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第三章 たまにはお前も休めばいい
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口は災いの元。
——そんな諺を信じて黙っていても、災いは起きる。
あともう少しで夏休み……という段階で再び入院病棟に戻ってきてしまった光は、すっかり塞ぎ込んで拗ねていた。
蝉の鳴き声が日中の環境音を占領し始めた。
梅雨が明けた途端、照りつくような日差しが中庭の何もかもを燃やし尽くしていく。やけどしそうなぐらい熱を帯びた土の上で、クローバーは今日も黙って空を見上げていた。どんなに踏まれても、むしゃくしゃした光に葉を引きちぎられても、何も言わない。
ぽたぽたと顔から水滴を零しながら中庭に転がっていたら、心療内科医の若槻に見つかり強制送還される。
「どうしていつもあの場所にいるのかな」
「……」
「庭に出たい理由は言ってくれないとわからない。だから病院からの一方的なルールで、君の外出を禁じる」
「……」
「そもそも、今は危ないから昼間出ないでくれ。君の持病のせいだけじゃない、真夏の昼間の暑さは尋常じゃない。健常者でも倒れるレベルだ。星野先生も言ってただろう?」
「……」
肯定も否定もしないまま、光はベッドの中に潜り込んで顔を隠した。
「おはよう、お寝坊さん」
朝か、昼か、夜なのか。それすらもわからない繰り返しの世界で目が覚めた。
眼前に優しい笑顔が映る。欠伸を漏らし、目を擦りながら「ぉはよ」と口を動かせば、彼はシャーペンを一旦置いて汗だくの髪を梳いてくれた。
「貧血の症状、マシになったかな?」
「ん……」
その手が気持ちよくてもう一度目を瞑ると、アイマスクのように翳して視界を閉ざしてくる。
「大丈夫、もう少し眠っていても」
——だいじょうぶ。何も言わなくても。
——ずっと傍に居る。
温かいその声に身を任せ、布団の裾をつまみながら、光は再び寝息を立てた。布からはみ出たその腕は真っ白で、血の気が通っているようには見えない。それでも相羽勝行の身を離すことはなかった。
クーラーのよく効いた快適な室内。
入院病棟の個室、という点さえ除けば、ここは止まった時間を気にせず過ごせる最高の避暑地だ。
勝行は光のベッドの隅に座り込んだまま、ベッドテーブルの上にノートとタブレットを広げた。画面には最難関大学の過去問題リストがずらりと並ぶ。適当に問題を選び、シャーペンをくるりと回しながらカリカリとノートに解き始めた。
背景音楽はリラックス効果の高いピアノクラシック。イヤホンをしないで小さなスピーカーを使っているのは、すぐ傍で眠る光もきっと夢の中で聴いているからだ。時々寝返りを打っては何度となく勝行の身体にしがみつき、顔をこすりつけてくる。髪や耳を撫でてやると、気持ちよさそうにふにゃりと笑みをこぼす。その指は勝行の膝の上で、曲に合わせて演奏しているかのようにパラパラと動いていた。
「お疲れ様です、コーヒーお持ちしました」
からりと病室のスライドドアが開き、真夏でもスーツ姿の片岡が入ってきた。両手に抱えたコンビニコーヒーの芳醇な香りが冷えた空気を一掃する。
「ありがとう」
「おや……まるでご自宅のような寛ぎ空間ですね」
テーブルにコーヒーを一つ置き、もう片方のコーヒーを飲みながら、片岡はほのぼのした風景を眩しそうに見つめている。勝行もシャーペンとコーヒーを持ち替え、腰元の光を見下ろした。
「ですよね。たまに先生や看護師さんがくるんだけど、呆れられる」
「光さんは抱き枕派ですか」
「そうかも。マシュマロタッチのぬいぐるみとか、よく抱いて寝てるな」
「何かを抱きしめて寝るタイプの方は、寂しさを紛らわせたいとか、安心感や人肌を求めていると聞きますね」
「……へえ……なるほど」
片岡の豆知識があまりに説得力ありすぎて、勝行は思わず唸った。
夏休み中は涼しいこの病室で終日過ごすことを決めた途端、光は毎日勝行にベッドの半分を明け渡し、この体勢で眠り続けている。無理に引き剥がすと目を覚ますので、勝行も身体を光に捧げる代わりに彼が眠る時間を受験勉強タイムに宛がっていた。
「今度、抱き枕を買ってきましょうか」
「いやいいよ。ここはクーラーがよく効いてるし」
光の体温を感じられる方が、腰も冷えすぎることなく快適だ。勝行は大きな黒目を伏せた。
「ゆっくり落ち着いて勉強できるから……俺にもちょうどいい」
「それはよかったです」
片岡はそれ以上何を言うでもなく、そっと離れていく。室内は再び光と勝行の二人だけになった。コーヒーを三口啜って気分転換ができた勝行は、再びシャーペンを手に取った。
口は災いの元。
——そんな諺を信じて黙っていても、災いは起きる。
あともう少しで夏休み……という段階で再び入院病棟に戻ってきてしまった光は、すっかり塞ぎ込んで拗ねていた。
蝉の鳴き声が日中の環境音を占領し始めた。
梅雨が明けた途端、照りつくような日差しが中庭の何もかもを燃やし尽くしていく。やけどしそうなぐらい熱を帯びた土の上で、クローバーは今日も黙って空を見上げていた。どんなに踏まれても、むしゃくしゃした光に葉を引きちぎられても、何も言わない。
ぽたぽたと顔から水滴を零しながら中庭に転がっていたら、心療内科医の若槻に見つかり強制送還される。
「どうしていつもあの場所にいるのかな」
「……」
「庭に出たい理由は言ってくれないとわからない。だから病院からの一方的なルールで、君の外出を禁じる」
「……」
「そもそも、今は危ないから昼間出ないでくれ。君の持病のせいだけじゃない、真夏の昼間の暑さは尋常じゃない。健常者でも倒れるレベルだ。星野先生も言ってただろう?」
「……」
肯定も否定もしないまま、光はベッドの中に潜り込んで顔を隠した。
「おはよう、お寝坊さん」
朝か、昼か、夜なのか。それすらもわからない繰り返しの世界で目が覚めた。
眼前に優しい笑顔が映る。欠伸を漏らし、目を擦りながら「ぉはよ」と口を動かせば、彼はシャーペンを一旦置いて汗だくの髪を梳いてくれた。
「貧血の症状、マシになったかな?」
「ん……」
その手が気持ちよくてもう一度目を瞑ると、アイマスクのように翳して視界を閉ざしてくる。
「大丈夫、もう少し眠っていても」
——だいじょうぶ。何も言わなくても。
——ずっと傍に居る。
温かいその声に身を任せ、布団の裾をつまみながら、光は再び寝息を立てた。布からはみ出たその腕は真っ白で、血の気が通っているようには見えない。それでも相羽勝行の身を離すことはなかった。
クーラーのよく効いた快適な室内。
入院病棟の個室、という点さえ除けば、ここは止まった時間を気にせず過ごせる最高の避暑地だ。
勝行は光のベッドの隅に座り込んだまま、ベッドテーブルの上にノートとタブレットを広げた。画面には最難関大学の過去問題リストがずらりと並ぶ。適当に問題を選び、シャーペンをくるりと回しながらカリカリとノートに解き始めた。
背景音楽はリラックス効果の高いピアノクラシック。イヤホンをしないで小さなスピーカーを使っているのは、すぐ傍で眠る光もきっと夢の中で聴いているからだ。時々寝返りを打っては何度となく勝行の身体にしがみつき、顔をこすりつけてくる。髪や耳を撫でてやると、気持ちよさそうにふにゃりと笑みをこぼす。その指は勝行の膝の上で、曲に合わせて演奏しているかのようにパラパラと動いていた。
「お疲れ様です、コーヒーお持ちしました」
からりと病室のスライドドアが開き、真夏でもスーツ姿の片岡が入ってきた。両手に抱えたコンビニコーヒーの芳醇な香りが冷えた空気を一掃する。
「ありがとう」
「おや……まるでご自宅のような寛ぎ空間ですね」
テーブルにコーヒーを一つ置き、もう片方のコーヒーを飲みながら、片岡はほのぼのした風景を眩しそうに見つめている。勝行もシャーペンとコーヒーを持ち替え、腰元の光を見下ろした。
「ですよね。たまに先生や看護師さんがくるんだけど、呆れられる」
「光さんは抱き枕派ですか」
「そうかも。マシュマロタッチのぬいぐるみとか、よく抱いて寝てるな」
「何かを抱きしめて寝るタイプの方は、寂しさを紛らわせたいとか、安心感や人肌を求めていると聞きますね」
「……へえ……なるほど」
片岡の豆知識があまりに説得力ありすぎて、勝行は思わず唸った。
夏休み中は涼しいこの病室で終日過ごすことを決めた途端、光は毎日勝行にベッドの半分を明け渡し、この体勢で眠り続けている。無理に引き剥がすと目を覚ますので、勝行も身体を光に捧げる代わりに彼が眠る時間を受験勉強タイムに宛がっていた。
「今度、抱き枕を買ってきましょうか」
「いやいいよ。ここはクーラーがよく効いてるし」
光の体温を感じられる方が、腰も冷えすぎることなく快適だ。勝行は大きな黒目を伏せた。
「ゆっくり落ち着いて勉強できるから……俺にもちょうどいい」
「それはよかったです」
片岡はそれ以上何を言うでもなく、そっと離れていく。室内は再び光と勝行の二人だけになった。コーヒーを三口啜って気分転換ができた勝行は、再びシャーペンを手に取った。
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