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第四節 ひと夏の陽炎とファンタジア

#52 雨に流すリグレット① -光side-

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一人きり、地面のない空に浮かんで、ただずっとピアノを弾いていた。いつか手を伸ばせば届くかもしれない、空の向こう側に思いを馳せて。遠いどこかにいる、大切な家族に向けて。
いつまでもあきらめきれないまま、ずるずると。

それはビー玉をゆるり転がすような、丸い旋律。
ゆったりした調べにつられてのぼっていく、白い入道雲。
吹いた風が暖かく湿っていても、じりと音を立てて蝉と一緒に奏でる騒音が耳についても。ステンドグラスのようにきらびやかで彩度の高い音楽世界が、二人をいつまでも快適な夢の世界に包み込んでくれる。
零れる汗は水玉模様の可愛い壁紙に。
ドラムのリズム音は飛び跳ねるサイダーの炭酸。
川の流れのように、ごく自然に隣で寄り添うギターサウンドが、ポップな背景を連れてピアノに話しかけてくる。
――遊ぼう。一緒に。
ぼくたちは、君の友だちだよ。
キャンディのように甘い笑顔と歌声が、青い音楽をカラフルな虹色に変えていく。

もう一人じゃないよ。

ポン、ポロンと。
優しく撫でた鍵盤が、嬉しそうに囁いてくれる。
音楽だけは、光を裏切らないでずっと傍にいてくれた。音楽だけは。



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光はそわそわしながら相羽家の迎えを待っていた。
あの黒スーツ軍団には最初びっくりしたけれど、今ではすっかり慣れた。「お迎えに参りました」と丁寧に頭を下げ、いつも光の出発を車の外で待っている。知らない人が見たらなんとも物々しい光景だろう。
一人で玄関そばの廊下に座り込みながら、夏休み前に一度帰ってきた源次とリンとの会話を思い出す。

「ねえねえ、今は勝行くんの家に遊びに行ってるんだって?」
「……遊び? バカ言え、仕事だ仕事」
「でも最近のお前、楽しそうな顔してる。あいつんちでピアノ弾いてんだろ?」
「お金持ちのお坊ちゃまなんだって? よかったよね、パトロンじゃん」

何がよかった、のだろうか。考えれば考えるほど、ただ利害が一致して雇用関係がうまくいっているだけだという結論にたどり着く。
随分楽に稼げる仕事を紹介してもらったものだ。三食飯付きで送迎もあり、室内の家事をこなすだけで毎日二万円だなんて、あり得ない好条件だった。空いた時間はピアノも弾き放題。たまに新しくできたフレーズを聞かせてくれたり、一緒に演奏して遊ぶ。相羽勝行という男、思った以上に音楽の趣味が合うから居心地は悪くない。
真面目一辺倒な見た目なのに、意外と好きな楽曲はオルタナティブやハードなロックだ。古臭いジャズも結構知っていて、ギター以外の楽器もなんでも演奏できる。彼の演奏も歌も、聴いていて飽きることがない。
だからこの生活を楽しんでいる、と言われれば否定できないだろう。少々癪ではあるが。

「夏休みに入ったら、俺ほとんど帰ってこれないんだ」

しょげた顔で呟いた源次は、リンに荷造りを手伝ってもらいながら言った。

「サッカーの試合、勝ち進めば進むほど俺は試合と練習が詰まってて寮生活から当分戻ってこれないからさ。だから寂しくなったら勝行んとこ、行けよ」
「はあ? 俺がどこで何してようがお前に関係ないだろうが」
「関係あるよ、だって」

源次は少し困った顔を見せて、しばし間を空ける。それから壁に凭れたまま気だるそうに胡坐をかく光のおでこをするりと撫でた。

「急に熱出して寝込んだりしたら、心配だから」
「…………」
「そんな時は、迷わず勝行頼れよな。俺、今度試合で遠征に行ったら、あいつにも旨そうなお菓子の土産買ってくるから!」
「……いらねえよ、あいつ小食だし」
「そうなのか? じゃあキーホルダーとか、好きかな」
「さあな」

これ以上心配はかけたくないし、試合で全国駆け回る有望な弟をくだらない理由で引き留めたくない。
だが光はその暖かい手を振り払うことができなくて、そのまま目を閉じた。

「…………大丈夫。ちゃんと言う」
「ん。よかった。お願いだから、俺のいない間に」
「わーってるって。もうくだらねえ心配すんな、早く行けばーか」

光は渋る源次の襟元を掴み、唇をがっつり奪ってやった。ちょうどその時、リンが荷物を作り終えて振り返ったところだった。彼女が見てることも忘れ、タコの吸盤のようにじゅるると音を立てて吸い付き、にんまり笑う。

「試合で負けて帰ってきたら、チューして慰めてやんよ」
「……って、てめえこのやろう! 絶対全国優勝するまで帰ってこねえんだからな!」
「上等。できるもんならやってみな」
「やだもう二人して何やってんの! もっかいチューってして、写真とるから!」
「出た腐女子……」
「いやだいやだ! 俺のキスはもうリンちゃんにしか捧げないんだ!」
「今私と源次くんがキスしたら、光くんと間接キスになるんじゃ?」
「うわああ! そんなのだめだ!」
「ダメなのかよ」

そうやって啖呵を切って去って行った弟と幼なじみを思い出しながら、光は誰もいない家の廊下で一人、いつまでも相羽家の迎えを待ち続けた。静まり返った空間の外からは、強烈な雨が地面を激しく叩きつける音がひっきりなしに聴こえてくる。
早くクーラーの効いたあの家で、ただただ音楽を聴いて過ごしたい。
光は送迎車の音を聞き逃すまいと耳をそばだてた。

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