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第1章
11. 親
しおりを挟むノートヴォルトは返事もせず演奏を始めてしまった。
背中にチェロの膨らみのある音を受けつつ、努めて冷静に、何事もなかったかのように、静かに扉を開け、外に出るとそっと閉めた。
数歩だけ冷静を装い続け歩いた後、トイレまで全力疾走した。
コンサートホールの控室など誰も来ないだろうが、廊下の先にあるトイレの個室に駆け込むと、深呼吸する。
反則だ。あの顔は反則。どうしよう、だめだ、かっこいい、顔だけはかっこいい。
落ち着け。6年間気にしたこともなかったじゃない。
吸って、吐いて、はいゆっくりー
なんで今になって。
なんで今更こんなことに!?
待って、落ち着け、先生のデスクを思い出すんだ。あのだらしなさ。
ローブだってよれよれだし、いつ洗ってるかわかんないし。
シャツも不思議なにおいしたし。
シャツ…先生のシャツを着てしまったんだ。
ちがうちがうちがう、おちつけーー。
カチャリ。
個室の鍵を開け、誰もいないとわかっているトイレの様子を隙間から伺う。
よし、誰もいない。
無駄に手を洗い、無駄に顔を洗うと、ポケットのハンカチはびしょびしょになってしまった。
「いいのは顔だけ。そう、他はダメ。日常生活が壊滅的すぎる。大丈夫。練習に集中しよう、集中」
そもそも顔がいいからって急になんなんだ。
私も頭が緩いな。
宮廷魔術師にキャーキャー言ってる最前列女子と変わらないじゃない。
あの女子たち、あの魔術師並に先生が整ってると知ったら……
廊下を歩いて戻り控室の扉を開けると、教授は演奏の終わり部分を弾いていた。
邪魔しないようにグラスハープに戻り、びしょびしょのハンカチは鞄の上に広げた。
練習しよう。
指先に魔力を巡らし、自分の動揺が流れていないか確認する。
よし、大丈夫そう。
乱れた魔力で演奏なんかしたら何言われるか分からない。
真ん中のグラスの淵に指を置き、すっと撫でると透明な音が鳴った。
そのまま譜面の初めから弾き始める。
比較的軽快に始まったのも束の間、メロディは急に不穏になる。
悲し気な響きが続き、こと切れてしまいそうな高音が続いた後、長い低音が命の灯を消してしまうように余韻を響かせ終わる。
「ラストの高音、全く出来ていない」
「わあぁっいつの間に前に!?」
(目は暗い緑だったんだ)
「…ラストの高音」
「はい、すみません。これ3和音じゃないですか。左手はずっと低音だし、親指がうまく当たらないんです」
「配置を変えるんだ。使う和音ごとに並べておけば出来る」
「そんな簡単に言い切らないで下さいよ」
「出来る。出来ないと思われるからこそやる意味がある」
そう言うと教授は高音のいくつかのグラスの配置を変えた。
そしてコールディアの隣に立つと、弾いて見せる。
グラスが赤く光り、透明な音が重なった。
「これなら指も届く」
「あれ…どうして光り方が違うんですか」
コールディアがすっとグラスを撫でると、淡く青く光る。
だが今教授が鳴らした時は赤だった。
「マギアフルイドは保持する魔力量で発色が変わる」
「そうだったんですね。以前見た演奏は私の青に近い色だったんで、皆そういうものかと思ってました」
それからいつも通りの指導が始まった。
コールディアもいつしか没頭し、教授の表現を再現しようと夢中になった。
この無心に譜面にのめり込む時間は好きだった。
初見で音符を追うだけだった演奏に徐々に色が付き、情景が広がり、物語が膨らむ。
この楽しいだけではない苦悩する練習の先にある1つの世界を想像すると、興奮にも似たある種のゾーンに入る。その感覚がたまらなかった。
その世界に到達するために、ノートヴォルトからの厳しい指導が入る。
――違う、丁寧に繋ぐんだ。音を1個ずつブツ切れで並べるんじゃない。
――スタッカートはもっと切って。君のはターアータンタン。欲しいのはターアータッタ。コモンには無理でも魔奏なら出来る。違いを魅せるところだ。
――まだ弱い、もっと強くていい。流す魔力を少しだけ上げて…やりすぎだ、魔律が変わってしまう。
指摘される度に魔力量、指の動き、グラスへの当て方…それらを調節し応えようとする。
時間はあっという間に1時間を過ぎ、小休憩を挟んで1度合わせることにした。
椅子に座って、指を閉じたり開いたりして動かす。
魔力をずっと纏わせていると熱を持ったような感覚になるので、手をひらひら振って冷ますようにするのが休憩時の癖だった。
パタパタしながら、チェロを鳴らす教授を眺めそうになり、やっぱり目を逸らした。
「先生、なんで髪を結ったんですか」
「髪? 弦に挟まる」
「…なるほど」
結局チェロを準備する教授をちらちら眺めつつ、短い休憩を終えるとまたグラスハープの前に立つ。
(いつも猫背なのに、チェロの時は姿勢いいんだ)
猫背は伸ばしても猫背だろうと思っていたが、思いのほか伸ばした背筋はまっすぐで、チェロを構えた様子は優美と言えた。
そしてそのまま視線は自然と弦を押さえる左手にいってしまう。
ピアノの時にもつい見てしまうこの手元が、実は彼女は昔から好きだった。
男性の手なのにすらっと伸びていて指先が美しい。
それこそ魔法のように動くあの指先で生み出される音が好きで、その音を生む手も好きなのだ。
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