上 下
7 / 13

第七話

しおりを挟む
 たえに後悔は無かった。

 頼みごとをするという弱みにつけ込む形で、言葉巧みに期待を抱かせながら、自分の体を弄んだ男など、到底許すことは出来ない。しかも、約束したその見返りが何も無い、騙し、という仕打ちまで受けたのだ。報いを受けて当然の卑劣な行為ではないか。むしろ、首尾良くやり遂げられて良かった、とまで思っている。

 ただ、人を殺めたことについては贖罪の意識はあった。そして、やってしまった以上は覚悟を決めていた。従って、成り行きによってはお縄につくことも潔く受け入れる気持ちはあった。

 それでも、やはり御家の存続が何より優先した。

 自分がお縄になれば、柴田家存続の許しが幕府から降りることは難しくなるだろう。人殺しを出した家に対する温情など、期待すべくも無い。そう考えると、やはり、捕まるわけにはいかなかった。例え、許しが出た後であっても、自分が下手人だと明らかになればそれが取り消されることになるだろう。

 あの時、奥田を殺して屋敷を出る際には誰にも見られていない。殺しに使った短刀も着ていた着物も全て処分した。足が付くことは考えられない。だが、安心も出来なかった。自分が奥田に頼み事をしている上に、屋敷には何度も足を運んでいることは、奉行所にも知れることとなる。容疑はかけられるかも知れない、という不安はあった。

 勘定奉行川路の奥方エツからは、浅草の観音様の前で会って以来、時々手紙により連絡が来るようになっていた。主人である奉行の川路に毎日のように催促をして、手続きが進んでいく様子が細かく綴られている。

 そして遂に、エツから、家老に話が上がったという知らせが届いた。

 たえにとってはこの上ない喜びだった。

 たえの実家である磯野家とは、末の妹を柴田家に養子として迎える話はついていた。その婿となる候補も実家があたりをつけてくれている。幕府から許しが出たら一気に話が進むことになる。

 たえにとっては、不安な気持ちに期待が高まるという、複雑な思いが交錯した。

 柴田家は権現様の代から続く禄高千石の堂々たる旗本の名門である。対して磯野家は同じ旗本ではあるものの禄高は三百と、家格としては格差があった。縁談についても、当初、柴田家では難色を示したが、当人の柴田智央がたえを見初めたことで両親が折れるかたちとなった。それ故に、たえにとっては肩身の狭い思いを抱く毎日であった。

 舅は無口で何も言わなかったが、姑はうるさかった。たえが何をするにしても監視するように側に来ていちいち口を出した。常に「柴田家では」という枕詞を付けて、家柄が違うことを強調する言い方をする。気の休まる時は無かった。唯一、智央がたえに気を使いかばってくれる事が救いだった。

 それでも、たえに子がなかなか出来ない事については智央も悩んでいた。姑はその責任がたえにあるという趣旨の発言をするようになり、舅もこのまま子が誕生しなかった場合の対策を口にするようになっていた。智央は、まだ自分もたえも若いのでもう少し待って下さいとその場をとりなしていたが、柴田家における最大の懸案だった。

 そんな中、智央はその有能さが認められて、幕府勘定役の中でも、財政の内容を明らかにした帳簿を担当するという要職に抜擢される。当人はもちろん柴田家にとってはまたとない名誉となった。一方で、この職務は激務であるために、智央は身体的な負担だけでなく神経をもすり減らすこととなる。

 智央がお役目に追われるなか、懸案である柴田家の跡取り問題も手付かずになり、その間、両親が相ついで他界してしまう。

 幕府の体制は、発足以降年を追うごとに充実して行ったが、それは、組織の巨大化と複雑な権限の分散を伴うものであった。そのことにより、当然ながら必要経費が膨らみ支出も増える。財政の悪化は巨大化した組織の慢性病でもある。幕府の上層部も手をこまねいていた訳ではない。危機意識を持って多くの改革が行われてきた。特に、亨保、寛政、そして、天保期においては、幕府の構造的な面まで踏み込んだ大規模な改革が行われた。

 これらの改革は勘定役にも多くの負担を強いることとなる。特に、帳簿については、詳細な部分まで記載される事が求められ、より正確性が重要視されるようになった。大括りの項目が細分化され、大まかではなく緻密な数字で記載されるようになる。かつては大目に見られていた不正確さや矛盾は、決して見逃されなくなった。常に根拠となるものが求められ、安易な前例通り、が通らなくなって行った。

 幕府の財政を明確にした帳簿である。間違いは許されない。従って、歴代の帳簿も正確なもの、とされている。

 しかし、現実には、過去の帳簿が必ずしも正確であった訳ではない。時の上層部の意向による膨らまし、あるいは縮小化だけでなく、各方面からの要望や圧力により、帳簿担当は、実態からかけ離れない程度に加除修正を行なわざるを得なかった。

 各年の帳簿は、前年のものが正確であるという前提でこれを引き継いで、各項目が新たな収入と支出が記載される。従って、こうした過去の矛盾は、毎年、確実に累積されて行く。いつかは、必ず、「ごまかし」が効かない事態になるのは必至だった。

 平時であれば、まだ、それが出来たのかも知れない。
 しかし、時代は黒船来航により始まった近年稀にみる混乱の極みを迎えている。場合によっては異国との一戦を覚悟せねばならない事態。当然ながら、今後の想定される出費を念頭に、現状の財政の実態は上層部の一番の関心事となっていた。そこでの安易な取り繕いは出来なくなっていた。

 実際の財政状況をより正確に記載すればするほど、矛盾と不整合が次々と露呈し、幕府の帳簿が不正確である、という事が表面化する由々しき事態となった。

 それでも、過去の帳簿が正しいという前提はどうしても崩しようが無かった。それを否定してしまえば、過去の全てを疑うことになる。しかし、事が事だけに責任は追求され、結局、帳簿担当の記載誤りとされたのだ。

 上層部にも同情する意見はあった。担当一人に責任を押しつけるのは余りに酷ではないかというものだ。こうした動きもあり、何がしかの処分は仕方がないとしても、謹慎、もしくは役替えの上に禄の減俸ぐらいが適当という意見が大半を占め、一旦はこの線でまとまりかけた。

 しかし、井伊直弼がこの処分に異を唱えた。

 財政における全ての根幹を成す帳簿の記載を誤るとは、幕府発足以来の前代未聞となる重大な不祥事。即刻切腹にすべきである、と主張する。理屈で井伊に対抗できる者は居なかった。

 もとより、智央は覚悟を決めていた。しかし、家の跡取り問題に目処を付けていなかったことは心残りだった。あとは、たえに託すしか無かった。そして、今となっては、頼るのは磯野家だけとなった。

 たえの末の妹を磯野家から養子に迎え、その娘に婿を頼む、そう言い残し、智央は腹を切った。

 柴田家の存続の成否が、たえの双肩にかかることとなった。そもそも、この問題は自分に子が出来なかった事が原因であるとの負目があった。それ故に、責任感という重圧が過度にのしかかっていた。眠れぬ夜が続いた。

 磯野家はたえの相談に全面的に協力してくれた。問題は、幕府の許しだけとなった。

 たえは奥田と面識が無かった訳ではない。時候の挨拶などで何度か屋敷を訪問して、言葉も交わしたことはあった。気さくで人当たりの良い、砕けた印象を持っていた。それ故に、最初にこの件を願いでて「わかった、任せておけ」と言われた時には、頼りがいのある上司であるという印象まで加わり、奥田を信頼しようと思った。

 だが、その淡い期待もすぐに裏切られる。

 最初の訪問から間もなく、たえは奥田に呼び出しを受けた。夜半に、しかも裏口から入って離れに来るようにとのこと。急を要する事態が起こったのか、と緊張して部屋に入ると、酒を飲んで赤い顔の奥田が待っていた。

「いかがなさいましたか」
「まあ、座れ。話がある」

 奥田は、お家相続の許しを家老からもらう事が、どれほど難しく、大変であるかを頻りに語った。並大抵の事ではない、苦労が伴うと、熱弁をふるった。

「それを、この儂が行う訳だ。そなたの為に」
「はい、奥田様には感謝致しております。先日は、お引き受けいただくというお言葉をいただきましたので、後日、改めて御礼に伺うつもりでおりました。また、無事お許しがおりましたら、相応の御礼も考えておりました」
「それは当然」

 奥田が前のめりになって、たえの手を掴んだ。

「今、その相応の礼をしてもらうぞ」
「何をなさいますか」

 たえは体を引いたが、奥田は手を離さない。
「そなたの、感謝の気持ちを示してほしいのだ、この場で」
「おやめ下さい」
「断れば、柴田家の存続はないぞ。良いのか」

 たえの体が固まった。このような辱めを受けることは到底受け入れられない。どういう理由があるにせよ、自らの意思ではないにせよ、不貞をした女としてこれから生きて行くことなど出来ない。

 しかし、断れば、お家存続の話を、また自ら壊してしまうことになる。自分がいっとき、この屈辱に耐えれば良いだけなのではないか。仕方のない災難だと我慢すれば良いのではないか。そうすれば全て治まるのだ。

 そして、お家存続が叶った暁には、自ら命を断てば良い。夫の顔が頭に浮かんだ。

 たえが力を抜いた。

 奥田が酒臭い息を吐きながら、たえの体を引き寄せた。

「儂はそなたのために骨をおるのだ。そなたも、儂のために尽すのは、至極当然のことであろう」

 奥田の腕の中で、たえは、止め処なく流れる涙を抑える事が出来なかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

堤の高さ

戸沢一平
歴史・時代
 葉山藩目付役高橋惣兵衛は妻を亡くしてやもめ暮らしをしている。晩酌が生き甲斐の「のんべえ」だが、そこにヨネという若い新しい下女が来た。  ヨネは言葉が不自由で人見知りも激しい、いわゆる変わった女であるが、物の寸法を即座に正確に言い当てる才能を持っていた。  折しも、藩では大規模な堤の建設を行なっていたが、その検査を担当していた藩士が死亡する事故が起こった。  医者による検死の結果、その藩士は殺された可能性が出て来た。  惣兵衛は目付役として真相を解明して行くが、次第に、この堤建設工事に関わる大規模な不正の疑惑が浮上して来る。

仏の顔

akira
歴史・時代
江戸時代 宿場町の廓で売れっ子芸者だったある女のお話 唄よし三味よし踊りよし、オマケに器量もよしと人気は当然だったが、ある旦那に身受けされ店を出る 幸せに暮らしていたが数年ももたず親ほど年の離れた亭主は他界、忽然と姿を消していたその女はある日ふらっと帰ってくる……

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

播磨守江戸人情小噺(二) 小間物屋裁断

戸沢一平
歴史・時代
 南町奉行池田播磨守頼方(いけだはりまのかみよりまさ)が下す裁断についての、江戸市民たちの評判がすこぶる良い。大見得を切って正義を振りかざすような派手さは無いのだが、胸にジンと染みる温情をサラリと加える加減が玄人好みなのだと、うるさ型の江戸っ子たちはいう。  池田播磨守頼方は、遠山の金さんこと遠山景元の後任の町奉行だ。あの、国定忠治に死罪を申し渡した鬼の奉行として恐れられていた。しかし、池田が下す裁断は、人情味に溢れる名裁断として江戸市民たちの評判を呼んでいく。  取り立て屋の市蔵が死体で発見される。  調べが進むと、小間物屋「奄美屋」の番頭清二が、借金の取りたでで市蔵に脅され理不尽な要求をされ、止むに止まれず殺したことがわかった。  世間は奄美屋に同情する。    果たして、播磨守の裁断やいかに。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

処理中です...