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序章 きみが灰になったとしても
第45話 雪と飢餓と生殺と
しおりを挟む寝台で横になりながら呻く男がいた。その男の名前はノウト・キルシュタイン。それは、ひとりぼっちで洞窟の中にある黒い部屋に住む勇者の名だ。
彼は腹にいる悪魔を封じ込めるように腹を抑えていた。
──腹を壊した。
それはもう盛大に腹を壊した。いや盛大っていうのはおかしいか。猛烈に、確実に──非常に腹を壊した。あー。そもそも、腹を壊すってなんだ。壊しちゃダメだろ。物を壊すならまだしも、腹を壊すなんてごめんだ。でも、実際にノウトは腹を壊している。
「………つぅ……」
ノウトも野営は初めてじゃないから、ちょっとやそっとじゃ腹を壊すことはないと思っていたけど、これはやったと思う。
大方予想はつく。
雪だ。雪を食べたのがやばかった。
野草は問題ないはずだ。有毒か無毒か見分けがつかないようなものは採取していなかった。
やはり蒸留させないとこうなるのだ。喉が渇いたからって雪を食べてはいけない。
体調が悪い時に寝ると必ずと言っていいほど悪い夢を見る。どういう理屈なのだろうか。ダブルパンチというかツーアウトというか泣きっ面に蜂というか。腹が痛すぎて、思考も上手くまとまらない。ああ、もう一生雪なんて食べません、許してください神様女神様。天に祈りながら、横になる。そうして、サバイバル生活三日目の半日間を療養に費やしたのだった。
これが後の世に言う、雪食み事件である。
◇◇◇
腹痛が治まったのち、ノウトは外へと駆け出していた。時間は有限だ。無限なわけがない。とにかく今は一分一秒も無駄には出来ない。
罠を仕掛けたポイント、各所に向かうも、そのどれもが失敗に終わっていた。紐の締め方が緩かったのか仕掛けた場所が悪かったのか、餌がなかったから失敗したのか。拠点から近いところから罠を回収していく。すると、最後の地点で、これまでと変化が見受けられた。
「かかってる……」
罠に小型で焦茶色の動物がかかっているのが見える。リスだ。昨日見たものと同一個体かは分からないけれど、あれは確かにリスだ。ノウトは息を呑んだ。三日目にしてタンパク源を手に入れられるとは思っていなかった。今のノウトには弑逆も暗殺もない。
ふぅ、と小さく息を吐く。罠にかかって宙吊りになっているから、素手で掴むまでは出来るだろう。問題はそこからだ。弑逆を使わずして命を断たせなくてはいけない。出来るのか。殺すことが出来るのか。手汗が滲む。
殺すということ。命を断たせるということ。
片手で顔を覆う。呼吸を整えて、歩き出す。覚悟は出来た。殺さなくては、生きられない。生きるために殺すんだ。
ノウトが息を殺して近づく。息を殺しているけど暗殺は発動していない。でも、気づかれていない。神技を使わずとも、気配を消す術は身についていたようだ。ぐっ、と左手を伸ばして、リスを鷲掴みにする。リスは暴れる。抵抗する。抗う。
「つッ!」
左手の付け根を噛まれた。痛い。血が出ている。その際にリスはノウトの手から逃れ、雪原の上を走りながら素早く去っていく。ああなってしまったら追い掛けるのは不可能だ。
ふと、左手を見る。小さな傷口から少しだけ血が滲んでいた。
「……何やってんだ、俺………」
遠くに目をやって、そう呟いた。
化膿したらまずい。朝の腹痛どころの騒ぎではなくなる。病原菌が入ったら最悪死ぬ。
それに、貴重なタンパク源も逃してしまった。生きたいのではなかったのか。
違う。
躊躇してしまったんだ。殺すことを、あの一瞬だけ戸惑ってしまった。生きたいと必死に藻掻くものを殺すのは、どうしても躊躇われる。そうやって、他人に殺してもらうのか? 他人の手を汚させるのか? あの時みたいに? 自分は殺してないから悪くないって?
リスを掴んだ瞬間、正直驚いた。
あんなに暴れられるなんて思っていなかったのだ。どの生き物も生きるのに必死で殺されるのを享受する生き物はいない。
殺すのって、こんなに大変なのか。
「……弑逆が使えなくて、初めて気付いたよ」
誰に言うでもなく、独りで呟く。
今まで触れただけで生物を殺せた。抵抗される間もなく殺せた。そんなノウトだから、殺すことが大変だと知らなかった。
──ぐぅ、と森の中でノウトの腹の音が唸る。
……ああ、腹が減った。
◇◇◇
その夜は昨日と同じように摘んできた野草と、それから苔を食べた。それから、空腹を紛らわそうと色んなことを考えた。
どうしてノウトがここに飛ばされたのか。
いろいろと考えた結果、ファガラントの不死王城地下で手に入れた星瞬転移機の設計図が原因となった、というのが有力候補と相成った。分かったところでどうにもならないけれど、あの時、鞄の中に入れていた設計図が引き金となって瞬間転移陣が暴走してしまったと考えるのが一番現実的だ。
「現実的って……」
自分で言ってから、少し笑ってしまった。
この世界じゃ、何が現実で何が幻想かも分からない。少なくとも、ノウトがときどき夢に見るあの世界はこことは違う。魔人族も森人族も猫耳族も血夜族も狼尾族も夢の中にはいない。
夢? そもそもどちらが夢なんだ?
この世界には魔法もあって、ありとあらゆる種族がいる。そもそも現実的じゃない。──ということは?
現実じゃない? やっぱり夢なのだろうか。
ありえない。こんなに長く、脈絡があって、ありとあらゆる感覚が伴い、繊細で漠々として深遠な夢があってたまるか。
それに、こんな違和感も時間が経てば消えていく。
この世界が夢みたいなことすら忘れてしまう。
ああ、忘れてしまうことさえ忘れてしまう。消える。消える。薄れる。薄らいでいく。
「………寝れない」
腹が減りすぎてなかなか寝付けない。草と水ばっかりじゃ腹は満たされない。肉だ。肉を食わないと。本能が、脳が、身体が肉を欲している。このままでは、明日明後日には栄養失調で倒れてしまうだろう。
ノウトは立ち上がって、それから拠点を出た。夜の帳が完全に落ちて、雪の森に完全なる闇が訪れていた。灯りはつけなかった。闇の中で付ければ獲物に見つかってしまう。
暗殺はなくとも気配くらい消せる。ロストガンとの修行の日々を思い出せ。
罠のある各ポイントに移動する。拠点から少し北に移動した一つ目の場所は……だめだ。罠が発動しているものの何もかかっていない。二つ目も、三つ目も駄目だった。その場にあるのは夜の闇と虚空のみ。
四つ目の罠だった。
リスが罠にかかっている。一つ息を吐く。こわばった肩や腕、手から力を抜く。ノウトは息を殺した。暗殺は発動しない。いい。これでいいんだ。沈め。沈めろ。自らの全てを。
歩いて、リスを左手で鷲掴みにする。触れられて初めてノウトの存在に気付いたリスは突然暴れ出し、必死に抵抗する。
それでも離さない。離してたまるか。生きるんだ。絶対に、俺は。
ぐっ、とリスの身体を木に押し付け、右手に握った折れた黒刃の剣の残った刀身を振りかぶる。
そして、見る。
これから殺す相手のことをしっかりと。目を逸らしてはだめだ。
それから、振りかぶった剣を、──思いっきり叩きつける。
「………………」
静寂と闇とがノウトを抱擁する。
息を整えてから、改めて、もう死んでしまったリスを見下ろす。
頭を潰され、動かなくなったそれをノウトは麻布に包んだ。額に浮かぶ汗を拭う。
弑逆を用いずに生き物を殺したのは、初めてかもしれない。
途中で野草等を摘みながら拠点に戻り、水で血抜きをする。
腹にナイフを入れ、内臓を取り出す。胃の中にはびっしりと木の実がつまっていた。冬に向けて栄養やら脂肪やらを蓄えようとしていたのだろう。
次に皮をはいでいく。これが結構固くて、力のいる作業だった。親指を皮と肉の間に押し込み、力を入れて剥がしていく。
何とか皮を剥き終えたので、もう一度水で洗ってから、先を尖らせた木の枝を刺す。それから火で炙った。
要するに丸焼きだ。
もう少し凝ったものを食べたいのが本心だが、今のノウトには鍋もまな板もない。
何より、早く空腹を何とかしたい。
肉の焼ける匂いだけで口内に涎が分泌される。抗いがたい空腹がノウトを満たした。ある程度焦げ目がついてきたので、火傷しないように気をつけながら、それを口に運ぶ。
「………うまい」
この世の何もかもより美味い。
何の味付けもしていないけれど、今のノウトにはこれで充分だった。気が付いたら串から肉はなくなっていた。
命を殺して、命を食べる。
生きるって、殺すことだ。
俺は今、生きてる。
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