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グレゴールへの手紙
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これはあくまで個人的な話だが、グレゴール、僕は結婚しようと思う。
ひとつには、自分の中にどうしてもそれをしなければならないだろうという、ある種の確信めいた直感があって、それがこうして僕に筆をとらせている。
ふたつには、やはりあの悪党、ムージルの存在がちらついてならない。彼は筋金入りのごろつきで、僕は最近まで誰彼かまわず彼のことをまくしたてていた。そのことが、かえってあの悪党を黙らせるような効果があったらしい。僕は平和だった。まったくもって、平和そのものだった!
だが、不幸というものは足元から忍び寄ってくるもののようだ。
かわいそうなアンナ!君は彼女のことを責めてはいけないよ。あれが精いっぱいだったのだ。
かわいそうなアンナ。彼女はいつもひとりだった。
いつだか君は、アンナに好きなだけ花を買ってやりたいと言っていたね。あの子は花が好きだから。そのことも、いまとなっては叶わないことだ。いや、この話をするのはよそう。いつまでも昔のことを思い返したところで、仕方のないことだ。
僕は結婚する。婿へ行くのだ。りっぱにやってみせる。地位を築いてみせる。
だからグレゴール、きみにはもう会えないだろう。
悪く思わないでくれ。きみを助けるためには、こうするより他はないのだ。
いつかどこかで、僕の名前を耳にする時がくるかもしれない。
その時はどうか、僕のことを思って、静かに祈ってほしい。
君と僕は、心からの親友なのだから。
さようなら、さようなら………
この手紙は、古い日記帳の中で見つけた。いや、たまたま見つかった、と言うべきか。
私はその日、祖父母の家に行って、彼らの遺品の整理をしているところだった。封筒に入って日記に挟まれていた手紙を見つけたのは、そのときだ。
差出人の名前はない。文面の中にグレゴールという名前があることから、送られた相手の名前が分かっただけだ。
このグレゴールというのは、私の祖父の名前だ。
詳しいことは、何も分からない。祖父は物静かな人だった。自分のことは何一つ語らなかった。ある日、煙がふっと消えるように、彼は静かにこの世を去った。
この手紙を書いた人物も、文中に出てくるアンナやムージルという人々も、祖父の知り合いだったのだろうか。
手紙はくたびれてはいるが、乱雑な折り目などはついていない。大切に大切に、何度も読み返されたのだろうということがうかがえた。
祖父は、どのような気持ちでこの手紙を読み、また読み返したことだろうか。
手紙を長い時間眺めたのち、私はそっと、その手紙をもといたところに戻した。
手紙はまた安息の地へと落ち着いた。あの日記帳の中で、紙に書かれた文字は同じ時間を繰り返し、繰り返し、紡ぎ続けることだろう。私にはそれが、祖父への一番の供養のように思えた。
ひとつには、自分の中にどうしてもそれをしなければならないだろうという、ある種の確信めいた直感があって、それがこうして僕に筆をとらせている。
ふたつには、やはりあの悪党、ムージルの存在がちらついてならない。彼は筋金入りのごろつきで、僕は最近まで誰彼かまわず彼のことをまくしたてていた。そのことが、かえってあの悪党を黙らせるような効果があったらしい。僕は平和だった。まったくもって、平和そのものだった!
だが、不幸というものは足元から忍び寄ってくるもののようだ。
かわいそうなアンナ!君は彼女のことを責めてはいけないよ。あれが精いっぱいだったのだ。
かわいそうなアンナ。彼女はいつもひとりだった。
いつだか君は、アンナに好きなだけ花を買ってやりたいと言っていたね。あの子は花が好きだから。そのことも、いまとなっては叶わないことだ。いや、この話をするのはよそう。いつまでも昔のことを思い返したところで、仕方のないことだ。
僕は結婚する。婿へ行くのだ。りっぱにやってみせる。地位を築いてみせる。
だからグレゴール、きみにはもう会えないだろう。
悪く思わないでくれ。きみを助けるためには、こうするより他はないのだ。
いつかどこかで、僕の名前を耳にする時がくるかもしれない。
その時はどうか、僕のことを思って、静かに祈ってほしい。
君と僕は、心からの親友なのだから。
さようなら、さようなら………
この手紙は、古い日記帳の中で見つけた。いや、たまたま見つかった、と言うべきか。
私はその日、祖父母の家に行って、彼らの遺品の整理をしているところだった。封筒に入って日記に挟まれていた手紙を見つけたのは、そのときだ。
差出人の名前はない。文面の中にグレゴールという名前があることから、送られた相手の名前が分かっただけだ。
このグレゴールというのは、私の祖父の名前だ。
詳しいことは、何も分からない。祖父は物静かな人だった。自分のことは何一つ語らなかった。ある日、煙がふっと消えるように、彼は静かにこの世を去った。
この手紙を書いた人物も、文中に出てくるアンナやムージルという人々も、祖父の知り合いだったのだろうか。
手紙はくたびれてはいるが、乱雑な折り目などはついていない。大切に大切に、何度も読み返されたのだろうということがうかがえた。
祖父は、どのような気持ちでこの手紙を読み、また読み返したことだろうか。
手紙を長い時間眺めたのち、私はそっと、その手紙をもといたところに戻した。
手紙はまた安息の地へと落ち着いた。あの日記帳の中で、紙に書かれた文字は同じ時間を繰り返し、繰り返し、紡ぎ続けることだろう。私にはそれが、祖父への一番の供養のように思えた。
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