聞こえる

戸沢一平

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第九話

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 襖が開いて、家老御用部屋から庶務役家老付き海和干城郎かいわたてきろうが出て来た。海和はチラリと猪四郎に視線を向けた。

「・・確かに、俺もそういう感じはしたのだが、急を要する可能性もあるからなぁ。話を入れずに事が起こったら、それこそ自分の失態になるし・・」

 海和は庶務役で勤務していたが、その働きぶりが仲里の目に留まり家老付きとして抜擢され、所属はそのままで仲里の側近として勤務している。歳も近く、何度か酒も一緒に飲んだ事がある比較的親しい間柄であり、猪四郎はこの件を海和に相談した。海和は、態度も言葉も、心の中も明らかに迷いを隠さなかったが、一応家老の耳に入れておくと言い、それを、この日のお勤めが引ける前の時刻に指定したのだ。猪四郎も、少し前から控えの間で待機していた。

 海和はゆっくりと座った。

「・・ただ大森が呟いていたというだけでは、さすがに取り調べも出来ない。そのような事は言っていないで終わりだろう。こいつが嘘を言う訳はないが、家老が指摘したように、このような謀反の想いを人に聞こえるように呟くと言う事が、そもそも疑しいの確かだ。やはり、具体的なものが無いと始まらない・・」

 海和は申し訳なさそうに視線を上げた。

「御家老に申し上げた。家老は殊の外関心を持たれて、こうした知らせをくれたそなたに感謝していた。今後も大森の周辺への警戒を怠らずに、仮に、確かな動きがあるようであれば、即座に対応するようにとのことだった。とりあえずは、しばらく様子を見ると言うことになった」

 心に思った事が聞こえたとはさすがに言えず、呟きが聞こえたことにしたが、それでも不自然さは払拭出来なかったようだ。どうやら、仲里は、自分が言った事は胡散臭いものとしか受け取っていない。せっかく謀反の端緒を掴んだのに、これでは何も変わらない。名を上げる糸口にはならないのか。自分だけが知り他人がそれを理解出来ないというもどかしい苛立ちの中で、諦めきれない思いが残った。

 海和が猪四郎の顔を見据えた。

「・・しかし、こいつは最近変わったな。謀反の話を聞いたとしても、自分で勢い込んで家老に話を上げるなど、以前は考えられなかった。何か、最近は焦っているような振る舞いだ。やはり、容姿への引け目があるのか。自分が気にするほど他人は注目などしていないものだが・・」

 焦りがあるように見えるのだろう。いや、確かに焦りはあった。この機会を活かさねばという思いが猪四郎の背中を強く押していた。なあ猪四郎、と言いながら、海和が心の中と同じことを口にした。海和の人の良さが再認識出来き、気遣いが心に染みた。

 下城の触れ太鼓が鳴った。

 城門を出る際は沈んだ思いを引きずっていたが、茶屋町に出た時には気持ちが切り替わっていた。今日はみをの稽古の日だ。

 二回続けて休みをとっているから、最後に顔を見たのは十日ほど前になる。何か、ずいぶん昔のことのようにも思えてきた。このままずっと会えないのではという不安もあった。

 三回目に顔を出したときだった。遠くにみをの姿が見てとれた。猪四郎は、目をつむりながら呼吸を整えて、通りに出るとゆっくりと歩を進めた。

 みをと目が合った。

「・・あ、猪四郎様、お久しぶりだわ・・」

 みをは晴れやかな笑みを浮かべた。元気な様子を見る事が出来て、「声」まで聞くことが出来た。これだけで満足した気になった。

「・・お元気なご様子で、お変わりなさそう・・」

 会釈をして横を通りすぎた。

「・・やはり、もう少し・・」

 待ち望んだものが、有無を言わさず猪四郎を立ち止まらせた。

「・・もう少し、お話がしたいわ。お声をかけて下さらないかしら・・」

 猪四郎の胸を矢が射抜いた。歓喜の震えが全身を襲った。

 だが、それも束の間、猪四郎は直ぐに現実に引き戻された。立ち止まっている場所から目と鼻の先にある茶屋の入り口から、暖簾を揺らしてフラリと大森が出てきたのだ。

 大森は既に酒は入っているらしくやや赤い顔をしていた。通りに出ると周囲を見回し、猪四郎にも一瞥をくれると、おもむろに歩き出した。やや遅れて、裕福な商人といった身装の良い中年の男が出てきて、大森とは反対の方角に歩き出した。

 猪四郎は、商人を付けるべきかと、やや迷ったものの、やはり大森と同じ方角に向かった。後ろ姿を遠目に見ながら、大森の心の内を読みたいという衝動に幾度となく駆られたが、近づき過ぎて怪しまれることへの警戒心が自重させていた。決定的な場面に出会すまでは気付かれる訳にはいかなかった。

 大森が周囲を窺う仕草をしながら四辻を右に折れるのが見えた。
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