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第八話
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新しい厩を建てる作業が始まった。完成するまでの間は、前の厩があった場所の隣に仮の小屋が設けられている。雨風を凌げるだけの簡単な作りだ。
この日、猪四郎は作業現場の見回りの当番になっていたが、その帰りに仮の厩に寄った。周囲の様子を伺ったが、馬の世話を請負っている奉公人の姿は無かった。それを確かめると、猪四郎は厩に入った。
中央に居た星雲号の前に立った。星雲号は挨拶するように首を前に出した。
「・・この前は世話になった。礼を言う・・」
「なあに、やるべき事をやっただけさ。こちらこそ、褒美をもらって礼を言うよ」
星雲号はフッと鼻から息を吐いた。
「・・何か、それで満足していないようだな・・」
「流石に鋭いな。実は、頼みがあって来た」
星雲号が首を引いた。
「・・人は、これだから困ったものだ。欲に止め度が無い・・」
猪四郎は手を伸ばして星雲号の首を撫でた。
「ちょっと待ってくれ。この前は必死の想いだったのだ。上役の命令にも逆らって、それこそ、役人としての人生をかける思いだった。その苦労に、頼んだお前も少しは報いてもいいでは無いか」
「・・それは確かにそうだな。分かった、何の頼みだ・・」
「この前のように、お前たちが感じているが、人が知ることが出来ないような異変は無いか。あったら教えてくれ」
「・・そのようなものは無い・・」
「そうつれない事を言わなくても良いではないか。何でも良いのだ。お前が感じた、気になる事で良いのだ」
星雲号がしばらく首を振っていた。
「・・ひとつ、気になることがある・・」
「何だ」
「・・ここに出入りする人らは、欲に満ちて不満を抱えた者ばかりだ、お前のように・・」
猪四郎はみをや出世のことが頭を過った。
「人であれば皆そうだ。欲がなければ物事は進まない。人生とはそういうものだろう」
「・・我らには理解できない。聞きたくないのであればやめる・・」
「わかった。すまぬ、言ってくれ」
「・・その中で欲が特に強く、何か、人同士で殺し合いをすることも厭わないような、危険な匂いがする者がいる。それが気になっている・・」
やや落胆した。そのようなことか、というのが正直な思いだった。当然ながら何かあれば刀を抜くことも厭わない者もいるだろう。自分が知る範囲でも、血の気の多い者は少なく無い。わざわざ馬に言われることでも無い。気持ちが引いた。
「なるほど。それで、その者とは誰なのだ、何をしようとしている」
「・・名など分からない、前から見慣れた、最近よくここにくる者だ。何をするかも分からないが、とにかく危険な心を隠しもしない・・」
猪四郎は仮の厩を出て、庶務役御用部屋へ戻ろうとしていた。
星雲号から聞いた話は出世の糸口にはなりそうも無かった。やはり、馬などではなく上役の心の内を知る必要がある、そう思った時、一人の侍とすれ違った。
目付役の大森敬次郎だ。
猪四郎は思わず立ち止まった。大森は、仲里の前の家老吉井誠之助の側近で、懐刀とも目されていた。藩主交代後しばらく、新体制へ反発する旧勢力が事を起こしかけた騒動が何度となくあったが、常にその中心にこの大森がいたのではとも言われていた。やがて、大森は国境の番所に飛ばされ、その名も忘れ去られていたが、昨年、吉井が亡くなったのを機に、目付役として戻されていた。大森は、当然ながら前藩主を敬愛していたと思われる。であれば、その愛馬であった星雲号にはよく会いに来ていることは間違いない。
猪四郎には、星雲号の言う危険な匂いが、藩主交代時の遺恨と結びついていた。
猪四郎は大森の跡を付けた。案の定、厩に入って行った。厩の裏に回って、中を伺った。隙間から大森の姿を見る事が出来た。
大森は星雲号の首を撫でている。彫りの深いはっきりした顔立ちだが、馬を見つめる目に密かな陰を感じた。猪四郎はその顔を注視した。
「・・やはり、このまま人生を終えるのは忍びない。仲里に一矢報いないことには、死んでも死にきれない・・」
猪四郎に衝撃が走った。その動揺は、藩の一大事になりかねない端緒を自分が掴んだ、という興奮には違い無いものの、金脈を掘り当てたような驚きも含んでいた。
だが、事が事だけに、成り行きによっては騒動に発展し、その火の粉が自分の身にも及ぶ危険を孕んでいることも十分に理解出来た。それだけに、下手を打ってはいけないという緊張も生まれた。
「・・仲里が藩政を担って民が豊かになったというのならまだ許せるが、前にも増して酷いではないか。昨年の凶作に今年の長雨と、藩の状況は厳しくなる一方だ。吉井様のように気さくに皆と交われば、家臣も共に頑張ろうという気も起こるが、一部の者しか近付けない専横ぶりでは誰も付いては行かない。しかも、民の貧困をよそに自分は贅沢三昧のいい暮らしぶりのようではないか・・」
昨年は確かに凶作ではあったが、藩は、年貢の一部免除を行い、領内の商人から借金してまで貧困の者に手当てをしたほどだ。今年も天候の状況に応じた対策を、仲里は抜かりなく指示している。農民から不満などは起こってはいない。仲里が殊の外贅沢をしているような話も聞かない。謀反を起こす側にとって、事を起こす大義はどうでも良いのだろうと思えた。
大森が厩を出て城下の方角に去って行った。
この日、猪四郎は作業現場の見回りの当番になっていたが、その帰りに仮の厩に寄った。周囲の様子を伺ったが、馬の世話を請負っている奉公人の姿は無かった。それを確かめると、猪四郎は厩に入った。
中央に居た星雲号の前に立った。星雲号は挨拶するように首を前に出した。
「・・この前は世話になった。礼を言う・・」
「なあに、やるべき事をやっただけさ。こちらこそ、褒美をもらって礼を言うよ」
星雲号はフッと鼻から息を吐いた。
「・・何か、それで満足していないようだな・・」
「流石に鋭いな。実は、頼みがあって来た」
星雲号が首を引いた。
「・・人は、これだから困ったものだ。欲に止め度が無い・・」
猪四郎は手を伸ばして星雲号の首を撫でた。
「ちょっと待ってくれ。この前は必死の想いだったのだ。上役の命令にも逆らって、それこそ、役人としての人生をかける思いだった。その苦労に、頼んだお前も少しは報いてもいいでは無いか」
「・・それは確かにそうだな。分かった、何の頼みだ・・」
「この前のように、お前たちが感じているが、人が知ることが出来ないような異変は無いか。あったら教えてくれ」
「・・そのようなものは無い・・」
「そうつれない事を言わなくても良いではないか。何でも良いのだ。お前が感じた、気になる事で良いのだ」
星雲号がしばらく首を振っていた。
「・・ひとつ、気になることがある・・」
「何だ」
「・・ここに出入りする人らは、欲に満ちて不満を抱えた者ばかりだ、お前のように・・」
猪四郎はみをや出世のことが頭を過った。
「人であれば皆そうだ。欲がなければ物事は進まない。人生とはそういうものだろう」
「・・我らには理解できない。聞きたくないのであればやめる・・」
「わかった。すまぬ、言ってくれ」
「・・その中で欲が特に強く、何か、人同士で殺し合いをすることも厭わないような、危険な匂いがする者がいる。それが気になっている・・」
やや落胆した。そのようなことか、というのが正直な思いだった。当然ながら何かあれば刀を抜くことも厭わない者もいるだろう。自分が知る範囲でも、血の気の多い者は少なく無い。わざわざ馬に言われることでも無い。気持ちが引いた。
「なるほど。それで、その者とは誰なのだ、何をしようとしている」
「・・名など分からない、前から見慣れた、最近よくここにくる者だ。何をするかも分からないが、とにかく危険な心を隠しもしない・・」
猪四郎は仮の厩を出て、庶務役御用部屋へ戻ろうとしていた。
星雲号から聞いた話は出世の糸口にはなりそうも無かった。やはり、馬などではなく上役の心の内を知る必要がある、そう思った時、一人の侍とすれ違った。
目付役の大森敬次郎だ。
猪四郎は思わず立ち止まった。大森は、仲里の前の家老吉井誠之助の側近で、懐刀とも目されていた。藩主交代後しばらく、新体制へ反発する旧勢力が事を起こしかけた騒動が何度となくあったが、常にその中心にこの大森がいたのではとも言われていた。やがて、大森は国境の番所に飛ばされ、その名も忘れ去られていたが、昨年、吉井が亡くなったのを機に、目付役として戻されていた。大森は、当然ながら前藩主を敬愛していたと思われる。であれば、その愛馬であった星雲号にはよく会いに来ていることは間違いない。
猪四郎には、星雲号の言う危険な匂いが、藩主交代時の遺恨と結びついていた。
猪四郎は大森の跡を付けた。案の定、厩に入って行った。厩の裏に回って、中を伺った。隙間から大森の姿を見る事が出来た。
大森は星雲号の首を撫でている。彫りの深いはっきりした顔立ちだが、馬を見つめる目に密かな陰を感じた。猪四郎はその顔を注視した。
「・・やはり、このまま人生を終えるのは忍びない。仲里に一矢報いないことには、死んでも死にきれない・・」
猪四郎に衝撃が走った。その動揺は、藩の一大事になりかねない端緒を自分が掴んだ、という興奮には違い無いものの、金脈を掘り当てたような驚きも含んでいた。
だが、事が事だけに、成り行きによっては騒動に発展し、その火の粉が自分の身にも及ぶ危険を孕んでいることも十分に理解出来た。それだけに、下手を打ってはいけないという緊張も生まれた。
「・・仲里が藩政を担って民が豊かになったというのならまだ許せるが、前にも増して酷いではないか。昨年の凶作に今年の長雨と、藩の状況は厳しくなる一方だ。吉井様のように気さくに皆と交われば、家臣も共に頑張ろうという気も起こるが、一部の者しか近付けない専横ぶりでは誰も付いては行かない。しかも、民の貧困をよそに自分は贅沢三昧のいい暮らしぶりのようではないか・・」
昨年は確かに凶作ではあったが、藩は、年貢の一部免除を行い、領内の商人から借金してまで貧困の者に手当てをしたほどだ。今年も天候の状況に応じた対策を、仲里は抜かりなく指示している。農民から不満などは起こってはいない。仲里が殊の外贅沢をしているような話も聞かない。謀反を起こす側にとって、事を起こす大義はどうでも良いのだろうと思えた。
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