キスは氷を降りてから

インナケンチ

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マイナーペナルティ

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 “トリッピング”ーーーーーー

 白黒の縦縞のレフェリージャージにオレンジ色の腕章をつけた審判が、身体の前に両手を出し、スティックで足を引っかける仕草をした。

「おじいちゃん、いまのなに?どうなったの?」

 少年は隣に座っている祖父の膝を叩いた。

「聖クラスナが反則を取られたんだ。桜河高校の選手をスティックで引っかけて転ばせてしまったんだな」
「反則って、どうなるの?」
「反則した選手はプレーできなくなるーーーーほら、あそこのボックスに入っただろう?ーーーー今回のは2分のペナルティーだな。聖クラスナはひとり減るから、不利になる」
「響にいちゃんがいるから、負けないよね!」
「ああ、夏海、負けないよ。響が敵の選手をゴールに近づけない。目にも止まらぬ速さでパックをかすめ取ってシュートを決めるんだ。もし突破されても、蒼井くんがゴールを守るさ」

 最後のほうは、もう夏海は聞いていなかった。
 かれの眼差しは試合を再開したリンクに戻っていた。

 氷上を颯爽と滑る選手たち。
 両チーム、ゴーリー(ゴールキーパー)を除いて、攻撃手が3名、守備が2名。
 そのなかで夏海を惹きつけてやまないのは、ただひとり。
 赤地に白いラインと星マークが入った聖クラスナのユニフォームを身につけた、ひときわ小柄な選手。

 背番号81、黒川響。

 敵味方入り乱れるなかでも、かれのスケーティングは安定していた。敵にパックを奪われたと見るやだれより早く自陣へ戻り、迎え撃つ。激しいチェックにも動じない。乱闘騒ぎでヘルメットを剥ぎ取られ殴られてもファイティングポーズは崩さず、ペナルティなどクソ喰らえと言わんばかりに負けん気が強い。
 普段は無口で、10歳しか離れていない甥にまったく関心を示さないこの若き叔父に、夏海は苦手意識を持っていた。
 はじめて会ったのは夏海が赤ちゃんのときだが、もちろん本人は覚えていない。
 記憶にある最初の叔父の印象は、外国の人形みたいに綺麗で、そして冷たいものだった。
 しかしその印象は、この日、がらりと変わった。

✳︎

 青色の練習用パックが次々とゴールに飛び込む。
 それはまるで弾丸のスピードで、ゴールネットを突き破るほどの勢いだ。
 ゴール内には無数のパックが溜まっていて、ネットの位置も後退していた。

「……はあ、はあ」

 散々パックを打ちまくって、夏海はスティックを握ったまま膝を折った。
 頬を伝う汗がぽたぽたと体育館の床に落ちる。

 体育館では、いくつかの部が活動していた。
 外は暗くなり、それぞれが練習を終えて片づけをはじめるなか、夏海はひとり、体育館の隅に陣取って練習を続けていた。
 しかしそれは練習というより、憂さ晴らしに等しかった。

 夏海の脳裏にちらつくのは、陸上競技場で見た光景。
 響が蒼井に身を寄せ、かれのワイシャツを引いていた。
 まるで恋人に甘えるような仕草だ、と夏海は思った。
 絶対におれには見せてくれない、かわいい一面。

『今日は連絡するなよ、おれ、今夜は帰らないから』

 響はそう念を押し、先に帰った。
 蒼井と過ごすのだと夏海は察した。
 部屋の前で待っていても帰ってこない夜は、かれのところにいるのだ。
 ふたりはまだつき合っている。10年前から、ずっと。
 その途方もなく長い時間の結びつきに、夏海は愕然とした。

 床に視線を落とす。手元のパックは尽きていた。
 いくらパックを打ち込んでも、ふたりには追いつけない。
 努力では埋められない時間というハンディキャップを、どうすれば乗り越えられるだろう?

「きっと今頃、ふたりは……」

 夏海は頭のなかにもたげた妄想を振り払うように無心で後片づけをした。
 更衣室で汗に濡れたジャージを脱ぎ捨て、シャワールームに入った。
 蛇口を最大限に開く。
 滝のような湯が引き締まった身体を洗う。
 その肉体は確実に成長しつつあった。上京してから数ヶ月で一回りは大きくなっている。胸板は厚くなり、腕も太くなった。

 体格も実力も、蒼井選手にはまだ遠く及ばない。
 でも、「響にいちゃんがほしい」という想いは、いまではただの夢ではなく、本物だ。

 この間の夜、かれの腕を掴んだとき、左手の人差し指が少し曲がっているのを見た。試合中の骨折で曲がってしまったのだと祖父から聞かされていた通りだった。
 それを実際に目にしたとき、身体の奥深くがぞくぞくした。

 大男と互角に渡り合う、美しい人。
 おれのものにしたい。
 そしてそれを力づくで叶えるのは、簡単だ。

 夏海の心のなかで、どす黒い考えが首をもたげる。

 やろうと思えば、あのままかれを押し倒し、自分のものにできたはずだ。
 抱きしめた瞬間、なんて弱いのだろう、と思った。アイスホッケーという格闘技同然の荒々しいスポーツでプロにまでなったとは信じがたかった。
 強引な手段を使わなければ、おれはいつまでも子ども扱いで相手にされない。

 次こそは、ためらわない。
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