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第二章 蹉跌の涙と君の体温
第12話 もうちょっと、いい?
しおりを挟む目を覚ます。
草木のそよぐ音、虫の声、静謐な水の音。
耳をすませば聞こえる幾重にも重なる夜の声に静かに起こされた。良くない夢を見ていたのか、背中を伝う冷や汗が服をべったりと濡らしている。
「…………リア……?」
彼女はどこだろう。胸の中で眠っていたはずだが、何処にも見えない。
目を擦り闇に目を凝らすと、湖の方に人影が見えた。身体を起こして人影の方へと歩く。すると、
「……ノウトくん?」
「うわぁっ!! ご、ごめん!!」
リアが湖に身体を浸からせて、立っていた。
なぜノウトが驚いたかと言うと、彼女が衣服の類を何も身にまとっていなかったからだ。思いっきり見たわけじゃないからわからないけど、多分何も着ていなかった。
水浴びしてたのか、くっそ。配慮というか予測というか、寝起きでとにかく頭が回らなかった。
そうか、彼女は身体中汚れていた。
目覚めてすぐにでも洗いたかったに違いない。
「一緒に身体洗う? ノウトくんもだいぶ汚れちゃってるよ?」
「恥じらいって言葉知らないのか!?」
今、ノウトはリアに背を向けているが、一瞬だけ見てしまった彼女の透き通るような真っ白い肌が瞼に焼き付いてしまっている。
警鐘を鳴らすように心臓がドクドクと鳴り響き、耳の傍にあるのかってくらい五月蝿い。
確かに、身体についた泥やら血やらを落とさないと明らかに不審だし、ヴェロアと会うのに汚れたままの格好では示しがつかない。
そして、ノウトには今、一刻の猶予も残されていない。休みを取らないことで倒れたりしたら更に面倒なことになるので休憩は挟むが、なるべく急ぐ必要がある。
ノウトを敵とみなしている勇者には追いつかれたくない。彼らは今なおノウトを追って駆けているだろう。もしかしたら、すぐそこまで来ている可能性だってある。
今身体を洗わないと、いつ洗えるか分からない。これっきり機会はないかもしれない。
「…………分かった。俺も洗うよ」
「急がないとだめだしね」
「でも一緒には入らないからな」
ノウトはズボンと下着を脱いで、布切れみたいになった上着を投げおく。身体を翼で覆い隠し、木でリアの方が見えなくなってる位置に着水する。
肩まで浸かってから、身体の汚れを要らなくなった布きれで拭う。
「太陽出てるうちに飛んだら凄く目立つと思うから暗いうちに行動したいよね」
木の向こう側からリアの声がした。
一緒には入らないと言ったが、もはやこれは一緒に沐浴してるも同然だ。ノウトは平然を装って返事をした。
「ああ、もうすぐにでも行きたいくらいだけど」
ノウトの身体にへばりついていた血や泥が透き通った水面を汚していく。この血のほとんどがリアとそしてノウトのものだ。
ノウトもリアも傷付きながら戦い、何とか勝つことが出来た。あれを勝利に入れていいのか些か疑問だが、リアの言う通り、こちら側が死ななかった、それだけで成功と言っても差し支えないだろう。そう自分に強く言い聞かせる。何か正当性を見つけなければやってられない。
熟考に浸りながら身体の汚れを拭っていると、ふと、ちゃぷちゃぷという音が近付いてくるのが分かった。
ノウトは咄嗟に身を翻して、遠ざかるようにした。その音の正体が彼女だと分かっていたからだ。
しかし、それが間違いだった。水の僅かな抵抗と湖底の泥濘によって足を滑らせてしまう。
「う、うおぉっ!?」
そのまま、ざぶんと湖に倒れ込む───ことは無く、リアに支えられて、ノウトは何とか事なきを得た。
「大丈夫?」
………いやいやいやいや。何が事なきを得た、だ。
完全にやばいことになってるだろ。
真正面にノウトを支えるようにしてリアが立っている。
ノウトも倒れないように必然的にリアの腰に手を回して、身体を押し付けあっているみたいな形になっていた。
「あ、ああ、大丈夫大丈夫」
一瞬で手を離して、少し後ろに飛び退いた。
目線を逸らして、遠い方を見る。さすがにリアの方を見れるほど肝が据わっていない。
「どこ見てるの?」
「えっ、ああ、………月……、綺麗だなって」
「ふふっ。ほんとだ」
紺空に浮かぶ二つの月は湖面を照らしていた。
「あっ、わたしなら大丈夫だよ。ちゃんと着てるから」
ああ、服着ながら身体拭いてたのか。それなら、リアがこんなに恥じらいがないのも納得だ。いや俺の方は裸なわけなんだけど。そこは気にしないでおこう。
リアの方へと視線を落とす。
「っておい!!」
「ん?」
「服着てないじゃないか!」
「着てるじゃん」
「それを服とは普通言わないから!!」
リアは下着だけを身につけていた。彼女はにやついた顔でノウトを見る。
「服を着てるとは一言も言ってないからね」
「……くっそ」
本当に何を考えているのか分からないやつだ。なんなんだ、ほんとに。
「背中、拭いてあげるよ」
「へっ……!? や、えと、大丈夫だけど」
「何が大丈夫なの。その翼あったら背中拭けないでしょ」
「あ、ああ。そ、れは、確かに…………?」
「わたしに任して」
ノウトが岩に腰掛けて、下着だけを身につけたリアがノウトの背後に回る。
「うわぁ、かなり汚れてるね」
「マジ?」
「うん」
そう言ってリアは手にした布でノウトの背中を拭き始めた。肩甲骨、翼の付け根あたりだ。くすぐったかったので、変な声が出そうになるも必死にそれを堪えた。
そして、どうしてだろうか。ノウトの下半身のある部分に血が集中していた。
違う。違うんだ。いや、誰に弁解してるんだよ。そう、これは生理現象であってリアに変な気持ちを抱いてるわけじゃない。
今そんな気持ちにかまけている場合じゃないんだ。一刻も早く西へと向かわなければいけない。
すると、リアがふふっ、と小気味よさそうに笑う。
「よし、綺麗になったよ」
「……ありがとう」
勝手にやってもらったとはいえ、礼は言わないといけない。
ノウトは心を落ち着かせて畔の方へと歩いていくと、腕を細い指々に掴まれた。
「ノウトくんの拭いてあげたから、わたしの背中拭いてよ」
「いやそれはさすがにおかしいだろ!!」
ノウトはついに痺れを切らして、感情を爆発させた。
「俺は男でお前は女だからな! なんかっ……もう、そこんところをよく考えてから発言してくれ!!」
自分でも何を言ってるのかよく分からないくらい混乱していた。
リアの顔をちらりと見ると、呆然とした顔で口をぽかーん、と開けていた。
「わたし、よく考えて発言してるけど」
「いやいやいやいや…………。はぁ……、まぁ、……いいか」
なんかもう気にしてる方が馬鹿らしくなってきた。
リアには何を言っても無駄だ。
こいつには常識がない。というか本能に欠如してるものがある。記憶がないノウトが常識を語るのもおかしな話ではあるが、明らかにリアはずれている。それは分かる。
リアがノウトと交代で岩の上に座る。ノウトは布を濯いでからリアの方へと視線を向ける。
無防備に真っ白い背中をこちらへ向けてノウトが背中を拭き始めるのを律儀に待っている。その背中を前に怖気付いたのか、ノウトは布を持ったまま固まってしまった。
「どうしたの?」
「あああぁっ!! こっち向くなよ!!」
リアの肩を抑えてこちらを向こうとするリアを何とか制止させる。
「分かった。拭くから。拭けばいいんだろ」
ノウトは半ば自棄糞にリアの背中を拭き始めた。
よく見なくても、綺麗な背中をしていることが分かる。これはもう洗う必要とかないのでは、と頭の片隅で考えてしまうがリアに関しては何を考えても無駄だということが改めて分かったのでやめた。
「ひゃ……」
ノウトがリアの肩甲骨の間らへんを拭くとリアが変な声を出した。
「変な声出すなよ……」
ノウトは思わず、心で思ったことを口に出してしまう。
「あはは……。ちょっとくすぐったくて」
リアはそれに対していつもの口調で返答した。
彼女は意識することがないのだろうか。
もしかして性別が存在しないタイプの人だったり……?
いや、どう見てもリアは女の子だ。
髪は艶やかだし、肌は綺麗で柔らかいし、それ相応に引っ込んでるところと膨らんでるところがあるし、顔は可愛いし。
だったらどうして、こんなことが出来るのだろうか。普通、危機感とかそういうのあるのではないだろうか。理解に苦しむ。
「終わったよ」
「ありがと」
リアが立ち上がり、笑顔でノウトの目を見据える。ノウトはその笑顔に一瞬だけ惚けてしまうも、すぐに自我を取り戻した。
「……もう出発しよう。少し時間を喰いすぎた」
「そうだね」
リアは畔の方へと歩いていった。その背中を追うようにして、ノウトも歩き出す。
闇が深いうちにロークラントには辿り着きたい。ニールヴルトの南には離島があり、そこを経由して魔人領に行くという道も一瞬だけ考えたが、途中で休むことが出来ないしどこかで落ちてしまったらそこで終わり、ということで自ら却下した。
堅実にロークラントを通って〈封魔結界〉を越えた方がいい。街での調達はノウトはこの姿なので出来ないが、リアに任すことは出来る。食料や衣服の類は何とかなるだろう。
ノウトのすぐ隣で服を着始めるリアの行動にはさすがに呆然としてしまったが、かぶりを振って気持ちを落ち着かせる。自分の方がおかしいのか、と錯覚もしてしまうがこればかりはリアの方が普通じゃないはずだ。
でも、こんな時にこんな気持ちになっている自分にも非があると感じて、ノウトもリアの隣で服を着始めた。
今はとにかく、ヴェロアのもとへ急がなければ。
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