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第二部
45 守るべきもの
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前王が亡くなった日の話を聞いてからずっと、ルーカスは感情に耐えていた。
オルガノは間違っていない。どんなに冷酷な男に見せかけようとも、恣意的などでは決してない彼の思いや意図が、ルーカスには痛いほどわかった。
ルーカスがどう反応するとしても何ら責任を負わないなどと言って、この男は粗悪に振る舞うことでこちらの気を紛らわし、少しでもルーカスの心の負荷を減らそうとしているのを、わからないとでも思っているのか。
跪く姿勢を維持し、表情は変えず、ルーカスは片方の拳をギリッと固く握りしめる。
貴方という人は、またそうして全てを背負うつもりなのか……
勇者でありながら旧王族に命を狙われ、孤立し、オルガノは幼き頃から世界に見捨てられたような日々を送っていたはずだ。
味方がほとんどいない状況下で、生きることに絶望し、おかしくなっても不思議ではなかったはずだ。
そこに感情の入る余地はなく、どれほどオルガノが心を殺し生きてきたのか、ルーカスはいつも胸が痛くなるのだ。
たとえ人間を見捨てる選択をしたとしても、誰もこの男を非難することはできない。
だが彼は、人を救う道を歩んだ。
守護者であるローランドの制止を振り切り、魔物が蹂躙する世界で、一人孤独に立ち向かい。多くの痛みと共に、彼は孤高の王になった。
依然として冷淡な眼差しをこちらへ向けるオルガノを前に、ルーカスは俯き衝動に耐える。
彼は昔から自らを傷付けることを厭わない。多くのものから見捨てられた異端の勇者であるがゆえに、悲しいほど痛みに強く、孤独を好むのだ。
しかしだからこそ、強くあるために孤高を貫くオルガノに、ルーカスの嘆きが届くことはけしてない。
酷い無力感に唇が戦慄き、やがてルーカスが何事か言いかけたとき──肩にそっと温かな感触があった。
衝動に駆られ、暴走しかけていた思考が一掃されたように真っ白になる。それから素早く理性を取り戻したルーカスはハッと横を向く。
「ラーティ様……?」
ルーカスの肩に労るように手を置いたのは、それまで隣で静かに成り行きを見ていたラーティだった。
「もうこの辺りでよろしいでしょう」
凜とした声が王の間に響く。
物静かで必要最低限の言葉以外を口にすることの少ないラーティが、さらにオルガノから遮断するようにルーカスの前に出た。
オルガノとルーカスの間に割って入り、明らかに妻を庇う行動に出たラーティに、周りに控えていた面々が驚きの表情を浮かべている。ルーカスも同様だった。
目の前にある広い夫の背中を見つめていると、冷や汗をかくような感覚が通り過ぎていく。代わりに守られている安堵感に心身が包まれ、フワリと温かな心地になる。
危なかった。
ラーティが割り入ってくれなかったら、踏み込んではいけない領域に危うく踏み込んでしまうところだった己を、ルーカスは恥じる。
「仮にもお前は話を遮るだけの相応の理由があるのだろうな?」
ラーティから受けた諫言に、オルガノの厳しい言葉が飛んだ。
「陛下、前王への処罰は陛下のお考えあっての采配であったと、ルーカスは十分すぎるほど理解しています」
「私は如何な了見だと聞いているのだ」
ルーカスがラーティに気を取られている合間にも、オルガノの眉間の皺が濃くなっている。話を中断されて、相当に機嫌を損ねてしまったようだ。
目に見えて険悪な態度に出たオルガノを前に、けれどラーティは少しも怯んだ様子を見せない。
「他人に心を砕くルーカスの人柄を陛下が案じているのを、妻が気付かぬとお思いですか?」
この方がここまでハッキリ意思表示をするとは珍しい。
改めて隣の夫を見上げ、それにしてもと、ルーカスは辺りを見渡す。
闇の勇者と謳われるオルガノへの恐れもあいまって、現在勇者であるラーティとの対峙に生きた心地がしないのは皆同じらしい。始まった親子喧嘩に、周りの者は皆、息を詰めて物音一つ立てずにいる。
やれやれと心の中で一人でごちる。
この状況をどう収拾したものか。連れてきた従者たちは辛うじて体裁を保っているものの、覇気はなく、すっかり萎縮してしまっている。
流石に手練れのガロンは平然とした面持ちだが、体が僅かに後方へ反っているところからして、内心怯えた小動物のように後ずさり寸前なのだろう。彼は魔獣小屋に戻りたがっている。
困ったな。憂慮すべき事柄は他にも多くあるというのに。
事態の白熱を予測し、そろそろ媒介役に戻る頃合いだろう。そうルーカスが判断しかけたとき、
けれどルーカスが抱いた懸念とは全く違った方向へと、この後話は進んでいくことになる。
「この世は、心優しく善の道を進もうとする者ほど、多くの悪意に心身を削がれ搾取されるものだ。特にお前が妻としたその男は、賢いくせに他に類を見ない根っからのお人好しだ。それが杞憂に過ぎないとでもお前は言うのか」
一向にルーカスの前から退く気配のないラーティに、オルガノは真っ向から反論する。
それを受けて、ラーティは一旦言葉を濁した。
「否定するつもりはありません。しかし……」
ラーティがルーカスに愛しい眼差しを向ける。
「だからこそ、ルーカスはルーカス足り得るのです。あれほど手酷く突き放した私を許しただけでなく、彼は私の告白を受け入れ、妻にまでなってくれた」
丁寧に名前を呼ばれ、頬に優しく触れられた。
ラーティは人前でも構わず、いつも愛情を表現してくれる。このような場だというのに、彼のルーカスを気に掛ける声が一層脳内に甘く響く。
「妻ほど心が広く愛情深い人間を、私は知りません」
「ラーティ様……」
まさか親子喧嘩から愛の告白へ、話が飛んでしまうのは想定外だ。尊く美しい夫に見据えられ、ルーカスは言葉もない。
そしてラーティがここまで他者の心情に気付き、慮るようになっていたことに、ルーカスは内心とても驚いていた。
どこか、以前の落ち着きとはまた違っているような……?
ルーカスはある種の大成を目の当たりにしたような眩しさを覚えて、目を細める。
小さな王子とばかり思っていたのが、本当に頼もしくなられたな……。
このような状況だというのに、夫としても成長を感じさせるラーティに、ルーカスは見惚れてしまっていた。そんなルーカスに、ラーティは応えるように微笑する。──すると、
不意に聞こえてきた溜息が、耳朶を打つ。
「まったく、夫婦の語らいは他所でやれと言っているだろう」
夫婦共々、王座へ視線を戻す様子に、オルガノが益々呆れたように頬杖をつく。
「前王の件はショック療法のようなものだ」
「それにしては不意打ちが過ぎるのではありませんか?」
牽制に抜かりのないオルガノとラーティ。双方のやりとりを前にしながら、ルーカスは周りの様子をチラリと見る。
皆、場の空気が緩んだのを感じ取り、一様にホッと胸を撫でおろしている。ガロンはようやく体の反りが直ったようだ。
真っ直ぐの姿勢で何事もなかったようにしているガロンを見て、ふと彼がオルガノに言われてやってきた目的を思い出す。大きなおめめの黒く小さな個体。
そういえば、クーペは一体どこへ? そう思った矢先、天井に動く気配があった。
どこから現れたのか、黒い何かがフラフラパタパタと飛んでくる。竜の羽と似た形状を持つそれは、オルガノの近くに控えているお付きの者の腕にクルンと頭を下に、ぶら下がった。
飛行系魔獣デンショバット。
夜行性のコウモリ魔獣には珍しい昼行性で、伝達を得意とする。
何か連絡事項があったらしい。デンショバットの足にくくりつけられた紙をほどいて、お付きの者が確認し、オルガノに耳打ちする。
そして伝達を受けてから程なくして、オルガノはラーティとよく似た端正な面立ちで、別の話題を口にした。
「それはそうとルーカス、お前が息子を連れてくるとは思っていなかったが」
緊張が解かれたところで、話はひとまず終わりらしい。どことなく楽しそうな口調のオルガノの次の一手に備えて、ルーカスは彼を眺め入る。
「そろそろお前に息子を返そう」
言うなり、オルガノの合図を受けた守衛が二人、扉に手をかける。
ギイイイイと軋む音を立てて王の間の重厚な扉が開かれた。
光が射し込む扉の向こう側からテケテケ歩いてきたのは、口に菓子をたくさん詰め込んで、かつ、手元にも本人の顔ほどある大きな円盤状の焼き菓子──ラスクール名物「デカ焼き菓子」を持っている子ドラゴン、クーペ。
皆が跪くなか、オルガノの言葉に続いて登場した、愛しい我が子の姿にホッとする。
息子がおててに持っているデカ焼き菓子はラスクールに古くから伝わる菓子で、注文すると注文した者の顔と同じ大きさに焼いてくれる。
顔面の面積が広い方が得をすると、頬を横に伸ばしてやってくる子供がたえないという。
見たところ息子は、ありのままの顔面サイズでもらったようだ。
己の顔と同じサイズの菓子をおててに、両親の姿に気付いた瞬間、息子は口を半開きに、おめめをキラキラと輝かせ、嬉しそうに背中の羽をパタパタさせた。
*
クーペこと息子は、主に嬉しいときおめめがキラキラと輝く習性を持っている。なかでも最上級で嬉しいと感じたときは、飛ぶつもりがなくても羽がパタパタと小刻みに動く。
今のクーペにはその全ての習性が出ているようだ。全身が喜びに満ち溢れ、おめめが零れ落ちそうなほど大きくなっている。辺りがパアっと明るくなったような錯覚を、ルーカスは覚えた。
実際、開いた扉から射している後光のなかに佇んでいるのもあいまって、おそらく息子は倍増しで眩しいのだが。そんな相乗効果があろうとなかろうと、息子は可愛い。それはさておき、
跪きながら扉の方へ姿勢を向けて、「おいで」と両手を差し出すと、満面のキラキラおめめで「お母さーんっ」とこちらに向かって一生懸命飛んでくる。
懐にきらきらパタパタ飛び込んでくる息子を想定していたルーカスだったが、次に起こった息子の想定外の動きに、目を瞬かせることとなった。
それまでの和やかなパタパタ飛行から一変して、途中、びゅんっとクーペが加速したのだ。
ここから先は、傍から見ればコンマ数秒の出来事だろう。
周りで控えている人間が各々驚きに固まっている。けれども戦闘慣れしたルーカスの視界は一瞬の間に覚醒し、目に映る景色がスローモーションで展開しているように見えていた。
早い。黒い残像が尾を引くほど早く、シュッと風を切り突然加速した姿は、さながら飛行系魔獣モモンガガの滑空攻撃だ。
息子は両親の顔を見て、色々と思いが湧き上がってしまったらしい。パタパタの速度では我慢できなくなって、こちらに向かって全力で飛行してくる。
後方に黒い残像を引き連れ、風圧に負けじと前進するおめめは鋭く三角に角張り、あまりの風圧に輪郭がブレている。異様に重く禍々しい様相を呈してオオオオオオオオオオと凄い気合いで迫りくる息子。
親子の温かい再会の場面とはかけ離れている。数十歩手前の我が子のいる空間が、異質な黒い雰囲気に包まれているのを実見しながら、ルーカスは思い起こす。
そういえばモモンガガも戦闘での特攻時は顔がブレていたなと。
そんな在りし日のモモンガガの姿を頭の片隅に、お顔が凄いことになっている我が子を受け止めようと咄嗟に構えたルーカスだったが、しかしいったいどう調整したのか。
──スポ!
ぶつかる数歩手前でクーペはくるんっと可愛く一回転して勢いを落とすと、衝突するでもなく、タコ壺におびき寄せられたタコのようにルーカスの懐にスポッと収まったのだ。衝撃もほとんどない。
何が起こったのか、わかっていても理解が追いつかないことはままある。腹部にある違和感を確かめるため、下を向く。そこにはやはりルーカスの懐にスポンとはまっている子ドラゴンが一匹。短いおててでひっついていた。
ルーカスの口から、「クーペ?」と心配の声が洩れた。
帰ってきた息子の飛行能力と収納力、そして抜群の密着力にルーカスはおろか隣のラーティでさえも、無音でルーカスの腹部に視線を注いでいる。
我が子の珍行動に、ルーカスが数度目を瞬かせ驚く間も、クーペはひたすら短いおててでタコのように隙間なくピッタリ無音で腹にひっついている。
「どうした?」
返事はなく、クーペは顔をルーカスの胴体に押し当てるようにしている。
ガロンの話では、クーペはオルガノと話をしていたとき、いつも通りの樣子だったそうだが。
よっぽど怖い目にあったのか、もしくは心細かったのか、他の理由があるにしろないにしろ。詳細はわからないが、お花の次はタコへと擬態した息子の懸命な背中を、ルーカスはポンポン叩く。
「ここに来る途中までついてきていたが、忽然といなくなったので探させていた」
冷めた口調で思い出したように話すオルガノに、ルーカスは抱っこしている息子の頭を撫でながら訊き返す。
「忽然と、ですか?」
「厨房の近くを通った辺りまでは確かいたな」
「厨房……」
「それと私が城の料理長に作らせてお前の息子に与えたのは、その焼き菓子のみだ」
オルガノはクーペがおててに持っているラスクール名物「デカ焼き菓子」と、菓子がたくさん詰め込まれて団子のように丸く膨れている頬袋を見ながら、「他の菓子は知らん」と付け加える。
頬袋が肩まであるジャンガリオンハムレットと違い、ドラゴンに頬袋はなかったはずだ。ということは、クーペの頬袋と思しき場所は、単に菓子を詰め込み過ぎて膨れている普通の頬ということになる。
そういえば屋敷でも、腹を空かせたクーペが度々厨房に出現している報告を受けていた。
しかしクーペはおねだりをするわけでもなく、ただただ料理長が調理している横で腹を鳴らしながら、キラキラとおめめを輝かせているそうだ。
暫くすると、お口をモグモグさせたクーペが厨房からトコトコ歩いて出ていく姿が度々目撃されている。
どうやら屋敷の料理長同様、城の料理長もまた、食欲旺盛の子ドラゴンのヨダレと腹の音を見過ごすことができなかったようだ。
黒い小さな頭をよしよししていると、ようやくクーペは落ち着いたらしい。無音から自我を取り戻し、いつもの大きなおめめで「きゅいっ」とお耳が立った。
「成長は止まっているとはいえ、育ち盛りだからな……」
後で料理長に礼をせねば。そう思考して呟くルーカスに、オルガノは怪訝な目を向けている。
「育ち盛りか」
「はい」
「なら仕方ないな」
「ご理解いただけたようで何よりです」
思わずルーカスとオルガノにつられて「そうか育ち盛りか」と頷きそうになっていたガロンだが、はたと我に返ったらしい。「成長していないのに育ち盛りとはいったい……?」と深い沈黙と共に、頭を悩ませている。
これは偏に経験知の差からくるものだが、それがルーカスと釣り合っているオルガノには、今の表面的なやり取りで事の次第がわかる。
それに付き合いも長いからな……
ガロン以下、他の屋敷の従者たちも当惑に互いに目を合わせているため、ルーカスはそちらを向き、一言説明を追加する。
「クーペは育ち盛りの食欲で得たエネルギーを、おそらく欠損している竜玉の代替品として消費している」
ああなるほど。だから成長が止まっていても食欲が衰えないのかと、ルーカスの腕の中で「きゅいきゅい」頭を押し付けるようにして甘えているクーペを見ながら、ようやく皆納得の表情を浮かべた。
一方、「成長していないのに育ち盛り」と普通ならダイエット必須なパワーワードに、ガロンが驚愕に目を剥いている。
ガロンと屋敷の食料貯蔵庫の危機、それとクーペが元来食欲魔神である可能性はさておき、
つまりクーペは無意識レベルで竜玉の保全に動いているということだ。
もちろん食欲だけで竜玉の欠損を補いきれているとは、ルーカスも思ってはいない。だが、息子が無意識にも(食欲で)道を切り開いているというのに、前王の知識が手に入らないからと、親の己が諦めるわけにはいかない。
頼もしく力づけられた感覚で、ルーカスが胸元の息子に目を向けると──
「クーペ?」
皆の反応を余所に、クーペは考えるようにそれまでピタリとタコの吸盤のごとくルーカスに吸着させていた短い自分のおててを見つめていた。デカ焼き菓子を持つ方のおててだ。
綺麗な円盤状の焼き菓子は、よく見るとほんの少し、端が欠けている。
大事に持っているところからして、特別な菓子と認識して最後に取っておいたのを、しかし我慢できず少しだけかじったらしい。
そうして暫し食いかけの菓子と己のおててを見つめていた息子が、唐突に何か閃いたようにハッと顔を上げた。
デカ焼き菓子に対し、それを持つ己のおててのあまりの短さに気付いて驚いた。わけではなく。
名残惜しそうにルーカスの衣服を一度と掴んでから放し、クルッと方向転換して背を向けると、懐から離れた。ふよふよと浮遊しながら、来た道を戻っていく。
尻尾を垂らし、ふよふよと漂いがちの後ろ姿は、こちらへ向かってきたときよりも随分と勢いが失せている。あまり気乗りしないようだ。
皆に注目されているクーペの後ろ姿を、とりあえず見送っていると……王座から舌音が聞こえてきた。
「忘れ物に気付いたようだ」
舌打ちしたオルガノを見やる。彼にとってそれは思い出してほしくない物らしい。心底残念そうにしている。
「忘れ物ですか?」
クーペが向かった先は、オルガノのところだった。それも何かを要求するように「きゅ」と一鳴きするも、オルガノが何も反応しないのを見て相当に困ったらしい。
手強い相手だと、クーペもよくわかっているようだ。
クーペはオルガノの周りを焦った様子でちょこちょこ飛び回り、「きゅ」「きゅ」「きゅ」「きゅ」と短く「きゅ」を連発している。必死だ。
同じような状態が数分ほど続いた。
フットワークが軽くて何よりだが、只事ではない息子の様子に、ルーカスがとうとう口を出す。
「その子が何をしたいのか、答えを知っているのなら教えていただけるだろうか」
「母親の顔を見て自分が何のために来たのか思い出したらしい」
「なるほど、ローランド様の書簡ですか」
オルガノが来る前にガロンから話は聞いていた。忘れ物とはローランドがルーカスに宛てた手紙のようだ。クーペはそれを母親に届けようとやってきた。
「これはお前の息子に現実の厳しさを教えてやった結果だ」
オルガノが己の周りを飛び回るクーペを気にも留めず、ルーカスを眼差し、挑発まじりの表情で試すように言うのを。対するルーカスは、必死な様相でオルガノの周りをちょろちょろ飛び回っている息子が、食べかけの焼き菓子を彼に差し出しているのを目で追いながら返答する。
「それはつまり、息子が持ってきたローランド様からの書簡とそのお菓子を交換した。そう解釈してよろしいでしょうか」
言いながら、けれどルーカスは内心別の仮説に至っていた。
言葉で会話することのできないクーペが、オルガノと正式に交換の契約をしたとは考えにくい。おそらくクーペが焼き菓子に気を取られている隙に、いつの間にか取られてしまっていたというのが真相だろう。
しかしクーペは未だオルガノから一つも反応を引き出せないでいる。すると、
オルガノの正面──二、三十歩ほど離れた場所に、クーペは羽を半ば折りたたみ、床に下りると「きゅいっ」と一鳴きした。
そこでやっとオルガノはクーペを視界に入れるも、どこ吹く風だ。
「息子に聞いてみればいい。もっとも、話が通じるのならだが」
その息子は、オルガノから二、三十歩ほど離れた場所で、「お願い返して」と食べかけの菓子を必死に差し出している。けれどもあまりの反応のなさに、とうとうその場にお座りして、そこからジーッと切なそうにオルガノを見上げている。
あまりにも悲しそうな息子のおめめがしおれているのを一瞥し、ルーカスはゆっくりとした動作でオルガノを見据えた。
まったくいつまでも子供のようなことをと、真相に気付いたルーカスが非難の目を向けるのを、オルガノは想定していたようだ。毅然たる態度で目を背けようともしない。このまま平然と白を切ろうとしている。そうルーカスが直感した直後──カサッと小さな音がした。
「?」
気のせいかと音のした方を向く。
オルガノから二、三十歩ほど離れた場所でお座りしているクーペのおめめは、先ほどと変わらずしおれている。
特に変わりはないように思えたところで、会話を再開させようとルーカスが前を向くと──再びカサッと小さな音がした。
再び音のした方を向く。
オルガノから二、三十歩ほど離れた場所でお座りしているクーペのおめめは、変わらずしおれている。
そこでルーカスが視線を外すように見せかけて、再び視線を戻すと……まるで民家に忍び込もうとしている盗人か何かのように、片足をこっそり上げた姿勢の息子がいた。
「…………」
フェイントに、片足をあげた姿勢で停止している息子。
これは……と、ルーカスは見られて止まってしまった息子がとりあえず片足を下げられるように、それとなく視線を外す。
視界の外で、息子が足を床にそろそろと下ろした気配を感じながら、クーペが何故あんなにオルガノから距離を取っていたのかルーカスは理解した。
無反応なオルガノに、このままでは手紙を取り返せないと思ったクーペは、だるまさんが転んだの要領でこっそり移動して、オルガノが見ていないうちに手紙を取り返そうとしているのだ。
息子は諦めていなかった。
ルーカスは息子の挙動を見なかったことにして、真面目な顔付きでオルガノに向き直る。
互いの距離が徐々に近付いてきているのは、もちろんオルガノも気付いている。
オルガノまで二、三十歩ほど離れているといっても、それは大人の歩幅で換算すればの話であり。クーペの小さい足でちょこちょこ歩くのでは、実際の歩数は倍以上かかる。
まだまだ二人の距離は遠く、オルガノは少しの間無言でクーペを見ていたが、やがて会話を再開するためルーカスへ視線を向けた。──が、カサッと再び聞こえてきた小さな音に、今度は先ほどのルーカス同様、オルガノがクーペを見る。
クーペがお座りして、切ない顔で見ているのを確認すると、少ししてオルガノは話を再開させようと視線をルーカスに移す。だがやはり、
カサッ
「…………」
それから複数回、同じ事象を繰り返した後。ようやくクーペの動きが鈍重になってきた。お顔も、切なさは消え、いつものクーペに戻っている。そろそろ音を上げる頃合いだろう。
雰囲気に、当事者のみならず周りで見守っている者たちも、そう判断しかけていた。
オルガノが気を取り直し、話を再開させようと視線をクーペから離したそのとき、それは起こった。
カサカサカサカサカサ!
小生物が連続して動く音が、王の間に響き渡る。
クーペは短い足で高速移動したらしい。見ると、先刻とは明らかに違う場所でお座りしていた。
息子は諦めていなかった。
しかし二人の距離が近付くにつれ、オルガノの威圧感にクーペは圧され始めると、デカ焼き菓子で顔を隠すようにした。
そうして焼き菓子で顔を隠す手を思いつくまでは良かった。けれどもこれは、程なくしてとんだ愚策となってしまう。
どうやらクーペは顔を隠したことで、自分からオルガノが見えていないということは、オルガノからも自分は見えていないということだ。と錯覚(混乱)したらしい。
顔面をデカ焼き菓子で覆い隠した息子が、ルーカスたちの前をトコトコ歩いていく。
「見えてる……がっつり見えてるんだよ……」
ガロンの嘆きが、後方から聞こえてくる。
そう、オルガノからはハッキリと見えているのだ。顔面を菓子で隠しただけの子ドラゴンが王座に向かって歩いてくる姿が。
しまいには、王座に向かって歩いているのを皆で眺めている始末だ。
独壇場の子ドラゴンを制止する者はおらず、今まさに、着実に距離を詰められている。
迫りくるクーペに、オルガノからの無言の圧がルーカスに飛ぶ。
あれは、お前の息子をどうにかしろ。と言っているな……
隣にいるラーティをルーカスはチラリと見る。彼もまた、目から鱗が落ちる息子の行動に、特に異論はないようだ。ルーカス同様、先刻からクーペとオルガノのやり取りをつぶさに見守っている。
戦わなければ守れぬものがあることを、息子は知っているのだ。
だからこそ素知らぬ顔でラーティは息子を見守っている。
菓子で顔面を隠して王に近付く息子と、それを静観する父親を前に、ならばルーカスの身の振りは一択と決まっていた。
ニコリとしたルーカスが言葉にせず「陛下、先程から息子は一歩も動いておりません」そう表情のみで語るのを、「お前の目は節穴か?」とオルガノが睨み付ける。
すかさず繰り出される嫌味にも動じず、ルーカスは再びニコリと返す。
そうしたやり取りが繰り広げられているなか、当人はトコトコとその間を通過していく。──と、王座の前にある階段に気付かなかったらしい。段差でクーペがコケた。
「あっ」と誰かの驚く声がして、パリンと割れる音がした。
コケた拍子に、床に落としたデカ焼き菓子の上に、クーペが倒れ込んだのだ。
「ヒッ」と後方で、ガロンの怯える声がした。周りの者たちも皆、青い顔をして息を詰め、黙り込んでいる。
異様な空気が流れるなか、クーペはムクリと起き上がり、それから円盤状の焼き菓子が床の上で無惨に砕けているのを知った。
オルガノは間違っていない。どんなに冷酷な男に見せかけようとも、恣意的などでは決してない彼の思いや意図が、ルーカスには痛いほどわかった。
ルーカスがどう反応するとしても何ら責任を負わないなどと言って、この男は粗悪に振る舞うことでこちらの気を紛らわし、少しでもルーカスの心の負荷を減らそうとしているのを、わからないとでも思っているのか。
跪く姿勢を維持し、表情は変えず、ルーカスは片方の拳をギリッと固く握りしめる。
貴方という人は、またそうして全てを背負うつもりなのか……
勇者でありながら旧王族に命を狙われ、孤立し、オルガノは幼き頃から世界に見捨てられたような日々を送っていたはずだ。
味方がほとんどいない状況下で、生きることに絶望し、おかしくなっても不思議ではなかったはずだ。
そこに感情の入る余地はなく、どれほどオルガノが心を殺し生きてきたのか、ルーカスはいつも胸が痛くなるのだ。
たとえ人間を見捨てる選択をしたとしても、誰もこの男を非難することはできない。
だが彼は、人を救う道を歩んだ。
守護者であるローランドの制止を振り切り、魔物が蹂躙する世界で、一人孤独に立ち向かい。多くの痛みと共に、彼は孤高の王になった。
依然として冷淡な眼差しをこちらへ向けるオルガノを前に、ルーカスは俯き衝動に耐える。
彼は昔から自らを傷付けることを厭わない。多くのものから見捨てられた異端の勇者であるがゆえに、悲しいほど痛みに強く、孤独を好むのだ。
しかしだからこそ、強くあるために孤高を貫くオルガノに、ルーカスの嘆きが届くことはけしてない。
酷い無力感に唇が戦慄き、やがてルーカスが何事か言いかけたとき──肩にそっと温かな感触があった。
衝動に駆られ、暴走しかけていた思考が一掃されたように真っ白になる。それから素早く理性を取り戻したルーカスはハッと横を向く。
「ラーティ様……?」
ルーカスの肩に労るように手を置いたのは、それまで隣で静かに成り行きを見ていたラーティだった。
「もうこの辺りでよろしいでしょう」
凜とした声が王の間に響く。
物静かで必要最低限の言葉以外を口にすることの少ないラーティが、さらにオルガノから遮断するようにルーカスの前に出た。
オルガノとルーカスの間に割って入り、明らかに妻を庇う行動に出たラーティに、周りに控えていた面々が驚きの表情を浮かべている。ルーカスも同様だった。
目の前にある広い夫の背中を見つめていると、冷や汗をかくような感覚が通り過ぎていく。代わりに守られている安堵感に心身が包まれ、フワリと温かな心地になる。
危なかった。
ラーティが割り入ってくれなかったら、踏み込んではいけない領域に危うく踏み込んでしまうところだった己を、ルーカスは恥じる。
「仮にもお前は話を遮るだけの相応の理由があるのだろうな?」
ラーティから受けた諫言に、オルガノの厳しい言葉が飛んだ。
「陛下、前王への処罰は陛下のお考えあっての采配であったと、ルーカスは十分すぎるほど理解しています」
「私は如何な了見だと聞いているのだ」
ルーカスがラーティに気を取られている合間にも、オルガノの眉間の皺が濃くなっている。話を中断されて、相当に機嫌を損ねてしまったようだ。
目に見えて険悪な態度に出たオルガノを前に、けれどラーティは少しも怯んだ様子を見せない。
「他人に心を砕くルーカスの人柄を陛下が案じているのを、妻が気付かぬとお思いですか?」
この方がここまでハッキリ意思表示をするとは珍しい。
改めて隣の夫を見上げ、それにしてもと、ルーカスは辺りを見渡す。
闇の勇者と謳われるオルガノへの恐れもあいまって、現在勇者であるラーティとの対峙に生きた心地がしないのは皆同じらしい。始まった親子喧嘩に、周りの者は皆、息を詰めて物音一つ立てずにいる。
やれやれと心の中で一人でごちる。
この状況をどう収拾したものか。連れてきた従者たちは辛うじて体裁を保っているものの、覇気はなく、すっかり萎縮してしまっている。
流石に手練れのガロンは平然とした面持ちだが、体が僅かに後方へ反っているところからして、内心怯えた小動物のように後ずさり寸前なのだろう。彼は魔獣小屋に戻りたがっている。
困ったな。憂慮すべき事柄は他にも多くあるというのに。
事態の白熱を予測し、そろそろ媒介役に戻る頃合いだろう。そうルーカスが判断しかけたとき、
けれどルーカスが抱いた懸念とは全く違った方向へと、この後話は進んでいくことになる。
「この世は、心優しく善の道を進もうとする者ほど、多くの悪意に心身を削がれ搾取されるものだ。特にお前が妻としたその男は、賢いくせに他に類を見ない根っからのお人好しだ。それが杞憂に過ぎないとでもお前は言うのか」
一向にルーカスの前から退く気配のないラーティに、オルガノは真っ向から反論する。
それを受けて、ラーティは一旦言葉を濁した。
「否定するつもりはありません。しかし……」
ラーティがルーカスに愛しい眼差しを向ける。
「だからこそ、ルーカスはルーカス足り得るのです。あれほど手酷く突き放した私を許しただけでなく、彼は私の告白を受け入れ、妻にまでなってくれた」
丁寧に名前を呼ばれ、頬に優しく触れられた。
ラーティは人前でも構わず、いつも愛情を表現してくれる。このような場だというのに、彼のルーカスを気に掛ける声が一層脳内に甘く響く。
「妻ほど心が広く愛情深い人間を、私は知りません」
「ラーティ様……」
まさか親子喧嘩から愛の告白へ、話が飛んでしまうのは想定外だ。尊く美しい夫に見据えられ、ルーカスは言葉もない。
そしてラーティがここまで他者の心情に気付き、慮るようになっていたことに、ルーカスは内心とても驚いていた。
どこか、以前の落ち着きとはまた違っているような……?
ルーカスはある種の大成を目の当たりにしたような眩しさを覚えて、目を細める。
小さな王子とばかり思っていたのが、本当に頼もしくなられたな……。
このような状況だというのに、夫としても成長を感じさせるラーティに、ルーカスは見惚れてしまっていた。そんなルーカスに、ラーティは応えるように微笑する。──すると、
不意に聞こえてきた溜息が、耳朶を打つ。
「まったく、夫婦の語らいは他所でやれと言っているだろう」
夫婦共々、王座へ視線を戻す様子に、オルガノが益々呆れたように頬杖をつく。
「前王の件はショック療法のようなものだ」
「それにしては不意打ちが過ぎるのではありませんか?」
牽制に抜かりのないオルガノとラーティ。双方のやりとりを前にしながら、ルーカスは周りの様子をチラリと見る。
皆、場の空気が緩んだのを感じ取り、一様にホッと胸を撫でおろしている。ガロンはようやく体の反りが直ったようだ。
真っ直ぐの姿勢で何事もなかったようにしているガロンを見て、ふと彼がオルガノに言われてやってきた目的を思い出す。大きなおめめの黒く小さな個体。
そういえば、クーペは一体どこへ? そう思った矢先、天井に動く気配があった。
どこから現れたのか、黒い何かがフラフラパタパタと飛んでくる。竜の羽と似た形状を持つそれは、オルガノの近くに控えているお付きの者の腕にクルンと頭を下に、ぶら下がった。
飛行系魔獣デンショバット。
夜行性のコウモリ魔獣には珍しい昼行性で、伝達を得意とする。
何か連絡事項があったらしい。デンショバットの足にくくりつけられた紙をほどいて、お付きの者が確認し、オルガノに耳打ちする。
そして伝達を受けてから程なくして、オルガノはラーティとよく似た端正な面立ちで、別の話題を口にした。
「それはそうとルーカス、お前が息子を連れてくるとは思っていなかったが」
緊張が解かれたところで、話はひとまず終わりらしい。どことなく楽しそうな口調のオルガノの次の一手に備えて、ルーカスは彼を眺め入る。
「そろそろお前に息子を返そう」
言うなり、オルガノの合図を受けた守衛が二人、扉に手をかける。
ギイイイイと軋む音を立てて王の間の重厚な扉が開かれた。
光が射し込む扉の向こう側からテケテケ歩いてきたのは、口に菓子をたくさん詰め込んで、かつ、手元にも本人の顔ほどある大きな円盤状の焼き菓子──ラスクール名物「デカ焼き菓子」を持っている子ドラゴン、クーペ。
皆が跪くなか、オルガノの言葉に続いて登場した、愛しい我が子の姿にホッとする。
息子がおててに持っているデカ焼き菓子はラスクールに古くから伝わる菓子で、注文すると注文した者の顔と同じ大きさに焼いてくれる。
顔面の面積が広い方が得をすると、頬を横に伸ばしてやってくる子供がたえないという。
見たところ息子は、ありのままの顔面サイズでもらったようだ。
己の顔と同じサイズの菓子をおててに、両親の姿に気付いた瞬間、息子は口を半開きに、おめめをキラキラと輝かせ、嬉しそうに背中の羽をパタパタさせた。
*
クーペこと息子は、主に嬉しいときおめめがキラキラと輝く習性を持っている。なかでも最上級で嬉しいと感じたときは、飛ぶつもりがなくても羽がパタパタと小刻みに動く。
今のクーペにはその全ての習性が出ているようだ。全身が喜びに満ち溢れ、おめめが零れ落ちそうなほど大きくなっている。辺りがパアっと明るくなったような錯覚を、ルーカスは覚えた。
実際、開いた扉から射している後光のなかに佇んでいるのもあいまって、おそらく息子は倍増しで眩しいのだが。そんな相乗効果があろうとなかろうと、息子は可愛い。それはさておき、
跪きながら扉の方へ姿勢を向けて、「おいで」と両手を差し出すと、満面のキラキラおめめで「お母さーんっ」とこちらに向かって一生懸命飛んでくる。
懐にきらきらパタパタ飛び込んでくる息子を想定していたルーカスだったが、次に起こった息子の想定外の動きに、目を瞬かせることとなった。
それまでの和やかなパタパタ飛行から一変して、途中、びゅんっとクーペが加速したのだ。
ここから先は、傍から見ればコンマ数秒の出来事だろう。
周りで控えている人間が各々驚きに固まっている。けれども戦闘慣れしたルーカスの視界は一瞬の間に覚醒し、目に映る景色がスローモーションで展開しているように見えていた。
早い。黒い残像が尾を引くほど早く、シュッと風を切り突然加速した姿は、さながら飛行系魔獣モモンガガの滑空攻撃だ。
息子は両親の顔を見て、色々と思いが湧き上がってしまったらしい。パタパタの速度では我慢できなくなって、こちらに向かって全力で飛行してくる。
後方に黒い残像を引き連れ、風圧に負けじと前進するおめめは鋭く三角に角張り、あまりの風圧に輪郭がブレている。異様に重く禍々しい様相を呈してオオオオオオオオオオと凄い気合いで迫りくる息子。
親子の温かい再会の場面とはかけ離れている。数十歩手前の我が子のいる空間が、異質な黒い雰囲気に包まれているのを実見しながら、ルーカスは思い起こす。
そういえばモモンガガも戦闘での特攻時は顔がブレていたなと。
そんな在りし日のモモンガガの姿を頭の片隅に、お顔が凄いことになっている我が子を受け止めようと咄嗟に構えたルーカスだったが、しかしいったいどう調整したのか。
──スポ!
ぶつかる数歩手前でクーペはくるんっと可愛く一回転して勢いを落とすと、衝突するでもなく、タコ壺におびき寄せられたタコのようにルーカスの懐にスポッと収まったのだ。衝撃もほとんどない。
何が起こったのか、わかっていても理解が追いつかないことはままある。腹部にある違和感を確かめるため、下を向く。そこにはやはりルーカスの懐にスポンとはまっている子ドラゴンが一匹。短いおててでひっついていた。
ルーカスの口から、「クーペ?」と心配の声が洩れた。
帰ってきた息子の飛行能力と収納力、そして抜群の密着力にルーカスはおろか隣のラーティでさえも、無音でルーカスの腹部に視線を注いでいる。
我が子の珍行動に、ルーカスが数度目を瞬かせ驚く間も、クーペはひたすら短いおててでタコのように隙間なくピッタリ無音で腹にひっついている。
「どうした?」
返事はなく、クーペは顔をルーカスの胴体に押し当てるようにしている。
ガロンの話では、クーペはオルガノと話をしていたとき、いつも通りの樣子だったそうだが。
よっぽど怖い目にあったのか、もしくは心細かったのか、他の理由があるにしろないにしろ。詳細はわからないが、お花の次はタコへと擬態した息子の懸命な背中を、ルーカスはポンポン叩く。
「ここに来る途中までついてきていたが、忽然といなくなったので探させていた」
冷めた口調で思い出したように話すオルガノに、ルーカスは抱っこしている息子の頭を撫でながら訊き返す。
「忽然と、ですか?」
「厨房の近くを通った辺りまでは確かいたな」
「厨房……」
「それと私が城の料理長に作らせてお前の息子に与えたのは、その焼き菓子のみだ」
オルガノはクーペがおててに持っているラスクール名物「デカ焼き菓子」と、菓子がたくさん詰め込まれて団子のように丸く膨れている頬袋を見ながら、「他の菓子は知らん」と付け加える。
頬袋が肩まであるジャンガリオンハムレットと違い、ドラゴンに頬袋はなかったはずだ。ということは、クーペの頬袋と思しき場所は、単に菓子を詰め込み過ぎて膨れている普通の頬ということになる。
そういえば屋敷でも、腹を空かせたクーペが度々厨房に出現している報告を受けていた。
しかしクーペはおねだりをするわけでもなく、ただただ料理長が調理している横で腹を鳴らしながら、キラキラとおめめを輝かせているそうだ。
暫くすると、お口をモグモグさせたクーペが厨房からトコトコ歩いて出ていく姿が度々目撃されている。
どうやら屋敷の料理長同様、城の料理長もまた、食欲旺盛の子ドラゴンのヨダレと腹の音を見過ごすことができなかったようだ。
黒い小さな頭をよしよししていると、ようやくクーペは落ち着いたらしい。無音から自我を取り戻し、いつもの大きなおめめで「きゅいっ」とお耳が立った。
「成長は止まっているとはいえ、育ち盛りだからな……」
後で料理長に礼をせねば。そう思考して呟くルーカスに、オルガノは怪訝な目を向けている。
「育ち盛りか」
「はい」
「なら仕方ないな」
「ご理解いただけたようで何よりです」
思わずルーカスとオルガノにつられて「そうか育ち盛りか」と頷きそうになっていたガロンだが、はたと我に返ったらしい。「成長していないのに育ち盛りとはいったい……?」と深い沈黙と共に、頭を悩ませている。
これは偏に経験知の差からくるものだが、それがルーカスと釣り合っているオルガノには、今の表面的なやり取りで事の次第がわかる。
それに付き合いも長いからな……
ガロン以下、他の屋敷の従者たちも当惑に互いに目を合わせているため、ルーカスはそちらを向き、一言説明を追加する。
「クーペは育ち盛りの食欲で得たエネルギーを、おそらく欠損している竜玉の代替品として消費している」
ああなるほど。だから成長が止まっていても食欲が衰えないのかと、ルーカスの腕の中で「きゅいきゅい」頭を押し付けるようにして甘えているクーペを見ながら、ようやく皆納得の表情を浮かべた。
一方、「成長していないのに育ち盛り」と普通ならダイエット必須なパワーワードに、ガロンが驚愕に目を剥いている。
ガロンと屋敷の食料貯蔵庫の危機、それとクーペが元来食欲魔神である可能性はさておき、
つまりクーペは無意識レベルで竜玉の保全に動いているということだ。
もちろん食欲だけで竜玉の欠損を補いきれているとは、ルーカスも思ってはいない。だが、息子が無意識にも(食欲で)道を切り開いているというのに、前王の知識が手に入らないからと、親の己が諦めるわけにはいかない。
頼もしく力づけられた感覚で、ルーカスが胸元の息子に目を向けると──
「クーペ?」
皆の反応を余所に、クーペは考えるようにそれまでピタリとタコの吸盤のごとくルーカスに吸着させていた短い自分のおててを見つめていた。デカ焼き菓子を持つ方のおててだ。
綺麗な円盤状の焼き菓子は、よく見るとほんの少し、端が欠けている。
大事に持っているところからして、特別な菓子と認識して最後に取っておいたのを、しかし我慢できず少しだけかじったらしい。
そうして暫し食いかけの菓子と己のおててを見つめていた息子が、唐突に何か閃いたようにハッと顔を上げた。
デカ焼き菓子に対し、それを持つ己のおててのあまりの短さに気付いて驚いた。わけではなく。
名残惜しそうにルーカスの衣服を一度と掴んでから放し、クルッと方向転換して背を向けると、懐から離れた。ふよふよと浮遊しながら、来た道を戻っていく。
尻尾を垂らし、ふよふよと漂いがちの後ろ姿は、こちらへ向かってきたときよりも随分と勢いが失せている。あまり気乗りしないようだ。
皆に注目されているクーペの後ろ姿を、とりあえず見送っていると……王座から舌音が聞こえてきた。
「忘れ物に気付いたようだ」
舌打ちしたオルガノを見やる。彼にとってそれは思い出してほしくない物らしい。心底残念そうにしている。
「忘れ物ですか?」
クーペが向かった先は、オルガノのところだった。それも何かを要求するように「きゅ」と一鳴きするも、オルガノが何も反応しないのを見て相当に困ったらしい。
手強い相手だと、クーペもよくわかっているようだ。
クーペはオルガノの周りを焦った様子でちょこちょこ飛び回り、「きゅ」「きゅ」「きゅ」「きゅ」と短く「きゅ」を連発している。必死だ。
同じような状態が数分ほど続いた。
フットワークが軽くて何よりだが、只事ではない息子の様子に、ルーカスがとうとう口を出す。
「その子が何をしたいのか、答えを知っているのなら教えていただけるだろうか」
「母親の顔を見て自分が何のために来たのか思い出したらしい」
「なるほど、ローランド様の書簡ですか」
オルガノが来る前にガロンから話は聞いていた。忘れ物とはローランドがルーカスに宛てた手紙のようだ。クーペはそれを母親に届けようとやってきた。
「これはお前の息子に現実の厳しさを教えてやった結果だ」
オルガノが己の周りを飛び回るクーペを気にも留めず、ルーカスを眼差し、挑発まじりの表情で試すように言うのを。対するルーカスは、必死な様相でオルガノの周りをちょろちょろ飛び回っている息子が、食べかけの焼き菓子を彼に差し出しているのを目で追いながら返答する。
「それはつまり、息子が持ってきたローランド様からの書簡とそのお菓子を交換した。そう解釈してよろしいでしょうか」
言いながら、けれどルーカスは内心別の仮説に至っていた。
言葉で会話することのできないクーペが、オルガノと正式に交換の契約をしたとは考えにくい。おそらくクーペが焼き菓子に気を取られている隙に、いつの間にか取られてしまっていたというのが真相だろう。
しかしクーペは未だオルガノから一つも反応を引き出せないでいる。すると、
オルガノの正面──二、三十歩ほど離れた場所に、クーペは羽を半ば折りたたみ、床に下りると「きゅいっ」と一鳴きした。
そこでやっとオルガノはクーペを視界に入れるも、どこ吹く風だ。
「息子に聞いてみればいい。もっとも、話が通じるのならだが」
その息子は、オルガノから二、三十歩ほど離れた場所で、「お願い返して」と食べかけの菓子を必死に差し出している。けれどもあまりの反応のなさに、とうとうその場にお座りして、そこからジーッと切なそうにオルガノを見上げている。
あまりにも悲しそうな息子のおめめがしおれているのを一瞥し、ルーカスはゆっくりとした動作でオルガノを見据えた。
まったくいつまでも子供のようなことをと、真相に気付いたルーカスが非難の目を向けるのを、オルガノは想定していたようだ。毅然たる態度で目を背けようともしない。このまま平然と白を切ろうとしている。そうルーカスが直感した直後──カサッと小さな音がした。
「?」
気のせいかと音のした方を向く。
オルガノから二、三十歩ほど離れた場所でお座りしているクーペのおめめは、先ほどと変わらずしおれている。
特に変わりはないように思えたところで、会話を再開させようとルーカスが前を向くと──再びカサッと小さな音がした。
再び音のした方を向く。
オルガノから二、三十歩ほど離れた場所でお座りしているクーペのおめめは、変わらずしおれている。
そこでルーカスが視線を外すように見せかけて、再び視線を戻すと……まるで民家に忍び込もうとしている盗人か何かのように、片足をこっそり上げた姿勢の息子がいた。
「…………」
フェイントに、片足をあげた姿勢で停止している息子。
これは……と、ルーカスは見られて止まってしまった息子がとりあえず片足を下げられるように、それとなく視線を外す。
視界の外で、息子が足を床にそろそろと下ろした気配を感じながら、クーペが何故あんなにオルガノから距離を取っていたのかルーカスは理解した。
無反応なオルガノに、このままでは手紙を取り返せないと思ったクーペは、だるまさんが転んだの要領でこっそり移動して、オルガノが見ていないうちに手紙を取り返そうとしているのだ。
息子は諦めていなかった。
ルーカスは息子の挙動を見なかったことにして、真面目な顔付きでオルガノに向き直る。
互いの距離が徐々に近付いてきているのは、もちろんオルガノも気付いている。
オルガノまで二、三十歩ほど離れているといっても、それは大人の歩幅で換算すればの話であり。クーペの小さい足でちょこちょこ歩くのでは、実際の歩数は倍以上かかる。
まだまだ二人の距離は遠く、オルガノは少しの間無言でクーペを見ていたが、やがて会話を再開するためルーカスへ視線を向けた。──が、カサッと再び聞こえてきた小さな音に、今度は先ほどのルーカス同様、オルガノがクーペを見る。
クーペがお座りして、切ない顔で見ているのを確認すると、少ししてオルガノは話を再開させようと視線をルーカスに移す。だがやはり、
カサッ
「…………」
それから複数回、同じ事象を繰り返した後。ようやくクーペの動きが鈍重になってきた。お顔も、切なさは消え、いつものクーペに戻っている。そろそろ音を上げる頃合いだろう。
雰囲気に、当事者のみならず周りで見守っている者たちも、そう判断しかけていた。
オルガノが気を取り直し、話を再開させようと視線をクーペから離したそのとき、それは起こった。
カサカサカサカサカサ!
小生物が連続して動く音が、王の間に響き渡る。
クーペは短い足で高速移動したらしい。見ると、先刻とは明らかに違う場所でお座りしていた。
息子は諦めていなかった。
しかし二人の距離が近付くにつれ、オルガノの威圧感にクーペは圧され始めると、デカ焼き菓子で顔を隠すようにした。
そうして焼き菓子で顔を隠す手を思いつくまでは良かった。けれどもこれは、程なくしてとんだ愚策となってしまう。
どうやらクーペは顔を隠したことで、自分からオルガノが見えていないということは、オルガノからも自分は見えていないということだ。と錯覚(混乱)したらしい。
顔面をデカ焼き菓子で覆い隠した息子が、ルーカスたちの前をトコトコ歩いていく。
「見えてる……がっつり見えてるんだよ……」
ガロンの嘆きが、後方から聞こえてくる。
そう、オルガノからはハッキリと見えているのだ。顔面を菓子で隠しただけの子ドラゴンが王座に向かって歩いてくる姿が。
しまいには、王座に向かって歩いているのを皆で眺めている始末だ。
独壇場の子ドラゴンを制止する者はおらず、今まさに、着実に距離を詰められている。
迫りくるクーペに、オルガノからの無言の圧がルーカスに飛ぶ。
あれは、お前の息子をどうにかしろ。と言っているな……
隣にいるラーティをルーカスはチラリと見る。彼もまた、目から鱗が落ちる息子の行動に、特に異論はないようだ。ルーカス同様、先刻からクーペとオルガノのやり取りをつぶさに見守っている。
戦わなければ守れぬものがあることを、息子は知っているのだ。
だからこそ素知らぬ顔でラーティは息子を見守っている。
菓子で顔面を隠して王に近付く息子と、それを静観する父親を前に、ならばルーカスの身の振りは一択と決まっていた。
ニコリとしたルーカスが言葉にせず「陛下、先程から息子は一歩も動いておりません」そう表情のみで語るのを、「お前の目は節穴か?」とオルガノが睨み付ける。
すかさず繰り出される嫌味にも動じず、ルーカスは再びニコリと返す。
そうしたやり取りが繰り広げられているなか、当人はトコトコとその間を通過していく。──と、王座の前にある階段に気付かなかったらしい。段差でクーペがコケた。
「あっ」と誰かの驚く声がして、パリンと割れる音がした。
コケた拍子に、床に落としたデカ焼き菓子の上に、クーペが倒れ込んだのだ。
「ヒッ」と後方で、ガロンの怯える声がした。周りの者たちも皆、青い顔をして息を詰め、黙り込んでいる。
異様な空気が流れるなか、クーペはムクリと起き上がり、それから円盤状の焼き菓子が床の上で無惨に砕けているのを知った。
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