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プロローグ
しおりを挟むおまえしか映らない おれの細い目
おれだけ映らない おまえの丸い目
おまえは気づかない おれの熱いまなざしに
こんな細い目じゃ どこを見てるかわからないから
ふんふんふーん
後部座席の男は、さっきから同じ詞を口ずさんでいた。声も表情も、どこか上の空だ。
カミニ市近郊の住宅街で拾ったこの男は、無表情で「中央銀行まで」と告げると、座席シートに深くもたれ、窓の外へ顔を向けた。車が発進して間もなく、どこか物悲しいメロディーに乗せて歌い出したのだった。
大柄な身体にフィットした仕立てのいい紺色のスーツを着ている。ピカピカに磨き上げられた革靴も上等品だ。ネクタイはせず、ワイシャツのボタンを外して首元はくつろげてある。首都に隣接するベッドタウンのなかでもごく庶民的な住人が暮らす土地には似つかわしくない風体だった。
男は窮屈そうにしていた長い足を組んだ。太い眉の下にすっと切り込みを入れたような細い目のなかで、ちらちらと光が動いていた。銀色の瞳が朝の日射しに輝いているのだ。
「……続きは、ないんですか」
バックミラーに映る男の様子をちらちらと見ていた運転手は、思い切って尋ねた。
少し間を置いて、男は運転手へ視線を向けた。
鏡のなかでばちりと目が合う。
運転手はさっと前を向き、ハンドルを握り直した。盗み見を咎められたような気がして冷や汗が出る。
「覚えていない」
男は不機嫌な様子もなく答えた。
「だれの歌ですか」
「こんなヘンテコな歌が世に出回っているわけがない」
「へえ、というと、自作?おれは好きですけどね。先が気になる」
「ふん、物好きだな」
男は窓の外へ視線を戻した。また、同じ詞を口ずさむ。
車は大通りへ出た。
ルーイ連邦・首都カミニ市の中心部まで続くクラスナ大通りだ。
堅牢な石造りの建物が並ぶこの街は、帝政時代の面影を色濃く残していた。その一角には、ここ10数年の間に急激に開発された“カミニシティー”があり、高層ビル群がひしめき合っている。
カミニ河が蛇行しながら首都を南北に分け、そこにかかるカミニ大橋の鮮やかな青のアーチが眩しい。
夏の盛りのいま、カミニは空気が乾燥していてよく晴れる。休日には橋から望む景色を求めて多くの観光客が訪れた。北を向けば運河に面した大統領府の豪華絢爛な宮殿や教会の数々、南を向けば深い森に囲まれたオゼラ湖がある。
「——お、また新しいパチキ屋ができたな」
運転手が身を乗り出し、呟いた。
通り沿いに軒を連ねる店舗のなかで、ひと際目立つピンク色の看板の前を車は走り過ぎた。カラフルにデコレーションされた巨大なドーナツが回転している。
運転手はでっぷりと太った腹がつっかえながらも、慣れたハンドル捌きで車線を変えた。
「その腹はパチキの食い過ぎか」
男がぼそりと言った。
「旦那、やっぱりあんたセイベル出身だね!」
赤信号で車を停めた運転手は、満面の笑みで振り返った。
興奮気味の運転手に合わせ、あんたもだろ、と男はルーイ語ではなくセイベル語で返す。
「そうだとも。いやあ、言葉が通じるのはやっぱり嬉しいもんだなあ。あんたを通りで見た瞬間にぴんと来たんだ、黒髪にその目の色!セイベルでもあんたほど純粋な銀色は稀だ。おれのじいさんはあんたに近かったよ。どこへ行っても目の色をめずらしがられたと、酒を飲むたびに話してたなあ。若い頃はルーイ中を転々として働いてたらしいからね」
「おれは幸い、ほとんど気づかれない。目が開いてないも同然だからな」
「確かにそうだ」
否定しろ、と思いながら男は細長い目をさらに糸のように細めて、陽気に笑う運転手を睨む。
「あんたは暮らし向きが良さそうだね。おれはこの通り、じいさんや親父と同じ、しがない出稼ぎだ」
「普段はタクシーなんぞ使わん。メトロがストに入ったせいで無駄な出費をする羽目になった。おれもあんたと変わらんさ、あちこち駆けずり回って稼ぐしかない」
「旦那も苦労したんだな、この街で——さあ、着いたよ」
運転手は大通りの路肩へ車を寄せ、停めた。
石造りの巨大な神殿のような建物がそびえ立っている。
通りの先にはカミニ中央駅がある。平日の朝、多くのビジネスマンが忙しなく行き交うなか、海外からの観光客も多く見られた。
運転手は札を受け取りながら、
「幸運を祈るよ」
「お互いにな」
男は軽く会釈を返し、車を降りた。
中央銀行の正面玄関へ上がる階段をせかせかと登っていくと、一番上の段まで来たところでふと足を止めた。
そっと背後を振り返る。
黄色い車体のタクシーはすでに走り去っていた。
見られているような気がしたんだが……。
男は小さく舌打ちし、建物のなかへ入った。
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