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第四節 ひと夏の陽炎とファンタジア

#56 友だち、買ってください 前編 -光side-

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空き部屋だったそこには本当になにもなかった。
ただ一つ、埃を被ったアップライトピアノが壁際に置いてあるだけ。
そこは勝行と彼の部下たちの手により、あっという間に楽器だらけのスタジオのような特別ルームへとリフォームされていく。

「このピアノは使ってもいいの?」
「……あ……ああ……えっと」
「ご両親の形見、かな? 深くは追求しないでおくけど」

なんでそれを知っているんだ?
――とでも言わんばかりの驚愕の表情を見せる光に、勝行は悪戯っぽくウインクした。

「その電子キーボードも、このピアノも、お前の大事な宝物だろ。傷つけたりはしないって。大丈夫」
「…………そ……あの……」
「それよりどう、体調。マシになったら病院に来るよう、君のお医者さんから事づけを預かってるんだけど」

光がもごもごと口をどもらせている間に、勝行の行動はどんどん先へ進んでいく。

「とりあえず着替えて、濡れてない服で行こう」
「歩けなくても大丈夫、車出すよ。家の鍵はどこにあるかな? まあすぐに探せなくてもいいか、俺合い鍵持ってるし」
「え、なんでって? ……トモダチだから、だよ」


ピッ―― ピッ――
……
心電図の機械的なリズム音が、暗がりの室内に鳴り響く。
担ぎ込まれた病院の救急外来で、光は点滴と酸素吸入の投薬治療を受けていた。
稲葉に入院するかと言われて、ふいと首を横に振る。

「だったら、雨の中走ったりアホなことしてんじゃねえ。俺がいなかったら治療も受けられないクセに」

また容赦ないゲンコツが一発落ちてきて、光は涙目になりながら頭を抱えた。病人にすることじゃねえだろ、と言いたかったが、口元にいかつい酸素吸入器が装着されているせいで何も言葉を返せない。

「今日の治療費はあそこの少年が全額払ってくれるってよ。随分気前のいい友人を拾ったなあ?」
「……」

稲葉の背中の向こう側で、父親と電話している勝行が見える。
結局のところ、彼は一体いつまで自分にあれこれと手をかけてくれるのだろうか。

(金持ち……何考えてんのか……わかんねぇ……)

ベッドの上で、さっき自宅であった出来事を思い出す。
親の都合で東京に行くと言っていたはずなのに、突然うちに引っ越してきた。けれど発作が起きている間、ずっと手を握ってくれていたらしい。多分、朦朧とした意識の中で感じた温もりはあの男のものだ。
彼も豪華な家に一人ぼっちで住んでいて、金はあるけれど自由はないという。そんな自分の夢を叶えるために、友だちになってくれとか。バンドがやりたいとか、何とか。
まだ頭の中で、言われたことの整理が追い付かないでいた。

「光くんは無事かい。ああ、かわいそうに、辛かったね」

点滴薬投与が終わりきる前に、勝行の父親が救急外来にやってきた。さっき出会ったばかりなのに気さくに声掛け、大きな手で優しく頭を撫でてくれる。それは実の親以外、学校の先生にもされたことがないような、暖かい仕草だった。思わず涙がこぼれそうになる。
ベッドのすぐ脇で、勝行と稲葉、そして父親の修行はスツールに腰掛け、お決まりの挨拶を交わして談話を始めた。深夜零時を知らせるアラーム音がどこかから鳴り響く。

「私は仕事柄、いつも子育てを放置してしまいがちで、嫁にも逃げられましてね。光くんには息子が大変世話になったので親御さんにもお礼をと思ったんですが。彼はまだ中学生なのにアルバイトをしながら一人で生活していると聞きました。一体どうなっているのか……」

稲葉は勝行の父親の自己紹介を聞いて、信用できる人間と察したらしい。話してもいいかと尋ねられ、光は黙って目を閉じた。

「……まあ、色々ありましてね。この子の母親は去年死んだんですが、父親がまだ生きてるんです」
「ほう」
「ただ、音信不通で行方がわからない。もう三年くらい経ちますか……元々海外を飛び回る仕事しとったんで、留守がちだったのが、いつからか突然帰宅しなくなって。母親は心労で亡くなってしまいましたが、コイツはいつか帰ってくると信じて、今もあの家で待ってるんです」
「どうして父親が生きていると、断言できるんですか」
「――奴は私の友人なんですがね。私も光も、そう信じたいだけです」

ぽつりと零れる稲葉の言葉に触れ、光の心電図の音が少しばかり乱雑なものになる。

「死亡確認も取れないし、不定期に匿名で光宛てと思われる治療費が私に振り込まれるので、生きているとしか思えない。だからこの子は、法的な支援を何も受けられないまま、こうやって一人で生活してるんです。今は保険証すらとれないので、治療する時は私が隠れてこっそり、闇医者のようにやってますわ」
「そうだったんですか。法の隙間に抜け落ちた子ども、か……」

稲葉の苦笑めいたため息もまた、今西光という子どもを心配してくれる人間のものだ。決して態度は優しくないけれど、彼は光に何かあれば助けてくれる。家庭の事情も光の体調も全部知っている、唯一の存在だった。

「光は生まれつき心臓が悪くて、ずっと入院や手術を繰り返してきたんで、父親も治療費稼ぎに奔走しとったんです。本当はもっといい治療を受けさせてやりたいんですがね……まあ、半分は医者としての私のエゴですが」
「心臓、ですかぁ。治療費も法外にかかるし、それは大変ですな」

修行はううんと唸りながら、稲葉と嘆くような会話を意味もなく続けている。こんな会話は今までにも何度となく聞いてきた。けれど今まで解決したことなんて一度もない。ただただもう、どうでもいい。――いっそのこと、母親と一緒に死ねばよかったんだと言われている気がして、耳にしたくもない会話だった。

諦めきった光の寂しげな目は、その向こうで黙って二人の会話を聞いていた勝行を捉える。同じく何か言いたげに光を見つめていた勝行は、意を決したように修行の前に立ち上がると、大人の会話を断ち切るべく声をあげた。

「お父さん、お願いします。一学期のテスト頑張りましたから、俺の友だち、買ってください。俺、あいつが欲しい」
「……え?」

その場にいた全員の目が、ポカンと丸く開いた。
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