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第四章 僕じゃない
第六話 羽藤の退路
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麻子との押し問答でも、羽藤は頑として譲らない。
両肩をそびやかせ、ぎゅっと握った拳を腿の上に置いている。
羽藤にとって、自分が友人と喧嘩をしたり、女の子をナンパしたりしているよりも、自分にそっくりの自分がいた方が、都合がいいのかもしれない。
麻子はインテークでの羽藤の主訴を、不意に思い出していた。
もしかしたら、自分は人を殺しているかもしれない、と。
だから、恐くなって来院したと言っていた、羽藤の追い詰められた蒼白の顔。
もし自分にそっくりの別人が、もう一人いるのなら、殺したのは『そいつ』なんだと、羽藤はそう思いたがっているのではないか。
だとしたら、若木と一緒に来院したのが、羽藤か羽藤ではないのかを議論して、白黒つける必要性は今はない。
ここにきて、羽藤はやっと逃げ道を見つけたと思っているのかもしれない。
その退路を断つような議論をするべきではないはずだ。
麻子は無意識に乗り出していた上体を、ゆっくり戻した。
それほどまでに羽藤は逃げ道が欲しかったのかと、麻子は密かに胸を痛める。
それが誤りだろうと妄想だろうと、自分に似た人間が、もう一人いるという想像が、今は支えになっている。
麻子は手元に置いた腕時計を伏し目になって一瞥した。
今、午後十九時四十五分を回ったところだ。
残りはあと十五分足らず。
ここで新たに水を向けても、中途半端になってしまう。
「……不思議なことがあるんですね」
クライアントには、理屈が通っていることが求められる訳ではない。
麻子は曖昧に笑みを浮かべて呟いた。
とはいえ、羽藤も自分の言い分が現実離れしていることも、ちゃんとわかっているはずだ。
だから、ここで羽藤に追従しすぎて、「じゃあ、そのもう一人の羽藤さんがいろいろ悪さをしているのね」など、もう一人の羽藤説に迎合したら、今度は羽藤が、「えっ? なに、この人。そんなはずないのに」と、鼻白む。
もしくは、馬鹿にされたと感じるだろう。
だから不思議なことがあるんですねと、感想を述べるに留まった。
「私も若木さんも羽藤さんに会って話をしたのに、その時、羽藤さんは電車に乗っていたんだものね」
改めて口にすると、何だか怪談のようだと思ってしまう。
ただ、人の心もなかなかに不可解だ。
リスクの方が高すぎる、大きすぎると頭ではわかっているのに、それをせずにはいられない人間が一定数いる。
自分のように。
そんな不可解な心の大洋の波打ち際で羽藤と二人、しばらくこうしてたゆたっているのもいいかもしれない。
それに、羽藤はもう既に疲れきってしまっている。
今の彼に必要なのは治療ではなく、安心と休息なのだろう。
「だったら、今日が羽藤さんの初回のカウンセリングに、なりますね」
麻子は口角だけを引き上げるようにして微笑みかけた。
「え……っ?」
前回の羽藤は今ここにいる羽藤ではないのだとするのなら、そうなるはずだ。
今後も交代人格でカウンセリングに現れて、主人格の羽藤には、その記憶がない回も出てくるのだろう。
羽藤は交代人格に、初回を奪われてしまったような気がしたからだ。
麻子は主人格の羽藤にも、記念すべき『スタート』を、与えてやりたくなっていた。
「……そうですね」
麻子の意図を察したように、羽藤も頬をほころばせた。
すっきり整った顔立ちの上に表情に乏しいせいか、硬質な印象の少年なのだが、こうして笑うと、年相応に愛らしい。
このクリニックで、羽藤のこんな和んだ顔を始めて見たと、麻子は胸に熱いものがこみ上げるのを感じていた。
両肩をそびやかせ、ぎゅっと握った拳を腿の上に置いている。
羽藤にとって、自分が友人と喧嘩をしたり、女の子をナンパしたりしているよりも、自分にそっくりの自分がいた方が、都合がいいのかもしれない。
麻子はインテークでの羽藤の主訴を、不意に思い出していた。
もしかしたら、自分は人を殺しているかもしれない、と。
だから、恐くなって来院したと言っていた、羽藤の追い詰められた蒼白の顔。
もし自分にそっくりの別人が、もう一人いるのなら、殺したのは『そいつ』なんだと、羽藤はそう思いたがっているのではないか。
だとしたら、若木と一緒に来院したのが、羽藤か羽藤ではないのかを議論して、白黒つける必要性は今はない。
ここにきて、羽藤はやっと逃げ道を見つけたと思っているのかもしれない。
その退路を断つような議論をするべきではないはずだ。
麻子は無意識に乗り出していた上体を、ゆっくり戻した。
それほどまでに羽藤は逃げ道が欲しかったのかと、麻子は密かに胸を痛める。
それが誤りだろうと妄想だろうと、自分に似た人間が、もう一人いるという想像が、今は支えになっている。
麻子は手元に置いた腕時計を伏し目になって一瞥した。
今、午後十九時四十五分を回ったところだ。
残りはあと十五分足らず。
ここで新たに水を向けても、中途半端になってしまう。
「……不思議なことがあるんですね」
クライアントには、理屈が通っていることが求められる訳ではない。
麻子は曖昧に笑みを浮かべて呟いた。
とはいえ、羽藤も自分の言い分が現実離れしていることも、ちゃんとわかっているはずだ。
だから、ここで羽藤に追従しすぎて、「じゃあ、そのもう一人の羽藤さんがいろいろ悪さをしているのね」など、もう一人の羽藤説に迎合したら、今度は羽藤が、「えっ? なに、この人。そんなはずないのに」と、鼻白む。
もしくは、馬鹿にされたと感じるだろう。
だから不思議なことがあるんですねと、感想を述べるに留まった。
「私も若木さんも羽藤さんに会って話をしたのに、その時、羽藤さんは電車に乗っていたんだものね」
改めて口にすると、何だか怪談のようだと思ってしまう。
ただ、人の心もなかなかに不可解だ。
リスクの方が高すぎる、大きすぎると頭ではわかっているのに、それをせずにはいられない人間が一定数いる。
自分のように。
そんな不可解な心の大洋の波打ち際で羽藤と二人、しばらくこうしてたゆたっているのもいいかもしれない。
それに、羽藤はもう既に疲れきってしまっている。
今の彼に必要なのは治療ではなく、安心と休息なのだろう。
「だったら、今日が羽藤さんの初回のカウンセリングに、なりますね」
麻子は口角だけを引き上げるようにして微笑みかけた。
「え……っ?」
前回の羽藤は今ここにいる羽藤ではないのだとするのなら、そうなるはずだ。
今後も交代人格でカウンセリングに現れて、主人格の羽藤には、その記憶がない回も出てくるのだろう。
羽藤は交代人格に、初回を奪われてしまったような気がしたからだ。
麻子は主人格の羽藤にも、記念すべき『スタート』を、与えてやりたくなっていた。
「……そうですね」
麻子の意図を察したように、羽藤も頬をほころばせた。
すっきり整った顔立ちの上に表情に乏しいせいか、硬質な印象の少年なのだが、こうして笑うと、年相応に愛らしい。
このクリニックで、羽藤のこんな和んだ顔を始めて見たと、麻子は胸に熱いものがこみ上げるのを感じていた。
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