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第二章 明けない曇り空

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きらり、ポロン。高音のエンディングを奏でると同時に病室の扉が開く。

「おとうさん、おかえり。曲作った、聴いて!」
「なんだ……帰ってくるなり。お前は相変わらずピアノに夢中だな」

苦笑しながらベッドに近づくスーツ男は、若かりし頃の今西桐吾。背中に酸素パックをつなぎ、全身チューブだらけのか細い身体で無理やりピアノを弾くのはうんと小さかった頃の光。

モミジのような手ででたらめな音楽をじゃじゃんと弾くけれど、それはちゃんと「曲」として成立する。桐吾がじっくりそれを聴きながらネクタイを外し、手荷物を降ろし、椅子に座って鑑賞するからだ。酸素吸入器が邪魔をしたり、発達の遅れで年相応には話せない光の言葉は、両親にしか聞き取れない。代わりに語らう手段として使い始めたピアノは、光の病室で毎日楽し気なリズムを奏でている。

母親は日本に残っていて滅多に来ない。代わりに父が傍にいて、母は二度ほど弟を連れて渡米してきた。その時はだいたい手術前後で元気はなかったけれど、家族全員が傍にいて幸せだった。

演奏に飽きればその手は桐吾に伸びる。タバコ代わりに棒プレッツェルを喰わえて休憩していた桐吾が、その幼い身体を面倒くさそうに受け止めた。いとも簡単に宙に舞い上がった光は、病院ベッドの中より桐吾の逞しい腕の中にいる方が好きで、毎日のようにしがみついていた。
「重い」と文句を垂らしながらも、桐吾は光をずっと抱いてくれる。キスをどこで何回しても怒らない。それに毎日違うCDを持ってきてはプレイヤーに入れて順に聴かせてくれた。
桐吾はジャンル問わず色んなピアノアレンジ曲を好んで聴いていた。荒んだ心を落ち着かせてくれるのだと言っていた。

「この曲は気に入ったか?」
「ん」
「そうか……俺はお前の弾くピアノも好きだぞ。また曲ができたら聴かせてくれ」

父のそのたった一言が、今西光のこれまでの人生を支えてきた。生きがい、だった。



(なんでこんな……昔の夢を……。そっか、勝行としゃべってて……思い出したから、かな……)

夢を視ている、という自覚だけはある。そう、今視えたものは全て終わったことだからだ。
ついこの間まで、一番幸せで平和だったと――願わくば元に戻ってほしいと願っていた時間だ。母親は死に、父親も監獄に行った今、絶対に叶わなくなった願いでもある。
(父さんにいっぱい聴かせたかった曲があった。勝行と一緒に、曲いっぱい作ったよって……言いたかった、な……)

あの日あの時。
自分が変態カメラマンに無様にやられて捕まらなければ。助けを求めなければ。不信なメールを信用しなければ。
桐吾は逮捕されずに済んだかもしれないし、勝行と銃弾を撃ち合うような事件にもならなかった――かもしれない。

「ただ会いたかった……父さんに会いたかっただけで、ずっと待ってたのに……俺ってほんと、バカだよな」

何度も不幸を呼ぶ子どもだと言われ、精神を壊した母親に罵倒された。家族が壊れた原因は全て「お前のせいだ」と、号泣しながら何度も首を絞められた。あの時の母は、嫉妬と恨みに囚われた女の形相をしていた。

「俺のせいで父さんが……」
『そうよ、光のせいなのよ』

ふいに聞き覚えのある女の声が聴こえてきた気がして、光は瞠目した。後ろからひたひたと迫る影は、光の首をゆっくり絞めながら耳元でまた囁き始める。

『ヒカルを好きになる男はみんな壊れてダメになるの』
『お前を愛した人間はみんな心を失って死ぬのよ、私のように』
(……母さん……?)
『身体が弱いからって、誰にでもしな垂れて、媚びを売って。――汚らわしい、その男を誘惑する目』
(おれ、そんなこと、しらない)
『私の知っているヒカルじゃないわ、あの子はもっと可愛くて優しい子だもの。ああ、あの子は私が殺してしまったの、可哀そうに』
(俺は……母さんに殺されそうになった……けど……まだ生きてる、よ)
『かわいそうに。お前に気に入られたあのお友だちも、桐吾さんも、きっと死ぬわね』

首にぐっと力が籠る。そしてその鬼のような形相は、光の視界を全て泥沼の暗闇に飲み込んだ。

『桐吾さんを返せ、この悪魔』
(俺が……俺のせいで、俺がいるから?)

息苦しい。声が出ない、酸素が入ってこない。
助けて母さん、殺さないで。そんなことを叫んでいたら、五年前は知らない間に生き延びていた。代わりに無残な躯を残して息絶えた母親の血の匂いが唐突に蘇る。その姿がふいに、桐吾と勝行のそれへと変わっていく。

一番見たくない未来。一番恐れていた姿に身の毛がよだつ。

「やだ……いやだ……いやだ、そんなの嘘だ。嘘だ……っ! やめて母さん、殺さないで」
『何を言っているの、これは光のせいでしょう?』

全身ですべてを否定し、投げ出して、光は泣き叫んだ。

嘘だ。そんな未来は来ないでほしい。
ただただ、勝行や父親の傍に居たいと願っただけなのに。傍にいられたら、それだけでいい――他には何も望まないから、どうか神様。
四つ葉の力を貸してくれ、と。
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