執務室に鍵をかけたら

インナケンチ

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ラマノヴァ

01

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「みなさん、ごきげんいかが?」

 低く落ち着いた、しかしよく通る女の声が室内に響き渡った。
 職員室で黙々とデスクに向かっていた職員のなかで、いち早く彼女の訪問を察知したのはサプフィールだった。
 廊下にこだまするハイヒールの音。余裕たっぷりの足取りは只者ではない。
 かれが知る限り、こんな寒々しい旧校舎をわざわざ訪ねる大物といえば、ただひとりだった。
 その日、彼女の到来を予見していたかのように上下白のスーツで決めていたサプフィールは、さっと服を整え、職員室の入口で出迎えた。

「これはこれは、ラマノヴァ会長」
「あらサプフィール、スーツを新調したのね、素敵よ」

 その女性、マラザフスカヤ学園OB会・会長ガリーナ・ラマノヴァは悠々と歩いてくると、サプフィールの肩をなでた。

「いい生地だわ。とても似合っている」
「光栄です。会長こそ、今日も洒落てらっしゃる」
「わたくしはあなたのように白を着こなせないの」

 うっとりとサプフィールを見つめる彼女の表情は、思春期の少女のようだ。
 真紅のツーピースを着て、大粒の真珠が連なるネックレスが皺の刻まれた首元で輝いている。
 民族衣装からして華美なルーイの元貴族らしい、とサプフィールは彼女を見るたびに思った。足元までビビットカラーのピンヒールだ。
 サプフィールは徐にラマノヴァの首筋へ手を伸ばした。
 彼女がどきりと頬を赤らめる間に、ネックレスが消えている。

「真珠など、会長には必要ないでしょう」
「え、どうなって……?」

 戸惑う彼女の鼻先で、消えたときと同様に忽然と、しなやかに動く手からネックレスが現れた。

「まあ!」
「失礼をお許しください」

 とサプフィールはラマノヴァの首に腕を回し、ネックレスをつけ直した。

「あなたはいつも楽しませてくれるわね、学長とは大違い」
「今日も楽しくないお話ですか?」
「いつものことよ——学長はいらっしゃる?」
「ええ、いらっしゃいます。マリオンも」
「そう」

 ラマノヴァは澄ました声で応えると、サプフィールに意味ありげな視線を送った。
 サプフィールはすべて承知とばかりに、にこりと笑い返す。

✳︎

 執務室の電話が鳴った。
 学長に代わって、デスク上の受話器をマリオンが取った。

「はい、マラザフスカヤ学園学長室です——お待ちを」

 通話を保留にしたマリオンは、アルマーズを見た。
 ルーイ帝国時代から著名な学者や政治家を数多く輩出してきた国内随一の名門校、そのトップでありマリオンの上司でもある学長はというと、青いラメが煌めく派手なジャケットに身を包み、ギターを抱えて鏡の前でポーズを決めている最中だった。

「学長、ナウカ教育出版の社長です」

 アルマーズは振り向きもせず、右手をマリオンに向かってひらひらさせた。
 助手は慣れたもので、その手に受話器を握らせ、保留を解除してやる。

「高等部の教科書の件なら、答えは変わりませんよ——なにが問題だって?中世から近代に至るすべての章が問題だらけだ。特に近代、先の大戦におけるルーイの戦争犯罪を丸々カットした上に連邦構成国の解放を美化した記述、あれは懐古主義の現政権に媚び売るプロパガンダだ。あんなもん教科書とは呼べん——なにが事実だ、あんた初等学校も出てないのか?」

 挨拶もなしにはじまった応酬に、マリオンは呆れて首を振った。
 アルマーズは学長に就任して間もなく、教科書をすべて変更すると宣言していた。これまでは公立校と同様、国の認可が降りた教科書を当たり前のように使用していたが、新学長はそれを、役に立たん、と一蹴したのだった。
 しかし、国の息がかかっていない出版社を探すのは困難を極めた。
 もはや自分で作ったほうが早いのではないかとさえマリオンは思っていた。学長なら苦もなくやってのけるだろう。こうやって月に一社のペースで敵を作るより生産的だ。

 アルマーズの甲高い声がヒートアップするなか、電話が鳴った。
 普段は使っていないマリオンのデスク上で、青いランプが光っている。
 内線だ。

「はい、学長室——ああ、サプ——え、ラマノヴァ会長が?!」

 マリオンはアルマーズの様子を伺った。
 まだ議論は白熱している。最長記録だ。ナウカ出版の社長も相当のやり手と見える。

「サプ、2分でいい、会長を引き留めてくれ」

 マリオンは受話器を置くと、大急ぎでアルマーズのデスク上を片づけはじめた。
 アルマーズが食い散らかしたレーズンパンのカスを拭き取り、ミカンのかごをキャビネットの一番下の段に隠す。3日間ふたりで食べ続けたミカンは3分の1ほどに減っていた。
 ギターをデスクの裏側へ隠し、あたかも書類仕事の最中だったように見せかける。電気ポットで湯を沸かし、ティーカップをセッティング。
 マリオンが手際よく客を迎える準備を進めている間、アルマーズは室内をうろうろと歩き回りながら、話は中世にまで遡っていた。
 ルーイ帝国初代メルクーリー皇帝の身長詐称にまで話が及んだ辺りでマリオンに捕まったかれは、問答無用でキラキラのジャケットを脱がされた。

「ラマノヴァ会長がお見えです」マリオンが耳元で囁く。「1分で話を終わらせてください」

 アルマーズは黙って頷くと、

「あー、身長詐称は取り消す。メルクーリーの背が3cm低かったところで、ルーイ・ベル戦争の惨敗という事実は変わら——いてっ!」

 通話口を手で押さえ、腰の贅肉をつねったマリオンに向かって「なにするんだ!」と囁いた。
 マリオンも声をひそめ、

「話を終わらせてと言っているのに、火に油を注いでどうするんですか!」
「40秒で言い負かす」
「次にしてください!」
「わかったわかった——あー、前言撤回する。ともかくだ、この電話では結論は出せないから……」
「明日、午後なら時間を取れます」
「ふむ——明日の午後、御社へ伺いますよ——ええ、わたし自ら足を運びますとも!」

 ようやく話をつけて受話器を置いたと同時に、扉が開いた。

「これは会長」

 とアルマーズ、営業モードにスイッチした声色でラマノヴァを出迎えた。

「今日もご機嫌麗しく……はなさそうですね」
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