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第三章 たまにはお前も休めばいい
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夕方はまだ蒸し暑い時間帯だが、冷房に当たりっぱなしだった身体にはちょうどよい温もりに感じられた。
「早く」
「こっちこっち」
サンダルをキュッキュッと鳴らしながら光は階段を駆けあがる。時折止まって勝行を振り返ると、彼は手の届く範囲に必ず居て、自分と同じ景色を穏やかな笑顔で眺めている。ただそれだけのことなのに、心と身体はぽかぽか温まって嬉しくなるし、頬も緩んでしまう。
「あまり病院ってうろつかないから、裏側探検っぽくて楽しいね」
付き合わされている勝行もまんざらではなさそうだ。
「毎日寝てばっかじゃ腐っちまうからさ。俺はよく散歩してる。筋トレみたいなもん」
「なるほどね」
「あと、あの中庭も好きなんだけど、最近いいとこ見つけてさ」
「それが屋上?」
そこは天気がよければ扉が解放されている。最後の段を上がりきった途端、むわんと蒸した熱気が二人を襲った。
広々としたコンクリートの空中庭園。そこは沢山のリネンシーツが干されていて、看護師やスタッフが時々休憩がてらにやってくる作業場だった。
「寝るのは無理だけど、空が近いから」
トントン。光は地面を蹴り飛ばし、軽く飛び跳ねた。
真夏の夕方はまだ地面が熱い。打ち水を兼ねてホースで鉢植えに水やりした跡が残っていた。手すりの向こう側に見える景色は、殆どが建造物のカタマリで壁だらけ。それでも空はうっすらと色づき、薄紫とピンクのグラデーションが発生していた。
外の空気を久しぶりに吸った勝行は、うーんと大きく腕を伸ばして天を仰ぐ。
「風があると気持ちいいね」
「だろ」
「景色はどこもかしこもビルばっかだけど」
「それな。東京はゴミっぽいって思った」
「光はやっぱり、大自然が近い田舎の景色の方が好き?」
「んーそりゃあまあ……俺、緑色好きだし」
金髪の前髪に少しだけ映える、グリーンのメッシュを弄りながら、光は屋上をふらふらと歩き回った。
物干し竿ではためくシーツの大群が幕になって姿を隠せる。わざとその中に潜り込んで、風の音に耳を澄ませた。ここの音はうるさいけれど、スピーカーから出る心臓を抉るような騒音ではない。
バタバタバタバタ。
ジリジリジリ。ミーンミーン。ジワワワワ。
ざわめく布の音と夏虫の声を聴きながら、光は目を閉じた。「どうしてそんなところに隠れるの」と笑っている声がくぐもって聴こえてくる。暫しの間を置いて、光は口を開いた。
「……でっかい音にも負けない、修行」
「え?」
「どんな会場ででっけえ音が響いていても、勝行の声がちゃんと拾えるように」
「……」
ラジオの周波数を合わせるように、僅かな音を逃さない。大きなステージに立っても迷わないよう。戸惑わないよう。聴覚を邪魔する障害物に慣れておきたい。
わざとシーツの中に顔を隠したまま、光はぼそりと呟いた。
「俺のせいで……ライブ、できなくなったから」
その声は、誰にも聞き取れないほどに小さくて。勝行に届いているかどうかはわからなかった。
「次行こうぜ」
ひと風浴びて気分を変えた光は、ひょこっとシーツから顔を出し、今度は庭に出ようと案内する。
「八階から一階まで、一気に降りるの? けっこうキツくないか」
「下りだったら平気」
ダダっと一気に駆け下り、時折手すりに身体を預けて腕の力だけで飛び降りる。足腰は弱いけれど、腕の力はそこまで衰えていない。まるで熊の冬眠のように沢山眠った分、体力は有り余っているようだ。とぅっ、とジャンプして飛び降りると、埃っぽい踊り場で粉めいたものが舞い上がった。思わずゲホッと咳き込む。
「ああもう、ほら。声が出るほど元気になったのはわかるけど、念のためマスクしといて」
「ん」
寝巻ポケットに突っ込んだままの不織布のマスクを取り出し、素直に装着しておく。
すると勝行はにっこり微笑み「ゆっくり行こうね」と手を差し出した。埃っぽい非常階段から早々に退散すべく、再び手を繋いで歩き出す。
これ以上心配かけさせないように、言われたことはきちんと守る。がんばって全部の検査に耐えて体調も戻すことができたら、退院後は旅行に行こうと誘ってもらえたからだ。
療養を兼ねて、温泉に入ったり山の澄んだ空気を存分に堪能できると聞き、今から楽しみで仕方ない。
「そろそろ退院できねえかなー」
「いくら元気になるのが早くても、検査結果の様子見してるって言ってたし、元々の予定を繰り上げるのは無理なんじゃないかな」
「……ちぇ」
「お盆の間は、二日くらい自宅に戻ってもいいって聞いたよ」
「一時帰宅?」
「うん、ちょうど俺も用があったから、三鷹の実家に行こうと思ってる」
「そん時は勉強はしない? お前も休み?」
「…………うん。しない」
回答を聞いて、光は満足げに笑った。たどり着いたいつもの中庭には、陽が傾いてきたことでいい感じの日陰が出来上がっていた。芝生の上にごろんと寝転がり、勝行にも真似しろと要求する。
「汚れるよ?」
「風呂入って洗濯したら終わりだろ」
つながったままの手を引いて無理やり誘い込む。しぶしぶ寝転がった勝行は、クローバーと土のクッションの上で同じ空を仰ぎ、ゆっくり目を閉じた。
「俺……こんなに何もしないでぼーっと過ごすの、人生で初めてかも」
姿勢を変えないまま、ぽつりと勝行が呟く。
「だろうな。お前が休んでるとこなんて、俺もあんまり知らない」
「時間があれば、やりたいことがいくつもあって……やらなきゃって思うことばかりで」
「俺は休みのプロだから、真似したらいい」
割と大真面目に提案したつもりなのだが、隣はくすくすと笑っていた。
夕方はまだ蒸し暑い時間帯だが、冷房に当たりっぱなしだった身体にはちょうどよい温もりに感じられた。
「早く」
「こっちこっち」
サンダルをキュッキュッと鳴らしながら光は階段を駆けあがる。時折止まって勝行を振り返ると、彼は手の届く範囲に必ず居て、自分と同じ景色を穏やかな笑顔で眺めている。ただそれだけのことなのに、心と身体はぽかぽか温まって嬉しくなるし、頬も緩んでしまう。
「あまり病院ってうろつかないから、裏側探検っぽくて楽しいね」
付き合わされている勝行もまんざらではなさそうだ。
「毎日寝てばっかじゃ腐っちまうからさ。俺はよく散歩してる。筋トレみたいなもん」
「なるほどね」
「あと、あの中庭も好きなんだけど、最近いいとこ見つけてさ」
「それが屋上?」
そこは天気がよければ扉が解放されている。最後の段を上がりきった途端、むわんと蒸した熱気が二人を襲った。
広々としたコンクリートの空中庭園。そこは沢山のリネンシーツが干されていて、看護師やスタッフが時々休憩がてらにやってくる作業場だった。
「寝るのは無理だけど、空が近いから」
トントン。光は地面を蹴り飛ばし、軽く飛び跳ねた。
真夏の夕方はまだ地面が熱い。打ち水を兼ねてホースで鉢植えに水やりした跡が残っていた。手すりの向こう側に見える景色は、殆どが建造物のカタマリで壁だらけ。それでも空はうっすらと色づき、薄紫とピンクのグラデーションが発生していた。
外の空気を久しぶりに吸った勝行は、うーんと大きく腕を伸ばして天を仰ぐ。
「風があると気持ちいいね」
「だろ」
「景色はどこもかしこもビルばっかだけど」
「それな。東京はゴミっぽいって思った」
「光はやっぱり、大自然が近い田舎の景色の方が好き?」
「んーそりゃあまあ……俺、緑色好きだし」
金髪の前髪に少しだけ映える、グリーンのメッシュを弄りながら、光は屋上をふらふらと歩き回った。
物干し竿ではためくシーツの大群が幕になって姿を隠せる。わざとその中に潜り込んで、風の音に耳を澄ませた。ここの音はうるさいけれど、スピーカーから出る心臓を抉るような騒音ではない。
バタバタバタバタ。
ジリジリジリ。ミーンミーン。ジワワワワ。
ざわめく布の音と夏虫の声を聴きながら、光は目を閉じた。「どうしてそんなところに隠れるの」と笑っている声がくぐもって聴こえてくる。暫しの間を置いて、光は口を開いた。
「……でっかい音にも負けない、修行」
「え?」
「どんな会場ででっけえ音が響いていても、勝行の声がちゃんと拾えるように」
「……」
ラジオの周波数を合わせるように、僅かな音を逃さない。大きなステージに立っても迷わないよう。戸惑わないよう。聴覚を邪魔する障害物に慣れておきたい。
わざとシーツの中に顔を隠したまま、光はぼそりと呟いた。
「俺のせいで……ライブ、できなくなったから」
その声は、誰にも聞き取れないほどに小さくて。勝行に届いているかどうかはわからなかった。
「次行こうぜ」
ひと風浴びて気分を変えた光は、ひょこっとシーツから顔を出し、今度は庭に出ようと案内する。
「八階から一階まで、一気に降りるの? けっこうキツくないか」
「下りだったら平気」
ダダっと一気に駆け下り、時折手すりに身体を預けて腕の力だけで飛び降りる。足腰は弱いけれど、腕の力はそこまで衰えていない。まるで熊の冬眠のように沢山眠った分、体力は有り余っているようだ。とぅっ、とジャンプして飛び降りると、埃っぽい踊り場で粉めいたものが舞い上がった。思わずゲホッと咳き込む。
「ああもう、ほら。声が出るほど元気になったのはわかるけど、念のためマスクしといて」
「ん」
寝巻ポケットに突っ込んだままの不織布のマスクを取り出し、素直に装着しておく。
すると勝行はにっこり微笑み「ゆっくり行こうね」と手を差し出した。埃っぽい非常階段から早々に退散すべく、再び手を繋いで歩き出す。
これ以上心配かけさせないように、言われたことはきちんと守る。がんばって全部の検査に耐えて体調も戻すことができたら、退院後は旅行に行こうと誘ってもらえたからだ。
療養を兼ねて、温泉に入ったり山の澄んだ空気を存分に堪能できると聞き、今から楽しみで仕方ない。
「そろそろ退院できねえかなー」
「いくら元気になるのが早くても、検査結果の様子見してるって言ってたし、元々の予定を繰り上げるのは無理なんじゃないかな」
「……ちぇ」
「お盆の間は、二日くらい自宅に戻ってもいいって聞いたよ」
「一時帰宅?」
「うん、ちょうど俺も用があったから、三鷹の実家に行こうと思ってる」
「そん時は勉強はしない? お前も休み?」
「…………うん。しない」
回答を聞いて、光は満足げに笑った。たどり着いたいつもの中庭には、陽が傾いてきたことでいい感じの日陰が出来上がっていた。芝生の上にごろんと寝転がり、勝行にも真似しろと要求する。
「汚れるよ?」
「風呂入って洗濯したら終わりだろ」
つながったままの手を引いて無理やり誘い込む。しぶしぶ寝転がった勝行は、クローバーと土のクッションの上で同じ空を仰ぎ、ゆっくり目を閉じた。
「俺……こんなに何もしないでぼーっと過ごすの、人生で初めてかも」
姿勢を変えないまま、ぽつりと勝行が呟く。
「だろうな。お前が休んでるとこなんて、俺もあんまり知らない」
「時間があれば、やりたいことがいくつもあって……やらなきゃって思うことばかりで」
「俺は休みのプロだから、真似したらいい」
割と大真面目に提案したつもりなのだが、隣はくすくすと笑っていた。
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