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第九話
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七右衛門は吉原にいた。
競を終えて湊からここまでどうやって来たかも定かでは無い。心が浮ついて夢を見ているようだった。多くの者に話しかけられ何かを言われたが覚えていない。
酒が入り、杯を重ねるとようやく落ち着きが戻って来た。周囲の騒音も耳に入り、窓から吹き込む生暖かい風も感じられた。視界がはっきりすると、ぼんやりとたかの顔を見ていた。
「ふふ、少し視点が定まって来たわね」
たかが持つ銚子から注がれる酒を見ながら、人には酒が必要だとつくづく思った。酒を飲まなければ、まだ心が明後日の方向にでも行っていただろう。注がれた酒をゆっくりと喉に通した。
心が落ち着いて来ると、七右衛門は今日の出来事も冷静に確認することが出来るようになっていた。最高の値は最初の一駄の百両だった。その後は七十から八十で全てが売り切れた。更に、その後も買いの注文が続いた。それを便りにして惣兵衛に送った。
「儲かったのと喧嘩に勝ったのは判ったわ。それで、その金額はいくらなの」
七右衛門がうんと頷いて懐から紙を取り出した。浅吉が計算して書いてくれたものだ。しばらくそれを見ていたが、黙って差し出した。
たかが受け取り目を見張った。
「どういうこと、三万両よ・・」
運んできた四十五駄が百から八十で売れて四千両、更に、注文売りで二百八十駄が売れて二万六千両余り、〆て三万両となっていた。
「まさか、こんな事になるとは・・」
いくら言い訳をしようが、これは真っ当な取引とは言い難かった。騙しが産んだ産物としか思えない。何より額が大きすぎる。仮にこれが戦や凶作による高騰だったとしても、商人としての倫理観に照らせば受け取りに躊躇するような額だ。ましてや、こともあらうに自分の行為がその原因なのだ。そうした事の重大さが理解できるようになると、それが重圧として七右衛門の心に迫って来た。
「尋常な商売の金じゃない。自分の為に使ったら罰が当たる。どうすれば良いのやら・・」
たかが銚子を置き、団扇を手にとり扇いだ。
「夜は長いわよ。ゆっくり考えたらいいわ」
確かに、今日慌てて使い道を決めなければいけないという訳ではない。
「さあ、気分を変えて、今の気持ちを詠んでみて」
呑気に俳句を詠むような気分ではなかったが、難題から逃れたい気持ちもあった。
「そうだな、今の気持ちか。売上金気付いてみれば三万両」
たかが団扇を口に当て思わず吹き出した。
「ふふ、そのままじゃない。しかも季語が入っていないし。少しは捻りなさいよ」
「そうか、こりゃあ川柳か。じゃあ、手本を詠んでくれ」
たかが微笑みながらまた団扇を扇ぎ出した。
「多すぎて嬉しさ半減売上金」
七右衛門は酒を口にしながらたかの顔を見ていた。
「身の丈に合った額しか身に付かず」
たかの顔からは知的な輝きが放たれていた。
「見たことも無い金額は縁もなし」
たかの心地よい声音を聞きながら、ふと、地道な商いではなく降って湧いたような金は、何がしか他人の為に使うべきなのではと思った。例えば困っている者や助けを求めている者の為に。そう考えたとき、その当人が目の前に居る事に気付いた。七右衛門は前のめりに体をたかに寄せて、その手を握った。
「待て、其方の身請け金は、確か三千両だったな」
たかがハッとして七右衛門を見た。その眼の動きは複雑な想いを表していた。団扇がポトリと落ちた。
「そうよ、どうするの・・」
七右衛門は握る手に力を込めた。
「どうして欲しい・・」
通りのざわつきが聞こえ、蝋燭がゆらりと揺れた。七右衛門はたかの言葉を待った。たとえ何を言われようが、その通りにする決心をした。長い沈黙が続き、期待と不安が胸を交錯した。
「あたいのお金じゃないわ、聖さんのお金なのよ」
「俺の為には使えない。だから・・」
たかの眼は悲しみの色に変わり、涙が浮かんだ。
「それなら、あたいの為に使うことも、出来ないでしょ」
それが道理だ。たかの為に使えば同じことだ。理屈で納得しようと思ったが、その理屈が冷酷に立ちはだかった。七右衛門はたかの手を離し上体を起こした。行き場のない気持ちの昂りだけが残った。
七右衛門は立ち上がって障子戸を開けた。煌びやかな通りが目に入った。何処かで女たちが笑っている。男たちの声も聞こえる。
誰か特定の者の為でないとは、それは皆の為しかない。七右衛門は通りを眺めながら、世話になっているこの花街のためならこうした金を使うことも許される気がしてきた。
それなら誰もが納得するだろう。
肩の力が一気に抜けて行った。七右衛門は大きく息を吐いた。
「中の皆の望みというのは、何だい」
たかが立ち上がり、七右衛門に寄り添って外を眺めた。
「そうねぇ、毎日、皆は働き詰めよ。きっと、休みたいと思っているわ」
七右衛門はゆっくり頷いた。
「決めたよ。この金で此処を俺の貸し切りにする。その間、中の皆を休ませる」
たかが微笑みながら涙を拭った。
七右衛門は、次の日から大門を締め切って他の客を入れず、吉原を独り占めにした。それが、三日三晩も続いた。
競を終えて湊からここまでどうやって来たかも定かでは無い。心が浮ついて夢を見ているようだった。多くの者に話しかけられ何かを言われたが覚えていない。
酒が入り、杯を重ねるとようやく落ち着きが戻って来た。周囲の騒音も耳に入り、窓から吹き込む生暖かい風も感じられた。視界がはっきりすると、ぼんやりとたかの顔を見ていた。
「ふふ、少し視点が定まって来たわね」
たかが持つ銚子から注がれる酒を見ながら、人には酒が必要だとつくづく思った。酒を飲まなければ、まだ心が明後日の方向にでも行っていただろう。注がれた酒をゆっくりと喉に通した。
心が落ち着いて来ると、七右衛門は今日の出来事も冷静に確認することが出来るようになっていた。最高の値は最初の一駄の百両だった。その後は七十から八十で全てが売り切れた。更に、その後も買いの注文が続いた。それを便りにして惣兵衛に送った。
「儲かったのと喧嘩に勝ったのは判ったわ。それで、その金額はいくらなの」
七右衛門がうんと頷いて懐から紙を取り出した。浅吉が計算して書いてくれたものだ。しばらくそれを見ていたが、黙って差し出した。
たかが受け取り目を見張った。
「どういうこと、三万両よ・・」
運んできた四十五駄が百から八十で売れて四千両、更に、注文売りで二百八十駄が売れて二万六千両余り、〆て三万両となっていた。
「まさか、こんな事になるとは・・」
いくら言い訳をしようが、これは真っ当な取引とは言い難かった。騙しが産んだ産物としか思えない。何より額が大きすぎる。仮にこれが戦や凶作による高騰だったとしても、商人としての倫理観に照らせば受け取りに躊躇するような額だ。ましてや、こともあらうに自分の行為がその原因なのだ。そうした事の重大さが理解できるようになると、それが重圧として七右衛門の心に迫って来た。
「尋常な商売の金じゃない。自分の為に使ったら罰が当たる。どうすれば良いのやら・・」
たかが銚子を置き、団扇を手にとり扇いだ。
「夜は長いわよ。ゆっくり考えたらいいわ」
確かに、今日慌てて使い道を決めなければいけないという訳ではない。
「さあ、気分を変えて、今の気持ちを詠んでみて」
呑気に俳句を詠むような気分ではなかったが、難題から逃れたい気持ちもあった。
「そうだな、今の気持ちか。売上金気付いてみれば三万両」
たかが団扇を口に当て思わず吹き出した。
「ふふ、そのままじゃない。しかも季語が入っていないし。少しは捻りなさいよ」
「そうか、こりゃあ川柳か。じゃあ、手本を詠んでくれ」
たかが微笑みながらまた団扇を扇ぎ出した。
「多すぎて嬉しさ半減売上金」
七右衛門は酒を口にしながらたかの顔を見ていた。
「身の丈に合った額しか身に付かず」
たかの顔からは知的な輝きが放たれていた。
「見たことも無い金額は縁もなし」
たかの心地よい声音を聞きながら、ふと、地道な商いではなく降って湧いたような金は、何がしか他人の為に使うべきなのではと思った。例えば困っている者や助けを求めている者の為に。そう考えたとき、その当人が目の前に居る事に気付いた。七右衛門は前のめりに体をたかに寄せて、その手を握った。
「待て、其方の身請け金は、確か三千両だったな」
たかがハッとして七右衛門を見た。その眼の動きは複雑な想いを表していた。団扇がポトリと落ちた。
「そうよ、どうするの・・」
七右衛門は握る手に力を込めた。
「どうして欲しい・・」
通りのざわつきが聞こえ、蝋燭がゆらりと揺れた。七右衛門はたかの言葉を待った。たとえ何を言われようが、その通りにする決心をした。長い沈黙が続き、期待と不安が胸を交錯した。
「あたいのお金じゃないわ、聖さんのお金なのよ」
「俺の為には使えない。だから・・」
たかの眼は悲しみの色に変わり、涙が浮かんだ。
「それなら、あたいの為に使うことも、出来ないでしょ」
それが道理だ。たかの為に使えば同じことだ。理屈で納得しようと思ったが、その理屈が冷酷に立ちはだかった。七右衛門はたかの手を離し上体を起こした。行き場のない気持ちの昂りだけが残った。
七右衛門は立ち上がって障子戸を開けた。煌びやかな通りが目に入った。何処かで女たちが笑っている。男たちの声も聞こえる。
誰か特定の者の為でないとは、それは皆の為しかない。七右衛門は通りを眺めながら、世話になっているこの花街のためならこうした金を使うことも許される気がしてきた。
それなら誰もが納得するだろう。
肩の力が一気に抜けて行った。七右衛門は大きく息を吐いた。
「中の皆の望みというのは、何だい」
たかが立ち上がり、七右衛門に寄り添って外を眺めた。
「そうねぇ、毎日、皆は働き詰めよ。きっと、休みたいと思っているわ」
七右衛門はゆっくり頷いた。
「決めたよ。この金で此処を俺の貸し切りにする。その間、中の皆を休ませる」
たかが微笑みながら涙を拭った。
七右衛門は、次の日から大門を締め切って他の客を入れず、吉原を独り占めにした。それが、三日三晩も続いた。
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