8 / 9
第八話
しおりを挟む
夕刻、七右衛門は湊の島津屋の詰所に居た。その横顔を窓から差し込む夕陽が照らしている。風向きが変わったのだろう、開けっぱなしの入り口から僅かな潮の香りが入ってきた。同時に浅吉が勢いよく飛び込んできた。
「今日行われた他産の競の話を聞いてきあした。いやあ、凄い。何処でも軒並み高値で取引されています」
「そんなに高騰しているのか・・」
「ええ、安いものでも二十五両は行っています。奥州産は三十五両も下らないそうです。無理もありませんや、あんな派手に燃えるのを見せつけられたのだ、今季は品薄になるという読みでしょう。噂が広まるのは早い、明日はもっと高値がつくかも知れませんぜ」
七右衛門は明日、再度競を行うことにしていた。それはすでに浅吉が手配を終えていた。
「そうか・・」
七右衛門の気持ちが沈んでいた。
あの問屋の食い入る様に見つめる視線が脳裏に焼き付いていたのだ。自分と繁太郎の喧嘩に巻き込まれた悲痛な叫びが聞こえるようだ。高く売れれば繁太郎には一泡吹かせたことにはなるが、他の問屋やその後ろにいる紅屋からは不当な金を受け取ることになる。それでは嬉しさよりも後ろめたさが先に立つだろう。真っ当な心を持つ商人であれば耐えられないことだ。
「浅さん、ちょいと出かけてくる」
七右衛門が湊を後にした。
後悔はしたものの、今更三十両で売るとは言えない。しかも、この煽りを受けて今季の花の相場が高騰している。自ら始めたことながら、既にその手を離れて相場が勝手に動いていた。もう自分ではどうすることも出来ないもどかしさが心を支配していた。
七右衛門は日本橋の柿川屋の前に立っていた。
暖簾をくぐり店に入ると使用人に用件を告げた。繁太郎が奥から出てきた。七右衛門を見ると睨みつけた。
「何の用だ」
「今日燃やしたのは花では無い。鉋屑だ。其方が言った通り、あれはハッタリだった。それを言いに来た」
「やはりな。明日競を行うと聞いたとき、そんな事だろうとは思ったぜ」
七右衛門がクルリと背を向けて店を出ようとすると、繁太郎が止めた。
「待て、何故それを言いに来た」
七右衛門が振り返った。
「明日の競は、ハッタリ無しで行おうと思って。商売に、変な意地を持ち込むのは止めようと思ったのさ」
「そうかい。組合の皆には伝えておくが、行くか行かないは勝手だ。俺は行かないけどな」
繁太郎の表情は穏やかになっていた。七右衛門は気が楽になった。もう、結果はどうでも良かった。
翌日、予定の時刻になった。
競の場所には多くの問屋だけでなく紅屋も来ていた。その数およそ三百人、通常の三倍以上になっている。誰もが積まれた荷を見ながら小声で隣の者と話し、周囲の様子も探っている。極度に張り詰めた異様な空気が場を支配していた。
七右衛門が荷の側に立った。
「昨日燃やしたのは鉋屑だった。花は十分にある。焦らないで買ってくれ。今季は始まったばかりで、まだ買い付けは相当できるから、無くなったら注文受けもする」
一つ目の荷を解き、紅餅を二、三個取り出した。それを掲げて皆に見せた。
「まずこの荷だ、よく見てくれ、正真正銘の出羽最上の花だ。三十両から始める」
鮮やかな赤に皆の視線が集中し、途端に次々と声が掛かった。
「三十二」
「三十五」
「三十七」
「四十」
地を這うような響めきが起こった。予想しなかった展開は七右衛門を慌てさせた。気持ちが動転して、思わず叫んだ。
「待ってくれ、花は十分にある、焦ることはない。皆、落ち着いてくれ」
しかし、誰もそれを聞いている様子はない。
「四十二」
「四十五」
「四十七」
七右衛門は茫然として会場に響くそれらのかけ声を聞いていた。誰もが真剣な眼差しを自分に向けている。これでは、もう自分にはどうすることも出来ないと思った。血の気が引いていき、頭が真っ白になった。
値は七十まで上がっている。
「聖さん、気にするな。ここは成り行きに任せな」
気づくと千代鶴が目の前にいた。
「初競で、しかも最初の荷だ。ご祝儀の意味もある。いくら高くてもいいだろうぜ、ってぇ事で、俺も参加させてもらうよ。では、思い切って、百」
どっと大きな声が上がった。
驚きや困惑だけでなく、納得、更には笑いも含まれていた。ざわざわした余韻が残り、場が少しの間緊張から解放された。七右衛門も我に帰った。
「百だ、他はないな、よし売った。次」
二つ目、三つ目と次々に高値で競り落とされて行った。
「今日行われた他産の競の話を聞いてきあした。いやあ、凄い。何処でも軒並み高値で取引されています」
「そんなに高騰しているのか・・」
「ええ、安いものでも二十五両は行っています。奥州産は三十五両も下らないそうです。無理もありませんや、あんな派手に燃えるのを見せつけられたのだ、今季は品薄になるという読みでしょう。噂が広まるのは早い、明日はもっと高値がつくかも知れませんぜ」
七右衛門は明日、再度競を行うことにしていた。それはすでに浅吉が手配を終えていた。
「そうか・・」
七右衛門の気持ちが沈んでいた。
あの問屋の食い入る様に見つめる視線が脳裏に焼き付いていたのだ。自分と繁太郎の喧嘩に巻き込まれた悲痛な叫びが聞こえるようだ。高く売れれば繁太郎には一泡吹かせたことにはなるが、他の問屋やその後ろにいる紅屋からは不当な金を受け取ることになる。それでは嬉しさよりも後ろめたさが先に立つだろう。真っ当な心を持つ商人であれば耐えられないことだ。
「浅さん、ちょいと出かけてくる」
七右衛門が湊を後にした。
後悔はしたものの、今更三十両で売るとは言えない。しかも、この煽りを受けて今季の花の相場が高騰している。自ら始めたことながら、既にその手を離れて相場が勝手に動いていた。もう自分ではどうすることも出来ないもどかしさが心を支配していた。
七右衛門は日本橋の柿川屋の前に立っていた。
暖簾をくぐり店に入ると使用人に用件を告げた。繁太郎が奥から出てきた。七右衛門を見ると睨みつけた。
「何の用だ」
「今日燃やしたのは花では無い。鉋屑だ。其方が言った通り、あれはハッタリだった。それを言いに来た」
「やはりな。明日競を行うと聞いたとき、そんな事だろうとは思ったぜ」
七右衛門がクルリと背を向けて店を出ようとすると、繁太郎が止めた。
「待て、何故それを言いに来た」
七右衛門が振り返った。
「明日の競は、ハッタリ無しで行おうと思って。商売に、変な意地を持ち込むのは止めようと思ったのさ」
「そうかい。組合の皆には伝えておくが、行くか行かないは勝手だ。俺は行かないけどな」
繁太郎の表情は穏やかになっていた。七右衛門は気が楽になった。もう、結果はどうでも良かった。
翌日、予定の時刻になった。
競の場所には多くの問屋だけでなく紅屋も来ていた。その数およそ三百人、通常の三倍以上になっている。誰もが積まれた荷を見ながら小声で隣の者と話し、周囲の様子も探っている。極度に張り詰めた異様な空気が場を支配していた。
七右衛門が荷の側に立った。
「昨日燃やしたのは鉋屑だった。花は十分にある。焦らないで買ってくれ。今季は始まったばかりで、まだ買い付けは相当できるから、無くなったら注文受けもする」
一つ目の荷を解き、紅餅を二、三個取り出した。それを掲げて皆に見せた。
「まずこの荷だ、よく見てくれ、正真正銘の出羽最上の花だ。三十両から始める」
鮮やかな赤に皆の視線が集中し、途端に次々と声が掛かった。
「三十二」
「三十五」
「三十七」
「四十」
地を這うような響めきが起こった。予想しなかった展開は七右衛門を慌てさせた。気持ちが動転して、思わず叫んだ。
「待ってくれ、花は十分にある、焦ることはない。皆、落ち着いてくれ」
しかし、誰もそれを聞いている様子はない。
「四十二」
「四十五」
「四十七」
七右衛門は茫然として会場に響くそれらのかけ声を聞いていた。誰もが真剣な眼差しを自分に向けている。これでは、もう自分にはどうすることも出来ないと思った。血の気が引いていき、頭が真っ白になった。
値は七十まで上がっている。
「聖さん、気にするな。ここは成り行きに任せな」
気づくと千代鶴が目の前にいた。
「初競で、しかも最初の荷だ。ご祝儀の意味もある。いくら高くてもいいだろうぜ、ってぇ事で、俺も参加させてもらうよ。では、思い切って、百」
どっと大きな声が上がった。
驚きや困惑だけでなく、納得、更には笑いも含まれていた。ざわざわした余韻が残り、場が少しの間緊張から解放された。七右衛門も我に帰った。
「百だ、他はないな、よし売った。次」
二つ目、三つ目と次々に高値で競り落とされて行った。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~
裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか
―――
将軍?捨て子?
貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。
その暮らしは長く続かない。兄の不審死。
呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。
次第に明らかになる不審死の謎。
運命に導かれるようになりあがる吉宗。
将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。
※※
暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。
低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。
民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。
徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。
本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。
数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。
本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか……
突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。
そして御三家を模倣した御三卿を作る。
決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。
彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。
そして独自の政策や改革を断行した。
いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。
破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。
おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。
その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。
本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。
散華の庭
ももちよろづ
歴史・時代
慶応四年、戊辰戦争の最中。
新選組 一番組長・沖田総司は、
患った肺病の療養の為、千駄ヶ谷の植木屋に身を寄せる。
戦線 復帰を望む沖田だが、
刻一刻と迫る死期が、彼の心に、暗い影を落とす。
その頃、副長・土方歳三は、
宇都宮で、新政府軍と戦っていた――。
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
信乃介捕物帳✨💕 平家伝説殺人捕物帳✨✨鳴かぬなら 裁いてくれよう ホトトギス❗ 織田信長の末裔❗ 信乃介が天に代わって悪を討つ✨✨
オズ研究所《横須賀ストーリー紅白へ》
歴史・時代
信長の末裔、信乃介が江戸に蔓延る悪を成敗していく。
信乃介は平家ゆかりの清雅とお蝶を助けたことから平家の隠し財宝を巡る争いに巻き込まれた。
母親の遺品の羽子板と千羽鶴から隠し財宝の在り処を掴んだ清雅は信乃介と平賀源内等とともに平家の郷へ乗り込んだ。
桜華の檻
咲嶋緋月
歴史・時代
【楼主×死神】
吉原にある藤乃屋。楼主の最澄(もずみ)は、吉原では珍しい京言葉を使う。ある日、競争店である菊乃屋の花魁が殺された。裸体の花魁の首を鋭利な刃物で切り裂いた犯人。疑われたのは、最後の客では無く、最澄だった————。
「人と違うとあかんのか?」
彼の前に現れたのは、自分を死神だと名乗る少女だった。
自分の生い立ちに不満を抱えた最澄。追い討ちをかける様に犯人だと罵られる。自分の身の潔白を証明出来るのは、少女だけ————。親から継いだ藤乃屋を守る為、楼主である最澄は、真犯人を追う事を決めた。
生きる意味を模索する楼主と死神の少女が送る和風ミステリー。人の欲が入り乱れる吉原で、真犯人は見つかるのか?!!
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる