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HOPE
6-2 crumpled hands
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♧
あれは、俺──柳田善一が一七才になったばかりの八月八日の夜。
「フランスだと?!」
縁側で夕食後の一服をしていた祖父へ、俺は笑みを向けた。祖父はまだ吸いかけのタバコを落としそうになる。
「んなとこ行って、何すんだ」
「修行しに行くんだ」
「ハァ? 修行だァ?」
「俺もパフォーマーになりたいんだよ」
「パフォ……んん」
渋面を、青臭い俺へ向けた祖父。
「アクロバットもできる。スタチューも得意だ。ジャグリングだってパントマイムだって、なんでも出来るよ」
「けどな、世界にゃそんなヤツごろごろいるんだぞ」
「もちろん承知の上だよ。『今の俺』が完璧だなんて思ってない」
だって、と、理由のような続きが喉の奥まで出かかる。危ない。これはたとえ祖父だとしても打ち明けられないことだ。
俺はそれをグッと呑み込んで、代わりににんまりと口角を上げてみた。
「俺は、世界を飛び回ることで修行して、経験積んで、世界中が俺で笑顔になって……そうやって『完璧になりに』行くんだ」
「…………」
生唾を呑む祖父を見て、でもその反応が単純に嬉しかった。
俺がそうして決意を強引に向けると、祖父は喉の奥で言葉を噛み殺していた。慎重に言葉を選ぶように、シワの寄った口元を忙しなくする。
「学校はどうすんだ。高校、まさか休学だとか言わねぇな」
「うん。辞めておいた」
「やっぱりか。善一は手際が良すぎだ」
「へへ、なかなかやるでしょ、俺」
「褒めてねぇぞ、チクショウ」
ふかされるタバコ。そのときの祖父の横顔が、俺の最も大事な人と被る。
「フランスの『レーヴ・サーカス』が、俺を受け入れてくれるって」
「レーヴ、サーカス。ま、確かに有名だな。規模はデカくねぇけど、ちゃんとしたことには間違いねぇよ」
祖父の鼻呼吸が、立ち上るタバコの煙を揺らす。
「父さんと母さんの名前出したら、見習いから始めてみないか、って言ってくれたんだ。な? スゴいだろ、じいちゃん」
その俺の主張は、相当幼かったろうと今なら思う。
親の七光を振りかざさなければ、このときの自分には何も出来ないことを意味していたのに、一七の俺はそんなことには全く気が付かなかった。
夜の虫が程よく耳に鳴って、当時は赤茶けていた俺の髪に、柔く夜風が絡まる。
「どのくらい、見習いできるんだ」
「とりあえず三か月間。それで使い物にならなかったら、のこのこ帰ってくる」
「マジだな?」
「大マジだよ。じいちゃんに嘘つく度胸はない」
まるで呆れるかのような、小さな溜め息をひとつ吐かれる。
「金は」
「ちょっとしか持ってかない。俺のパフォーマンスだけで集めて、デカくしていきたいからね」
「ったく、簡単に言いやがって……」
「あと、パスポートは切れてたから取り直した。ビザとかも平気。他にやらなきゃなんないことは、全部終わってある」
「墓は」
その質問へは、わずかに間を空けてから、静かに返答する。
「一昨日、行ってきたよ」
「そうか」
祖父は横に置いたアルミの灰皿にタバコを押し付けた。
「いいか、善一。ワリーことはすんな。人を陥れるようなこともすんな。身体が危なくなるようなこともダメだ。それから──」
右肩に置かれる、祖父のしわくちゃの左手。
「──絶対に、生きて帰ってこい」
深く黒々とした、祖父の瞳。俺を真正面に向いたその真顔。そこに心配の色が揺らめいているのは、ずっとわかっていた。
「うん。ありがとう、じいちゃん」
白銀の瞳を閉じて、俺はその心配の色から逃げた。
♧
「ヨッシーは、ちゃんとパフォーマーに、なりたくて、フランスのサーカス団に、居たんだね」
エニーがそっと、ひとりごちる。善一は小さな相槌と共に、グラスのミネラルウォーターを半量煽った。
「じゃあどうして今、一人きりで公演やってんの? せっかく『レーヴ・サーカス』の看板道化師になったんだろ?」
煽った姿勢のまま、問いかけてきた向かいのサムを一瞥。
「サーカス団に居続けてた方が、きっともっとたくさんの名声とか金銭を貰い続けられたはずだよね? でも、今はそうしてない。それって──」
サムがわずかに身を乗り出す。
「──さっき話の中で言ってた、『修行』が終わったってこと?」
「フフ、痛いところを突くなぁ、サムは」
くすくす、と嬉しそうに笑んだ善一。
「終わってないよ、全然終わってない。『レーヴ・サーカス』で出来ることを第一段階目とするなら、まずそれが終っただけさ。だから、単独の活動に切り換えたってワケ」
「じゃあ、今やってる単独活動は、ヨッシーの修行第二段階目ってこと?」
「そういうこと」
優しい笑みのまま、言葉が続く。
「ハッキリ言うと、あのままサーカス団に居続けても、『僕個人の希望』には届かないって思っちゃったからなんだ」
エニーがぽっかりと小さく口を開けた。
「ヨッシー個人の、希望……」
「それって、さっきの話に出てきた『完璧になりに行く』ってやつ?」
「フフ、そうだね。まぁ早い話、僕が道化師として本当に欲しいのは、富でも名声でもないってことさ」
じっと、その真意の説明を待つ幼い双子。善一は、グラスを音もなくテーブルへと置いた。
「では。ここで問題です」
ジャジャンっ、と空耳。ただし、善一にのみ適応されたもの。サムとエニーは、揃って同じような首の捻り方をする。
可愛いかよ、と漏れ出た想いをひっそりと胸にしまった善一。
「第一問。どうして俺は、そこそこ裕福な実家からはほとんど金銭を持ってこなかったんでしょうか」
「ハイッ!」
「はーい、サムくん」
「『自分のパフォーマンスだけで集めて、デカくしていきたいから』、だったよね。それって、ヨッシーがゼロから積み上げたっていう『実績』が欲しかったから、じゃない?」
「That's right! さすがだ、よくわかったね」
右腕で頬杖をつく善一。顔面に貼った笑みは優しいまま。
「じゃあ、第二問。有名になったことで得られる、芸人としての旨味って、なんでしょうか」
生々しかっただろうか、と善一はひっそり懸念を抱いた。しかし、エニーが静かに手を上げたことで、それは簡単に打ち消される。
「ハイ」
「はーい、エニーさん」
「国境を、越えた、いろんな場所……で、公演、できるようになる、こと」
パチン、と右手の指を鳴らす善一。
「そっか。そしたら『人がたくさん入るような場所で公演やってください』って、声がかかるもんね」
双子の瞳の奥に、キラリと輝きが宿った。善一は黙ってひとつ首肯を向ける。
「『レーヴ・サーカス』はフランス国内が主な活動拠点で、あんまり国外の公演をしないんだ。それはサーカス団に所属してからわかったことでね」
やれやれ、と肩を竦める善一。
「国内に留まりがちなままだと、『国境を越えたいろんな場所』ってのが達成できない」
「確かにね」
「せいぜい、ヨーロッパ止まり、だろうね」
エニーがボソリ言ったそれへ、善一は人指し指を向けた。
「それじゃあ、第三問。僕の活動コンセプトは、なんでしょう?」
YOSSY the CLOWNの活動コンセプト、それは──サムとエニーが口を揃える。
「『世界を笑顔で満たし、そうして美しく変えること』っ」
「That's correct」と、善一は満足気に笑った。その笑みに、サムもエニーも満たされた心地を得る。
つまり、と、二人は思う。まるで心を読んだようなタイミングで、善一がニマリと妖しく笑んだ。
「俺ね、サーカス団に居るときにあることに気付いちゃったんだ」
あれは、俺──柳田善一が一七才になったばかりの八月八日の夜。
「フランスだと?!」
縁側で夕食後の一服をしていた祖父へ、俺は笑みを向けた。祖父はまだ吸いかけのタバコを落としそうになる。
「んなとこ行って、何すんだ」
「修行しに行くんだ」
「ハァ? 修行だァ?」
「俺もパフォーマーになりたいんだよ」
「パフォ……んん」
渋面を、青臭い俺へ向けた祖父。
「アクロバットもできる。スタチューも得意だ。ジャグリングだってパントマイムだって、なんでも出来るよ」
「けどな、世界にゃそんなヤツごろごろいるんだぞ」
「もちろん承知の上だよ。『今の俺』が完璧だなんて思ってない」
だって、と、理由のような続きが喉の奥まで出かかる。危ない。これはたとえ祖父だとしても打ち明けられないことだ。
俺はそれをグッと呑み込んで、代わりににんまりと口角を上げてみた。
「俺は、世界を飛び回ることで修行して、経験積んで、世界中が俺で笑顔になって……そうやって『完璧になりに』行くんだ」
「…………」
生唾を呑む祖父を見て、でもその反応が単純に嬉しかった。
俺がそうして決意を強引に向けると、祖父は喉の奥で言葉を噛み殺していた。慎重に言葉を選ぶように、シワの寄った口元を忙しなくする。
「学校はどうすんだ。高校、まさか休学だとか言わねぇな」
「うん。辞めておいた」
「やっぱりか。善一は手際が良すぎだ」
「へへ、なかなかやるでしょ、俺」
「褒めてねぇぞ、チクショウ」
ふかされるタバコ。そのときの祖父の横顔が、俺の最も大事な人と被る。
「フランスの『レーヴ・サーカス』が、俺を受け入れてくれるって」
「レーヴ、サーカス。ま、確かに有名だな。規模はデカくねぇけど、ちゃんとしたことには間違いねぇよ」
祖父の鼻呼吸が、立ち上るタバコの煙を揺らす。
「父さんと母さんの名前出したら、見習いから始めてみないか、って言ってくれたんだ。な? スゴいだろ、じいちゃん」
その俺の主張は、相当幼かったろうと今なら思う。
親の七光を振りかざさなければ、このときの自分には何も出来ないことを意味していたのに、一七の俺はそんなことには全く気が付かなかった。
夜の虫が程よく耳に鳴って、当時は赤茶けていた俺の髪に、柔く夜風が絡まる。
「どのくらい、見習いできるんだ」
「とりあえず三か月間。それで使い物にならなかったら、のこのこ帰ってくる」
「マジだな?」
「大マジだよ。じいちゃんに嘘つく度胸はない」
まるで呆れるかのような、小さな溜め息をひとつ吐かれる。
「金は」
「ちょっとしか持ってかない。俺のパフォーマンスだけで集めて、デカくしていきたいからね」
「ったく、簡単に言いやがって……」
「あと、パスポートは切れてたから取り直した。ビザとかも平気。他にやらなきゃなんないことは、全部終わってある」
「墓は」
その質問へは、わずかに間を空けてから、静かに返答する。
「一昨日、行ってきたよ」
「そうか」
祖父は横に置いたアルミの灰皿にタバコを押し付けた。
「いいか、善一。ワリーことはすんな。人を陥れるようなこともすんな。身体が危なくなるようなこともダメだ。それから──」
右肩に置かれる、祖父のしわくちゃの左手。
「──絶対に、生きて帰ってこい」
深く黒々とした、祖父の瞳。俺を真正面に向いたその真顔。そこに心配の色が揺らめいているのは、ずっとわかっていた。
「うん。ありがとう、じいちゃん」
白銀の瞳を閉じて、俺はその心配の色から逃げた。
♧
「ヨッシーは、ちゃんとパフォーマーに、なりたくて、フランスのサーカス団に、居たんだね」
エニーがそっと、ひとりごちる。善一は小さな相槌と共に、グラスのミネラルウォーターを半量煽った。
「じゃあどうして今、一人きりで公演やってんの? せっかく『レーヴ・サーカス』の看板道化師になったんだろ?」
煽った姿勢のまま、問いかけてきた向かいのサムを一瞥。
「サーカス団に居続けてた方が、きっともっとたくさんの名声とか金銭を貰い続けられたはずだよね? でも、今はそうしてない。それって──」
サムがわずかに身を乗り出す。
「──さっき話の中で言ってた、『修行』が終わったってこと?」
「フフ、痛いところを突くなぁ、サムは」
くすくす、と嬉しそうに笑んだ善一。
「終わってないよ、全然終わってない。『レーヴ・サーカス』で出来ることを第一段階目とするなら、まずそれが終っただけさ。だから、単独の活動に切り換えたってワケ」
「じゃあ、今やってる単独活動は、ヨッシーの修行第二段階目ってこと?」
「そういうこと」
優しい笑みのまま、言葉が続く。
「ハッキリ言うと、あのままサーカス団に居続けても、『僕個人の希望』には届かないって思っちゃったからなんだ」
エニーがぽっかりと小さく口を開けた。
「ヨッシー個人の、希望……」
「それって、さっきの話に出てきた『完璧になりに行く』ってやつ?」
「フフ、そうだね。まぁ早い話、僕が道化師として本当に欲しいのは、富でも名声でもないってことさ」
じっと、その真意の説明を待つ幼い双子。善一は、グラスを音もなくテーブルへと置いた。
「では。ここで問題です」
ジャジャンっ、と空耳。ただし、善一にのみ適応されたもの。サムとエニーは、揃って同じような首の捻り方をする。
可愛いかよ、と漏れ出た想いをひっそりと胸にしまった善一。
「第一問。どうして俺は、そこそこ裕福な実家からはほとんど金銭を持ってこなかったんでしょうか」
「ハイッ!」
「はーい、サムくん」
「『自分のパフォーマンスだけで集めて、デカくしていきたいから』、だったよね。それって、ヨッシーがゼロから積み上げたっていう『実績』が欲しかったから、じゃない?」
「That's right! さすがだ、よくわかったね」
右腕で頬杖をつく善一。顔面に貼った笑みは優しいまま。
「じゃあ、第二問。有名になったことで得られる、芸人としての旨味って、なんでしょうか」
生々しかっただろうか、と善一はひっそり懸念を抱いた。しかし、エニーが静かに手を上げたことで、それは簡単に打ち消される。
「ハイ」
「はーい、エニーさん」
「国境を、越えた、いろんな場所……で、公演、できるようになる、こと」
パチン、と右手の指を鳴らす善一。
「そっか。そしたら『人がたくさん入るような場所で公演やってください』って、声がかかるもんね」
双子の瞳の奥に、キラリと輝きが宿った。善一は黙ってひとつ首肯を向ける。
「『レーヴ・サーカス』はフランス国内が主な活動拠点で、あんまり国外の公演をしないんだ。それはサーカス団に所属してからわかったことでね」
やれやれ、と肩を竦める善一。
「国内に留まりがちなままだと、『国境を越えたいろんな場所』ってのが達成できない」
「確かにね」
「せいぜい、ヨーロッパ止まり、だろうね」
エニーがボソリ言ったそれへ、善一は人指し指を向けた。
「それじゃあ、第三問。僕の活動コンセプトは、なんでしょう?」
YOSSY the CLOWNの活動コンセプト、それは──サムとエニーが口を揃える。
「『世界を笑顔で満たし、そうして美しく変えること』っ」
「That's correct」と、善一は満足気に笑った。その笑みに、サムもエニーも満たされた心地を得る。
つまり、と、二人は思う。まるで心を読んだようなタイミングで、善一がニマリと妖しく笑んだ。
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