たましいの救済を求めて

手塚エマ

文字の大きさ
上 下
39 / 151
第四章 僕じゃない

第六話 羽藤の退路

しおりを挟む
 麻子との押し問答でも、羽藤は頑として譲らない。
 両肩をそびやかせ、ぎゅっと握った拳を腿の上に置いている。

 羽藤にとって、自分が友人と喧嘩をしたり、女の子をナンパしたりしているよりも、自分にそっくりの自分がいた方が、都合がいいのかもしれない。
 麻子はインテークでの羽藤の主訴を、不意に思い出していた。

 もしかしたら、自分は人を殺しているかもしれない、と。

 だから、恐くなって来院したと言っていた、羽藤の追い詰められた蒼白の顔。
 もし自分にそっくりの別人が、もう一人いるのなら、殺したのは『そいつ』なんだと、羽藤はそう思いたがっているのではないか。

 だとしたら、若木と一緒に来院したのが、羽藤か羽藤ではないのかを議論して、白黒つける必要性は今はない。


 ここにきて、羽藤はやっと逃げ道を見つけたと思っているのかもしれない。
 その退路を断つような議論をするべきではないはずだ。
 麻子は無意識に乗り出していた上体を、ゆっくり戻した。

 それほどまでに羽藤は逃げ道が欲しかったのかと、麻子は密かに胸を痛める。
 それが誤りだろうと妄想だろうと、自分に似た人間が、もう一人いるという想像が、今は支えになっている。

 麻子は手元に置いた腕時計を伏し目になって一瞥した。
 今、午後十九時四十五分を回ったところだ。
 残りはあと十五分足らず。

 ここで新たに水を向けても、中途半端になってしまう。

「……不思議なことがあるんですね」
 
 クライアントには、理屈が通っていることが求められる訳ではない。
 麻子は曖昧に笑みを浮かべて呟いた。

 とはいえ、羽藤も自分の言い分が現実離れしていることも、ちゃんとわかっているはずだ。
 だから、ここで羽藤に追従しすぎて、「じゃあ、そのもう一人の羽藤さんがいろいろ悪さをしているのね」など、もう一人の羽藤説に迎合したら、今度は羽藤が、「えっ? なに、この人。そんなはずないのに」と、鼻白む。

 もしくは、馬鹿にされたと感じるだろう。

 だから不思議なことがあるんですねと、感想を述べるに留まった。


「私も若木さんも羽藤さんに会って話をしたのに、その時、羽藤さんは電車に乗っていたんだものね」
 
 改めて口にすると、何だか怪談のようだと思ってしまう。

 ただ、人の心もなかなかに不可解だ。
 
 リスクの方が高すぎる、大きすぎると頭ではわかっているのに、それをせずにはいられない人間が一定数いる。
 自分のように。

 そんな不可解な心の大洋の波打ち際で羽藤と二人、しばらくこうしてたゆたっているのもいいかもしれない。

 それに、羽藤はもう既に疲れきってしまっている。
 今の彼に必要なのは治療ではなく、安心と休息なのだろう。

「だったら、今日が羽藤さんの初回のカウンセリングに、なりますね」

 麻子は口角だけを引き上げるようにして微笑みかけた。

「え……っ?」

 前回の羽藤は今ここにいる羽藤ではないのだとするのなら、そうなるはずだ。
 今後も交代人格でカウンセリングに現れて、主人格の羽藤には、その記憶がない回も出てくるのだろう。

 羽藤は交代人格に、初回を奪われてしまったような気がしたからだ。
 麻子は主人格の羽藤にも、記念すべき『スタート』を、与えてやりたくなっていた。

「……そうですね」

 麻子の意図を察したように、羽藤も頬をほころばせた。
 すっきり整った顔立ちの上に表情に乏しいせいか、硬質な印象の少年なのだが、こうして笑うと、年相応に愛らしい。
 このクリニックで、羽藤のこんな和んだ顔を始めて見たと、麻子は胸に熱いものがこみ上げるのを感じていた。

しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

主婦の名和志穂は昨夜のことを思いだす

大衆娯楽 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

III person Diary 儀式殺人事件の謎&追求&真実 

ミステリー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

私の日常

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:111

社畜冒険者の異世界変態記

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:113pt お気に入り:3,380

「青春」という名の宝物

青春 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

輪廻のモモ姫

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...