57 / 63
第四節 ひと夏の陽炎とファンタジア
#56 友だち、買ってください 前編 -光side-
しおりを挟む
**
空き部屋だったそこには本当になにもなかった。
ただ一つ、埃を被ったアップライトピアノが壁際に置いてあるだけ。
そこは勝行と彼の部下たちの手により、あっという間に楽器だらけのスタジオのような特別ルームへとリフォームされていく。
「このピアノは使ってもいいの?」
「……あ……ああ……えっと」
「ご両親の形見、かな? 深くは追求しないでおくけど」
なんでそれを知っているんだ?
――とでも言わんばかりの驚愕の表情を見せる光に、勝行は悪戯っぽくウインクした。
「その電子キーボードも、このピアノも、お前の大事な宝物だろ。傷つけたりはしないって。大丈夫」
「…………そ……あの……」
「それよりどう、体調。マシになったら病院に来るよう、君のお医者さんから事づけを預かってるんだけど」
光がもごもごと口をどもらせている間に、勝行の行動はどんどん先へ進んでいく。
「とりあえず着替えて、濡れてない服で行こう」
「歩けなくても大丈夫、車出すよ。家の鍵はどこにあるかな? まあすぐに探せなくてもいいか、俺合い鍵持ってるし」
「え、なんでって? ……トモダチだから、だよ」
ピッ―― ピッ――
……
心電図の機械的なリズム音が、暗がりの室内に鳴り響く。
担ぎ込まれた病院の救急外来で、光は点滴と酸素吸入の投薬治療を受けていた。
稲葉に入院するかと言われて、ふいと首を横に振る。
「だったら、雨の中走ったりアホなことしてんじゃねえ。俺がいなかったら治療も受けられないクセに」
また容赦ないゲンコツが一発落ちてきて、光は涙目になりながら頭を抱えた。病人にすることじゃねえだろ、と言いたかったが、口元にいかつい酸素吸入器が装着されているせいで何も言葉を返せない。
「今日の治療費はあそこの少年が全額払ってくれるってよ。随分気前のいい友人を拾ったなあ?」
「……」
稲葉の背中の向こう側で、父親と電話している勝行が見える。
結局のところ、彼は一体いつまで自分にあれこれと手をかけてくれるのだろうか。
(金持ち……何考えてんのか……わかんねぇ……)
ベッドの上で、さっき自宅であった出来事を思い出す。
親の都合で東京に行くと言っていたはずなのに、突然うちに引っ越してきた。けれど発作が起きている間、ずっと手を握ってくれていたらしい。多分、朦朧とした意識の中で感じた温もりはあの男のものだ。
彼も豪華な家に一人ぼっちで住んでいて、金はあるけれど自由はないという。そんな自分の夢を叶えるために、友だちになってくれとか。バンドがやりたいとか、何とか。
まだ頭の中で、言われたことの整理が追い付かないでいた。
「光くんは無事かい。ああ、かわいそうに、辛かったね」
点滴薬投与が終わりきる前に、勝行の父親が救急外来にやってきた。さっき出会ったばかりなのに気さくに声掛け、大きな手で優しく頭を撫でてくれる。それは実の親以外、学校の先生にもされたことがないような、暖かい仕草だった。思わず涙がこぼれそうになる。
ベッドのすぐ脇で、勝行と稲葉、そして父親の修行はスツールに腰掛け、お決まりの挨拶を交わして談話を始めた。深夜零時を知らせるアラーム音がどこかから鳴り響く。
「私は仕事柄、いつも子育てを放置してしまいがちで、嫁にも逃げられましてね。光くんには息子が大変世話になったので親御さんにもお礼をと思ったんですが。彼はまだ中学生なのにアルバイトをしながら一人で生活していると聞きました。一体どうなっているのか……」
稲葉は勝行の父親の自己紹介を聞いて、信用できる人間と察したらしい。話してもいいかと尋ねられ、光は黙って目を閉じた。
「……まあ、色々ありましてね。この子の母親は去年死んだんですが、父親がまだ生きてるんです」
「ほう」
「ただ、音信不通で行方がわからない。もう三年くらい経ちますか……元々海外を飛び回る仕事しとったんで、留守がちだったのが、いつからか突然帰宅しなくなって。母親は心労で亡くなってしまいましたが、コイツはいつか帰ってくると信じて、今もあの家で待ってるんです」
「どうして父親が生きていると、断言できるんですか」
「――奴は私の友人なんですがね。私も光も、そう信じたいだけです」
ぽつりと零れる稲葉の言葉に触れ、光の心電図の音が少しばかり乱雑なものになる。
「死亡確認も取れないし、不定期に匿名で光宛てと思われる治療費が私に振り込まれるので、生きているとしか思えない。だからこの子は、法的な支援を何も受けられないまま、こうやって一人で生活してるんです。今は保険証すらとれないので、治療する時は私が隠れてこっそり、闇医者のようにやってますわ」
「そうだったんですか。法の隙間に抜け落ちた子ども、か……」
稲葉の苦笑めいたため息もまた、今西光という子どもを心配してくれる人間のものだ。決して態度は優しくないけれど、彼は光に何かあれば助けてくれる。家庭の事情も光の体調も全部知っている、唯一の存在だった。
「光は生まれつき心臓が悪くて、ずっと入院や手術を繰り返してきたんで、父親も治療費稼ぎに奔走しとったんです。本当はもっといい治療を受けさせてやりたいんですがね……まあ、半分は医者としての私のエゴですが」
「心臓、ですかぁ。治療費も法外にかかるし、それは大変ですな」
修行はううんと唸りながら、稲葉と嘆くような会話を意味もなく続けている。こんな会話は今までにも何度となく聞いてきた。けれど今まで解決したことなんて一度もない。ただただもう、どうでもいい。――いっそのこと、母親と一緒に死ねばよかったんだと言われている気がして、耳にしたくもない会話だった。
諦めきった光の寂しげな目は、その向こうで黙って二人の会話を聞いていた勝行を捉える。同じく何か言いたげに光を見つめていた勝行は、意を決したように修行の前に立ち上がると、大人の会話を断ち切るべく声をあげた。
「お父さん、お願いします。一学期のテスト頑張りましたから、俺の友だち、買ってください。俺、あいつが欲しい」
「……え?」
その場にいた全員の目が、ポカンと丸く開いた。
空き部屋だったそこには本当になにもなかった。
ただ一つ、埃を被ったアップライトピアノが壁際に置いてあるだけ。
そこは勝行と彼の部下たちの手により、あっという間に楽器だらけのスタジオのような特別ルームへとリフォームされていく。
「このピアノは使ってもいいの?」
「……あ……ああ……えっと」
「ご両親の形見、かな? 深くは追求しないでおくけど」
なんでそれを知っているんだ?
――とでも言わんばかりの驚愕の表情を見せる光に、勝行は悪戯っぽくウインクした。
「その電子キーボードも、このピアノも、お前の大事な宝物だろ。傷つけたりはしないって。大丈夫」
「…………そ……あの……」
「それよりどう、体調。マシになったら病院に来るよう、君のお医者さんから事づけを預かってるんだけど」
光がもごもごと口をどもらせている間に、勝行の行動はどんどん先へ進んでいく。
「とりあえず着替えて、濡れてない服で行こう」
「歩けなくても大丈夫、車出すよ。家の鍵はどこにあるかな? まあすぐに探せなくてもいいか、俺合い鍵持ってるし」
「え、なんでって? ……トモダチだから、だよ」
ピッ―― ピッ――
……
心電図の機械的なリズム音が、暗がりの室内に鳴り響く。
担ぎ込まれた病院の救急外来で、光は点滴と酸素吸入の投薬治療を受けていた。
稲葉に入院するかと言われて、ふいと首を横に振る。
「だったら、雨の中走ったりアホなことしてんじゃねえ。俺がいなかったら治療も受けられないクセに」
また容赦ないゲンコツが一発落ちてきて、光は涙目になりながら頭を抱えた。病人にすることじゃねえだろ、と言いたかったが、口元にいかつい酸素吸入器が装着されているせいで何も言葉を返せない。
「今日の治療費はあそこの少年が全額払ってくれるってよ。随分気前のいい友人を拾ったなあ?」
「……」
稲葉の背中の向こう側で、父親と電話している勝行が見える。
結局のところ、彼は一体いつまで自分にあれこれと手をかけてくれるのだろうか。
(金持ち……何考えてんのか……わかんねぇ……)
ベッドの上で、さっき自宅であった出来事を思い出す。
親の都合で東京に行くと言っていたはずなのに、突然うちに引っ越してきた。けれど発作が起きている間、ずっと手を握ってくれていたらしい。多分、朦朧とした意識の中で感じた温もりはあの男のものだ。
彼も豪華な家に一人ぼっちで住んでいて、金はあるけれど自由はないという。そんな自分の夢を叶えるために、友だちになってくれとか。バンドがやりたいとか、何とか。
まだ頭の中で、言われたことの整理が追い付かないでいた。
「光くんは無事かい。ああ、かわいそうに、辛かったね」
点滴薬投与が終わりきる前に、勝行の父親が救急外来にやってきた。さっき出会ったばかりなのに気さくに声掛け、大きな手で優しく頭を撫でてくれる。それは実の親以外、学校の先生にもされたことがないような、暖かい仕草だった。思わず涙がこぼれそうになる。
ベッドのすぐ脇で、勝行と稲葉、そして父親の修行はスツールに腰掛け、お決まりの挨拶を交わして談話を始めた。深夜零時を知らせるアラーム音がどこかから鳴り響く。
「私は仕事柄、いつも子育てを放置してしまいがちで、嫁にも逃げられましてね。光くんには息子が大変世話になったので親御さんにもお礼をと思ったんですが。彼はまだ中学生なのにアルバイトをしながら一人で生活していると聞きました。一体どうなっているのか……」
稲葉は勝行の父親の自己紹介を聞いて、信用できる人間と察したらしい。話してもいいかと尋ねられ、光は黙って目を閉じた。
「……まあ、色々ありましてね。この子の母親は去年死んだんですが、父親がまだ生きてるんです」
「ほう」
「ただ、音信不通で行方がわからない。もう三年くらい経ちますか……元々海外を飛び回る仕事しとったんで、留守がちだったのが、いつからか突然帰宅しなくなって。母親は心労で亡くなってしまいましたが、コイツはいつか帰ってくると信じて、今もあの家で待ってるんです」
「どうして父親が生きていると、断言できるんですか」
「――奴は私の友人なんですがね。私も光も、そう信じたいだけです」
ぽつりと零れる稲葉の言葉に触れ、光の心電図の音が少しばかり乱雑なものになる。
「死亡確認も取れないし、不定期に匿名で光宛てと思われる治療費が私に振り込まれるので、生きているとしか思えない。だからこの子は、法的な支援を何も受けられないまま、こうやって一人で生活してるんです。今は保険証すらとれないので、治療する時は私が隠れてこっそり、闇医者のようにやってますわ」
「そうだったんですか。法の隙間に抜け落ちた子ども、か……」
稲葉の苦笑めいたため息もまた、今西光という子どもを心配してくれる人間のものだ。決して態度は優しくないけれど、彼は光に何かあれば助けてくれる。家庭の事情も光の体調も全部知っている、唯一の存在だった。
「光は生まれつき心臓が悪くて、ずっと入院や手術を繰り返してきたんで、父親も治療費稼ぎに奔走しとったんです。本当はもっといい治療を受けさせてやりたいんですがね……まあ、半分は医者としての私のエゴですが」
「心臓、ですかぁ。治療費も法外にかかるし、それは大変ですな」
修行はううんと唸りながら、稲葉と嘆くような会話を意味もなく続けている。こんな会話は今までにも何度となく聞いてきた。けれど今まで解決したことなんて一度もない。ただただもう、どうでもいい。――いっそのこと、母親と一緒に死ねばよかったんだと言われている気がして、耳にしたくもない会話だった。
諦めきった光の寂しげな目は、その向こうで黙って二人の会話を聞いていた勝行を捉える。同じく何か言いたげに光を見つめていた勝行は、意を決したように修行の前に立ち上がると、大人の会話を断ち切るべく声をあげた。
「お父さん、お願いします。一学期のテスト頑張りましたから、俺の友だち、買ってください。俺、あいつが欲しい」
「……え?」
その場にいた全員の目が、ポカンと丸く開いた。
0
お気に入りに追加
105
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
フレンドコード▼陰キャなゲーマーだけど、リア充したい
さくら/黒桜
ライト文芸
高校デビューしたら趣味のあう友人を作りたい。ところが新型ウイルス騒ぎで新生活をぶち壊しにされた、拗らせ陰キャのゲームオタク・圭太。
念願かなってゲーム友だちはできたものの、通学電車でしか会わず、名前もクラスも知らない。
なぜかクラスで一番の人気者・滝沢が絡んできたり、取り巻きにねたまれたり、ネッ友の女子に気に入られたり。この世界は理不尽だらけ。
乗り切るために必要なのは――本物の「フレンド」。
令和のマスク社会で生きる高校生たちの、フィルターがかった友情と恋。
※別サイトにある同タイトル作とは展開が異なる改稿版です。
※恋愛話は異性愛・同性愛ごちゃまぜ。青春ラブコメ風味。
※表紙をまんが同人誌版に変更しました。ついでにタイトルも同人誌とあわせました!
【完結】雨上がり、後悔を抱く
私雨
ライト文芸
夏休みの最終週、海外から日本へ帰国した田仲雄己(たなか ゆうき)。彼は雨之島(あまのじま)という離島に住んでいる。
雄己を真っ先に出迎えてくれたのは彼の幼馴染、山口夏海(やまぐち なつみ)だった。彼女が確実におかしくなっていることに、誰も気づいていない。
雨之島では、とある迷信が昔から吹聴されている。それは、雨に濡れたら狂ってしまうということ。
『信じる』彼と『信じない』彼女――
果たして、誰が正しいのだろうか……?
これは、『しなかったこと』を後悔する人たちの切ない物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
冷たかった夫が別人のように豹変した
京佳
恋愛
常に無表情で表情を崩さない事で有名な公爵子息ジョゼフと政略結婚で結ばれた妻ケイティ。義務的に初夜を終わらせたジョゼフはその後ケイティに触れる事は無くなった。自分に無関心なジョゼフとの結婚生活に寂しさと不満を感じながらも簡単に離縁出来ないしがらみにケイティは全てを諦めていた。そんなある時、公爵家の裏庭に弱った雄猫が迷い込みケイティはその猫を保護して飼うことにした。
ざまぁ。ゆるゆる設定
Bo★ccia!!―アィラビュー×コザィラビュー*
gaction9969
ライト文芸
ゴッドオブスポーツ=ボッチャ!!
ボッチャとはッ!! 白き的球を狙いて自らの手球を投擲し、相手よりも近づけた方が勝利を得るというッ!! 年齢人種性別、そして障害者/健常者の区別なく、この地球の重力を背負いし人間すべてに平等たる、完全なる球技なのであるッ!!
そしてこの物語はッ!! 人智を超えた究極競技「デフィニティボッチャ」に青春を捧げた、五人の青年のッ!! 愛と希望のヒューマンドラマであるッ!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる