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二
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「旦那様、奉行所から知らせが来ました、殺しです」
同心神宮燕吾郎が、丁度、朝食の膳の味噌汁に手を伸ばした時に、下男の叫び声がした。
寝起きが悪いとまではいかないが、まだボーとしていた頭が、急にシャキッとした。
「わかった、直ぐ行く」
此処は、何はともあれ、急ぎ奉行所に行かねばならない。
立ち上がろうとして腰を上げかけたが、味噌汁の香りが鼻に残っていたため、一口ぐらい飲みたい気持ちが勝り、中腰のまま碗に手を伸ばした。
無理な体勢と、慌てた気持ちが災いした。
碗をひっくり返し、味噌汁が散らばって、自分の手にもかかってしまった。
「アチッ・・」
隣に座り、右手にしゃもじを持ち、左手を御櫃に掛けていた妻の美乃が、呆れたというように首を振った。
「まさか、この家で、立ち上がりながら食事する人を見るとは・・」
耳を触りながら神宮が恥ずかしそうに苦笑する。
「つい、一口だけでもと思って・・」
美乃がマジマジと神宮を見た。
「亡くなった義母様が見たら、何と言ったでしょうねぇ。手は、大丈夫ですか」
神宮が指を口に入れて頻りに舐めている。
「少しヒリヒリするけど、大丈夫だよ」
「軟膏でも塗りますか」
「いや、良い」
美乃が神宮家に嫁に来て十年ほどになる。
当初、口うるさい姑には何かと気を使った。とはいえ、決して居心地の悪さは感じられなかった。他には、特段気を配ることがなかったからだ。
「そうか」としか言わない舅、気付けば居たのかというほどの存在感の夫。結局、姑にだけ気を配り、言う事を聞いていれば、家の中は全て丸く治った。
やがて、姑が用事で家を空けた時などは、家の者が皆、自分に指示を仰ぐようになり、いわゆる「次席」としての地位を確立していく。
そして、舅と姑が亡くなった今では、自分が、完全にかつての姑の立場になったという気がしている。特にそれを強く感じるのは、夫に対してちょっと言い過ぎたかな、あるいは、皮肉が効きすぎたようだ、と思った時だ。
調子に乗らないようにしようとは思うが、その時の快感も忘れられない。
美乃が布巾でお膳や畳にこぼれた汁を拭いた。チラリと夫を見ながら溜息を吐く。
「あなたを使い続けなければならない上役に、同情するわぁ」
神宮は、その抑揚の無い皮肉に満ちたつぶやきを、聞こえないふりをしながら、そそくさと家を出る。
下女が来て神宮の膳を片付けようとしたが、美乃がそれを止めた。
「良いわ、そのままで。私がいただきますから。私の膳も持って来てくれますか」
はい、と言って下女が台所に行くと、美乃はマジマジと神宮の膳を見つめ、ふくよかな腹に手を当てた。
「ふふ、また太りそう」
何処かで猫が鳴いている。
奉行所の詮議の間である。
どたどたと足音を響かせて、町奉行池田播磨守頼方が入って来た。
「すまん、遅れてしまった」
頼方がドスンと上座に座った。下座には筆頭与力の成瀬子多郎と神宮が座っている。
「お真美がなぁ、朝飯も食べさせずに行かせる訳にはいかないと言うので、仕方なく待っていたのだ。そうしたら、何と出て来た朝飯というのが食べられた代物じゃない。文句を言ったら、お真美が自分で支度したと言うでは無いか、もう散々やり込められてしまって。仕方なく、食べたけどな・・」
成瀬が苦虫を噛み潰したような顔で右手を上げた。
「奉行、その話は又の機会にしていただいて、まず、今朝、殺しの現場を見て来たあるるの話を聞いてください」
「あるる」とは神宮の事である。神宮は相槌を打つ時に「ある、ある」と言うのが口癖だが、早口のため「あるる」と聞こえることから、皆にそう呼ばれている。
「ご苦労。すまんな、朝早くから」
頼方が頷くと、神宮が姿勢を正した。
「えー、では、ご報告いたします。私は今朝、殺しがあった大松屋に行って来ました。勿論、朝飯も食べずに・・」
成瀬が冷ややかな視線を向けると、頼方が肩をすぼめる。
「・・とまあ、そういう状況であります」
神宮が大まかな調べの内容を説明した。
「つまりはなんだ、押込み強盗ではなくて、盗みに入って見つかったから殺した、と思われるということか」
神宮はうなずいた。
「現場の状況や家の者の話からはすると、今のところは、そう思うのが妥当なようです」
頼方が煙草盆に手を伸ばした。
「そう思う理由は何だ」
「まず現場の状況ですが、殺された主人の部屋と、その縁側から庭を通って裏口までの間しか、犯人が跡を残していません。おそらく、塀を乗り越えて慎重に忍び込んだところを、主人に見つかり、包丁で刺して何も取らずに慌てて逃げた、と見ています。家の中は荒らされた様子は無く、無くなった物もありません」
頼政が煙管に煙草を詰めながら頷いた。
「なるほど。それから、家の者の話の方はどうだ」
「女将が何か物音を聞いて、音がした主人の部屋に行くと、血塗れの主人が倒れていました。女将の叫び声で番頭や使用人が駆けつけましたが、賊は逃げた後でした」
頼方が煙草に火鉢の火を付けた。煙草の香りが部屋に広がった。
「賊を見た者はいるのか」
「女将が、逃げる姿を見ています」
「他には」
「いえ、女将だけです」
成瀬が神宮に顔を向けた。
「では、賊について、音を聞いたとか姿を見たのは、結局は、女将だけか」
神宮が薄くなった頭に手を当てた。
「はあ、確かにそうですね」
頼方が吸い込んだ煙草の煙を、ゆっくりと鼻から吐き出した。
「賊の行動についての証言は、唯一、女将だけか」
成瀬が腕を組んだ。
「そうすると、現場の状況についても、盗みに入った賊の仕業と決めつけるのは、少し早すぎるだろうなぁ。ここは、他の理由も含めた調べが必要ですね」
成瀬が顔を向けると頼方が頷いた。
「そうだな。他の筋も考えられるな。恨みや揉め事か。そっちはどうなっている」
「はい、同業の呉服屋界隈を、間部瀬が聞き込みに出かけています」
頼方が煙管を火鉢の角にポンと打付けて灰を落とした。
「それと、気になったのは殺され方だ。腹を数カ所だったな」
「はい、前から二箇所、斜め後ろから一箇所です」
「出血が多くて死ぬぐらいだから、傷は深めか」
「ええ、かなり奥まで刺しています」
成瀬が首を傾げた。
「それも、盗みに入った賊が見つかって、逃げるために斬り付けたにしては、周到過ぎるな。とっさの行動というよりも、計画や目的がある仕業に思える」
頼方が頷いた。
「確かに、どうも、殺意がある刺し方にも思えるな。で、主人を刺したのが包丁だと、どうして分かった」
「庭先に落ちていました」
「包丁の出所をあたっているな」
「はい。刃物を扱っている店に聞いています」
頼方が腕を組んだ。
「わかった。それと、店の中にも探りを入れることだな。側から見れば何の問題も無いようでも、中では何かと揉め事はあるものだ。主人に対する店の者の話もよく聞いてくれ」
「はい。今のところ悪い話は聞いていませんが、そこは抜かり無く」
成瀬が口を挟む。
「確か、大松屋をあそこまで大きくしたのは、先代の主人だったな。その時の番頭が、殺された良蔵か」
「そうです、番頭から婿養子になって、店を継いでいます」
頼方は組んでいた腕をほどき右手でアゴをなぞった。
「ふうん、てぇことは女将が先代の実の娘ということか」
神宮が頷いた。
「はい。そういう事情なのか、店の商売の仕切りは、本業の呉服が女将で、その他が主人という状況のようです。しかし、店としては繁盛しているものの、呉服についてはあまり売れていないという話も聞きます」
成瀬が神宮に視線を向けた。
「何か、店の中での、複雑な事情もありそうな感じだな。それが、ひょっとすると、この殺しの鍵になるかも知れないなぁ」
神宮が顔を引き締めて頷いた。
「あるある」
頼方が神宮を見た。
「明日以降で良いから、大松屋の内情を良く探ってくれ」
成瀬も頷く。
「朝飯はしっかり食べてからで良いぞ」
頼方が、また肩をすぼめる。
同心神宮燕吾郎が、丁度、朝食の膳の味噌汁に手を伸ばした時に、下男の叫び声がした。
寝起きが悪いとまではいかないが、まだボーとしていた頭が、急にシャキッとした。
「わかった、直ぐ行く」
此処は、何はともあれ、急ぎ奉行所に行かねばならない。
立ち上がろうとして腰を上げかけたが、味噌汁の香りが鼻に残っていたため、一口ぐらい飲みたい気持ちが勝り、中腰のまま碗に手を伸ばした。
無理な体勢と、慌てた気持ちが災いした。
碗をひっくり返し、味噌汁が散らばって、自分の手にもかかってしまった。
「アチッ・・」
隣に座り、右手にしゃもじを持ち、左手を御櫃に掛けていた妻の美乃が、呆れたというように首を振った。
「まさか、この家で、立ち上がりながら食事する人を見るとは・・」
耳を触りながら神宮が恥ずかしそうに苦笑する。
「つい、一口だけでもと思って・・」
美乃がマジマジと神宮を見た。
「亡くなった義母様が見たら、何と言ったでしょうねぇ。手は、大丈夫ですか」
神宮が指を口に入れて頻りに舐めている。
「少しヒリヒリするけど、大丈夫だよ」
「軟膏でも塗りますか」
「いや、良い」
美乃が神宮家に嫁に来て十年ほどになる。
当初、口うるさい姑には何かと気を使った。とはいえ、決して居心地の悪さは感じられなかった。他には、特段気を配ることがなかったからだ。
「そうか」としか言わない舅、気付けば居たのかというほどの存在感の夫。結局、姑にだけ気を配り、言う事を聞いていれば、家の中は全て丸く治った。
やがて、姑が用事で家を空けた時などは、家の者が皆、自分に指示を仰ぐようになり、いわゆる「次席」としての地位を確立していく。
そして、舅と姑が亡くなった今では、自分が、完全にかつての姑の立場になったという気がしている。特にそれを強く感じるのは、夫に対してちょっと言い過ぎたかな、あるいは、皮肉が効きすぎたようだ、と思った時だ。
調子に乗らないようにしようとは思うが、その時の快感も忘れられない。
美乃が布巾でお膳や畳にこぼれた汁を拭いた。チラリと夫を見ながら溜息を吐く。
「あなたを使い続けなければならない上役に、同情するわぁ」
神宮は、その抑揚の無い皮肉に満ちたつぶやきを、聞こえないふりをしながら、そそくさと家を出る。
下女が来て神宮の膳を片付けようとしたが、美乃がそれを止めた。
「良いわ、そのままで。私がいただきますから。私の膳も持って来てくれますか」
はい、と言って下女が台所に行くと、美乃はマジマジと神宮の膳を見つめ、ふくよかな腹に手を当てた。
「ふふ、また太りそう」
何処かで猫が鳴いている。
奉行所の詮議の間である。
どたどたと足音を響かせて、町奉行池田播磨守頼方が入って来た。
「すまん、遅れてしまった」
頼方がドスンと上座に座った。下座には筆頭与力の成瀬子多郎と神宮が座っている。
「お真美がなぁ、朝飯も食べさせずに行かせる訳にはいかないと言うので、仕方なく待っていたのだ。そうしたら、何と出て来た朝飯というのが食べられた代物じゃない。文句を言ったら、お真美が自分で支度したと言うでは無いか、もう散々やり込められてしまって。仕方なく、食べたけどな・・」
成瀬が苦虫を噛み潰したような顔で右手を上げた。
「奉行、その話は又の機会にしていただいて、まず、今朝、殺しの現場を見て来たあるるの話を聞いてください」
「あるる」とは神宮の事である。神宮は相槌を打つ時に「ある、ある」と言うのが口癖だが、早口のため「あるる」と聞こえることから、皆にそう呼ばれている。
「ご苦労。すまんな、朝早くから」
頼方が頷くと、神宮が姿勢を正した。
「えー、では、ご報告いたします。私は今朝、殺しがあった大松屋に行って来ました。勿論、朝飯も食べずに・・」
成瀬が冷ややかな視線を向けると、頼方が肩をすぼめる。
「・・とまあ、そういう状況であります」
神宮が大まかな調べの内容を説明した。
「つまりはなんだ、押込み強盗ではなくて、盗みに入って見つかったから殺した、と思われるということか」
神宮はうなずいた。
「現場の状況や家の者の話からはすると、今のところは、そう思うのが妥当なようです」
頼方が煙草盆に手を伸ばした。
「そう思う理由は何だ」
「まず現場の状況ですが、殺された主人の部屋と、その縁側から庭を通って裏口までの間しか、犯人が跡を残していません。おそらく、塀を乗り越えて慎重に忍び込んだところを、主人に見つかり、包丁で刺して何も取らずに慌てて逃げた、と見ています。家の中は荒らされた様子は無く、無くなった物もありません」
頼政が煙管に煙草を詰めながら頷いた。
「なるほど。それから、家の者の話の方はどうだ」
「女将が何か物音を聞いて、音がした主人の部屋に行くと、血塗れの主人が倒れていました。女将の叫び声で番頭や使用人が駆けつけましたが、賊は逃げた後でした」
頼方が煙草に火鉢の火を付けた。煙草の香りが部屋に広がった。
「賊を見た者はいるのか」
「女将が、逃げる姿を見ています」
「他には」
「いえ、女将だけです」
成瀬が神宮に顔を向けた。
「では、賊について、音を聞いたとか姿を見たのは、結局は、女将だけか」
神宮が薄くなった頭に手を当てた。
「はあ、確かにそうですね」
頼方が吸い込んだ煙草の煙を、ゆっくりと鼻から吐き出した。
「賊の行動についての証言は、唯一、女将だけか」
成瀬が腕を組んだ。
「そうすると、現場の状況についても、盗みに入った賊の仕業と決めつけるのは、少し早すぎるだろうなぁ。ここは、他の理由も含めた調べが必要ですね」
成瀬が顔を向けると頼方が頷いた。
「そうだな。他の筋も考えられるな。恨みや揉め事か。そっちはどうなっている」
「はい、同業の呉服屋界隈を、間部瀬が聞き込みに出かけています」
頼方が煙管を火鉢の角にポンと打付けて灰を落とした。
「それと、気になったのは殺され方だ。腹を数カ所だったな」
「はい、前から二箇所、斜め後ろから一箇所です」
「出血が多くて死ぬぐらいだから、傷は深めか」
「ええ、かなり奥まで刺しています」
成瀬が首を傾げた。
「それも、盗みに入った賊が見つかって、逃げるために斬り付けたにしては、周到過ぎるな。とっさの行動というよりも、計画や目的がある仕業に思える」
頼方が頷いた。
「確かに、どうも、殺意がある刺し方にも思えるな。で、主人を刺したのが包丁だと、どうして分かった」
「庭先に落ちていました」
「包丁の出所をあたっているな」
「はい。刃物を扱っている店に聞いています」
頼方が腕を組んだ。
「わかった。それと、店の中にも探りを入れることだな。側から見れば何の問題も無いようでも、中では何かと揉め事はあるものだ。主人に対する店の者の話もよく聞いてくれ」
「はい。今のところ悪い話は聞いていませんが、そこは抜かり無く」
成瀬が口を挟む。
「確か、大松屋をあそこまで大きくしたのは、先代の主人だったな。その時の番頭が、殺された良蔵か」
「そうです、番頭から婿養子になって、店を継いでいます」
頼方は組んでいた腕をほどき右手でアゴをなぞった。
「ふうん、てぇことは女将が先代の実の娘ということか」
神宮が頷いた。
「はい。そういう事情なのか、店の商売の仕切りは、本業の呉服が女将で、その他が主人という状況のようです。しかし、店としては繁盛しているものの、呉服についてはあまり売れていないという話も聞きます」
成瀬が神宮に視線を向けた。
「何か、店の中での、複雑な事情もありそうな感じだな。それが、ひょっとすると、この殺しの鍵になるかも知れないなぁ」
神宮が顔を引き締めて頷いた。
「あるある」
頼方が神宮を見た。
「明日以降で良いから、大松屋の内情を良く探ってくれ」
成瀬も頷く。
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頼方が、また肩をすぼめる。
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