播磨守江戸人情小噺(二) 小間物屋裁断

戸沢一平

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第一話

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 話はやや遡る。

 間部瀬勘太郎まぶぜかんたろうが、新米同心として勤め始めたばかりの頃である。

 それは前任者の突然の引退で得た幸運だった。人伝に、母方の伯父の推薦が物を言ったと聞いた。

 同心として召抱えられるまで、この伯父宅に盆暮れの贈り物を届けるのが勘太郎の役目であり、毎回屋敷にあげられ伯父の退屈な武勇伝を聞かされる苦痛を経験していた。修行の一つだと自分に言い聞かせて耐えていたほどだ。

 それ故に、これまでやや懐疑的だった「何事も真面目に行えば見る人は見ている」という父親の教えがようやく身に染みて納得出来た。

 更に、「目上の者の言うことは忠実に守るべし」という教えにも何ら疑問を持つことが無くなっていた。

 そのせいもあってか、この、濃い眉毛にギョロリとした鋭い眼、そして青々とした髭剃りあとがあるずんぐりとした小男の新米同心は、毎日のように上司から聞かされている役人としての心得を、確実に実践することしか頭に無かった。

「一番大事なのは、上役の意を体することだろうな」
 ある日、先輩同心の何気ない一言がピタッと頭にへばりついた。

 上役の意を体する、つまり、上司の直接的な命令はなくとも、その意図するところをすすんで斟酌して行うことである。

 元々が素直でクソがつくほど真面目である。
 それから数日間、上司の意を体せねば、と必死に考えるようになったのは致し方ないとしても、上司は何を望んでいるのか、好みは何か、とやや見当外れの方向に思考が行ってしまった。

 そんなところに、同僚の噂で小耳に挟んだのが、最近出来た評判の小料理屋の話である。江戸では珍しい上方料理を売りにしているという。

 新米同心の頭にひらめいたのは、酒好き上司をこの店に誘うことだった。

「奉行所で一番酒が好きな者?そりゃ奉行だろう」
「そうだなぁ、奉行かな」
「んなもん、奉行に決まっているだろう」

 奉行所の中で一番酒好きは誰かという問いに、誰の口からも、奉行の播磨守の名が上がった。

 そういえば、毎日のように茶屋に通っているような話もある。がっしりとした大柄な体は、いかにも酒豪という雰囲気を醸し出している。誘うのであれば、やはり奉行か。

 間部瀬の頭の中は、大胆にも、町奉行を酒に誘う事に傾いて行った。

「しかし、奉行ほどの頂上にいる上司を、新米の自分が誘っても良いのか」
 などとは、どういう訳か、この男は思わなかった。

 しかして、この日、思いたったは吉日とばかりに、帰りがけの奉行を捕まえて声をかけたのである。

「失礼致します。最近、銀幕町に評判の小料理屋が出来たとの事。今度、一献傾けたく、ご一緒させて頂きたいと思いますが、いかがでございましょうか」

 何事が起こったと呆気に取られる周囲をよそに、振り返った池田播磨守頼方が大きくうなずく。

「おう、良いな。では明日にでも行くか」
 あっさりと快諾してしまう。

 側に立つ筆頭与力の成瀬子多郎なるせこたろうが、恨めしそうに間部瀬を見ながら力なく首を振る。
「そうですか・・、まあ、では私もお供しましょう」

 成瀬がフウとため息を吐いて肩を落とすと同時に、満面に笑みを浮かべた間部瀬が深々と頭を下げて、喜び勇んで去って行った。

 その後ろ姿を見ていた成瀬が頼方に視線を向けた。
「奉行、今の江戸は、それなりに治安は良いものの、奉行ほどの要職を一人で見ず知らずの店に行かせる訳には行きません。お供は必要です。まずは相談してから行く行かないを決めて頂かないと困ります」

「あ、そうか、すまんな、成瀬さん」
 頼方が肩をすぼめて申し訳なさそうに微笑むと、成瀬がズンと頼方の前に立った。

「それに、軽々しく若手の誘いに乗ると、今後の御用の進め方や段取りに影響が出ますよ。奉行としての権威にも」
「まあ、出たら出たで、その時に考えれば良いさ」
「それとですね、何回か申し上げておりますが、最近の奉行は・・」

 頼方が軽く手を挙げて成瀬を遮った。
「わかった。続きはまた明日にしよう、な」

 成瀬が頼方をジッと睨んだ。

「明日はしっかりと聞いていただきますよ」
「はい、じっくりと聞かせていただきます」

 奉行所を出かけて頼方が振り返った。

「あ、それでだな、成瀬さん」
「何ですか」
「俺を誘ったあいつ、誰だっけ」
「・・・」

 何処かで猫が鳴いている。

 それが、昨日のことである。
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