36 / 165
第三章 たまにはお前も休めばいい
1
しおりを挟む
**
口は災いの元。
——そんな諺を信じて黙っていても、災いは起きる。
あともう少しで夏休み……という段階で再び入院病棟に戻ってきてしまった光は、すっかり塞ぎ込んで拗ねていた。
蝉の鳴き声が日中の環境音を占領し始めた。
梅雨が明けた途端、照りつくような日差しが中庭の何もかもを燃やし尽くしていく。やけどしそうなぐらい熱を帯びた土の上で、クローバーは今日も黙って空を見上げていた。どんなに踏まれても、むしゃくしゃした光に葉を引きちぎられても、何も言わない。
ぽたぽたと顔から水滴を零しながら中庭に転がっていたら、心療内科医の若槻に見つかり強制送還される。
「どうしていつもあの場所にいるのかな」
「……」
「庭に出たい理由は言ってくれないとわからない。だから病院からの一方的なルールで、君の外出を禁じる」
「……」
「そもそも、今は危ないから昼間出ないでくれ。君の持病のせいだけじゃない、真夏の昼間の暑さは尋常じゃない。健常者でも倒れるレベルだ。星野先生も言ってただろう?」
「……」
肯定も否定もしないまま、光はベッドの中に潜り込んで顔を隠した。
「おはよう、お寝坊さん」
朝か、昼か、夜なのか。それすらもわからない繰り返しの世界で目が覚めた。
眼前に優しい笑顔が映る。欠伸を漏らし、目を擦りながら「ぉはよ」と口を動かせば、彼はシャーペンを一旦置いて汗だくの髪を梳いてくれた。
「貧血の症状、マシになったかな?」
「ん……」
その手が気持ちよくてもう一度目を瞑ると、アイマスクのように翳して視界を閉ざしてくる。
「大丈夫、もう少し眠っていても」
——だいじょうぶ。何も言わなくても。
——ずっと傍に居る。
温かいその声に身を任せ、布団の裾をつまみながら、光は再び寝息を立てた。布からはみ出たその腕は真っ白で、血の気が通っているようには見えない。それでも相羽勝行の身を離すことはなかった。
クーラーのよく効いた快適な室内。
入院病棟の個室、という点さえ除けば、ここは止まった時間を気にせず過ごせる最高の避暑地だ。
勝行は光のベッドの隅に座り込んだまま、ベッドテーブルの上にノートとタブレットを広げた。画面には最難関大学の過去問題リストがずらりと並ぶ。適当に問題を選び、シャーペンをくるりと回しながらカリカリとノートに解き始めた。
背景音楽はリラックス効果の高いピアノクラシック。イヤホンをしないで小さなスピーカーを使っているのは、すぐ傍で眠る光もきっと夢の中で聴いているからだ。時々寝返りを打っては何度となく勝行の身体にしがみつき、顔をこすりつけてくる。髪や耳を撫でてやると、気持ちよさそうにふにゃりと笑みをこぼす。その指は勝行の膝の上で、曲に合わせて演奏しているかのようにパラパラと動いていた。
「お疲れ様です、コーヒーお持ちしました」
からりと病室のスライドドアが開き、真夏でもスーツ姿の片岡が入ってきた。両手に抱えたコンビニコーヒーの芳醇な香りが冷えた空気を一掃する。
「ありがとう」
「おや……まるでご自宅のような寛ぎ空間ですね」
テーブルにコーヒーを一つ置き、もう片方のコーヒーを飲みながら、片岡はほのぼのした風景を眩しそうに見つめている。勝行もシャーペンとコーヒーを持ち替え、腰元の光を見下ろした。
「ですよね。たまに先生や看護師さんがくるんだけど、呆れられる」
「光さんは抱き枕派ですか」
「そうかも。マシュマロタッチのぬいぐるみとか、よく抱いて寝てるな」
「何かを抱きしめて寝るタイプの方は、寂しさを紛らわせたいとか、安心感や人肌を求めていると聞きますね」
「……へえ……なるほど」
片岡の豆知識があまりに説得力ありすぎて、勝行は思わず唸った。
夏休み中は涼しいこの病室で終日過ごすことを決めた途端、光は毎日勝行にベッドの半分を明け渡し、この体勢で眠り続けている。無理に引き剥がすと目を覚ますので、勝行も身体を光に捧げる代わりに彼が眠る時間を受験勉強タイムに宛がっていた。
「今度、抱き枕を買ってきましょうか」
「いやいいよ。ここはクーラーがよく効いてるし」
光の体温を感じられる方が、腰も冷えすぎることなく快適だ。勝行は大きな黒目を伏せた。
「ゆっくり落ち着いて勉強できるから……俺にもちょうどいい」
「それはよかったです」
片岡はそれ以上何を言うでもなく、そっと離れていく。室内は再び光と勝行の二人だけになった。コーヒーを三口啜って気分転換ができた勝行は、再びシャーペンを手に取った。
口は災いの元。
——そんな諺を信じて黙っていても、災いは起きる。
あともう少しで夏休み……という段階で再び入院病棟に戻ってきてしまった光は、すっかり塞ぎ込んで拗ねていた。
蝉の鳴き声が日中の環境音を占領し始めた。
梅雨が明けた途端、照りつくような日差しが中庭の何もかもを燃やし尽くしていく。やけどしそうなぐらい熱を帯びた土の上で、クローバーは今日も黙って空を見上げていた。どんなに踏まれても、むしゃくしゃした光に葉を引きちぎられても、何も言わない。
ぽたぽたと顔から水滴を零しながら中庭に転がっていたら、心療内科医の若槻に見つかり強制送還される。
「どうしていつもあの場所にいるのかな」
「……」
「庭に出たい理由は言ってくれないとわからない。だから病院からの一方的なルールで、君の外出を禁じる」
「……」
「そもそも、今は危ないから昼間出ないでくれ。君の持病のせいだけじゃない、真夏の昼間の暑さは尋常じゃない。健常者でも倒れるレベルだ。星野先生も言ってただろう?」
「……」
肯定も否定もしないまま、光はベッドの中に潜り込んで顔を隠した。
「おはよう、お寝坊さん」
朝か、昼か、夜なのか。それすらもわからない繰り返しの世界で目が覚めた。
眼前に優しい笑顔が映る。欠伸を漏らし、目を擦りながら「ぉはよ」と口を動かせば、彼はシャーペンを一旦置いて汗だくの髪を梳いてくれた。
「貧血の症状、マシになったかな?」
「ん……」
その手が気持ちよくてもう一度目を瞑ると、アイマスクのように翳して視界を閉ざしてくる。
「大丈夫、もう少し眠っていても」
——だいじょうぶ。何も言わなくても。
——ずっと傍に居る。
温かいその声に身を任せ、布団の裾をつまみながら、光は再び寝息を立てた。布からはみ出たその腕は真っ白で、血の気が通っているようには見えない。それでも相羽勝行の身を離すことはなかった。
クーラーのよく効いた快適な室内。
入院病棟の個室、という点さえ除けば、ここは止まった時間を気にせず過ごせる最高の避暑地だ。
勝行は光のベッドの隅に座り込んだまま、ベッドテーブルの上にノートとタブレットを広げた。画面には最難関大学の過去問題リストがずらりと並ぶ。適当に問題を選び、シャーペンをくるりと回しながらカリカリとノートに解き始めた。
背景音楽はリラックス効果の高いピアノクラシック。イヤホンをしないで小さなスピーカーを使っているのは、すぐ傍で眠る光もきっと夢の中で聴いているからだ。時々寝返りを打っては何度となく勝行の身体にしがみつき、顔をこすりつけてくる。髪や耳を撫でてやると、気持ちよさそうにふにゃりと笑みをこぼす。その指は勝行の膝の上で、曲に合わせて演奏しているかのようにパラパラと動いていた。
「お疲れ様です、コーヒーお持ちしました」
からりと病室のスライドドアが開き、真夏でもスーツ姿の片岡が入ってきた。両手に抱えたコンビニコーヒーの芳醇な香りが冷えた空気を一掃する。
「ありがとう」
「おや……まるでご自宅のような寛ぎ空間ですね」
テーブルにコーヒーを一つ置き、もう片方のコーヒーを飲みながら、片岡はほのぼのした風景を眩しそうに見つめている。勝行もシャーペンとコーヒーを持ち替え、腰元の光を見下ろした。
「ですよね。たまに先生や看護師さんがくるんだけど、呆れられる」
「光さんは抱き枕派ですか」
「そうかも。マシュマロタッチのぬいぐるみとか、よく抱いて寝てるな」
「何かを抱きしめて寝るタイプの方は、寂しさを紛らわせたいとか、安心感や人肌を求めていると聞きますね」
「……へえ……なるほど」
片岡の豆知識があまりに説得力ありすぎて、勝行は思わず唸った。
夏休み中は涼しいこの病室で終日過ごすことを決めた途端、光は毎日勝行にベッドの半分を明け渡し、この体勢で眠り続けている。無理に引き剥がすと目を覚ますので、勝行も身体を光に捧げる代わりに彼が眠る時間を受験勉強タイムに宛がっていた。
「今度、抱き枕を買ってきましょうか」
「いやいいよ。ここはクーラーがよく効いてるし」
光の体温を感じられる方が、腰も冷えすぎることなく快適だ。勝行は大きな黒目を伏せた。
「ゆっくり落ち着いて勉強できるから……俺にもちょうどいい」
「それはよかったです」
片岡はそれ以上何を言うでもなく、そっと離れていく。室内は再び光と勝行の二人だけになった。コーヒーを三口啜って気分転換ができた勝行は、再びシャーペンを手に取った。
0
あなたにおすすめの小説
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /チャッピー
AI比較企画作品
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる