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ニ
昔の名前
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晃毅が、三太とお夕に病をもたらした呪いを破って一晩が過ぎた。
竹林からの帰りには盛大にくしゃみを繰り返す羽目になっていた晃毅だが、葉照庵に戻ったところで葉蓮にすぐさま体調の異変を気付かれ、布団に押し込まれたためか、一晩で体調は回復していた。
朝には、いつも通りの一日を過ごすつもりで支度を始めていたのだが、葉蓮は首を横に振った。
「いけません。今日は一日、手習いや雑事は私一人で行いますから、あなたは少し体を休めていなさい」
そんなわけにはいかない。手習いはまだともかく、雑事まで葉蓮にさせていては、自分が何のためにここにいるのか分からない、と言い返そうとしたのだが、それさえも葉蓮は止めた。
「晃毅」
穏やかだが有無を言わせぬ口調で名前を呼ばれては、どんな反論も意見も主に対して差し向けるわけにはいかない。
晃毅が口に仕掛けた言葉を飲みこむと、視線を下した葉蓮がふう、と長く息を吐いた。
これは呆れられているのかと、晃毅は緊張を強めたが、続いた葉蓮の声音は変わらず穏やかだった。
「あなたが江戸に戻り、この庵に身を置く前は、私が全てのことを行っていたのですよ。あなたはよくしてくれていますが、全て任せてしまっては、私の怠りというものでしょう」
それはそうかもしれないが、と言い返したいところだったが、晃毅について何がしかを言われるのならともかく、葉蓮の行いについて話を持って行かれると、晃毅の立場からはどんな反論もし難い。
何も言えずにいると、葉蓮は部屋を出る前に、さらに言葉を重ねた。
「江戸に戻って以来、休まることもなかったでしょう。いい機会だと思いなさいな」
晃毅はそれを、含みのある言葉だと受け取った。
まるで、晃毅が葉蓮に言わないままに行っていることを、知っているかのように感じる。
普通に考えれば、葉照庵での暮らしはそう心身を削るようなものではない。
子どもたちを相手にした手習いと、掃除や食事の支度、時折ある近隣での諍いの仲裁や、相談の相手。近くに住む者たちとのやりとりは、葉蓮が表に立って行うので、晃毅が行うのは子どもの相手と、掃除、炊事とあとは朝晩の持仏堂での務めくらいだ。
休まらないどころか、安らいだ穏やかな暮らしに他あるまい。
けれど葉蓮は、晃毅に休まる暇がなかったようなことを言う。
それは、子どもたち相手に体力を削られることを言っているわけではないだろうし、長らく離れていた江戸に馴染むまでの気遣いを言っているわけでもないだろう。
晃毅が、魑魅魍魎、妖の類を相手にした戦いを行っていることを、葉蓮に告げたことはない。
葉蓮にそれらしいことを尋ねられたこともない。
だがそもそも、江戸に戻った晃毅が葉照庵に身を置くことになったのは、晃毅の師が葉蓮に晃毅の身柄を託したためでもある。
その二人の間に、どのようなやり取りがあったのかも知らないから、師から葉蓮に何がしかの事情が伝えられていても不思議ではないのかもしれない。
かといって、それを確かめるわけにもいかないのだが。
晃毅は肩を落とすと、自分に与えられている三畳ほどの部屋を見回した。
寝起きするためだけの場所なので、三畳であっても狭くはないし、畳も敷いてある。寝起きしかしないと考えれば、十分すぎるほどの設えだ。
だが寝込んでいるわけでもないのに、一日ここで過ごすことを考えると、流石に何もすることがない。
休んでいろと言われたところで、どう過ごせばいいのか。
どうしたものかと考え込んでいると、近づく足音が廊下に聞こえた。するすると歩く葉蓮のものではない。軽い足音だが、子どもたちがこの棟に近づくことはないし、子どもたちがやって来るにはまだ早い時間だ。
それならお菖だろうかと当たりを付けていると、案の定、お菖がひょこりと外に向かって開けたままの障子の端から顔を覗かせた。
「晃毅さん、風邪だって?」
正座している晃毅が少し見上げる位置で、お菖が話しかけてくる。
とはいえお菖が屈んでいるわけではない。お菖は真っ直ぐに立っているのだが、背の高さが十かそこらの子どもとあまり変わらないのだ。
けれど年はとっくに二十を超えている、のだそうだ。
髪は桃割れに結っているので、何も知らなければ子ども扱いをする者も多いだろう。年は二十を超えているというのなら、どうして髪は十代の娘のようにしているのかといえば、『この背で大人の女らしくしても、そう見てもらえないなら、見た目に合わせた方がいいだろう』ということなのだそうだ。
その辺りの機微は、晃毅にはよく分からない。
ともかく、そういう出で立ちであるがために、葉照庵にちょくちょく出入りをしている割に、お菖は手習いの子どもたちの前に姿を現さない。
「いえ、風邪はもう落ち着いたんですが、葉蓮様に休んでいろと言いつけられてしまいまして……」
どうしたらいいのか困っている、という風を隠さずに晃毅が答えると、お菖はふは、と吹き出すような笑い声を立てた。
「笑い事じゃ、ないですよ」
「いやいや、笑い事だよ。いいじゃない、休んでれば。真面目だねえ。お坊さんだって年中修行してるわけじゃないでしょうに」
「それは、まあ、そうかもしれませんが……」
晃毅は正確には僧侶ではないが、一般に僧侶と呼ばれる者たちも、確かに熱心な求道者であったり真面目に戒律を守る者ばかりではないことはよく知っている。
だが晃毅が唯一師と仰いでいる人との暮らしは、年中修行しているようなものだったので、お菖の言葉を全面的に認めるわけにもいかない。
師との暮らしも、体調を崩せば休養を取らされたが、その時のことを思い返せば、今の暮らしもこうして休んでいろと言われたことも、晃毅には信じられないほどの待遇だ。
それを言って、お菖に分かってもらえるかどうか。分かってもらおうなどとは思ってはいないが、晃毅には言うべきかどうか迷う気持ちもあった。
そんな迷いを見て取ったのか、お菖は「まあまあ」と何もかも明らかにするのがよいわけでもないと言いたげに、手を振った。
「何もしていないのがどうしてもダメなら、ちょっと庫裡を手伝ってちょうだい。それくらいなら、葉蓮様の言いつけを破ることにはならないでしょう」
それなら、とうなずいた晃毅を伴って、庫裡に入ったお菖が差し出したのは、団子が乗った皿と白湯の入った湯呑だった。
「……お菖さん?」
手伝いというのは、何なのかと訝しんでお菖を見ると、お菖は声を出さずに笑った。
「これ、片付けるの手伝ってちょうだい。昨日、晃毅さんの分も置いておくって言ったでしょう。片付かなくて困っていたのよ。あ、少し炙っておいたからね。調子が悪いなら、手伝ってもらうのも悪いかと思ったんだけど、そうでもないなら、いいでしょう」
言われてみれば、確かに昨日は帰ってほどなく布団に押し込まれ、そのまま眠ってしまって、お菖が置いて行ってくれた団子は一口も食べてはいなかった。
軽く炙ったというだけあって、ほんのりといい香りが漂っている。
おかげで空腹を思い出した腹が、クウ、と音を立てた。
「……すみません」
「いえいえ。お腹が鳴るのはいいことだわ。朝餉の準備ももう少しだから、そっちも食べてちょうだい」
団子の後に朝食というのは、何だか逆のような気がしないではないが、それを言うのは勝手というものだろう。
「もしかして、わたしの代わりに、朝から来て下さっているんですか?」
葉蓮は自分が雑事を行うと言っていたが、もしそれがお菖の手も見込んでのことであれば、お菖に対して申し訳ない。だが、こうして朝早くからお菖がやって来ることも、そう珍しいことではないのだ。
「ん? まさか。今日は親父殿がいないから、朝から来させてもらっただけだよ。そしたら、晃毅さんが風邪だっていうから、まあ、ちょうどよかったよね」
お菖は自分の養父を親父殿と呼ぶ。
「それならいいですが……」
もし自分のせいで葉蓮の手間を増やすだけではなく、誰か人を頼むようなことがあっては、申し訳ないことこの上ない。そうでなくてよかったと目を伏せると、お菖がふう、と息を吐き出すのが聞こえた。
先ほど、葉蓮とのやり取りで聞いたのと、同じような雰囲気を感じて顔を上げると、お菖が困ったような笑顔で晃毅を見ていた。
「……もしかして、呆れられていますか」
葉蓮に対しては聞けないことも、お菖に対しては聞けた。気安さというのもあるが、葉蓮に呆れられるのは怖いが、お菖に呆れられても仕方がないというようなところがあるのだ。そう受け入れさせられるだけの、葉蓮とはまた全く別の人生経験らしいものを、お菖からは感じる。
「まさか」
だがお菖の返事はうなずきではなかった。
「ほんと真面目だと思っただけだよ。もう少し緩んだところがあってもいいんじゃないかと思ってね。せっかく、さあ」
そこで言葉を切って、お菖は晃毅を眺めた。
折角、何だというのだろうか。
言葉の続きを待って、晃毅はお菖に目を向けたが、お菖は肩の力を抜くと首を振った。
「まあ……、いいよ。ちょっと葉蓮様のところに朝餉を運んでくるから、晃毅さんはここにいてちょうだい」
いつの間にか準備が整っている膳を持って、お菖は葉蓮の部屋に向かって行った。
葉蓮だけでなく、お菖も気にかかることを言うものだから、晃毅は団子の入った皿を持って考え込んでしまった。
まあいいと言われたところで、途中で途切れさせられた話というのは、その続きが気になるものだ。葉蓮の話とは違って、お菖の言いたかったことについては、皆目見当がつかない、というのも一層気になるところだった。
どういったことが言いたかったのだろうとぼんやり皿の上の団子を眺めていたが、その内、再び腹の音が鳴った。
考えても仕方がないということかと、晃毅は自分自身の腹を残念に思いながら、ありがたく団子を口にすることにした。
炙ってあるので表面はパリっとしていたが、中は柔らかく、仄かな甘みが広がって美味い。
これだけ美味しく、実際売り物にしている団子を繰り返し持って来てくれて、庵での雑事を手伝って行くお菖も、よほど緩んだところがないように思えるのだが、そのお菖から見ても自分は張りつめているのだろうかと考えてみる。
とはいえ、張りつめていないわけにはいかない。というのが晃毅の結論だ。
師から託されている役目を果たすために、緩んでいるわけにはいかない。
そうすると、葉照庵での暮らしは、役目のためにはむしろ厄介なもののようにも思われるが、そう考えてしまうと江戸では身の置き所がない。
難しいものだ、と考えたところで門の辺りで声がした。
時刻はやはりまだ子どもたちがやって来るには早く、けれど早すぎるというほどでもない。
いつもは門の前を晃毅が掃除をしている頃に子どもたちがやって来るので困ることはないのだが、もしや誰かやって来たのだろうかと、晃毅は立ち上がって様子を見に行くことにした。
門とはいっても、行き来を制限するほどのものではない。その気になれば敷地の中に入ってくればいいのだが、その気配はないようだ。手習いにやって来る子どもであれば、勝手知ったるで返事がなくとも奥に入ってくることぐらいあるので、子どもではないのかもしれない。
晃毅は朝早くから誰だろうかと、葉照庵に出入りのある人たちの顔を思い浮かべたが、近付いてみて分かったのは、その内の誰でもないということだった。
けれど知った顔だ。
「ああ、早くから申し訳ない。昨日の長屋にこれから様子を見に行くんだが、その前に立ち寄れる場所だと聞いたので、つい来てしまったんだが……、やはり迷惑だったかな」
まさか昨日の今日で、しかも朝のうちにやって来るとは思っていなかった誠が、そこに立っている。編綴姿なのは、往診のためのようだ。手には往診用の薬箱もある。
晃毅が何をどう言っていいのか分からないで困っていることを、迷惑と捉えたらしく、誠は苦笑しながら首筋を撫でている。
「……いいえ」
そう言って小さく首を振るのがようやくのことだ。
「そうか? それならいいんだが」
「いえ、本当に。昨日はお世話になりました」
おかげで本当に助かったのだ。晃毅は小さく頭を下げる。
「うん、まあ。それで、少し話をさせてもらいたいんだが」
言われて、つい体をビクリと揺らしてしまった。誠がしようとする話には心当たりがある。
そうでなければ、こんなにも問いたげな目を向けられることはないだろうなどと思うのは、晃毅の思い込みだろうか。
だが、二人が出会ったのが、昨日が初めてのことであるのなら、こうして誠が朝から訪ねてくる理由も、話をしようとする意味も、全く不明なものになる。だからやはり、誠がしたい話というのは、晃毅の身の上に関わる話に違いない。
誠が誠であることに気付かないふりをすることだけを許してもらうことに勝手に決めて、後のことは覚悟して庵の存在を教えたはずなのに、こうなってみるとうなずく勇気はなかなか出ては来なかった。
このままうなずくことが出来ずにいては、誠がまた困った顔をするだろうことは分かっている。
そんな晃毅の助け舟になったのは、後ろからやって来た葉蓮だった。
「あら、まあ。もしかして、誠八郎さんではないですか?」
葉蓮は驚いたようだったが、誠もその名で呼ばれたことに驚いていた。
「これ、は……。陽江様……、ではやはり」
葉蓮の、呼ばれることのなくなったかつての名前を呟き、確信を持った目で再び晃毅を見た。葉蓮の存在はこの場の助けになる一方で、晃毅が先延ばしにしていた結論の一つを叩きつけることになったのだ。
「毅嗣! 毅嗣なんだな! 覚えてくれているか? 誠八郎だ」
誠は、晃毅の、やはり呼ばれることの長らくなかったかつての名を呼び、晃毅の肩に手を置いた。
竹林からの帰りには盛大にくしゃみを繰り返す羽目になっていた晃毅だが、葉照庵に戻ったところで葉蓮にすぐさま体調の異変を気付かれ、布団に押し込まれたためか、一晩で体調は回復していた。
朝には、いつも通りの一日を過ごすつもりで支度を始めていたのだが、葉蓮は首を横に振った。
「いけません。今日は一日、手習いや雑事は私一人で行いますから、あなたは少し体を休めていなさい」
そんなわけにはいかない。手習いはまだともかく、雑事まで葉蓮にさせていては、自分が何のためにここにいるのか分からない、と言い返そうとしたのだが、それさえも葉蓮は止めた。
「晃毅」
穏やかだが有無を言わせぬ口調で名前を呼ばれては、どんな反論も意見も主に対して差し向けるわけにはいかない。
晃毅が口に仕掛けた言葉を飲みこむと、視線を下した葉蓮がふう、と長く息を吐いた。
これは呆れられているのかと、晃毅は緊張を強めたが、続いた葉蓮の声音は変わらず穏やかだった。
「あなたが江戸に戻り、この庵に身を置く前は、私が全てのことを行っていたのですよ。あなたはよくしてくれていますが、全て任せてしまっては、私の怠りというものでしょう」
それはそうかもしれないが、と言い返したいところだったが、晃毅について何がしかを言われるのならともかく、葉蓮の行いについて話を持って行かれると、晃毅の立場からはどんな反論もし難い。
何も言えずにいると、葉蓮は部屋を出る前に、さらに言葉を重ねた。
「江戸に戻って以来、休まることもなかったでしょう。いい機会だと思いなさいな」
晃毅はそれを、含みのある言葉だと受け取った。
まるで、晃毅が葉蓮に言わないままに行っていることを、知っているかのように感じる。
普通に考えれば、葉照庵での暮らしはそう心身を削るようなものではない。
子どもたちを相手にした手習いと、掃除や食事の支度、時折ある近隣での諍いの仲裁や、相談の相手。近くに住む者たちとのやりとりは、葉蓮が表に立って行うので、晃毅が行うのは子どもの相手と、掃除、炊事とあとは朝晩の持仏堂での務めくらいだ。
休まらないどころか、安らいだ穏やかな暮らしに他あるまい。
けれど葉蓮は、晃毅に休まる暇がなかったようなことを言う。
それは、子どもたち相手に体力を削られることを言っているわけではないだろうし、長らく離れていた江戸に馴染むまでの気遣いを言っているわけでもないだろう。
晃毅が、魑魅魍魎、妖の類を相手にした戦いを行っていることを、葉蓮に告げたことはない。
葉蓮にそれらしいことを尋ねられたこともない。
だがそもそも、江戸に戻った晃毅が葉照庵に身を置くことになったのは、晃毅の師が葉蓮に晃毅の身柄を託したためでもある。
その二人の間に、どのようなやり取りがあったのかも知らないから、師から葉蓮に何がしかの事情が伝えられていても不思議ではないのかもしれない。
かといって、それを確かめるわけにもいかないのだが。
晃毅は肩を落とすと、自分に与えられている三畳ほどの部屋を見回した。
寝起きするためだけの場所なので、三畳であっても狭くはないし、畳も敷いてある。寝起きしかしないと考えれば、十分すぎるほどの設えだ。
だが寝込んでいるわけでもないのに、一日ここで過ごすことを考えると、流石に何もすることがない。
休んでいろと言われたところで、どう過ごせばいいのか。
どうしたものかと考え込んでいると、近づく足音が廊下に聞こえた。するすると歩く葉蓮のものではない。軽い足音だが、子どもたちがこの棟に近づくことはないし、子どもたちがやって来るにはまだ早い時間だ。
それならお菖だろうかと当たりを付けていると、案の定、お菖がひょこりと外に向かって開けたままの障子の端から顔を覗かせた。
「晃毅さん、風邪だって?」
正座している晃毅が少し見上げる位置で、お菖が話しかけてくる。
とはいえお菖が屈んでいるわけではない。お菖は真っ直ぐに立っているのだが、背の高さが十かそこらの子どもとあまり変わらないのだ。
けれど年はとっくに二十を超えている、のだそうだ。
髪は桃割れに結っているので、何も知らなければ子ども扱いをする者も多いだろう。年は二十を超えているというのなら、どうして髪は十代の娘のようにしているのかといえば、『この背で大人の女らしくしても、そう見てもらえないなら、見た目に合わせた方がいいだろう』ということなのだそうだ。
その辺りの機微は、晃毅にはよく分からない。
ともかく、そういう出で立ちであるがために、葉照庵にちょくちょく出入りをしている割に、お菖は手習いの子どもたちの前に姿を現さない。
「いえ、風邪はもう落ち着いたんですが、葉蓮様に休んでいろと言いつけられてしまいまして……」
どうしたらいいのか困っている、という風を隠さずに晃毅が答えると、お菖はふは、と吹き出すような笑い声を立てた。
「笑い事じゃ、ないですよ」
「いやいや、笑い事だよ。いいじゃない、休んでれば。真面目だねえ。お坊さんだって年中修行してるわけじゃないでしょうに」
「それは、まあ、そうかもしれませんが……」
晃毅は正確には僧侶ではないが、一般に僧侶と呼ばれる者たちも、確かに熱心な求道者であったり真面目に戒律を守る者ばかりではないことはよく知っている。
だが晃毅が唯一師と仰いでいる人との暮らしは、年中修行しているようなものだったので、お菖の言葉を全面的に認めるわけにもいかない。
師との暮らしも、体調を崩せば休養を取らされたが、その時のことを思い返せば、今の暮らしもこうして休んでいろと言われたことも、晃毅には信じられないほどの待遇だ。
それを言って、お菖に分かってもらえるかどうか。分かってもらおうなどとは思ってはいないが、晃毅には言うべきかどうか迷う気持ちもあった。
そんな迷いを見て取ったのか、お菖は「まあまあ」と何もかも明らかにするのがよいわけでもないと言いたげに、手を振った。
「何もしていないのがどうしてもダメなら、ちょっと庫裡を手伝ってちょうだい。それくらいなら、葉蓮様の言いつけを破ることにはならないでしょう」
それなら、とうなずいた晃毅を伴って、庫裡に入ったお菖が差し出したのは、団子が乗った皿と白湯の入った湯呑だった。
「……お菖さん?」
手伝いというのは、何なのかと訝しんでお菖を見ると、お菖は声を出さずに笑った。
「これ、片付けるの手伝ってちょうだい。昨日、晃毅さんの分も置いておくって言ったでしょう。片付かなくて困っていたのよ。あ、少し炙っておいたからね。調子が悪いなら、手伝ってもらうのも悪いかと思ったんだけど、そうでもないなら、いいでしょう」
言われてみれば、確かに昨日は帰ってほどなく布団に押し込まれ、そのまま眠ってしまって、お菖が置いて行ってくれた団子は一口も食べてはいなかった。
軽く炙ったというだけあって、ほんのりといい香りが漂っている。
おかげで空腹を思い出した腹が、クウ、と音を立てた。
「……すみません」
「いえいえ。お腹が鳴るのはいいことだわ。朝餉の準備ももう少しだから、そっちも食べてちょうだい」
団子の後に朝食というのは、何だか逆のような気がしないではないが、それを言うのは勝手というものだろう。
「もしかして、わたしの代わりに、朝から来て下さっているんですか?」
葉蓮は自分が雑事を行うと言っていたが、もしそれがお菖の手も見込んでのことであれば、お菖に対して申し訳ない。だが、こうして朝早くからお菖がやって来ることも、そう珍しいことではないのだ。
「ん? まさか。今日は親父殿がいないから、朝から来させてもらっただけだよ。そしたら、晃毅さんが風邪だっていうから、まあ、ちょうどよかったよね」
お菖は自分の養父を親父殿と呼ぶ。
「それならいいですが……」
もし自分のせいで葉蓮の手間を増やすだけではなく、誰か人を頼むようなことがあっては、申し訳ないことこの上ない。そうでなくてよかったと目を伏せると、お菖がふう、と息を吐き出すのが聞こえた。
先ほど、葉蓮とのやり取りで聞いたのと、同じような雰囲気を感じて顔を上げると、お菖が困ったような笑顔で晃毅を見ていた。
「……もしかして、呆れられていますか」
葉蓮に対しては聞けないことも、お菖に対しては聞けた。気安さというのもあるが、葉蓮に呆れられるのは怖いが、お菖に呆れられても仕方がないというようなところがあるのだ。そう受け入れさせられるだけの、葉蓮とはまた全く別の人生経験らしいものを、お菖からは感じる。
「まさか」
だがお菖の返事はうなずきではなかった。
「ほんと真面目だと思っただけだよ。もう少し緩んだところがあってもいいんじゃないかと思ってね。せっかく、さあ」
そこで言葉を切って、お菖は晃毅を眺めた。
折角、何だというのだろうか。
言葉の続きを待って、晃毅はお菖に目を向けたが、お菖は肩の力を抜くと首を振った。
「まあ……、いいよ。ちょっと葉蓮様のところに朝餉を運んでくるから、晃毅さんはここにいてちょうだい」
いつの間にか準備が整っている膳を持って、お菖は葉蓮の部屋に向かって行った。
葉蓮だけでなく、お菖も気にかかることを言うものだから、晃毅は団子の入った皿を持って考え込んでしまった。
まあいいと言われたところで、途中で途切れさせられた話というのは、その続きが気になるものだ。葉蓮の話とは違って、お菖の言いたかったことについては、皆目見当がつかない、というのも一層気になるところだった。
どういったことが言いたかったのだろうとぼんやり皿の上の団子を眺めていたが、その内、再び腹の音が鳴った。
考えても仕方がないということかと、晃毅は自分自身の腹を残念に思いながら、ありがたく団子を口にすることにした。
炙ってあるので表面はパリっとしていたが、中は柔らかく、仄かな甘みが広がって美味い。
これだけ美味しく、実際売り物にしている団子を繰り返し持って来てくれて、庵での雑事を手伝って行くお菖も、よほど緩んだところがないように思えるのだが、そのお菖から見ても自分は張りつめているのだろうかと考えてみる。
とはいえ、張りつめていないわけにはいかない。というのが晃毅の結論だ。
師から託されている役目を果たすために、緩んでいるわけにはいかない。
そうすると、葉照庵での暮らしは、役目のためにはむしろ厄介なもののようにも思われるが、そう考えてしまうと江戸では身の置き所がない。
難しいものだ、と考えたところで門の辺りで声がした。
時刻はやはりまだ子どもたちがやって来るには早く、けれど早すぎるというほどでもない。
いつもは門の前を晃毅が掃除をしている頃に子どもたちがやって来るので困ることはないのだが、もしや誰かやって来たのだろうかと、晃毅は立ち上がって様子を見に行くことにした。
門とはいっても、行き来を制限するほどのものではない。その気になれば敷地の中に入ってくればいいのだが、その気配はないようだ。手習いにやって来る子どもであれば、勝手知ったるで返事がなくとも奥に入ってくることぐらいあるので、子どもではないのかもしれない。
晃毅は朝早くから誰だろうかと、葉照庵に出入りのある人たちの顔を思い浮かべたが、近付いてみて分かったのは、その内の誰でもないということだった。
けれど知った顔だ。
「ああ、早くから申し訳ない。昨日の長屋にこれから様子を見に行くんだが、その前に立ち寄れる場所だと聞いたので、つい来てしまったんだが……、やはり迷惑だったかな」
まさか昨日の今日で、しかも朝のうちにやって来るとは思っていなかった誠が、そこに立っている。編綴姿なのは、往診のためのようだ。手には往診用の薬箱もある。
晃毅が何をどう言っていいのか分からないで困っていることを、迷惑と捉えたらしく、誠は苦笑しながら首筋を撫でている。
「……いいえ」
そう言って小さく首を振るのがようやくのことだ。
「そうか? それならいいんだが」
「いえ、本当に。昨日はお世話になりました」
おかげで本当に助かったのだ。晃毅は小さく頭を下げる。
「うん、まあ。それで、少し話をさせてもらいたいんだが」
言われて、つい体をビクリと揺らしてしまった。誠がしようとする話には心当たりがある。
そうでなければ、こんなにも問いたげな目を向けられることはないだろうなどと思うのは、晃毅の思い込みだろうか。
だが、二人が出会ったのが、昨日が初めてのことであるのなら、こうして誠が朝から訪ねてくる理由も、話をしようとする意味も、全く不明なものになる。だからやはり、誠がしたい話というのは、晃毅の身の上に関わる話に違いない。
誠が誠であることに気付かないふりをすることだけを許してもらうことに勝手に決めて、後のことは覚悟して庵の存在を教えたはずなのに、こうなってみるとうなずく勇気はなかなか出ては来なかった。
このままうなずくことが出来ずにいては、誠がまた困った顔をするだろうことは分かっている。
そんな晃毅の助け舟になったのは、後ろからやって来た葉蓮だった。
「あら、まあ。もしかして、誠八郎さんではないですか?」
葉蓮は驚いたようだったが、誠もその名で呼ばれたことに驚いていた。
「これ、は……。陽江様……、ではやはり」
葉蓮の、呼ばれることのなくなったかつての名前を呟き、確信を持った目で再び晃毅を見た。葉蓮の存在はこの場の助けになる一方で、晃毅が先延ばしにしていた結論の一つを叩きつけることになったのだ。
「毅嗣! 毅嗣なんだな! 覚えてくれているか? 誠八郎だ」
誠は、晃毅の、やはり呼ばれることの長らくなかったかつての名を呼び、晃毅の肩に手を置いた。
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