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第八章 おかわいそうに
第十三話 点検
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そろそろ帰ろう。
結局、十一時まで粘ったが、文献だけでは対応できない事実に直面しただけだ。
デスクを離れ、ロッカーからダウンコートとマフラーを引き出した。
そしてふと、麻子の脳裏を圭吾がよぎる。
こうして深夜になるまで残業すると、圭吾が車をパーキングに止め、ビルの前まで迎えに来ていた。それが今はこんなことになるなんて。
コートに腕を通した麻子は、鞄とマフラーを肘にかけ、事務室の天井灯のスイッチをオフにする。
診察室は駒井が自分で鍵をかける。
今日はさすがに、一人で自宅にいられない。
ネットで症例を探しつつ、ビジネスホテルの宿泊予約も取りつけた。
片手でマスターキーを持ったまま、廊下に出てから、まずはトイレを見回った。
次に、診察室に近い順に面接室のドアを開け、電気を点けて、取り残されたクライアントが、いないかどうかを点検する。
それが済んだら電気を消して、隣の部屋へと移動する。
第二面接室のドアを開け、電気を点ける。
駒井クリニックでは、若年層から老齢の通院者がいる。
薬物依存や統合失調症のクライアントも多くいる。
何かしらの目的で、院内に身を潜めていたり、アクシデントで身動きできない状態で、救助を待っているかもしれない。
油断は禁物。麻子は部屋の端々までに目を凝らす。
そして再び電気を消してドアを閉め、第三面接室へと歩みを進める。
廊下にはヒールの音だけが響いている。
ビルは繁華街の裏通りにある。泥酔者たちが路地であげる奇声や歓声。店舗から漏れ聞こえてくる派手な音楽。低いビート。客を迎えるキャバクラ嬢の鼻にかかった甘い声。けたたましいサイレンとともに走り抜ける救急車。
しんとした院内が、喧噪の中に、ぽつんと取り残されている。
第三面接室のドアを開け、電気をオンにしようとしたが、麻子の肌が一瞬にして総毛立つ。
誰かいる。
廊下は明るい。部屋の中は真っ暗だ。
部外者の侵入ならば、まずは退路を目で確保。
壁のスイッチ近くに設置された防犯ブザーを押してから、待合室を突っ切って、共同廊下に出たあとは、階段で一階まで降り、助けを求める。
通院者なら、何かしらの症状のあるなしに関わらず、救急車を呼ぶ。
そうしてマスターキーに付けられたブザー型の送信機を押す。受信するのは駒井だけ。ビルから徒歩で数分の、マンション暮らしの駒井が真夜中だろうと駆けつける。
逃げるべきか、呼ぶべきか。
高ぶる鼓動が胸を激しく打ちつける。天井灯のスイッチを押すのが恐い。恐いけれども確かめなくては判断できない。麻子が逡巡していると、部屋の中の誰かが鼻で 嘲笑う。
「電気、点けたら? 長澤先生」
聞き覚えがある。この声は。麻子は瞳を震わせた。
「俺だよ、先生」
そうだ、この声。この声は。
結局、十一時まで粘ったが、文献だけでは対応できない事実に直面しただけだ。
デスクを離れ、ロッカーからダウンコートとマフラーを引き出した。
そしてふと、麻子の脳裏を圭吾がよぎる。
こうして深夜になるまで残業すると、圭吾が車をパーキングに止め、ビルの前まで迎えに来ていた。それが今はこんなことになるなんて。
コートに腕を通した麻子は、鞄とマフラーを肘にかけ、事務室の天井灯のスイッチをオフにする。
診察室は駒井が自分で鍵をかける。
今日はさすがに、一人で自宅にいられない。
ネットで症例を探しつつ、ビジネスホテルの宿泊予約も取りつけた。
片手でマスターキーを持ったまま、廊下に出てから、まずはトイレを見回った。
次に、診察室に近い順に面接室のドアを開け、電気を点けて、取り残されたクライアントが、いないかどうかを点検する。
それが済んだら電気を消して、隣の部屋へと移動する。
第二面接室のドアを開け、電気を点ける。
駒井クリニックでは、若年層から老齢の通院者がいる。
薬物依存や統合失調症のクライアントも多くいる。
何かしらの目的で、院内に身を潜めていたり、アクシデントで身動きできない状態で、救助を待っているかもしれない。
油断は禁物。麻子は部屋の端々までに目を凝らす。
そして再び電気を消してドアを閉め、第三面接室へと歩みを進める。
廊下にはヒールの音だけが響いている。
ビルは繁華街の裏通りにある。泥酔者たちが路地であげる奇声や歓声。店舗から漏れ聞こえてくる派手な音楽。低いビート。客を迎えるキャバクラ嬢の鼻にかかった甘い声。けたたましいサイレンとともに走り抜ける救急車。
しんとした院内が、喧噪の中に、ぽつんと取り残されている。
第三面接室のドアを開け、電気をオンにしようとしたが、麻子の肌が一瞬にして総毛立つ。
誰かいる。
廊下は明るい。部屋の中は真っ暗だ。
部外者の侵入ならば、まずは退路を目で確保。
壁のスイッチ近くに設置された防犯ブザーを押してから、待合室を突っ切って、共同廊下に出たあとは、階段で一階まで降り、助けを求める。
通院者なら、何かしらの症状のあるなしに関わらず、救急車を呼ぶ。
そうしてマスターキーに付けられたブザー型の送信機を押す。受信するのは駒井だけ。ビルから徒歩で数分の、マンション暮らしの駒井が真夜中だろうと駆けつける。
逃げるべきか、呼ぶべきか。
高ぶる鼓動が胸を激しく打ちつける。天井灯のスイッチを押すのが恐い。恐いけれども確かめなくては判断できない。麻子が逡巡していると、部屋の中の誰かが鼻で 嘲笑う。
「電気、点けたら? 長澤先生」
聞き覚えがある。この声は。麻子は瞳を震わせた。
「俺だよ、先生」
そうだ、この声。この声は。
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