聞こえる

戸沢一平

文字の大きさ
上 下
2 / 11

第二話

しおりを挟む
 猪四郎や三浦が所属する庶務役の組頭である武藤義之助は常に上役の顔色を伺っているような、いわゆる小役人である。上層部や他の役方の動きを殊の外気にして、「家老が何と言うか」が口癖でもある。

 その武藤をはじめ三浦や役方全員が厩の周辺に陣取っているのが見えて来た。

 自分と星雲号を心配して出て来ているのは明らかだったが、かといって、今にも裏山が崩れてくるということであれば、詳しい説明などしている場合ではない。ましてや、自分が厩から馬を逃そうとしているのは馬に言われたから、などということが、到底通るとも思えなかった。

 武藤が必死の形相で睨んだ。
「星雲号はどうした。いたのか、いなかったのか」
「はい。岩沼のところにおりました。無事です」

 三浦が叫んだ。
「では、何故連れて帰らぬ。本当にいたのか」
「いたにはいたのですが、その・・」

 ザワザワという音がしてその方向に猪四郎は視線を向けた。裏山から多くの鳥たちが飛び立っている。これは、本当に崩れるかも知れない。

「早く訳を申せ、何故星雲号を置いて自分だけ戻ったのだ」

 三浦が大きな体で圧力を掛けるように詰め寄って来た。だが、猪四郎は全神経を裏山に集中せざるを得なかった。これで、獣らが逃げ出すのであれば崩れるのが確実になるのだ。見逃すまいと小さな目を大きく開いて裏山の方向を注視した。

「おい、猪四郎、どこを見ている、真面目に答えろ」

 三浦が猪四郎の肩に手をかけて揺する。その時、裏山の方角から猪やウサギが方々に散って行くのが見えた。

「あ、あ、お待ちくだされ、訳は後ほど説明いたしますゆえ、御免」

 猪四郎は三浦の手を振り払って、急いで厩に入った。丸太の策を取り払って馬を外に出し始めた。猪四郎の耳に、場が混乱しているざわめきと武藤の何かを叫ぶ金切り声が聞こえたが、無論、手を止める訳には行かない。一頭、また一頭と馬を外に出した。

 あと一頭というとき、三浦が大きな体を揺すりながら厩に入って来た。

「馬鹿ぁ、やめろ、何をしている、やめろ。組頭の命令だ」

 猪四郎はハッとして三浦を見た。上司の命令に逆らうなど想像すら憚られる禁断の行為であった。これまで、心の中に反発するものを抱えていても常に我慢を重ねて上司への服従の姿勢を示して来た。これでは役人としての御法度を破ることになる。

 三浦が両手で猪四郎の肩を掴んだ。
「お前は上役の命令に逆らうのか」

 猪四郎は残っている一頭に視線を移した。ここは、上司に逆らっても、何としても馬を出すことが優先される。だが、命令に逆らうことを拒んで体は止まっている。

「裏山が崩れるのです。この厩が潰れます。馬だけは逃さないといけません」
「何を寝ぼけたことを言うか」
「もう余裕がありません、訳は、訳は後ほど・・」
「お前、容姿が貧弱なだけでなく、頭もおかしくなったか」

 猪四郎の中で何かが弾けた。ヒョイと屈んで三浦の手を振り払い、サッと馬に駆け寄ってその尻を思い切り叩いた。馬が三浦の横をすり抜けて勢いよく外に出て行った。三浦が馬を避けようとして尻もちをつき、裏返った亀がもがくように手と足をバタバタさせている。

 その姿を見て、猪四郎にやるべきことはやったという安堵感が満ちて来た。同時に、やや後悔の念も去来した。いくら説明したところで納得してもらえるとは思われない。これで、自分の役人としての人生も終わるかも知れない。いずれにしろ、自分たちも早く逃げねばならない。

 猪四郎は三浦に近づいて立ち上がるのを手助けしようと手を差し伸べたが、三浦が眉間にしわを寄せて睨み、その手を跳ね除けた。

「このような事をして、後で泣き面かくなよ、後悔しても遅いぞ」

 それは十分に理解できる事だった。このまま裏山が崩れないで何事もなければ、もう何を言っても無駄だろう。

 二人で厩の外に出た。途端に、役方全員の錐のように鋭い視線が体に突き刺さるのを感じた。猪四郎はこの息詰まる状況から解放される期待を込めて裏山を見た。しかし、山は静寂を保っている。

 三浦が武藤の側に行き、猪四郎に視線を移した。
「こいつは馬を出したのは裏山が崩れるからだと言いまして」

 どっと一同から笑いが起こった。極度に緊張する雰囲気は消えたが、代わって嘲りに満ちたざわめきの中に猪四郎は身を置くことになった。

 武藤は口を真一文字に結び鋭い視線で場を見回し、静まれと右手をあげた。
「そんなことよりも星雲号だ、星雲号の無事を確かめろ」

 武藤は上擦った声を張り上げた。
「この馬達を厩に戻して、早く星雲号を探しに行け」

 役方一同が姿勢を正して一斉に動き出した。

 その時だった。

 小刻みに地面が振動し始め、やがてゴーという太く不気味な音が聞こえだした。

 皆が音の方向の裏山を注視した。その裏山の木々がユサユサと大きく揺れたかと思うと、それらが生き物のように迫って来て、あっという間に土砂と共に厩に覆いかぶさってこれを押し潰した。土砂の流れくるドドドという低く唸るような音と、厩が潰されるバキバキという悲鳴のような音が周囲に響いた。

 蜘蛛の子を散らすように皆が逃げて、馬達も四方に散った。直後に、その一帯を土砂と倒木が埋め尽くした。間一髪で人も馬も犠牲を出さずに難を逃れることが出来た、という状況となった。

 やがて静寂が訪れた。

 猪四郎は我に返って周囲を見渡した。人も馬も犠牲は出ていないようだ。バクバクと全身に響いていた鼓動が少しずつ静まって行き、それと同時に、ジワリと心地良い安堵感が満ちて来た。

 気付くと、皆が呆然として自分を注目している。武藤も三浦も口を開けて放心の表情で立ち尽くしているが、視線は自分に向けられていた。それらの眼差しは、自分がこれまで浴びせられて来た嘲笑を含んだ陰湿なものとは明らかに違っていた。

 確かに、自分が上司の命令にまで逆らって強行したことが、最良の結果をもたらしたのだ。役方の誰もが目にしている。これで皆が自分を見直してもおかしくはない。

 だが、素直に喜べない気持ちが心の多くを占めていた。自分は馬が言った通りにしただけであり、能力を発揮したとか機転を効かせた訳ではない。上司の命令に逆らってまで馬を逃したとはいえ、三浦の言葉に思わず理性を失ったためだった。胸を張って自分の手柄と思うには無理があった。

 ただ、こうした事情は自分以外の者は知る由もない。今後は、自分を見る目は明らかに変わるだろうとも思えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

紅花の煙

戸沢一平
歴史・時代
 江戸期、紅花の商いで大儲けした、実在の紅花商人の豪快な逸話を元にした物語である。  出羽尾花沢で「島田屋」の看板を掲げて紅花商をしている鈴木七右衛門は、地元で紅花を仕入れて江戸や京で売り利益を得ていた。七右衛門には心を寄せる女がいた。吉原の遊女で、高尾太夫を襲名したたかである。  花を仕入れて江戸に来た七右衛門は、競を行ったが問屋は一人も来なかった。  七右衛門が吉原で遊ぶことを快く思わない問屋達が嫌がらせをして、示し合わせて行かなかったのだ。  事情を知った七右衛門は怒り、持って来た紅花を品川の海岸で燃やすと宣言する。  

AIシミュレーション歴史小説『瑞華夢幻録』- 華麗なる夢幻の系譜 -

静風
歴史・時代
この物語は、ChatGPTで仮想空間Xを形成し、更にパラレルワールドを形成したAIシミュレーション歴史小説です。 【詳細ページ】 https://note.com/mbbs/n/ncb1a722b27fd 基本的にAIと著者との共創ですが、AIの出力を上手く引出そうと工夫しています。 以下は、AIによる「あらすじ」の出力です。 【あらすじ】 この物語は、戦国時代の日本を舞台に、織田信長と彼に仕えた数々の武将たちの壮大な物語を描いています。信長は野望を胸に秘め、天下統一を目指し勇猛果敢に戦い、国を統一するための道を歩んでいきます。 明智光秀や羽柴秀吉、黒田官兵衛など、信長に協力する強力な部下たちとの絆や葛藤、そして敵対する勢力との戦いが繰り広げられます。彼らはそれぞれの個性や戦略を持ち、信長の野望を支えながら自身の野心や信念を追い求めます。 また、物語は細川忠興や小早川隆景、真田昌幸や伊達政宗、徳川家康など、他の武将たちの活躍も描かれます。彼らの命運や人間関係、武勇と政略の交錯が繊細に描かれ、時には血なまぐさい戦いや感動的な友情、家族の絆などが描かれます。 信長の野望の果てには、国を統一するという大きな目標がありますが、その道のりには数々の試練や困難が待ち受けています。戦いの中で織り成される絆や裏切り、政治や外交の駆け引き、そして歴史の流れに乗る個々の運命が交錯しながら、物語は進んでいきます。 瑞華夢幻録は、戦国時代のダイナミックな舞台と、豪華なキャストが織り成すドラマチックな物語であり、武将たちの魂の闘いと成長、そして人間の尊厳と栄光が描かれています。一つの時代の終わりと新たな時代の始まりを背景に、信長と彼を取り巻く人々の情熱と野心、そして絆の物語が紡がれていきます。

雪のしずく

優木悠
歴史・時代
――雪が降る。しんしんと。―― 平井新左衛門は、逐電した村人蓮次を追う任務を命じられる。蓮次は幕閣に直訴するための訴状を持っており、それを手に入れなくてはならない。新左衛門は中山道を進み、蓮次を探し出す。が、訴状が手に入らないまま、江戸へと道行きを共にするのであったが……。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

平隊士の日々

china01
歴史・時代
新選組に本当に居た平隊士、松崎静馬が書いただろうな日記で 事実と思われる内容で平隊士の日常を描いています また、多くの平隊士も登場します ただし、局長や副長はほんの少し、井上組長が多いかな

大奥~牡丹の綻び~

翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。 大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。 映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。 リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。 時は17代将軍の治世。 公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。 京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。 ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。 祖母の死 鷹司家の断絶 実父の突然の死 嫁姑争い 姉妹間の軋轢 壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。 2023.01.13 修正加筆のため一括非公開 2023.04.20 修正加筆 完成 2023.04.23 推敲完成 再公開 2023.08.09 「小説家になろう」にも投稿開始。

【短編】輿上(よじょう)の敵 ~ 私本 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 今川義元の大軍が尾張に迫る中、織田信長の家臣、簗田政綱は、輿(こし)が来るのを待ち構えていた。幕府により、尾張において輿に乗れるは斯波家の斯波義銀。かつて、信長が傀儡の国主として推戴していた男である。義元は、義銀を御輿にして、尾張の支配を目論んでいた。義銀を討ち、義元を止めるよう策す信長。が、義元が落馬し、義銀の輿に乗って進軍。それを知った信長は、義銀ではなく、輿上の敵・義元を討つべく出陣する。 【表紙画像】 English: Kano Soshu (1551-1601)日本語: 狩野元秀(1551〜1601年), Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

ロクスタ〜ネロの愛した毒使い〜

称好軒梅庵
歴史・時代
ローマ帝国初期の時代。 毒に魅入られたガリア人の少女ロクスタは、時の皇后アグリッピーナに見出され、その息子ネロと出会う。 暴君と呼ばれた皇帝ネロと、稀代の暗殺者である毒使いロクスタの奇妙な関係を描く歴史小説。

処理中です...