東京ラプソディ

手塚エマ

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1巻

1-2

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「蛇の道は蛇だってことです」

 どうしてそこまで言えるのか。聖吾は手段ははぐらかす。
 律の中では話を聞けば聞くほどに、疑問が次々湧いて出る。

「だけど僕は聖吾を忘れたことなんてなかったよ」

 葡萄酒とオレンジの甘い香りに酔わされて、ごとが口をつく。

「そりゃあ、今日は洋装だったから、すぐにはわからなかったけど」

 七年前に散らしてしまった恋の残滓ざんしに、まだ心のどこかで囚われたままでいる。
 飲み慣れないホットワインを口にすると、温められた葡萄酒が熱く喉を焼きながら胃に落ちる。
 隣では聖吾が息を呑むような気配がした。その驚きは何に対するものなのか。言わせてみたい気がしたが、身体が火照ほてって熱くなる。覚えていると告げたことが聖吾から返す言葉を失わせるほど歓喜させた自分がいる。優越感にも近いような感覚が胸いっぱいに広がった。
 寒風で窓の木枠がガタガタ音を立てている。程よく冷めた葡萄酒を続けざまに飲み干すと、居住まいを正した聖吾がいた。

「律さん」

 耳触りのいい声を一段低くする。

「実は、律さんに折り入ってお願いがあるんです。今後もまたこんなことが起きないように、律さんに聞いて頂きたいことがあって参りました」
「僕に話?」
「ええ。そうです」

 唐突すぎて驚きながらも、律はぎこちなく身体の正面を彼に向けた。
 一気に飲み干したウイスキーのグラスをテーブルに置き、聖吾が一瞬、救いの言葉を求めるように天井をふり仰ぐ。

「律さん。私は……」

 律のグラスに注がれた赤い色の飲み物から、濃艶な花の香りが湯気とともに立ち上る。
 思い詰めた目をした白皙はくせきの美貌が間近に迫る。
 その炯々けいけいとした黒曜石の双眸そうぼうに射抜かれて、律は血潮がたぎるほど、熱く胸を高鳴らせた。


        ◆


「それで、どうするつもりなの?」

 ステージの前に瑛子の楽屋を訪ねた律は、瑛子に問われて自問する。七年前に律の家を去った後、聖吾は株取引を学んだことも知らされた。
 日雇いの仕事だろうが、カフェーのボーイだろうが、闇雲に働いて蓄えた種銭たねせんをもとにして、東京株式取引所で何度も巨額の利を得てからは事業を興し、今は満州まんしゅう上海しゃんはいでも手広く取引を行う実業家でもあるという。
 聖吾の頼みというのは、律を母子ともども自分の屋敷に引き取らせて欲しいという申し出だった。

「水嶋聖吾って、どこかで聞いた名前だと思ったら、株で儲けたお金の一部を陸軍省に寄付したとかで、話題になったことがあるのよ。少し前に」

 ほら、これと、鏡の前で化粧にいそしんでいた瑛子が律に新聞を差し出した。畳まれた新聞には、関東軍の将校と握手を交わす聖吾の写真が載っていた。
 瑛子が見せてくれた新聞記事には、聖吾と関東軍の密接な繋がりも示唆されていた。当然政治家も関わっているだろう。カフェーのピアノ弾きを誘拐しようともくろんだ不届き者は、権力でもって追い払われたということか。

「満州で事業を興したのなら、関東軍にコネを作っておきたいところでしょうし。したたかで遣り手な男って感じかしら」
「瑛子さんは、どう思います?」

 いくら伊崎家に恩義を感じてくれているとはいえ、聖吾が家を出てから七年にもなる。
 図らずも彼が家を追われる要因にもなったのに、彼の好意に甘えて良いのだろうかと自問していた。

『この半年間、ずっと満州を回っていたので、何も存じ上げませんでした。御家の一大事に何の役にも立てなかった私ですが、せめてもの償いとして、どうしても律さんと奥方様のお役に立ちたいのです』

 聖吾は戸惑う律に訴えた。かつての主家の没落を自分のとがでもあるかのように嘆いてくれた。
 だが、それとこれとは話は別だ。
 律が思案にくれていると、瑛子は何でもないことのように笑って答える。

「あなたには理由はなくても、あちらにはそうしたい理由があるんじゃないの?」
「えっ?」
「あなたには、まだわからないかもしれないけれど。自分が受けた恩義を、いつか何倍にもして返したい。人にはそんな情があるものよ」

 瑛子はしみじみ語り、長い睫毛まつげをそっと伏せた。
 その言葉には、無名の彼女を舞台に上げたカフェーの主人に忠義を尽くす瑛子だからこその重みがあった。

「あなたの気持ちはともかくとして。ご病気のお母様のためを思うなら、ご厚意に甘えてみてもいいんじゃないかしら?」

 鏡に向き直った瑛子が毛足の長いパフで白粉おしろいを顔にはたき、躊躇ちゅうちょする律の背中を押すように、軽快な口調で言い足した。そんな瑛子に鏡越しに微笑まれ、目と目が合った律は決意を固めた。



  第四章 二人の主人


 急勾配の坂道を、車で何度も蛇行しながら上がっていくと、広大な敷地に巡らされた瓦葺きの漆喰塀と、格式の高い長屋門が現れる。
 黒いボンネットの自家用車は、大名屋敷のように堂々とした表門をくぐり抜け、踏み石の通路を更に上り、複雑に入り組んだ木造二階屋を目指して走る。
 東西に長く連なる雁行型の建物を背後の森と竹林が包み込む景観は、都会の一等地だということを忘れさせてしまうほどの壮麗さだ。
 律は車の後部座席で子供のように窓に張りついていた。

「……まるで御殿みたいだ」
「元は旧藩主の邸宅だったそうですから、御殿といったら御殿でしょう」

 思わずひとりごちた律に、隣で聖吾が微笑んだ。
 薄灰色の細縞の入った濃灰色の背広に薄紫色のネクタイを合わせ、中折帽を斜めに被った聖吾は、いつにもまして映画俳優か何かのようにきらめいて見える。
 律は膝の上で、拳をぎゅっと握り込む。
 こんな別世界のような豪邸の主人であり、夢のように美しい彼の書生として、今日からその生活をともにするのだ。
 最初は母子共々面倒をみてもらうなら、自分を下男として使って欲しいと、律は聖吾に申し出た。

『あなたを私の下で働かせるなんて、とんでもない!』

 聖吾は最後まで渋ったが、母子揃ってのうのうと、タダ飯を食べさせてもらう理由はどこにもない。それだけは絶対に譲れない。自分の中のプライドだ。
 でなければ申し出は受けられないと、律は強固に言い張った。
 その甲斐あってか、聖吾は腰に手を当て、更に根負けしたように、盛大な溜息をき出した。

『それでは、私の書生として、あなたをお預かりすることに致します。あなたは学校に通い、学業の合間にだけ私や家の雑務をこなす。それで、ご納得して頂けますか?』

 そう渋々承諾させた経緯もあり、聖吾は今でもいい顔をしない。
 それでも今日から彼のために働くことができるのだ。
 再び、あの頃のように、ずっと彼のそばにいられるのだと思っただけで胸が躍り、自然に頬も緩んでくる。
 銀行家の男妾になる誘惑にかられそうになっていた、最悪の生活から母子共々救ってくれた主人のために、これからは鞄持ちでも靴磨きでも何でもしよう。心から大切な人のためならば、靴でも顔が映るぐらいに磨きたい。
 周りの人にも教えを仰ぎ、作法や礼儀を仕込んでもらおう。
 そうして一日も早く、水嶋聖吾の名前にふさわしい家令になるのだと、律は革張りの座席で背筋をぴんと張りつめる。

「そんなに緊張なさらないでください。いきなり知らない場所に連れてこられて、心細いでしょうけれど、私が全力でお守りします。ご心配には及びません」

 優しげにそう告げた聖吾が、握り込んだ律の拳に手のひらを乗せてきた。

「……ありがとうございます」

 こうして聖吾の体温を感じるだけで、どんな時でも手放しでほっとできるのは、今も昔も変わらない。その腕の中に全てを委ねて眠りについた、あの頃の平和と安らぎが、郷愁と共に胸にこみ上げ、律は目頭を熱くする。
 七年前に飛ばされたはずのレコードの針が、再び盤に下ろされて、初恋の続きを奏で始めたかのようで、心臓が早鐘を打っていた。たとえ無邪気だった子供の頃とは、立場も情の意味合いも変わろうと、七年前と同じように、何もかも委ねていられる事実に変わりはない。
 律が応えるように微笑みかけると、聖吾もまなじりとろけさせて微笑んだ。

「ですが、旦那様。私は下男になるのですから、これまでのような敬語は無用です。どうぞ苗字なり名前なりで、呼び捨ててください」

 重ねられた手のひらが、僅かに強張る。その一瞬だけ手の甲と聖吾の手のひらが離れた気がした。
 離れないし、離さない。
 聖吾はあえてのように無言を貫き、今度はぎゅっと律の手を握り締める。それが返事だとでも言うように。
 やがて車は瓦の屋根が大きく迫り出す壮大な車寄せに横づけにされ、運転手によってうやうやしくそのドアを開かれた。

「さあ、どうぞ。律さん。今日からここが律さんの家ですからね」

 聖吾に肩を叩かれ、律は恐る恐る車を降り立った。
 車寄せの屋根の下には十数人もの使用人が並び立ち、主人の帰宅を出迎えていた。
 聖吾に続いて車を降りた律の肩に手を置くと、いちばん手前で頭を垂れる老女を呼び寄せ、律に言う。

「女中頭の和佳わかさんです。この家のことは何でも彼女に聞いてください。律さんのお世話も彼女に任せますから」
「伊崎律と申します。ふつつか者ではございますが、なにとぞよろしくお願い申し上げます」

 律は風呂敷包みを胸に抱えて、頭を下げた。
 だが、和佳という老女は、申し訳程度に会釈を返しただけに留まった。
 そのうえ、一言の挨拶も返答もない。
 老獪ろうかいな目つきの奥に鋭い敵意を感じた気がして、いぶかった。
 しかし、そうこうしている間にも、先にがりかまちに上がった聖吾が待ちきれないように律を振り向き、手招いた。

「律さん。お部屋にご案内します。どうぞ、こちらに」
「はい、申し訳ございません。今、参ります」

 律は慌てて草履ぞうりを脱いで後を追う。
 飴色に艶めく板間の左半分は畳敷きという、凝った造りの廊下にも面食らい、思わずすがるように聖吾の脇にぴたりと寄り添う。律とてかつては東濃随一と謳われた商家の出身なのだが、これほどまでに絢爛豪華な和洋折衷の邸宅は初めてだ。
 聖吾はそんな律を愛でるように目を細め、胸を開いて抱き寄せた。

「気が向いた時には、庭も自由に散策なさって結構ですよ。前庭だけでなく、裏の山まで合わせれば、相応な運動量になるはずです」

 何の前振れもなく抱き寄せられて舞い上がり、雲の上を歩くような心持ちで渡った回廊は、建具にガラス戸が用いられ、鯉が泳ぐ庭池や、老松や、築山に滝をかけた日本庭園を、絵画のように鑑賞することができる。
 廊下の網代天井あじろてんじょうには、磨りガラスのランプが吊され、二階に向かう階段の踊り場には、はめ込み窓に、極彩色のステンドグラスで蝶と牡丹が描かれている。
 東濃の商家など、足元にも及ばない壮麗さに立場を忘れ、すくみ上がって聖吾に腕を絡めていた。そうして目だけをきょろきょろさせると、聖吾がふっと含み笑う声がした。

「あとで家の中も案内しますが、間取りを全部覚える必要はありません。私も正直、どこにどの部屋があったのか、わからないぐらいですからね」

 聖吾が苦笑するほど広大な屋敷は、座敷の他に、地下室や女中部屋や舞踏室、サロンなども含めると、部屋数は五十は優に超えるという。
 書生に対して、屋敷の間取り図を覚えなくてもいいとの言葉が耳に引っかかったが、何しろ聖吾の足が速い。
 庭に面した二階の廊下を延々歩いた突き当たりで、聖吾はおもむろに足を止めて振り向いた。

「さあ、ここが律さんの部屋です。気に入って頂けるといいんですが」

 はにかむように目を細め、手前の金箔張りのふすまを開ける。
 そんな聖吾の肩越しに部屋を覗き見た律は、想定外のそのおもむきに息を呑み、咄嗟とっさに聖吾の背広の布地を握っていた。
 廊下に面したふすまを開けると、手前に六畳の畳敷きの次の間があり、続いて寄木細工の床板に、金唐革紙の壁紙という、和洋折衷の洋間が現れる。
 更に大理石の暖炉の前には緋色の絨毯じゅうたん、その上にグランドピアノが鎮座していた。
 ダンスホールのように広々とした、その洋間を渡って二枚目のふすまを聖吾が開けた。
 奥は十畳と十二畳の座敷が、横並びの二間続きになっている。

「手前の座敷を居間にして、奥の間を寝所になさって頂ければ結構です」

 聖吾は庭に面した、南向きの障子を自ら開いて圧巻の景色を披露した。
 聖吾が寝所にという、奥座敷の欄間には、透かし彫りで富士が描かれ、違い棚や床の間を設えた伝統的な書院の造りだ。それでいて、格天井から吊り下げられたアールデコのシャンデリアが、軽妙なアクセントになっていた。

「……で、ですが、旦那様。私はただの書生です。こんなの贅沢すぎます。困ります」

 律はこの部屋を見ただけで、あの和佳という女中頭の不興をかった理由がわかった気がした。
 年端もいかない新参者に、こんな居室が与えられたら、誰だっていい気持ちはしないだろう。
 律が困惑と動揺を顕わにすると、聖吾は不敵な笑みで、頬を歪めてうそぶいた。

「律さんは、私を主人と認めてくださっているんですよね?」
「もちろんです。私は旦那様にお仕えするためにこのお屋敷に上がったんです」
「でしたら、主人の私が、この部屋を使えと言っているんです。律さんは今日からここで生活なさってください」

 聖吾は律の当惑顔にも臆することなく、艶然として微笑んだ。
 そんなの奇弁だ。
 話が違うと叫びたいのに、動揺が怒涛のように押し寄せて、思考に言葉が追いつかずにいた。律はこの壮麗な屋敷の中で、突然迷子になったかのように、茫然と呆けて立っているしかない。
 なのに聖吾は、そんな律の手を掴み取り、何の問題もなかったように身を翻して引っ張った。

「あ、……の、旦那様、でも、私は」

 律は前のめりになりながら、必死に反論しようした。だが、長身で高い位置にある顔を仰ぎ見て、すがるように声をかけても、聖吾は律を顧みようとしなかった。
 ひたすら引きずられるように中央階段を下りていくと、やがて聖吾が振り返り、にっこり微笑みかけてきた。

「下の部屋に呉服屋とテーラーを待たせています。すぐに採寸をして、今週中にはひと揃え作らせましょう。音楽大学に復学する手続きは済ませてますから、来週からは通えるはずです」
「ええっ?」

 驚きの声を上げる律の顔にも声にも満足げにして、悪戯っぽく笑んでいる。

「とりあえず、学制服を作らなければいけませんね」
「今更私に、どうして音楽大学なんですか? 私は普通の大学に通い、朝方や夕方、晩には書生としての雑務をさせて頂くつもりでいました。それなのに」
「今更ではないでしょう? 半年前まで、律さんが通っていらした大学です」
「で、ですが、旦那様。私はもう音楽大学に復学なんて」

 律は階段を駆け下りた。
 そして聖吾の前に回り込む。
 物憂げに眉をひそめる聖吾の胸を両手で押さえ、語気を強めて訴える。
 聖吾は、せっかく喜ばせようと思ったサプライズなのに、白けさせてしまったように思え、むっつりしていた。

「旦那様のお心遣いには、心から感謝しています。私の母も、今は旦那様の熱海あたみの別荘で専属のお医者様までご用意頂き、療養させて頂いております。ですが、もうこれ以上、旦那様のご好意に甘えることはできません。私なんて何の御役にも立てませんが本当に下働きでも何でも致します。そういった書生の約束で、このお屋敷に上がったんです」

 確かに書生になるとは、約束した。
 だが、学校に通うといっても、就職に有利な商科や工業などの専門学校だろうと、漠然と考えていた。今の立場でまさか最高学府の大学に、それも音楽学校に復学なんて想像だにしなかった。

「音楽科以外に、あなたにふさわしい学部が他にあるとお思いですか?」

 しかし、決死の思いの懇願も聖吾ににべもなく一蹴され、律は二の句が継げずに息を呑む。
 先程までの慈愛に満ちた眼差しとは打って変わって冷やかな目で見据えられると、蛇ににらまれた蛙のように身動みじろぐこともできなくなる。
 それでも、なけなしの勇気をふり絞り、聖吾を見上げて進言した。

「ですが、音楽大学にいた頃と今とでは事情がまったく違います。今の私はこの先もっと旦那様のお役に立つために、経済学科や外国語学科のある大学に編入するべきなのではないでしょうか。私が将来、自分で自分の身を立てて、仕事で旦那様に御恩返しをするためにも、何かしらの専門知識が欲しいのです」

 笑顔の消えた聖吾に反発するのは震え出すほど恐かった。だが、こんな時世に音大を出たからといって、どんな仕事が得られるというのだろう。
 半年前も、ソナタやワルツが弾けたところで何にもならず、門前払いを受けてきた。ジャズやシャンソン、流行の小唄を耳で覚えて面接で弾いたことで、初めてカフェーのピアノ伴奏の職が得られたのだ。
 手に職がないことが、どんなに惨めで、やるせないかが骨身にしみてわかった今、仕事に繋がる学部でなければ、身につける意味がないとすら思えてしまう。
 しかし、聖吾は彼の華奢な顎を傲然ごうぜんと持ち上げ、言い放つ。

「音楽というものは教養です。教養は役に立つ立たないではなく、身につけることに、その意味があるのですよ? 私は今でも学歴がないというだけで、どんなに収入があっても人から一段低く見られます。私はあなたにだけは、そんな思いをさせたくはないんです」
「もちろん、上流階級の人間には教養が必要かもしれません。ただ、今の私には教養よりも手に職をつけることが必要なんです」
「律さん」

 懸命に言葉を重ねる律を遮って、聖吾がきつく眉を寄せた。今までよりも一段声を低くして、律を冷たく射竦いすくめる。

「あなたは大学で経済や外国語を学んだら、どこぞの会社か役場にでも就職しようと言うのですか? あなたは私のもとで働くとおっしゃったではありませんか。手に職をつけて学校を出たら、ここを出ていくおつもりだったのですか?」
「いえ……、いいえ! 私はそんなつもりでは……」

 聖吾の険のあるもの言いに気圧けおされながら、必死に首を左右に振った。これまでこんな風に、聖吾に敵意を剥き出しにされたことは一度もなかった。それだけに炯々けいけいとした眼差しの鋭さに息が震え、指の先まで凍りつくかのようだった。
 波硝子越しに日が差す廊下で言葉を失い、律は棒杭のように聖吾を見上げることしかできずにいた。

「外国語が学びたいなら、家庭教師をつけましょう。それでも私は、律さんには高い教養と学歴をと、そうお望みだった亡き旦那様のご遺志を叶えて差し上げたいと思っています。確かに今は私が律さんの主人ですが、後見人だとも言えるでしょう。ですから、私には後見人として、果たすべき義務があるんです」

 最後まで一方的に持論を述べて気が済んだのか、聖吾は表情をわずかに和らげた。
 そうして肩で深々と息を吐き、凍りついた律をとりなすように、口を開いた時だった。
 背後から女中頭の和佳が姿を見せた。

「旦那様。お電話が入っておりますが」
「わかった。すぐに行く」

 反射的に答えた聖吾が振り返り、ほとんど冷酷な顔つきで言い渡す。

「律さんは和佳と一緒に、先に呉服屋のいる部屋に行ってください。私も後で伺います」

 一方的に話を終わらせた聖吾は廊下を戻り、大階段を下りて去る。音楽大学の話も、仕事の話も、唐突に打ち切られて立ち尽くす律に、今度は和佳が口早に告げる。

「律様。ご案内致します」
「あ……っ、はい。お願い致します」

 律は長廊下を歩む和佳を慌てて追った。古めかしい丸髷まるまげの老女に傅かれるほど、かえって感じる拒絶の気配に肌を焼かれるようだった。
 張りつめた沈黙に、和佳の着物の衣擦きぬずれのだけが鋭く響き、律はますます萎縮した。
 階段を下りきり、中庭に添ってまっすぐ廊下を進むと、すれ違う使用人が和佳に続く律を見るなり板間の脇に退いて、一様に頭を下げてくる。

「こちらでお待ち頂けますでしょうか」

 しばらくして、壁の右手にあるドアに掌を向け、和佳もまた慇懃いんぎんに一礼をした。そのまま去りかけた和佳を呼び止め、恐る恐る問いかける。

「あの、旦那様からお屋敷の皆様方には、私の件には、どのような説明があったのでしょうか」

 和佳にしろ他の使用人達にしろ、自分に対する応対は、新参者の書生に対するそれではない。
 確信に近い予感に怯えて震える律を、和佳はちらりと上目にした。

「……私どもは旦那様の大切な方をお迎えするとのことでしたので、くれぐれも粗相のないよう、仰せつかっておりますが」

 和佳は、皺深い目じりに一層皺を寄せ、悪どく笑むと一礼した。
 やはり聖吾は自分との約束を守るつもりはなかったのだ。
 衝撃に目を見張る律を残し、和佳はそそくさと歩み去る。けれども律は案内された洋間のドアノブを凝視したまま、小刻みに肩を震わせる。
 確かに聖吾にとって、自分はかつての主君筋の人間だ。
 彼が今でも恩義を感じてくれていることは、心から、ありがたいと思っている。
 それでも自分も、かつての下男に仕えるにあたり、自分なりに腹をくくって参じてきたのだ。
 こうした立場の逆転に、何も思わなかった訳ではない。
 けれど、母子揃って世話になる以上、誠心誠意奉公して、彼への感謝を示したい。毎日の生活の中でほんの一瞬でも役に立つことができるよう、周りの人にも指南指導を仰ごうと熱く胸を昂らせてきた。
 そんな決死の覚悟も軽くいなされ、ないがしろにされた気がして、悔し涙をにじませた。
 しかしすぐに、佇んでいた廊下を駆けてくる聖吾の姿が視界に入り、手の甲で涙を拭い取る。

「お待たせして申し訳ございませんでした。律さん、どうぞ。その部屋ですのでお入りください」

 ドアの前にいた律に、すっかりいつもの笑顔に戻った聖吾が促した。
 それでも律が開けずにいると、聖吾は怪訝そうに小首を傾げ、ドアノブに手をかけた。

「やっぱり、聖吾は僕を働かせるつもりなんてなかったんだな……」

 律はその手を掴んで引き止めた。

「……律さん?」
「そりゃあ、僕みたいな世間知らずにさせる仕事なんてないのかもしれないけれど。少しでも役に立てるなら、何でもする気で来たんだよ?」

 思わず恨み節を口にすると、堪えきれずに涙がこぼれた。面食らったように息を詰める聖吾。その手首を掴んだ律の右手は震えていた。
 瑛子がカフェーの主人に、聖吾が伊崎家に恩義を感じているように、自分も聖吾の温情に何らかの形で報いたい。
 母親の療養環境を完璧に整えられたり、一方的に受け取るだけでは申し訳なく、豪華な居室を用意されたりするたびに、罪悪感が膨らみ続けるだけだった。それとも、こんなことでいちいち泣き出す子供のくせに、「恩返しなんて考えるな」と、一蹴されてしまうのか。
 軽率に仕事を任せたせいで、かえって問題になるよりは、何もさせない方がましだと思っているのかと、邪推せずにいられない。
 堪えても堪えても、そんな自分が情けなくなり、項垂うなだれる。項垂うなだれながら手の甲で涙を払う。

「いいえ! 違うんです、律さん。そんなつもりじゃないんです」

 聖吾も慌てたように律の肩に手をかけた。

「私も、あなたにして頂く仕事については考えています。律さんがここでの生活や学校に慣れてきたら、少しずつ、お話しするつもりでいますから。どうか、そんな風にご自分を責めないでください。律さん。私は決してあなたをあなどって何もさせないのではないんです」

 長身の聖吾が律の肩に手を添えて、前屈みになり、律の顔を覗き込む。

「……本当に?」

 途端に律は薄く目を開け、こもった声で問いただす。新しい生活に慣れたらという聖吾の言葉が、一筋の光のように視界を明るく照らし出す。

「ええ、本当です。大丈夫ですから泣かないでください。昔からあなたに泣かれてしまうと、私がこうして手も足も出なくなるのは、ご存じだったはずでしょう?」

 聖吾は苦笑交じりに息を吐く。

「そういえば、亡き旦那様も、律さんの泣き虫をいつも案じていらっしゃいました。そういう旦那様ご自身が、律さんの涙にいちばん弱くていらっしゃったからでしょうけれど」

 聖吾は慈愛に満ちた双眸そうぼうに郷愁を滲ませ、律の汗ばんだ髪をゆったり指で撫でいた。そうして律を落ち着かせながら、上着の内ポケットからハンカチを出し、板間の廊下に膝をつく。

「……おわかり頂けましたでしょうか?」

 聖吾は泣き濡れた律の頬をハンカチで拭い、あらためて律を仰ぎ見る。まるで情けを乞うかのようにじわりと眉根をひそめられ、ドキリと鼓動が高鳴った。
 聖吾はずるい。
 律は胸の中で抗議した。
 そんな位置からそんな目で見て、そんな声を出すなんて。
 自分の魅力をどう駆使したら、効果を発揮できるかを、彼は自分で知り尽くしている。目的のためなら平気で人に頭を下げたり、膝を屈してみせるのだ。
 律は渋面を浮かべると奥歯をぎゅっと嚙み締めた。涙もあっけなく引っ込んで、頬が赤くなるのがわかる。きっと聖吾は、こういう手練手管で相手を黙らせ、意のままに操ってきたのだろう。
 わかっているのに抗いきれない自分の方が悪いのだ。

「……じゃあ、僕がもう少しこの生活に慣れたらなんだな?」

 律は人前で泣いた気恥ずかしさから、ぶっきら棒に言い放つ。

「ええ。そうですよ」
「信じてもいいんだな?」
「もちろんです」

 聖吾は安堵したように息を頬を緩め、打って変わって意気揚々と立ち上がる。

「おわかり頂けて良かったです。律さんに泣かれてしまうと、本当に心臓に悪いので」

 さっきまでの困惑顔を、勝ち誇ったような笑顔に変える聖吾を見ると、いっそう腹が立ってくる。それでも約束を反故にされてはいないのだと、律は顔をほころばせた。

「さあ、まず音楽学校の学生服を作らなければいけません。テーラーの採寸から始めましょう。できれば和装も反物をひと揃え選んでしまいたいところですが、今日中には難しいかもしれませんね」

 聖吾は洋間のドアを押し開けながら腕時計に目を落とし、嬉しげに眉を開いている。その口振りからは音楽大学に復学することが前提になっているようだった。
 律は話し合いの余地すらない現実を、暗黙のうちに悟らざるを得なかった。
 世間一般の書生は皆、こんな風に主人に進路まで、決められてしまうものなのだろうか。
 これが常識なのか、そうでないかの判断もつかず、かといって、誰に訊ねていいのかもわからない。
 ただ、今は主人が聖吾である以上、決定権は彼にある。
 溜息をもらした律は、胸の中で刻々と膨らみ続ける疑心の念にふたをした。

「失礼致します」


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BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。 シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。 ※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。

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