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第四節 ひと夏の陽炎とファンタジア

#51 それは曇りなき綺麗な「笑顔」

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光と勝行の雇用契約がスタートしてから、あっという間の一か月が過ぎた。
一学期の成績は上々だった。遅刻・早退・欠席もゼロ。この内申点があれば転校しても進学には問題なさそうだ。

「うーん。相羽がいなくなるのは残念だな」
「すみません、短い間でしたがお世話になりました」
「本当にクラスで言わなくていいのか」
「ええ。あまり長くいなかったので。秘密の方がかえって気楽です」

転校手続き書類を職員室で受け取った勝行は、担任の前で軽くお辞儀した。こちらとしては、希望通りの内申点をいただけただけで十分だ。夏休みの間に消えた同級生のことなど、受験前にみた幻だとでも思われたらいい。
不満げな担任は、ふうと溜息をついて仕方ないなと笑った。勝行のあっさりした態度に、どことなく察してくれているようだった。

「今西には言ってあるのか?」
「……え?」
「いや、最近随分仲良くしてくれてるって、西畑先生から聞いたからさ」

その名を聞くと、一瞬心が痛くなる。彼にはまだ何も言っていない。
突然雇用主が消えたら怒るだろうか。黙っていたら、担任は察してくれたようでこれ以上の詮索はなかった。

「相羽のおかげで少し教室に出て来れるようになったからなあ。ほんと助かったよ。あとは中司に頼んでおくな」
「力及ばずですみません。よろしくお願いします」
「そんなことないぞ。修学旅行の時も、中司と世話してくれたもんなあ」
「いえ。……ああでも中司さんには、あとで自分で伝えておきます。前にメアド交換したんで」
「そうか」

一学期は終わり、間もなく夏休みが始まる。
強い日差しが廊下の窓から入り込んできて蒸し暑い。窓の向こうに見える山々も、街並みも、陽炎に包まれてもやもやと揺らいで見えた。

(佐山って山間部だから避暑地かと思ってたけど……結構暑いな)

東京の実家に帰った方がきっと涼しいに違いない。そう思うことにして、勝行は職員室を後にした。


うだるような暑さの中、終業式を終えて帰ろうとした勝行の元に突然光がやってきた。
ダンッ、と音を立てて机に両手をつき、「おい」と凄まれる。遠巻きに見ていたクラスメイトが驚いて逃げ出すほどの厳つい表情だ。
さっきまでの終業式にはいなかった。
ということは、一人で教室まで来たのか。進化じゃないかと言おうとしたが、顔があまりにこわばっているので茶化す気になれなかった。

「どうかしたの光」
「あの……さ……その……」
「……?」
「かっ……金いらねーから……今日、お前ん家で食っていいか」
「……え? 今日もご飯作りに来てくれるの?」
「ああ。なんか、いっつもお前んちの飯食ってるし……悪いかなって」

思ってもみない提案に、勝行は思わず首を傾げた。
光が自らこんなことを志願してくるなんて初めてだ。何かあったのだろうか。
だが腕はプルプル震えているし、目つきは悪くなる一方。まるで怒られているような気がするが――。

「そんなの気にしなくていいのに。お給料払うよ」
「だっ、だから金はいいって言った」
「弟は今日も帰ってこないのか」
「ん……向こうは夏休みだし」
「夏休みなのに帰ってこないんだ?」

会話は噛み合っていないようだが、光がそんな提案をしてくれたことが嬉しい。「いいよ来てよ、うれしいな」と笑顔を返した。すると眉間の皺がとれた光の顔は、ほっとしたように目を開き、ふんわりはにかんだ。

(――なんだ、それ……)

ドキン。心臓が跳ね上がる。
ふいに蘇る、あの朝の幻想。美少女みたいなその笑顔は、よく見たらやっぱり男で、金髪で、ピアスがついていて。――だがそれは、ピアノの鍵盤にしか見せていなかったはずの『今西光』だった。

「何、食いたい?」
「……な、なんでもいいよ。楽しみにしてる」
「好きな食いもんとかねーのかよ」
「そうだなあ……俺、もう一回お前の卵焼きが食べたい」
「は? そんなんでいいのかよ、金持ちのくせにショボいな。しょうがねえ、作ってやるよ」

偉そうな物言い。馬鹿にした言い草。でも表情は、今までにないぐらい柔らかくて――。
初めて勝行は気が付いた。

光は自分を『友だち』として認めてくれたのだ。

「じゃあな。あとでそっち行く」
「あ……迎えの車は何時くらいがいいかな?」
「適当」

背中を向けたままそういうと、光はそのまま教室を出て行った。上靴を擦って歩くだらしない音が遠くなっていく。

「なんだよ……それ言うためだけに教室来たのかよ……」

一人取り残された勝行は、しばし呆然とその後ろ姿を見送る。
「相羽くん大丈夫?」と数人の女子たちが、心配して話しかけてくれた。どうやら光に脅されていたと勘違いされたようだ。問題ないよと笑顔を返しながら、勝行も急いで教室を後にした。「バイバイ」と送られる挨拶にいつも通り手を降る。永遠のお別れかもしれないその瞬間のことを、勝行は完全に忘れていた。それぐらい、光の笑顔に意識を全部持っていかれていたのだ。
みんなは見なかったのだろうか。あの破壊力の高い表情を。

(なにあの嬉しそうな顔。反則すぎる可愛さだろ……)

なんと表現すればいいんだろうか。
語彙力をかき集めても、ポエムみたいな言葉しか思いつかないが、一言でいうならそれは「綺麗」だった。
初めてみた時、初めて聴いたピアノ。彼が演奏をしていた時の空間。そのすべてが人ならざる不思議な世界。
そこだけ切り取られてまるで非現実世界にいるような――。白い羽根のついた天使のような。

(そうだ……俺、あいつを初めて見た時もそう思った)

空を自由に飛ぶ生き物。綺麗な羽根をもって、何のしがらみにも囚われず、ただ己の世界を表現している光を見た時に感じた衝撃を思い出した。あの時も、彼はピアノの前で笑っていた。

(いつか俺も、あんな風に笑えるんだろうか……)

ふと立ち止まる。本当はきっと、自分がそうなりたいのだ。憧れの対象として、光をずっと追いかけていた。
大人たちが勝手に決めた優等生のレールから逃げ出したくて、楽しい夢の世界にいつまでも浸っていたくて……。
今西光が奏でる自由な音楽の中だけで生きていけたら、どんなに幸せなんだろうと夢見てしまった。

(だから俺は……光が好きなんだ)

せっかくあいつと仲良くなれたのに。言えなくなったこの先の未来、一体どう告げたらいい。
願わくば、いずれ友人と別れることの辛さを味わいたくなかった。

光の靴箱に外靴はもうない。ピロティに出ても、校門を飛び出しても金髪は見えなかった。
勝行は誰もいない路地に潜り込み、こみ上げる声を殺して泣いた。
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