播磨守江戸人情小話(三) 老舗女将の夢

戸沢一平

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「旦那様、奉行所から知らせが来ました、殺しです」

 同心神宮燕吾郎かんみやえんごろうが、丁度、朝食の膳の味噌汁に手を伸ばした時に、下男の叫び声がした。
 寝起きが悪いとまではいかないが、まだボーとしていた頭が、急にシャキッとした。

「わかった、直ぐ行く」

 此処は、何はともあれ、急ぎ奉行所に行かねばならない。

 立ち上がろうとして腰を上げかけたが、味噌汁の香りが鼻に残っていたため、一口ぐらい飲みたい気持ちが勝り、中腰のまま碗に手を伸ばした。

 無理な体勢と、慌てた気持ちが災いした。
 碗をひっくり返し、味噌汁が散らばって、自分の手にもかかってしまった。
「アチッ・・」

 隣に座り、右手にしゃもじを持ち、左手を御櫃に掛けていた妻の美乃が、呆れたというように首を振った。
「まさか、この家で、立ち上がりながら食事する人を見るとは・・」

 耳を触りながら神宮が恥ずかしそうに苦笑する。
「つい、一口だけでもと思って・・」

 美乃がマジマジと神宮を見た。
「亡くなった義母様が見たら、何と言ったでしょうねぇ。手は、大丈夫ですか」

 神宮が指を口に入れて頻りに舐めている。
「少しヒリヒリするけど、大丈夫だよ」
「軟膏でも塗りますか」
「いや、良い」

 美乃が神宮家に嫁に来て十年ほどになる。

 当初、口うるさい姑には何かと気を使った。とはいえ、決して居心地の悪さは感じられなかった。他には、特段気を配ることがなかったからだ。

 「そうか」としか言わない舅、気付けば居たのかというほどの存在感の夫。結局、姑にだけ気を配り、言う事を聞いていれば、家の中は全て丸く治った。

 やがて、姑が用事で家を空けた時などは、家の者が皆、自分に指示を仰ぐようになり、いわゆる「次席」としての地位を確立していく。

 そして、舅と姑が亡くなった今では、自分が、完全にかつての姑の立場になったという気がしている。特にそれを強く感じるのは、夫に対してちょっと言い過ぎたかな、あるいは、皮肉が効きすぎたようだ、と思った時だ。
 調子に乗らないようにしようとは思うが、その時の快感も忘れられない。

 美乃が布巾でお膳や畳にこぼれた汁を拭いた。チラリと夫を見ながら溜息を吐く。
「あなたを使い続けなければならない上役に、同情するわぁ」

 神宮は、その抑揚の無い皮肉に満ちたつぶやきを、聞こえないふりをしながら、そそくさと家を出る。

 下女が来て神宮の膳を片付けようとしたが、美乃がそれを止めた。
「良いわ、そのままで。私がいただきますから。私の膳も持って来てくれますか」

 はい、と言って下女が台所に行くと、美乃はマジマジと神宮の膳を見つめ、ふくよかな腹に手を当てた。
「ふふ、また太りそう」

 何処かで猫が鳴いている。

 奉行所の詮議の間である。

 どたどたと足音を響かせて、町奉行池田播磨守頼方いけだはりまのかみよりまさが入って来た。
「すまん、遅れてしまった」

 頼方がドスンと上座に座った。下座には筆頭与力の成瀬子多郎なるせこたろうと神宮が座っている。
「お真美がなぁ、朝飯も食べさせずに行かせる訳にはいかないと言うので、仕方なく待っていたのだ。そうしたら、何と出て来た朝飯というのが食べられた代物じゃない。文句を言ったら、お真美が自分で支度したと言うでは無いか、もう散々やり込められてしまって。仕方なく、食べたけどな・・」

 成瀬が苦虫を噛み潰したような顔で右手を上げた。
「奉行、その話は又の機会にしていただいて、まず、今朝、殺しの現場を見て来たあるるの話を聞いてください」

 「あるる」とは神宮の事である。神宮は相槌を打つ時に「ある、ある」と言うのが口癖だが、早口のため「あるる」と聞こえることから、皆にそう呼ばれている。

「ご苦労。すまんな、朝早くから」
 頼方が頷くと、神宮が姿勢を正した。

「えー、では、ご報告いたします。私は今朝、殺しがあった大松屋に行って来ました。勿論、朝飯も食べずに・・」

 成瀬が冷ややかな視線を向けると、頼方が肩をすぼめる。

「・・とまあ、そういう状況であります」
 神宮が大まかな調べの内容を説明した。

「つまりはなんだ、押込み強盗ではなくて、盗みに入って見つかったから殺した、と思われるということか」

 神宮はうなずいた。
「現場の状況や家の者の話からはすると、今のところは、そう思うのが妥当なようです」

 頼方が煙草盆に手を伸ばした。
「そう思う理由は何だ」
「まず現場の状況ですが、殺された主人の部屋と、その縁側から庭を通って裏口までの間しか、犯人が跡を残していません。おそらく、塀を乗り越えて慎重に忍び込んだところを、主人に見つかり、包丁で刺して何も取らずに慌てて逃げた、と見ています。家の中は荒らされた様子は無く、無くなった物もありません」

 頼政が煙管に煙草を詰めながら頷いた。
「なるほど。それから、家の者の話の方はどうだ」
「女将が何か物音を聞いて、音がした主人の部屋に行くと、血塗れの主人が倒れていました。女将の叫び声で番頭や使用人が駆けつけましたが、賊は逃げた後でした」

 頼方が煙草に火鉢の火を付けた。煙草の香りが部屋に広がった。
「賊を見た者はいるのか」
「女将が、逃げる姿を見ています」
「他には」
「いえ、女将だけです」

 成瀬が神宮に顔を向けた。
「では、賊について、音を聞いたとか姿を見たのは、結局は、女将だけか」

 神宮が薄くなった頭に手を当てた。
「はあ、確かにそうですね」

 頼方が吸い込んだ煙草の煙を、ゆっくりと鼻から吐き出した。
「賊の行動についての証言は、唯一、女将だけか」

 成瀬が腕を組んだ。
「そうすると、現場の状況についても、盗みに入った賊の仕業と決めつけるのは、少し早すぎるだろうなぁ。ここは、他の理由も含めた調べが必要ですね」

 成瀬が顔を向けると頼方が頷いた。
「そうだな。他の筋も考えられるな。恨みや揉め事か。そっちはどうなっている」
「はい、同業の呉服屋界隈を、間部瀬が聞き込みに出かけています」

 頼方が煙管を火鉢の角にポンと打付けて灰を落とした。
「それと、気になったのは殺され方だ。腹を数カ所だったな」
「はい、前から二箇所、斜め後ろから一箇所です」
「出血が多くて死ぬぐらいだから、傷は深めか」
「ええ、かなり奥まで刺しています」

 成瀬が首を傾げた。
「それも、盗みに入った賊が見つかって、逃げるために斬り付けたにしては、周到過ぎるな。とっさの行動というよりも、計画や目的がある仕業に思える」

 頼方が頷いた。
「確かに、どうも、殺意がある刺し方にも思えるな。で、主人を刺したのが包丁だと、どうして分かった」
「庭先に落ちていました」
「包丁の出所をあたっているな」
「はい。刃物を扱っている店に聞いています」

 頼方が腕を組んだ。
「わかった。それと、店の中にも探りを入れることだな。側から見れば何の問題も無いようでも、中では何かと揉め事はあるものだ。主人に対する店の者の話もよく聞いてくれ」
「はい。今のところ悪い話は聞いていませんが、そこは抜かり無く」

 成瀬が口を挟む。
「確か、大松屋をあそこまで大きくしたのは、先代の主人だったな。その時の番頭が、殺された良蔵か」
「そうです、番頭から婿養子になって、店を継いでいます」

 頼方は組んでいた腕をほどき右手でアゴをなぞった。
「ふうん、てぇことは女将が先代の実の娘ということか」

 神宮が頷いた。
「はい。そういう事情なのか、店の商売の仕切りは、本業の呉服が女将で、その他が主人という状況のようです。しかし、店としては繁盛しているものの、呉服についてはあまり売れていないという話も聞きます」

 成瀬が神宮に視線を向けた。
「何か、店の中での、複雑な事情もありそうな感じだな。それが、ひょっとすると、この殺しの鍵になるかも知れないなぁ」

 神宮が顔を引き締めて頷いた。
「あるある」

 頼方が神宮を見た。
「明日以降で良いから、大松屋の内情を良く探ってくれ」

 成瀬も頷く。
「朝飯はしっかり食べてからで良いぞ」

 頼方が、また肩をすぼめる。
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