてごめんね」
「……」
いいよとも何とも返せない。光は口を噤んだまま、首をふるふると横に振った。伝えたかった言葉は、冷たい廊下の空気に紛れて誰にも気づかれないまま消滅した。
無言で勝行に手渡したマグカップのコーヒーは程よく冷めていた。
光は嘘が苦手だ。つくのも、つかれるのも。どんなに誤魔化してもいつか絶対バレる気がしていた。だから帰宅途中の車内で勝行からじろじろと己の首筋を見つめられる度、光の背中には冷や汗が垂れた。
いっそ包み隠さず全部言ってしまった方が、隠すよりよっぽど気楽かもしれない。ただそれを誤解されることなく、うまく伝えることができるかどうか。
それに保健室のドア越しに聴こえた言葉の中で、唯一鮮明に聞こえた言葉が引っかかる。
『俺たちは兄弟です。村上先生と保さんのような肉体関係ではありません――』
兄弟。家族。恋人。同性愛。異性愛。普通。普通じゃない。そもそも『肉体関係』とは、どこからの何を言うのだろう。
もしそれが保や晴樹に教えてもらった『セックス』という意味で合っているならば、濃厚なあのディープキスは?
夏休みに風呂場でしたことは?
忘れているのか、それともあれは勝行にとってセックスでもなんでもなくて、子どもみたいな義弟のわがままな自慰に付き合っているだけと思っているのか――。慣れない言葉と拙い情報が光の頭の中で複雑に絡まって、思考回路はショート寸前だ。
(そうだ、きっとハルキのあれは、勝行のと一緒。俺のオナニーを手伝ってくれただけだ。セックスじゃない。なんの他意もないし……悪いことなんてしてない)
「な、なあ……勝行……」
「どうした?」
「……あの……」
いざとなったらなんと言って切り出せばいいかわからない。後部座席でもごもごと口の中で言えない言葉を咀嚼した後、光はいつも通り「キスしたい」と口を尖らせた。突然すぎる要望にきょとんと首を傾げて呆れたような顔をしていたけれど、勝行は軽く当てるだけのキスを一つ落とす。それから「今夜、寝る時にね」と耳元で囁いた。とても意味深で、大人びた色気漂う声が響く。
「今日は撮影、来ないから」
「……ん」
それだけで光は頬をふにゃんと緩ませるほど嬉しくて、飲み込んだ言葉のことはするっと忘れてしまった。
今宵の自宅は久しぶりに二人きりだった。平和で穏やかな日常時間。片岡は最近同じマンションの別室を待機用に買い取ったらしく、そこで夜を過ごしているそうだ。スマホの電話ボタンを押せば、ナースコールレベルの速さで自宅に飛んでくる。
晩御飯をゆっくり堪能した後、勉強すると言って自室に籠った勝行はなかなか出てこなかった。しばらくはリビングを片付けたり、ピアノを弾いて一人時間を紛らわせていたけれど、光はちっとも落ち着けなかった。早くうんと蕩けるようなキスをしてもらいたくてしょうがない。それにこの広い家で一人きりなのは、壁一枚向こうにいるとわかっていても少し心細い。せめて同じ部屋に居たい。
何故だろうか。好きだと自覚した途端、いつものように遠慮なく突撃する図々しさが持てなくなった。なんだか気恥ずかしくて、キスはまだかと言いたいのにうまく声に出せない。昨日まではいつでもどこでもスラっと言えたのに、不思議なものだ。
それでも我慢できなくなった光は、また洗濯物を持ち込むふりをして勉強中の勝行の部屋に向かった。もちろん無駄に気を利かせて夜食のコーヒーも手に持っている。
「なあ勝行ー、ドア……」
両手がふさがっているのでドアを開けてもらおうと思い、扉の前に立った。その時、部屋の中から静かに怒る勝行の声が聴こえてきて思わず固まった。
「だから何度も言ってますけど、俺たちはもう兄弟です。ご心配に及ぶようなことはありません」
「違います、あんなに辛い目に遭ったんですから、心のケアが必要で。あの子はとにかく家族の愛情に飢えてるだけです。他人の世話は必要ありません」
「大丈夫です、俺の受験に影響しないよう、生活してますから……! 村上晴樹を解任してください」
――なんの話だ?
またしても人の会話を盗み聞きしてしまった罪悪感が募るものの、誰かと口論している内容が気になりすぎる。光はドアの前で耳をそばだてた。相手は電話越しの父親のようだが、なぜ晴樹の名前が出てくるのか、気になって仕方ない。
「先日の事件もその前も、光は被害者です。相羽家に仇名すようなことはなにもないじゃないですか……父さんがそんなことを言うとは思っていませんでした」
「模試の結果は本番の結果とは違います。……大丈夫です、あいつがいても勉強はきちんと進めていますから。光のせいで成績が落ちたとか、言わないでください」
(……なん、て?)
驚き言葉を失った。勝行の成績が、自分のせいで下がった?
聞きたくないセリフの連続。光はこれ以上盗み聴きする気分になれず、廊下に数歩引き下がった。度重なる闘病生活や警察沙汰の繰り返しで、散々迷惑をかけて多忙な勝行の勉強時間を奪っている自覚もある。もしそれが本当だとしたら自分は勝行を好きになる資格なんてどこにもないし、愛してほしいと願うわけにもいかない。目の前の大学入試が成功しなければ、あの日教えてもらった勝行の夢は、WINGSの未来は叶わないのだ――。
しんと静まり返った廊下。切れかけた橙色の電球がうっすら点滅した。コーヒーの香りだけが途絶えず漂っている。
ふいにがちゃりと扉が開いて、勝行が姿を現した。目の前に洗濯物を持って立っている光を見つけ、驚いて「どうしたの」と問いかける。それから両手の塞がった姿を見て、ごめん気づかなくてとすぐに謝ってきた。洗濯物を受け取りながら笑顔を返す。
「ちょうどコーヒー飲みたいなと思ってたんだ。すごいな光、先に淹れてきてくれるなんて。俺の念力でも通じたかな」
「……と、当然だろ」
「もしかしてずっと待っててくれた? 電話してて気づかなくてごめんね」
「……」
いいよとも何とも返せない。光は口を噤んだまま、首をふるふると横に振った。伝えたかった言葉は、冷たい廊下の空気に紛れて誰にも気づかれないまま消滅した。
無言で勝行に手渡したマグカップのコーヒーは程よく冷めていた。
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