播磨守江戸人情小話(三) 老舗女将の夢

戸沢一平

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「顔見知りというか、かなり親しい女の犯行だな。主人の良蔵が、あの時間に自分の部屋で気を許す者といえば、店の者以外にいないだろう。店の者でも、奉公人とは考え難い」

「というと・・」

「そう、女将だな」

 頼方が、良蔵の遺体の検分を依頼した医者から話を聞いている。

 藤村隆庵ふじむらりゅうあんという蘭方医だ。名医との評判ではあるがかなりの変わり者で、患者の選り好みも激しく、ゆえに貧乏である。常に薄汚い灰色の小袖の上に色あせた黒の十徳を羽織った格好をしている。口髭だけは毎日手入れをしているようで立派に見える。

 頼方とは旧知の間柄で、この日、お真美の茶屋に誘い、酒を飲みながら話を聞いている。

 お真美が藤村に酒を注いだ。
「ねえ、酢天狗すてんぐさん、かなり親しい女の犯行って、どうして分かるの」

 酢天狗とは藤村のことである。いつからともなくそう呼ばれている。藤村は西洋の芝居に取り憑かれ、語りだしたら止まらないところがあり、一説ではその芝居の題名から来ているとも言われるが、詳細は定かでない。

 藤村が酒を口にしながら頷いた。
「刺し傷は三箇所だ。右斜め後ろが一箇所に、前が二箇所。出血の多さから判断すると、斜め後ろを最初に刺されたのだろう。傷口の開き具合にしてはさほど抵抗しなかったとみるべきだな、その開き具合なのだが・・」

 お真美がもう良いというように手を差し出した。
「はいはい、傷口の事は分かったわ。だから、それが何故、女将の犯行と思われるの」

 藤村がムスッとしてお真美を睨んだ。
「だから、その話をしているのだ。黙って聞け」

「はぁい、どうも、すみませぇん」
 お真美がプイっと外方を向く。頼方が手酌でチビリチビリと酒を飲んでいる。

「前の二箇所の傷は出血も少なく傷口も開いていない。つまりだ、まず斜め後ろから刺され、倒れ込んで仰向けになり、弱ったところを前から二回止めを刺された、と見るべきだ」

 藤村が猪口を差し出すと、お真美が仏頂面しながら酒を注ぐ。

「良蔵の座っていた位置から右斜め後ろは、部屋の出入り口となっている襖。良蔵が少し横を向けば視界に入る。身構えることなく、座ったままの姿勢で最初に刺された、という事は、親しい者が普通に声をかけて入ったからだ」

 お真美が急に笑顔になり納得したように頷いた。
「なぁるほど、それで、それで」

 藤村がまたお真美を睨む。
「そう急かすな。物事には順序というものがある。結論に至る過程を蔑ろにすると真理は見えて来ない。一つ一つの小さな事実の積み重ねが、結局は・・」

 今度は頼方が右手を差し出した。
「わかった、そうだ、その通り。検分の話に戻ろう」

 藤村が頷いて酒を口にする。
「そして、傷の深さだ。落ちていた包丁は先の尖った鋭利なもの。傷口の大きさと合うから、これで刺したことは間違いない。仮に、普通の大人の男が殺意を持って刺したら、体を突き抜けるほどの物だ。だが、三箇所の傷はそこまでは至っていない。つまり、良蔵を刺したのは男ではない」

 頼方が大きく頷いた。
「なるほど。夜半に、主人の部屋に入る女の奉公人、とも考え難いな」

 お真美が二人に酒を注いだ。
「でも、良蔵さんが奉公人の女に手を出していて、その女とは考えられないの」

 藤村が首を振った。
「夜半とはいえ、まだ女将も起きている時間帯だ。しかも、女将の部屋の前を通って、そんな女が堂々と主人の部屋に入るか」

 頼方が表情を崩しながら頷く。
「まあ、そんな女がいたとしても、女将や店の連中の目を盗んでまで自分の部屋には呼ばないだろう。俺だったら外で会う。そのほうがゆっくりと・・」

 お真美の視線を感じて、頼方が口籠って下を向いた。

 何処かで猫が鳴いている。

「ははは、それを言うなよ」
「いやいやあの醜態、奥方には、到底見せられません、それとその後がまたひどい」
「バカ、止めろ、もう言うな。お前こそあのざまは何だ。あの女に振られた時の取り乱し様は。真っ青な顔で、死ぬべきか生きるべきか、とか言いながらやけ酒をあおって」
「そ、それは違う。エゲレスの有名な芝居の一節を演じたのだ。この名作の名台詞が思わず口に出た。取り乱してなどいない」
「そのわりには、すぐさま酔い潰れてしまったぞ。ゲボゲボと醜く吐いて、ははは」

 宴が盛り上がっている。が、お真美は二人を冷ややかな目で見ながら、手酌で酒を飲んでいる。

「全く、男なんてろくなもんじゃない」

「男がどうしたって」
 藤村がニヤニヤしながらお真美に視線を送り、酒を口にした時、ハッとしたように真顔になった。

「あ、うっかりしていた、大事な話があったのだ」

「ほう、何だい」
 頼方が顔を向けると、藤村が猪口を置いてフウと息を吐いた。

「俺が医者仲間に殺しの検分をしている話をした時に、ある医者から、最近小石川の療養所で、何度か良蔵を見かけたという話を聞いた」

 頼方がオッと表情を引き締めた。
「小石川の療養所とは、こりゃ、穏やかじゃあねえなぁ」

 小石川療養所とは幕府が小石川薬園に設置した療養所である。無料の医療施設として貧民救済が主な目的であったが、施設の頭である肝煎きもいりとなった小川笙船おがわしょうせんの名医としての評判が広まると、重病人や重傷者が多く入るようになり、その割合も増えていった。

 小川はやや赤みがかった髭を生やし「赤髭」と呼ばれている。

 お真美も不安げな顔色となった。
「あそこは、町医者が見放したような人ばかり入る所でしょ。良蔵さん、余程体が悪かったということなの」

 藤村が軽く首を振った。
「それは分からない。確かに、ほとんどの患者は、町医者が手に負えなくなって赤髭に預けた連中だ。そういう場所であることは間違いない。そこで良蔵が何回か見かけられたということは、通っていたとも考えられる。何か治療を受けていたのか、あるいは、他の理由か・・」

 頼方が腕を組んだ。
「こりゃあ調べる必要があるな。おそらく、殺されたことに関係するだろう」
「そいつはそちらの仕事だが、役人がのこのこ出向いて行っても、赤髭が教えるわけが無い。一喝されて追い返されるのがオチだ。あいつは相当な変人だからな。もっとも、どの医者であれ、患者の話は他人には語らないけどな」

「殺しに関わることだ。そこは教えてもらう必要がある」
「役人の権威など、あの男には通用しないよ」

 お真美が藤村に酒を注いだ。
「博学のお医者様だろうが、変人の頑固者だろうが、所詮は生身の人間よ。弱みもあれば好みもあるわ。言わせる手は、色々あるでしょう」

 頼方が藤村の顔を覗き込む。
「そうだな、どうだ、酢天狗、何か手掛かりになるようなことは無いか」

 藤村が考え込む。
「うーん、相当な変人だからなぁ」

「お前よりも変わっているのか」
「俺は常識人だろうが」
「そりゃ常識が全く無いとは言わないが、あっ、いや、その・・」
「おい、奉行、俺はお前たちの仕事を手伝っている立場だからな。忙しい中、段取りを工面して、くそ面白くも何とも無い死体の隅々まで調べ上げる仕事を・・」

「わかった、すまぬ、その通りだ。謝る。お前は常識人だ」
「あんただって、俺から見れば、相当変わっているぞ」
「まあ、その話は置いといて」

 頼方が酒を注ぐと、藤村がゆっくりとそれを口にした。
「そう、攻めるとしたら金だな。赤髭は、悪どい金集めでも有名だ。金集めのためなら手段を選ばないようなところがある。そこだろう」

「ほう、金か」

「あらぁ、いやだ。有名なお医者さんでも、お金に汚い男って最低だわ」
 お真美が顔を顰めると、藤村がフンと鼻で笑った。

「一度でもあそこに行ってみれば良い。無償で貧乏人の患者を治療するということがどういうものか少しは分かる。幕府から金は出ているが、重傷者や重病人への治療の費用は、そんなものでは到底足りない。赤髭が、相当酷い金集めをしているとは言われるが、その気持ちも分かるだろう」

 頼方が上体を起こしながら頷いた。
「良いだろう。金は俺が何とかする。聞き出すのは、酢天狗、お前に頼みたい」

 藤村がニヤリとした。
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