播磨守江戸人情小噺 お家存続の悲願

戸沢一平

文字の大きさ
上 下
10 / 13

第十話

しおりを挟む
「幕府創設以来の大きな汚点となるほどの重大な誤りを犯した者の家に、温情の沙汰など持ってのほか、まかりならぬ。ということらしい」

「他の老中の方々はどうなのだ」
「皆、柴田家の存続に異存は示されなかった」

「つまり、井伊だけが反対したのか」
「うむ。予想は出来たことではあるが、やはり厳しいお方だ」

「そうか。で、阿部さんは何と」
「阿部さんは穏当な方だ。お家存続に理解は示しても、反対する井伊を説得してまで、という気は無い。井伊の意見が通った形だ」

 勘定奉行川路が、頼方に柴田家存続に係る沙汰が降りたことを話している。

 溜間詰筆頭井伊直弼の反対により存続は認められなかった。

 この日、幕府のとある筋から柴田家存続案件の沙汰が降りたらしいという話を聞いた頼方は、その内容を確かめようと川路を訪ねたのだ。

 昨日、老中詰所に呼ばれた川路はその内容を告げられた。予想出来たこととはいえ、やはり落胆した。部下であった者が切腹させられた上にお家断絶とは、上司としても断腸の思いだ。

 頼方が深いため息を吐いた。川路と同様にこの話は難しいだろうとは思いつつも、あるいはと期待していただけに頼方もまた落胆を禁じ得なかった。

「柴田の奥方は、さぞやがっかりするだろうな」
「うむ。今、家内が柴田家に行って状況を説明している。正式には俺が出向くべきなのだが、気が進まぬので家内に頼んだ」
「女同士で色々と相談できるから、むしろその方が良いのではないか」
「家内も、今後のことを含めて話をしてくると言っていた。とにかく、こうなったからには柴田の奥方には出来る限りのことはさせてもらうつもりだ。家内にも、そこは良く親身になって相談に乗るように言ってある」
「ああ、俺からもそう願いたいところだが・・」

 意味ありげな頼方の表情を見て、川路が怪訝な顔をした。
「何かあるのか」

 頼方が前屈みになって声をひそめた。
「例の奥田殺しの件、どうも、柴田の奥方が怪しい」

 川路が目をむいた。
「何だと。確かなのか」

 頼方が頷いた。
「確たるものは無い。だが、状況からして、柴田の奥方以外に奥田を殺す理由がある者がいない」

 頼方がこれまでの状況を語った。

 川路が顔をしかめながら腕を組んだ。
「確かに、奥田ならやりかねない。あの女好きならばのう。それで一年近くも体を弄ばれて、挙げ句に、頼んだ話が全く上がっていなかったとなれば、殺意を抱くのもうなずける」
「柴田の奥方も、奥田の屋敷に何度も行っていたことは認めた。しかも、夜中に」

 川路が声をひそめた。
「それで、どうするつもりだ」

「確たるものがなければ、しょっ引いて吐かせる、という事はさすがに出来ない。だが、このまま何もしないという訳にもいかない。幕臣が殺されたのだからな」
「それはそうだが、俺は、柴田の奥方に同情する」

 頼方が大きく頷いた。
「うむ。確かに情状の余地はある。自ら名乗り出てくれて、反省の言葉があれば、相応に考えるのだが・・」
 頼方としても、川路以上にたえには同情を禁じ得なかった。女としての尊厳を踏みにじられた上に、それを我慢するための願いであったお家存続が認められなかったのだ。

 しかし、どういう理由があったにせよ人を殺して良いという道理は無い。町奉行がこれを見逃しては、世間への示しが付かないだけでは無い。市民同士の揉め事による私刑を幕府が認めることに繋がりかねない。

 あくまでも、たえが自分の犯した罪を認め、それを反省することが情状を酌量する条件になる。そうでなければ、厳しい対応をせざるを得ない。

 ただ、これ以上たえを追い込むことは避けるべきである、という思いは頼方にあった。

 その頃、川路の奥方エツが柴田家を後にした。

 たえにとっては予想もしない結果だった。

 楽観していたという訳では無いが、大いに期待していたのは確かだった。これまで、家を存続させる今後の段取りだけが頭にあり、認められなかった場合のことなどは全く考えていなかった。

 それだけに、エツの最初の言葉が耳に入った瞬間に頭が真っ白になった。その後の話は、それが一刻も続いたのだが何も頭に残っていない。エツの必死に話す顔だけが目に焼きついただけだ。

 エツを見送った後に、部屋に戻り、今後、自分はどうなるのかを思った。

 柴田家がなくなり、全ての望みが断たれた訳だ。その上に、自分の身に起こった屈辱に耐えながら生きていくことなど、どうして出来ようか。

 柴田家が存続され、自分と奥田とのことが世間に知れることがなければ、まだ、秘事を抱えて生きていけるかも知れなかった。しかし、一年近くも自分が奥田の屋敷に、しかも夜中に出入りしていたことが奉行所の知るところとなっている。そこで何があったかなどは、いくら自分が取り繕っても、いずれ世間に知れ渡るだろう。

 もはや、何もかもが崩れてしまった。混乱した思いから徐々に落ち着きを感じていた。自分のとるべき行動が見えて来たのだ。残された道は自ら命を断つことだった。

 たえは智央の仏前で手を合わせた。
「申し訳ございません。柴田家は断絶してしまいます。この上は、死んでお詫びをいたします。お許しください」

 誰かを恨む気持ちも無かった。仮に、奥田が直ぐに話を上げても、結局、同じ沙汰が降りたのであらう。であれば、どう事を運んでも結果は同じだったのだ。

 たえは短刀を手にした。

 その時、廊下を近づいてくる足音がした。たえは短刀を懐に隠した。下男の声がした。
「奥方様、奉行所のお役人様がお見えです」

 たえは迷った。役人が何の用事なのか。もし、自分をお縄にするために役人が来たのならその前に自害すべきなのだ。

 再び、懐から短刀を取り出した。

「あ、お役人様、お待ちください・・」

 下男の声と同時に襖がザッと開いた。

 大男が素早くたえに近づいて、短刀を持った手を抑えた。

 男は直ぐに短刀を取り上げて、低いドスの効いた声で叫んだ。

「町奉行池田播磨守頼方だ。早まるな」

 たえは呆然として頼方を見た。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】斎宮異聞

黄永るり
歴史・時代
平安時代・三条天皇の時代に斎宮に選定された当子内親王の初恋物語。 第8回歴史・時代小説大賞「奨励賞」受賞作品。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

かぐや姫に求婚する”サクラ”になったけど、なぜか俺にだけ無理難題を出してこない

チドリ正明@不労所得発売中!!
歴史・時代
 そんな話

柿ノ木川話譚4・悠介の巻

如月芳美
歴史・時代
女郎宿で生まれ、廓の中の世界しか知らずに育った少年。 母の死をきっかけに外の世界に飛び出してみるが、世の中のことを何も知らない。 これから住む家は? おまんまは? 着物は? 何も知らない彼が出会ったのは大名主のお嬢様。 天と地ほどの身分の差ながら、同じ目的を持つ二人は『同志』としての将来を約束する。 クールで大人びた少年と、熱い行動派のお嬢様が、とある絵師のために立ち上がる。 『柿ノ木川話譚』第4弾。 『柿ノ木川話譚1・狐杜の巻』https://www.alphapolis.co.jp/novel/793477914/905878827 『柿ノ木川話譚2・凍夜の巻』https://www.alphapolis.co.jp/novel/793477914/50879806 『柿ノ木川話譚3・栄吉の巻』https://www.alphapolis.co.jp/novel/793477914/398880017

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

処理中です...