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第二部
43 新しいオヤツ
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ラスクール全土を覆う魔力の結界は、王城の魔法使いによって成立し。この国でもっとも守りが硬いと言われている王の寝室は、オルガノお抱えの魔法使いの強大な魔力の障壁に覆われている。
しかしなかには、それが効かない者も存在する。
最初に結界を破ったのは、闇の精霊へと転化したリュシエール・ラ・ラグーナ・ド・アリステス。そして今日は、二度目の日となった。
まだ人の活気が乏しく、麗らかな空気を肌で感じる朝。
事の始まりはバリンッと、ガラスを突き破ったような音だった。
召喚したルーカスの到着を待つ間、寝室のベッドで仮眠を取っていたオルガノの耳に響く異音。
何事だと上体を起こす。
音のした方角へ目を向けると、空からヒュ──────と黒い豆粒が落ちてきて、バルコニーに墜落した。
ドゴォ!
モクモクと砂塵が巻き上がり、上空からピシッと亀裂の広がるような高音がした。
見上げると壊れた結界の欠片が砕けたガラスのように、キラキラとバルコニーに降り注いでいく。
正面から派手に衝突したらしい。遥か上空の結界には、手足の短い、ちんまい何か小動物の……大の字の形をした大穴が空いていた。
*
オルガノは先刻と変わらずベッドで片肘を付いて横になり、視線はバルコニーへ、部屋の出入り口に当たる扉には背を向けていた。
異変に、ものの数分も経たぬうちに寝室へ近付いてくる複数の足音。
いつも寝室の扉の前に待機している守衛だろう。少し距離があるのは、仮眠するのに気が散ると寝室から遠ざけていたからだ。
「失礼いたします陛下! ただいまラスクールの上空を飛行していた何かが結界に衝突したと連絡が……陛下?」
けれど、先陣を切ってやってきたのはいつもの守衛ではなかった。聞き慣れない声に眉を顰め、そういえば新しい守衛が入ったと聞いていたのを思い出す。
「ああ、早かったな。ご苦労だった。もう帰っていいぞ」
「は? 帰っていいとはいったい……」
ぞんざいに扱われ、背を向けられたまま片手をひらひら振られた新米兵士の当惑する声。
声の調子からして、おそらくポカンと突っ立っているのだろう。続いて、いつもの守衛が二人、開いた扉から顔を出した気配に「他の者にも問題はないと伝えておけ」とそちらも背を向けながらオルガノはそつなく追い払う。
後からきた守衛二人は、オルガノの粋狂に慣れている。扉の外へすごすごと顔を引っ込めた。
だが新米兵士は少し部屋の踏み込んだ場所にいるらしい。
「あの、もしや先程からご覧になっているあれが結界に衝突したという何かですか?」
新米兵士にはバルコニーにいるものが見えていた。
ベッドで横向きに片肘をついてゆったりとしながら、先刻からバルコニーにある何かを観察しているオルガノの視線の先。手入れの行き届いたバルコニーには、激しい墜落で抉れたように凹んだ床に一匹、ポツンと黒い鱗に覆われた生き物がいた。
プスプスと白煙が体のあちこちから昇っている。焦げた可愛い黒い塊がおすわりして、こちらをジーっと見ている。
「戦闘から退いて久しいからな。焦げたドラゴンを見るのは久しぶりだ」
苛烈な過去の断片を懐かしむオルガノの口調は淡白なようでいて、むしろうっすら状況を楽しんでいる節がある。
他人から見たオルガノの第一印象は食えない男。カリスマ性のあるオルガノは、歴代最強の魔王カオスドラゴンを討伐したラスクールの国王と英雄視される一方で、勇者のなかでも過去に類をみない残忍な異端の者とされている。
世間には知らされていないセザン・フォリンの嘆願によって命を許された前王を除き、その一族の末端に至るまでオルガノは全て滅ぼした。己の家族を処刑した旧王族を王国から排除し、息がかかった手の者、女子供に至るまで一人残らず処罰を下した。
新たな勇者の血族として幼き頃から旧王族に命を狙われ、業を背負い。人の表と裏、そのどちらをも見続け磨かれた観察眼。
過酷な茨の道を突き進んだ先に開かれた世界で、オルガノは常人では体験しえない多くの経験則に基づき、人ないしは状況を見透かす。
独自に学んだ処世術ともいうべき技量は最上を極め。あまりに多くの哀苦を知り、思考の分析に慣れ飽きたオルガノにとって、感傷の情に堪えない重い記憶すら暇を潰すための道楽となる。
勇者でありながら恐怖による支配を可能とする。魔王を討伐し戦力枯渇の時代を終わらせた偉大な功績と、その特殊な出自によって築かれた残忍性。異端の王は人々から「闇の勇者」と呼ばれ、魔王討伐から二十年ほど経った今でも大陸中で恐れられている。
王座につくオルガノは、畏怖と畏敬の念、そして常に羨望の眼差しを集めてやまない。そんな王を前に、しかし新米兵士は退出を命じられて未だ部屋に留まっている。
不審に、オルガノはようやくバルコニーから視線を外し、新米兵士のいる向きへゴロリと寝返りを打つ。
「この城の者ならば、あれが以前は寝ぼけて夜中によく浮遊していたのを見慣れているが」
部屋の半ばにいるのは、見るからに甲冑を装備し慣れていない風情の兵士だった。
頭を覆う大ぶりのヘルムで顔は見えない。けれどベッドに寝転がりながらも古参の王が放つ剣呑な雰囲気と貫禄に、新米兵士はゴクリと喉を鳴らす。
一つ選択を間違えれば処罰されかねない。全身がビリビリとするような威圧感に、下手な応答は許されないと新米兵士は理解したようだ。
「はっ! 私は本日付けで守衛として配属されました地方出身の貴族でして。王子、ラーティ様の妻となった英雄ルーカス・フォリンが使役しているドラゴンの子供を息子として育てているという噂は聞き及んでおりますが、見るのは初めてです。とにかく陛下の御身がご無事で何よりです!」
世間の混乱を避けるため、その正体が前回魔王であることは伏せられている。黒い塊の侵入者、別名、ルーカスの息子。
ルーカスを召喚したはずが、何故か呼んでいない息子の方が一足先に空からやってきた。
その息子は、結界を抜けたときに焦げたらしい。
まだ子供のドラゴンは、最初は何が起きたのか理解していないようだった。激しい墜落でひび割れ凹んだバルコニーの床に一匹、ちんまりとおすわりしていた。というよりも尻餅をついていたという方が正しいか。
衝撃に半ば放心している様子で、結界の張られている空の方を口を開けてポケーと見上げていた。
上空の結界も上位魔獣の、それも子供といえど前回魔王を完全に防ぐことはできなかったらしい。本人がそれを自覚しているようには見えないが、相手は曲がりなりにもドラゴンだ。
滅多にダメージを受けない品種で、まして前回魔王の器となると、同種の魔獣のなかでも別格の存在。結界もあまり効果がないようだ。
たいした時間も経たぬうちに子ドラゴンは正気を取り戻し、こちらの存在をハッと認識すると、尻餅をついてる格好からおすわりし直した。
それからずっとあの調子だ。
ちんまりと焦げながら、バルコニーの真ん中でおすわりして、こちらをジーっと見ている。
「そういうことだ。問題ないならもう帰っていいぞ」
軽く説明を終え、オルガノが再度退出を命じるも、
「はあ、ですが一応規則ですので」
子ドラゴンの緊張感のなさが伝染して、新米兵士からすっかり緊張が抜けている。
「お引渡しを……」と言う新米兵士に、いらんいらんとオルガノは投げやりに手を振る。
何にしても、この期に及んで居直るとは。愚か者、もしくは恐れ知らずの単なる馬鹿か。
世間知らずと切り捨て、不機嫌に追い出すのもいい。けれど言葉遣いこそいかにも新人といった風情であるものの、地方出身の田舎貴族のわりに、ちょっとした動作の端々に滲む指先まで洗練された美しさ。
妙に品格のある違和感と、どこか純粋で憎めない人柄の良さに、オルガノは試したくなった。
「お前、あれを引っ立てる気か? 新米兵士にしては度胸があるな」
「へ? 度胸ですか?」
相手はドラゴンといえど子供だろう。それもまだまだ赤ちゃんに片足を突っ込んだ子ドラゴンだ。なのにからかうように返されて、新米兵士はたじろぐ。
不安に、新米兵士の視線がチラリとバルコニーに向かった。そこには引き続き焦げながらも、可愛い黒い塊が犬のようにおすわりして、こちらをジーっと見ている。──が、新米兵士は忘れていた。相手が魔獣最強品種ドラゴンだということを。
子ドラゴンとは掃き出し窓を挟んで多少の距離はある。だが新しい人間が現れたので一層警戒心が強くなったようだ。新米兵士と目が合うと、尻尾がピンとした。
さらには大きな目の眼力が益々アップして、ゴゴゴゴゴゴゴゴと目尻が鋭く吊り上がっていく。凄い気迫が、辺りを包み込み始めた。
新米兵士がゴクリと唾を呑み、辛うじて後退するのを耐えているのも虚しく。
魔獣最強品種の圧倒的な気迫に大地は震え、強風が周囲に吹き荒れ、子ドラゴンの小さなおててが片方、ゆっくりと上がっていく。
隠れていたおてての鋭い爪が顔を出し、子ドラゴンの怒りが頂点に達した。そして──圧倒的な気迫と共にドラゴンの打撃技「竜の爪」が繰り出されたッ!
「ウワァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ…………あぁ?」
悲鳴を上げ、体を防御に萎縮させていた新米兵士が「あれ? 何ともない?」とキョロキョロ辺りを見渡す。寝室が阿鼻叫喚の巷と化す妄想でもしていたのだろう。新米兵士の間抜けた反応に、うるさそうに片眉を顰めるオルガノは、面倒くさい奴だと飽き飽きした雰囲気をだだ漏らす。
「妄想は終わったか?」
されど新米兵士からの返答はなく、代わりに別の驚きが呟かれる。
「陛下あの、挨拶されているみたいなんですが」
そう、相手は魔獣最強品種ドラゴンだ。挨拶だっておてのもの。
片手を上げた子ドラゴンのおめめが、期待にキラキラ輝いている。
雰囲気も元のちんまい感じに戻った。
「私も先刻された。返してやったらどうだ」
子ドラゴンと新米兵士、両者のほのぼのしたやり取りを横に、オルガノはベッドで仰向けに寝転がる。
「はい。では……あ、喜んでる」
国王からのぶっきらぼうな提案に、新米兵士がおそるおそる手を振り返すと、子ドラゴンが尻尾を振った。とてもわかりやすい性格のようだ。
コミュニケーション覚えたての子ドラゴンは、「あ、初めて見た人間だ。挨拶するぞ」の気合いが主に顔面に表れていただけらしい。
こちらは礼儀正しい良い親に育てられているのがだだ漏れている。
そして引き続き、ジーっとオルガノを見ている。
「なんというかその、可愛いですね。ドラゴンに相手を魅了するスキルなんてありましたっけ?」
すっかり毒気を抜かれ未だ子ドラゴンへ手を振っている新米兵士を尻目に、オルガノは「ないな」とあっさり否定する。
少なくともオルガノが今まで対峙したドラゴンに、そんなスキルを持った個体がいた記憶はない。
しかしながら魅了スキルとは似て非なるもので、ドラゴンには魔獣を支配し従える竜眼がある。
支配と魅了。どちらも他者を服従させるなど類似する点は多くあるものの、竜眼の支配による従属と、サキュバスのような性的触発による一時的な隷属とは本質がまったく異なる。
全ての魔獣にとってドラゴンとは、絶対的な強者と魂に刻まれた尊ぶべき神聖な存在であり。両者の間には見えない糸のように曖昧でいて、その実、本能的に抗うことのできない強固な絆ともいうべき繋がりがある。その繋がりの強化、というのが竜眼による従属の本質だ。
眼前の子ドラゴンは、おめめがキラキラしているだけで、それを使っているようには見えない。そもそも竜眼が人間に効くかも不明だ。
「とにかくさっきからあの調子だ。尋問してもおそらく『きゅい』としか言わんぞ」
目線を天井に、どうでもよさげにオルガノはあくびを噛みしめる。
様子を見られ過ぎていて、もはや怒る気も失せた。ぞんざいに「それよりお前はまだ引っ立てる気でいるのか?」と問うと「いえ、それはもう……」と新米兵士も諦めを口にする。
名前は確かクーペだったか。いったい何を待っているのやら。
オルガノと目が合うたび、何かを期待して子ドラゴンのおめめがキラーンと輝く。
ドラゴンなのに妙に犬っぽい上に、ちんまい。
以前は身の丈数十メートルを超える歴代最強の魔王で、魔獣最強品種の荒ぶるドラゴンが、騎士の道を歩む者「闘騎士」と呼ばれた希代の英雄、ルーカス・フォリンに育てられるとこうも大人しくなるのか。
「陛下、もしや竜の言葉翻訳できたりしますか?」
「できたらこんなところから眺めていると思うか? 私は魔獣使いではないからな」
「そうですよね……あ、もしかしたらあのテーブルの上にあるお菓子がほしいのではないでしょうか。子供ですし」
ピタッとオルガノの動きが止まる。
ゆっくりとテーブルに置かれている焼き菓子に視線を移す。
「菓子を食いたいがために侵入しただと?」
疑わしき闖入者、おめめキラキラりんドラゴン別名ルーカスの息子と菓子を交互に見比べ、試しに菓子を持って左右に動かしてみろと新米兵士に指示する。
新米兵士は神妙に頷くとテーブルに置かれた菓子を一つ手に取り、子ドラゴンから見えやすいよう掃き出し窓の前まで歩いていく。
子ドラゴンとガラス一枚隔てたそこで、新米兵士は菓子を左右に振り始めた。
「そういえば先程陛下のおっしゃっていた魔獣使いですが、本日はガロン様が魔獣小屋にいらしているそうですね」
のどやかに話しながら、新米兵士の菓子を持つ手の動きに合わせて、子ドラゴンの大きなおめめが左右に動いている。
「くれる? くれるの?」と嬉し過ぎて興奮気味に尻尾をパタパタしている。それと心なしかヨダレが……
菓子を左右に振り続けている新米兵士から出た妙案に、子ドラゴンのヨダレの量が増しているのをチラリと観察しながら、オルガノは嘆息する。
「ではそれを呼べ。お前の主人の息子を引き取るよう国王から要請があったと伝えよ」
「は! ただいま呼んでまいります!」
敬礼すると新米兵士は菓子を置き、「あっ」と反応した子ドラゴンを後に急ぎ部屋を出ていった。
*
神聖な王の寝室にはベッドからソファーへ移動したオルガノ以外に、多くの人が集まっていた。
魔獣小屋にガロンを呼びにいって戻ってきた新米兵士に加え、扉の守衛、結界の異変を探知した城の魔法使い。替えのお茶菓子と飲み物を持ってきたメイドも壁際に控えている。
ソファーに座るオルガノは鋭い面構えで手前のテーブルに置かれた丸い形の焼き菓子に手を伸ばし、バリバリと豪快に噛み砕きながら、前方のバルコニーでヨダレを垂らしている闖入者を眺める。
お菓子を欲しそうに見つめている子ドラゴンと、お菓子を遠慮なく食す王。
それをハラハラとした気持ちで周りが見守っていると──魔獣の世話をするときは農夫の格好をしているガロンが、簡易的な正装へ着替えをすませ、部屋に入ってきた。
子ドラゴンを引き取る相手がやってきて、お菓子をあげてやりたい焦燥に駆られていた者たちの醸し出す、張り詰めた部屋の空気が和らぐ。
良かった。これであの無限に滴り落ちるヨダレもなんとかなりそうだ。
どうか引き取ったあとであの子ドラゴン、ルーカス・フォリンの息子クーペにお菓子をあげてほしい。部屋に集まった際、ガロンより先に部屋に戻っていた新米兵士から事情を聞いていた者たちの間に、安堵の色が浮かぶ。
そして──
ガロンの姿を見たクーペが、徐に動いた。
よく見知った相手の姿を見て安心したのだろう。クーペは一歩一歩近付いて──来るのではなく。そろそろと横に足を伸ばして一歩一歩、蟹のように横移動しながら視界から消えていく。
終いには、バルコニーの端に備え付けられたプランターの陰に入った。
何故隠れる。と全員の頭に突っ込みが入る。
「お前、魔獣使いなのに嫌われているのか?」
焼き菓子の咀嚼を止め、呆れ口調のオルガノに、ガロンは毅然と返す。
「違います」
「ではなんだ」
「普段から顔を合わせれば小言を言われるので、僕とはお近づきになりたくないみたいなんです」
遠い目をするガロン。
しまった。面識のある者を呼び寄せたつもりが、教育係を呼び寄せてしまったようだ。
子ドラゴンはまた小言が始まると思ったのだろう。安心するどころか、まるで今の今まで遊びに熱中していた小動物が突然ハッと我に返ったような様相で、物理的にも精神的にも距離が離れていく。
子ドラゴン、クーペはもはやプランターの花に埋もれていた。花に擬態したクーペの周りには、のどやかに蝶々が飛び交い始める。
間もなくして、クーペは無の境地に達したようだ。無の表情で目を瞑り、微動だにしない。もう完全に己をプランターの花だと思っている。
花に擬態した子ドラゴンと、魔獣使いなのに魔獣に避けられている男。
それまで安堵を浮かべていた者たちの顔が微笑みの表情で固まっている。辺りを、とんでもなく気まずい空気が流れている。
困惑している彼らを横目に、オルガノは魔獣狩りでもしている方がまだましなのではないかと、内心溜息を吐く。
滅多にない人選ミスだ。子ドラゴンと魔獣使いの緊張感のない平和ボケした世界の産物のような膠着状態に飽きたところで、ふと子ドラゴンの首の辺りにある花の間から、キラリと光るものが見えた。
あれは……
「陛下? どうかしましたか?」
ガロンの疑問を背に、反射的にフィーリングを合わせて硬直している者たちを置いて、オルガノはソファーから立ち上がる。
掃き出し窓を開け、子ドラゴンの傍までスタスタと歩いていく。
突然の来客の気配に、子ドラゴンは目を開け「きゅい?」と首を傾げる。
加工されているが、オルガノがルーカスの持ち物を見間違えるはずがない。子ドラゴンが首から下げたペンダントは、やはりルーカスの父親の形見である騎士の紋章だった。
花にまみれた懐かしい騎士の紋章を目にしたオルガノの脳裏に、昔の光景が蘇る。
言葉もなく、オルガノが静かに見下ろしているのを前にして、対する子ドラゴンの目がみるみる見開いていく。
怖い人間が来たとでも思っているのだろうか。
面識はあるはずだ。けれど王の間や他の場所でもルーカスとの会話が主要であり、子ドラゴンはいつも近くを浮遊してふよふよ漂っていたし、オルガノをあまり覚えていないのかもしれない。
ガロンに続いて今度はどこへ身を隠すのかと見下ろしていたら……しかし子ドラゴンはオルガノがルーカスの知り合いだということを覚えていたらしい。
「きゅい?」
何やら短い手足の身振り手振りで花を散らしながら、首を傾げて「きゅいきゅい」喋りだした。──が、
「悪いがお前が何を言いたいのか、私には理解できない」
途端、しゅんっと今度は表情が陰る。耳が垂れた。おめめもどこか「きゅいっ」と悲しげだ。
そして、ずぽ! とプランターの中に頭を引っ込めた。オルガノから見えるのは、花の間に埋もれている後頭部と、プランターからはみ出た長い尻尾だけだ。
身を隠す場所はそこなのか。
とりあえずルーカスに返品するときはプランターごと渡せばすむなどと、おかしな発想が出てくる時点で、こちらも負けず劣らず平和ボケしたものだ。
そんなことをすれば、多少なりともルーカスの不興を買うリスクがある。けれども、普段冷静なあの男がどんな顔をしてプランターを受け取るか、想像するだけで腹の底から笑いが込み上げる。
そうして一頻りオルガノが思考を巡らせている間も、都合の悪いことに子ドラゴンがプランターから出てくる気配はない。
己の想像性を自嘲気味に判断し、切り捨てたはずが……冗談ではなく、本当に、プランターごと引き渡す案が有力になってきたようだ。
「ドラゴンといえど、まだまだ子供だな」
オルガノはやれやれと軽く頭をかく。
手足の短さといい、大変興味深い形態のルーカスの息子があまりにも悲しそうなので、困ったものだとオルガノはゆっくりその場に片膝をつく。
ルーカスの息子が人見知りとは聞いていない。むしろ大胆で豪快な性格と認識している。それが今回、何故大人しくおすわりしてこちらを見ていたのか。
今でこそルーカスの使役獣という立場を確立し、自由にドラゴンの姿で動き回っているけれど。ルーカスに拾われた当初は、周りにドラゴンと知られないための配慮で、人前では犬の姿でいるよう教えられていた。仕草が犬っぽいのはその影響だろう。
そういえばグランドキャッスルに赴いたルーカスが若返って帰還した一年程前に、掘っ建て小屋の見張りに当たっていた兵士の一人から報告を受けたことがある。
子ドラゴンはルーカスから、人の家に勝手に入ってはいけないと教育を受けている。
他にも、子ドラゴンが夕食時の匂い漂う民家の前におすわりして、犬の姿でおめめを輝かせ民家を眺めていたという報告を、オルガノは幾度も受けていた。
こいつ──何を待っているのかと思っていたら、私が寝室から出てくるのを待っていたのか?
子ドラゴンにとって、バルコニーは家の一部に含まれないらしい。
こちらが素気なくベッドやソファーで寛いでいたのを、バルコニーで礼儀正しく焦げながら、おすわりして待っていた姿が脳裏にちらついた。
解明に目を眇める。よくよく見ると花にまみれた子ドラゴンが大事そうに腹に抱えている、真白な物が目に入った。
「それは何を持っている? 手紙か?」
結界に衝突して焦げながらも、咄嗟にそれだけは守ったらしい。手紙には少しの汚れもない。
「ルーカスに渡すために持って来たのか?」
途端、ずぽ! とプランターから顔を出した、子ドラゴンの表情がパアッと花が咲いたように明るくなった。短い両手で手紙を持ちながら、コクコク頷いている。
先刻まで子ドラゴンの頭上や尻尾の先からチロチロと出ていた白煙はすっかり収まり、あちこち焦げている。けれども当人は母親への届け物に注力していてお花満開だ。
プランターと合わさって、子ドラゴンのいる一帯だけ、空気が浄化されたように光り輝いているこの神聖感。
ようやく合点がいく。
菓子目的の侵入ではなく、さしずめ召喚された母親を追うのに夢中で(追い越して)結界に気付かず衝突。結界の真下にあるオルガノの寝室のバルコニーに落ちてきた、といったところだろう。
つまりルーカスの知り合いであるオルガノに、これから来るはずの母親の元に案内して欲しい。ということのようだ。
それにしても──わかってもらえたのがよっぽど嬉しかったのと、届け物をルーカスに渡せると思って子ドラゴンは安心したらしい。
まるで穴掘りが得意な土属性の魔獣、モグウララのようにずぽずぽと。プランターの中を出たり入ったりしている。新しい遊びを覚えた子供の反応だ。
モグウララの出現場所は、必ず花が近くに咲いている草原と決まっている。
花好きの魔獣で、大好物な食べ物も花の草食系。攻撃性も低く、よく地中から顔を出して花見をしている。たまに出る場所を間違えて民家に侵入するくらいの、あまりにも害のない魔獣なので、退治されることはほぼない。
草原で一匹、地面から顔を出し、ボーと花見をしていたモグウララの横を通りかかった冒険者が、試しに花冠を作ってあげたらえらく喜んで懐かれたという話もある。
なかには一緒に花見をしたという強者がいたりなど、冒険者たちの間では癒やし系として定評のある魔獣だ。
「いいか、ルーカスの息子。ルーカスのところへは連れて行ってやる。だがその前にそのなりをなんとかしないと、あの折り目正しい男が悲鳴を上げそうだ」
焦げドラゴンが「きゅい?」と首を傾げたので、折り目正しい男が誰かを「お前の母親だ」と教えてやる。すると──
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
プランターから子ドラゴンが勢いよく、何故か体を横倒しに寝転がるようにして、ゴロゴロと転がり出てきた。
ここにきて新技でも覚えたか。
黒い鱗に覆われた体でゴロゴロと。名付けるなら新技、転がり回る石とでも呼ぶべきか。
以前は勇者としてあらゆる魔獣と対峙してきたオルガノだが、こんな斬新な脱出方法を見たのは初めてだった。
思わず見入ってしまったオルガノを余所に、子ドラゴンはおすわりして、焦げた部位を急ぎペロペロと舐め始めた。ルーカスに心配をさせてはいけないと思ったらしい。
*
バルコニーにいたオルガノは、ルーカスたちが城下町に入ったと報告に来た配下の声に、子ドラゴンとのやり取りで一時間ほどが経過していたことを知った。
ルーカスたちが王城へ到着する。その前に、あのおめめキラキラりんドラゴンの焦げをなんとかしなければならない。
オルガノと子ドラゴンのやり取りを、ハラハラと見守っていた者たちを寝室から出し。ルーカスたちが早く到着したときの時間稼ぎでガロンを先に王の間へ送る。
ガロンが掻い摘んで事情を説明している間に、子ドラゴンの治療を済ませる算段だ。
「陛下は子供の扱いに慣れているんですね」
治療にあたっている城の魔法使い以外で唯一寝室に残った新米兵士が、椅子に座るでもなく佇むオルガノに感心したように言う。
守衛は閉じた扉のすぐ向こうにいる。オルガノの警護ではなく、壊れたバルコニーの残骸の撤去で残った新米兵士が、あらかたの掃除を終えて寝室に戻ってきたのだ。
「仮にも父親だからな」
半血兄弟といえど容赦はしない。ラスクールの王族における苛烈な血の歴史を知らないわけではないだろうに。
新米兵士に子供の話をされて、一瞬わざとか? と勘ぐる己の業に、オルガノは苦笑する。
次いで伏し目がちに「もう下がれ、修復は専門の者に任せる」そう突き放すような物言いをするも、気に障ったわけではない。単に潮時だっただけだ。
まして守衛のなかでも末端の新米兵士など、普段なら気にも留めないところだが……空気を読んだ新米兵士が頭を下げ、部屋を静かに出ていくのをオルガノは何とはなしに呼び止めた。
「新米兵士お前、名前はなんという」
立ち止まり、新米兵士はオルガノに向き直る。様子を窺う動作があって、それから──クスリと笑った。
「お前……?」
怪訝に眉を顰めるオルガノの抱いた不審。
それを正面に受けながらも、新米兵士に王の気分を害したと恐れる様子は微塵もない。
不敵な笑みを湛える気配がして、新米兵士が頭に被った不格好に見える大ぶりのヘルムを脱ぐ。
「──名は光。しかし我らの名は、時代と共にうつろいゆくもの。誰も我らの真の名を知ることはできない」
「っ!」
ヘルムを取った青年の顔が露になる。
青年の目は、人のものではなかった。竜と同じ、縦長の瞳孔をした黄金の爬虫類の目をしていた。
「その頭に浮かぶ光輪……神の意志に逆らい、神より永命の呪いを受けた、呪いの証。天空の守護者、お前は天界人か」
青年はオルガノに向かい、目を逸らさない。
「神が創りたもうたこの世界には壊してはならないものがある。しかし神の意志に逆らい、神より永命の呪いを受けた我らは、それを打ち砕くために存在する」
「永命の呪いを受けた滅びてはいけない種……永命絶対種か」
「流石は残忍な異端の王と人々から恐れられる『闇の勇者』。博識でいらっしゃる」
共に寝室にいる魔法使いが「陛下!」と鋭い声を上げるのを、オルガノは片手で制す。
「おや? 守衛は呼ばないのですか? 新世代の光の精霊に選ばれた神の気に入りである貴方を、私は敵対者とみなしているかもしれないのに」
「私に何かするならとっくにしているはずだ。殺意を持った者なら、ルーカスの息子が反応する。呑気に挨拶されている時点で、お前に私を害する気がないのは明らかだ。別の利害があってやってきたのだろう? でなければ神によって生存を意図的に隠され、歴史の表舞台に立つことを禁じられてきた永命絶対種が、わざわざ姿を晒す危険を冒して天界を降りてくる意味がないからな。だが今は──母親が必要だ」
「くっ、そうですね……こればかりは致し方ありません」
突然出てきた「母親」という脈絡のない単語にも、青年は臆することなく頷く。
オルガノは話を中断し、息をつくようにゆっくりと、賛同した青年のやや斜め上に視線を向けた。
そこには光輪に食いついて、青年の頭のすぐ横にプラーンとぶら下がっている黒い塊があった。
青年の頭にある光輪を新しいオヤツと思ったらしい。光り輝くドーナツとでも思っているのかもしれない。
黒い塊、本来なら現在治療中のはずの子ドラゴンは、確かにオルガノが城の魔法使いに命じて治療を受けていた。
けれど実際はほとんど治療の必要がないくらい焦げた部位は回復しており。強靭なドラゴンに本当に必要だったのは、表面についていた油汚れならぬ焦げ付きを落とすことだった。
正確には治療が終わった子ドラゴンは、オルガノと青年が話している前で、魔法使いにお風呂に入れられていたのだ。
白い石鹸は泡立ちがいいらしい。寝室に運び込まれた大ぶりな桶の中で、頭に泡を乗っけた子ドラゴンが大きなおめめをキョトンとさせ泡々に洗われているのを、オルガノは立ち見しながら青年と会話していたはずが……青年に気を取られた隙に、子ドラゴンは桶から出てしまったようだ。
先ほど魔法使いが叫んだのは、子ドラゴンの脱走を知らせるためでもあった。
洗い途中で体のあちこちに泡がついているけれど、黒い鱗は艶々していてとても健康的だ。これならルーカスも安心するだろう。青年の光輪にプラプラぶら下がっているのを除けば。
一方、自身の真横でプラプラと振り子のようにぶら下がっている子ドラゴンを、青年は外すでもなく、無言で見ているし。そろそろ切り上げるか。オルガノがそう思った矢先──光輪を口に入れてあむあむしている子ドラゴンのお腹がきゅーるると鳴った。
「あの、陛下。とりあえずこの子にお菓子をあげてやってくれませんか?」
「…………」
どうりで洗われている最中も泡まみれでこちらを見ていると思ったら。
青年の遠慮がちな言葉に、先刻まで散々菓子で煽っていたのを、オルガノは思い出した。
しかしなかには、それが効かない者も存在する。
最初に結界を破ったのは、闇の精霊へと転化したリュシエール・ラ・ラグーナ・ド・アリステス。そして今日は、二度目の日となった。
まだ人の活気が乏しく、麗らかな空気を肌で感じる朝。
事の始まりはバリンッと、ガラスを突き破ったような音だった。
召喚したルーカスの到着を待つ間、寝室のベッドで仮眠を取っていたオルガノの耳に響く異音。
何事だと上体を起こす。
音のした方角へ目を向けると、空からヒュ──────と黒い豆粒が落ちてきて、バルコニーに墜落した。
ドゴォ!
モクモクと砂塵が巻き上がり、上空からピシッと亀裂の広がるような高音がした。
見上げると壊れた結界の欠片が砕けたガラスのように、キラキラとバルコニーに降り注いでいく。
正面から派手に衝突したらしい。遥か上空の結界には、手足の短い、ちんまい何か小動物の……大の字の形をした大穴が空いていた。
*
オルガノは先刻と変わらずベッドで片肘を付いて横になり、視線はバルコニーへ、部屋の出入り口に当たる扉には背を向けていた。
異変に、ものの数分も経たぬうちに寝室へ近付いてくる複数の足音。
いつも寝室の扉の前に待機している守衛だろう。少し距離があるのは、仮眠するのに気が散ると寝室から遠ざけていたからだ。
「失礼いたします陛下! ただいまラスクールの上空を飛行していた何かが結界に衝突したと連絡が……陛下?」
けれど、先陣を切ってやってきたのはいつもの守衛ではなかった。聞き慣れない声に眉を顰め、そういえば新しい守衛が入ったと聞いていたのを思い出す。
「ああ、早かったな。ご苦労だった。もう帰っていいぞ」
「は? 帰っていいとはいったい……」
ぞんざいに扱われ、背を向けられたまま片手をひらひら振られた新米兵士の当惑する声。
声の調子からして、おそらくポカンと突っ立っているのだろう。続いて、いつもの守衛が二人、開いた扉から顔を出した気配に「他の者にも問題はないと伝えておけ」とそちらも背を向けながらオルガノはそつなく追い払う。
後からきた守衛二人は、オルガノの粋狂に慣れている。扉の外へすごすごと顔を引っ込めた。
だが新米兵士は少し部屋の踏み込んだ場所にいるらしい。
「あの、もしや先程からご覧になっているあれが結界に衝突したという何かですか?」
新米兵士にはバルコニーにいるものが見えていた。
ベッドで横向きに片肘をついてゆったりとしながら、先刻からバルコニーにある何かを観察しているオルガノの視線の先。手入れの行き届いたバルコニーには、激しい墜落で抉れたように凹んだ床に一匹、ポツンと黒い鱗に覆われた生き物がいた。
プスプスと白煙が体のあちこちから昇っている。焦げた可愛い黒い塊がおすわりして、こちらをジーっと見ている。
「戦闘から退いて久しいからな。焦げたドラゴンを見るのは久しぶりだ」
苛烈な過去の断片を懐かしむオルガノの口調は淡白なようでいて、むしろうっすら状況を楽しんでいる節がある。
他人から見たオルガノの第一印象は食えない男。カリスマ性のあるオルガノは、歴代最強の魔王カオスドラゴンを討伐したラスクールの国王と英雄視される一方で、勇者のなかでも過去に類をみない残忍な異端の者とされている。
世間には知らされていないセザン・フォリンの嘆願によって命を許された前王を除き、その一族の末端に至るまでオルガノは全て滅ぼした。己の家族を処刑した旧王族を王国から排除し、息がかかった手の者、女子供に至るまで一人残らず処罰を下した。
新たな勇者の血族として幼き頃から旧王族に命を狙われ、業を背負い。人の表と裏、そのどちらをも見続け磨かれた観察眼。
過酷な茨の道を突き進んだ先に開かれた世界で、オルガノは常人では体験しえない多くの経験則に基づき、人ないしは状況を見透かす。
独自に学んだ処世術ともいうべき技量は最上を極め。あまりに多くの哀苦を知り、思考の分析に慣れ飽きたオルガノにとって、感傷の情に堪えない重い記憶すら暇を潰すための道楽となる。
勇者でありながら恐怖による支配を可能とする。魔王を討伐し戦力枯渇の時代を終わらせた偉大な功績と、その特殊な出自によって築かれた残忍性。異端の王は人々から「闇の勇者」と呼ばれ、魔王討伐から二十年ほど経った今でも大陸中で恐れられている。
王座につくオルガノは、畏怖と畏敬の念、そして常に羨望の眼差しを集めてやまない。そんな王を前に、しかし新米兵士は退出を命じられて未だ部屋に留まっている。
不審に、オルガノはようやくバルコニーから視線を外し、新米兵士のいる向きへゴロリと寝返りを打つ。
「この城の者ならば、あれが以前は寝ぼけて夜中によく浮遊していたのを見慣れているが」
部屋の半ばにいるのは、見るからに甲冑を装備し慣れていない風情の兵士だった。
頭を覆う大ぶりのヘルムで顔は見えない。けれどベッドに寝転がりながらも古参の王が放つ剣呑な雰囲気と貫禄に、新米兵士はゴクリと喉を鳴らす。
一つ選択を間違えれば処罰されかねない。全身がビリビリとするような威圧感に、下手な応答は許されないと新米兵士は理解したようだ。
「はっ! 私は本日付けで守衛として配属されました地方出身の貴族でして。王子、ラーティ様の妻となった英雄ルーカス・フォリンが使役しているドラゴンの子供を息子として育てているという噂は聞き及んでおりますが、見るのは初めてです。とにかく陛下の御身がご無事で何よりです!」
世間の混乱を避けるため、その正体が前回魔王であることは伏せられている。黒い塊の侵入者、別名、ルーカスの息子。
ルーカスを召喚したはずが、何故か呼んでいない息子の方が一足先に空からやってきた。
その息子は、結界を抜けたときに焦げたらしい。
まだ子供のドラゴンは、最初は何が起きたのか理解していないようだった。激しい墜落でひび割れ凹んだバルコニーの床に一匹、ちんまりとおすわりしていた。というよりも尻餅をついていたという方が正しいか。
衝撃に半ば放心している様子で、結界の張られている空の方を口を開けてポケーと見上げていた。
上空の結界も上位魔獣の、それも子供といえど前回魔王を完全に防ぐことはできなかったらしい。本人がそれを自覚しているようには見えないが、相手は曲がりなりにもドラゴンだ。
滅多にダメージを受けない品種で、まして前回魔王の器となると、同種の魔獣のなかでも別格の存在。結界もあまり効果がないようだ。
たいした時間も経たぬうちに子ドラゴンは正気を取り戻し、こちらの存在をハッと認識すると、尻餅をついてる格好からおすわりし直した。
それからずっとあの調子だ。
ちんまりと焦げながら、バルコニーの真ん中でおすわりして、こちらをジーっと見ている。
「そういうことだ。問題ないならもう帰っていいぞ」
軽く説明を終え、オルガノが再度退出を命じるも、
「はあ、ですが一応規則ですので」
子ドラゴンの緊張感のなさが伝染して、新米兵士からすっかり緊張が抜けている。
「お引渡しを……」と言う新米兵士に、いらんいらんとオルガノは投げやりに手を振る。
何にしても、この期に及んで居直るとは。愚か者、もしくは恐れ知らずの単なる馬鹿か。
世間知らずと切り捨て、不機嫌に追い出すのもいい。けれど言葉遣いこそいかにも新人といった風情であるものの、地方出身の田舎貴族のわりに、ちょっとした動作の端々に滲む指先まで洗練された美しさ。
妙に品格のある違和感と、どこか純粋で憎めない人柄の良さに、オルガノは試したくなった。
「お前、あれを引っ立てる気か? 新米兵士にしては度胸があるな」
「へ? 度胸ですか?」
相手はドラゴンといえど子供だろう。それもまだまだ赤ちゃんに片足を突っ込んだ子ドラゴンだ。なのにからかうように返されて、新米兵士はたじろぐ。
不安に、新米兵士の視線がチラリとバルコニーに向かった。そこには引き続き焦げながらも、可愛い黒い塊が犬のようにおすわりして、こちらをジーっと見ている。──が、新米兵士は忘れていた。相手が魔獣最強品種ドラゴンだということを。
子ドラゴンとは掃き出し窓を挟んで多少の距離はある。だが新しい人間が現れたので一層警戒心が強くなったようだ。新米兵士と目が合うと、尻尾がピンとした。
さらには大きな目の眼力が益々アップして、ゴゴゴゴゴゴゴゴと目尻が鋭く吊り上がっていく。凄い気迫が、辺りを包み込み始めた。
新米兵士がゴクリと唾を呑み、辛うじて後退するのを耐えているのも虚しく。
魔獣最強品種の圧倒的な気迫に大地は震え、強風が周囲に吹き荒れ、子ドラゴンの小さなおててが片方、ゆっくりと上がっていく。
隠れていたおてての鋭い爪が顔を出し、子ドラゴンの怒りが頂点に達した。そして──圧倒的な気迫と共にドラゴンの打撃技「竜の爪」が繰り出されたッ!
「ウワァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ…………あぁ?」
悲鳴を上げ、体を防御に萎縮させていた新米兵士が「あれ? 何ともない?」とキョロキョロ辺りを見渡す。寝室が阿鼻叫喚の巷と化す妄想でもしていたのだろう。新米兵士の間抜けた反応に、うるさそうに片眉を顰めるオルガノは、面倒くさい奴だと飽き飽きした雰囲気をだだ漏らす。
「妄想は終わったか?」
されど新米兵士からの返答はなく、代わりに別の驚きが呟かれる。
「陛下あの、挨拶されているみたいなんですが」
そう、相手は魔獣最強品種ドラゴンだ。挨拶だっておてのもの。
片手を上げた子ドラゴンのおめめが、期待にキラキラ輝いている。
雰囲気も元のちんまい感じに戻った。
「私も先刻された。返してやったらどうだ」
子ドラゴンと新米兵士、両者のほのぼのしたやり取りを横に、オルガノはベッドで仰向けに寝転がる。
「はい。では……あ、喜んでる」
国王からのぶっきらぼうな提案に、新米兵士がおそるおそる手を振り返すと、子ドラゴンが尻尾を振った。とてもわかりやすい性格のようだ。
コミュニケーション覚えたての子ドラゴンは、「あ、初めて見た人間だ。挨拶するぞ」の気合いが主に顔面に表れていただけらしい。
こちらは礼儀正しい良い親に育てられているのがだだ漏れている。
そして引き続き、ジーっとオルガノを見ている。
「なんというかその、可愛いですね。ドラゴンに相手を魅了するスキルなんてありましたっけ?」
すっかり毒気を抜かれ未だ子ドラゴンへ手を振っている新米兵士を尻目に、オルガノは「ないな」とあっさり否定する。
少なくともオルガノが今まで対峙したドラゴンに、そんなスキルを持った個体がいた記憶はない。
しかしながら魅了スキルとは似て非なるもので、ドラゴンには魔獣を支配し従える竜眼がある。
支配と魅了。どちらも他者を服従させるなど類似する点は多くあるものの、竜眼の支配による従属と、サキュバスのような性的触発による一時的な隷属とは本質がまったく異なる。
全ての魔獣にとってドラゴンとは、絶対的な強者と魂に刻まれた尊ぶべき神聖な存在であり。両者の間には見えない糸のように曖昧でいて、その実、本能的に抗うことのできない強固な絆ともいうべき繋がりがある。その繋がりの強化、というのが竜眼による従属の本質だ。
眼前の子ドラゴンは、おめめがキラキラしているだけで、それを使っているようには見えない。そもそも竜眼が人間に効くかも不明だ。
「とにかくさっきからあの調子だ。尋問してもおそらく『きゅい』としか言わんぞ」
目線を天井に、どうでもよさげにオルガノはあくびを噛みしめる。
様子を見られ過ぎていて、もはや怒る気も失せた。ぞんざいに「それよりお前はまだ引っ立てる気でいるのか?」と問うと「いえ、それはもう……」と新米兵士も諦めを口にする。
名前は確かクーペだったか。いったい何を待っているのやら。
オルガノと目が合うたび、何かを期待して子ドラゴンのおめめがキラーンと輝く。
ドラゴンなのに妙に犬っぽい上に、ちんまい。
以前は身の丈数十メートルを超える歴代最強の魔王で、魔獣最強品種の荒ぶるドラゴンが、騎士の道を歩む者「闘騎士」と呼ばれた希代の英雄、ルーカス・フォリンに育てられるとこうも大人しくなるのか。
「陛下、もしや竜の言葉翻訳できたりしますか?」
「できたらこんなところから眺めていると思うか? 私は魔獣使いではないからな」
「そうですよね……あ、もしかしたらあのテーブルの上にあるお菓子がほしいのではないでしょうか。子供ですし」
ピタッとオルガノの動きが止まる。
ゆっくりとテーブルに置かれている焼き菓子に視線を移す。
「菓子を食いたいがために侵入しただと?」
疑わしき闖入者、おめめキラキラりんドラゴン別名ルーカスの息子と菓子を交互に見比べ、試しに菓子を持って左右に動かしてみろと新米兵士に指示する。
新米兵士は神妙に頷くとテーブルに置かれた菓子を一つ手に取り、子ドラゴンから見えやすいよう掃き出し窓の前まで歩いていく。
子ドラゴンとガラス一枚隔てたそこで、新米兵士は菓子を左右に振り始めた。
「そういえば先程陛下のおっしゃっていた魔獣使いですが、本日はガロン様が魔獣小屋にいらしているそうですね」
のどやかに話しながら、新米兵士の菓子を持つ手の動きに合わせて、子ドラゴンの大きなおめめが左右に動いている。
「くれる? くれるの?」と嬉し過ぎて興奮気味に尻尾をパタパタしている。それと心なしかヨダレが……
菓子を左右に振り続けている新米兵士から出た妙案に、子ドラゴンのヨダレの量が増しているのをチラリと観察しながら、オルガノは嘆息する。
「ではそれを呼べ。お前の主人の息子を引き取るよう国王から要請があったと伝えよ」
「は! ただいま呼んでまいります!」
敬礼すると新米兵士は菓子を置き、「あっ」と反応した子ドラゴンを後に急ぎ部屋を出ていった。
*
神聖な王の寝室にはベッドからソファーへ移動したオルガノ以外に、多くの人が集まっていた。
魔獣小屋にガロンを呼びにいって戻ってきた新米兵士に加え、扉の守衛、結界の異変を探知した城の魔法使い。替えのお茶菓子と飲み物を持ってきたメイドも壁際に控えている。
ソファーに座るオルガノは鋭い面構えで手前のテーブルに置かれた丸い形の焼き菓子に手を伸ばし、バリバリと豪快に噛み砕きながら、前方のバルコニーでヨダレを垂らしている闖入者を眺める。
お菓子を欲しそうに見つめている子ドラゴンと、お菓子を遠慮なく食す王。
それをハラハラとした気持ちで周りが見守っていると──魔獣の世話をするときは農夫の格好をしているガロンが、簡易的な正装へ着替えをすませ、部屋に入ってきた。
子ドラゴンを引き取る相手がやってきて、お菓子をあげてやりたい焦燥に駆られていた者たちの醸し出す、張り詰めた部屋の空気が和らぐ。
良かった。これであの無限に滴り落ちるヨダレもなんとかなりそうだ。
どうか引き取ったあとであの子ドラゴン、ルーカス・フォリンの息子クーペにお菓子をあげてほしい。部屋に集まった際、ガロンより先に部屋に戻っていた新米兵士から事情を聞いていた者たちの間に、安堵の色が浮かぶ。
そして──
ガロンの姿を見たクーペが、徐に動いた。
よく見知った相手の姿を見て安心したのだろう。クーペは一歩一歩近付いて──来るのではなく。そろそろと横に足を伸ばして一歩一歩、蟹のように横移動しながら視界から消えていく。
終いには、バルコニーの端に備え付けられたプランターの陰に入った。
何故隠れる。と全員の頭に突っ込みが入る。
「お前、魔獣使いなのに嫌われているのか?」
焼き菓子の咀嚼を止め、呆れ口調のオルガノに、ガロンは毅然と返す。
「違います」
「ではなんだ」
「普段から顔を合わせれば小言を言われるので、僕とはお近づきになりたくないみたいなんです」
遠い目をするガロン。
しまった。面識のある者を呼び寄せたつもりが、教育係を呼び寄せてしまったようだ。
子ドラゴンはまた小言が始まると思ったのだろう。安心するどころか、まるで今の今まで遊びに熱中していた小動物が突然ハッと我に返ったような様相で、物理的にも精神的にも距離が離れていく。
子ドラゴン、クーペはもはやプランターの花に埋もれていた。花に擬態したクーペの周りには、のどやかに蝶々が飛び交い始める。
間もなくして、クーペは無の境地に達したようだ。無の表情で目を瞑り、微動だにしない。もう完全に己をプランターの花だと思っている。
花に擬態した子ドラゴンと、魔獣使いなのに魔獣に避けられている男。
それまで安堵を浮かべていた者たちの顔が微笑みの表情で固まっている。辺りを、とんでもなく気まずい空気が流れている。
困惑している彼らを横目に、オルガノは魔獣狩りでもしている方がまだましなのではないかと、内心溜息を吐く。
滅多にない人選ミスだ。子ドラゴンと魔獣使いの緊張感のない平和ボケした世界の産物のような膠着状態に飽きたところで、ふと子ドラゴンの首の辺りにある花の間から、キラリと光るものが見えた。
あれは……
「陛下? どうかしましたか?」
ガロンの疑問を背に、反射的にフィーリングを合わせて硬直している者たちを置いて、オルガノはソファーから立ち上がる。
掃き出し窓を開け、子ドラゴンの傍までスタスタと歩いていく。
突然の来客の気配に、子ドラゴンは目を開け「きゅい?」と首を傾げる。
加工されているが、オルガノがルーカスの持ち物を見間違えるはずがない。子ドラゴンが首から下げたペンダントは、やはりルーカスの父親の形見である騎士の紋章だった。
花にまみれた懐かしい騎士の紋章を目にしたオルガノの脳裏に、昔の光景が蘇る。
言葉もなく、オルガノが静かに見下ろしているのを前にして、対する子ドラゴンの目がみるみる見開いていく。
怖い人間が来たとでも思っているのだろうか。
面識はあるはずだ。けれど王の間や他の場所でもルーカスとの会話が主要であり、子ドラゴンはいつも近くを浮遊してふよふよ漂っていたし、オルガノをあまり覚えていないのかもしれない。
ガロンに続いて今度はどこへ身を隠すのかと見下ろしていたら……しかし子ドラゴンはオルガノがルーカスの知り合いだということを覚えていたらしい。
「きゅい?」
何やら短い手足の身振り手振りで花を散らしながら、首を傾げて「きゅいきゅい」喋りだした。──が、
「悪いがお前が何を言いたいのか、私には理解できない」
途端、しゅんっと今度は表情が陰る。耳が垂れた。おめめもどこか「きゅいっ」と悲しげだ。
そして、ずぽ! とプランターの中に頭を引っ込めた。オルガノから見えるのは、花の間に埋もれている後頭部と、プランターからはみ出た長い尻尾だけだ。
身を隠す場所はそこなのか。
とりあえずルーカスに返品するときはプランターごと渡せばすむなどと、おかしな発想が出てくる時点で、こちらも負けず劣らず平和ボケしたものだ。
そんなことをすれば、多少なりともルーカスの不興を買うリスクがある。けれども、普段冷静なあの男がどんな顔をしてプランターを受け取るか、想像するだけで腹の底から笑いが込み上げる。
そうして一頻りオルガノが思考を巡らせている間も、都合の悪いことに子ドラゴンがプランターから出てくる気配はない。
己の想像性を自嘲気味に判断し、切り捨てたはずが……冗談ではなく、本当に、プランターごと引き渡す案が有力になってきたようだ。
「ドラゴンといえど、まだまだ子供だな」
オルガノはやれやれと軽く頭をかく。
手足の短さといい、大変興味深い形態のルーカスの息子があまりにも悲しそうなので、困ったものだとオルガノはゆっくりその場に片膝をつく。
ルーカスの息子が人見知りとは聞いていない。むしろ大胆で豪快な性格と認識している。それが今回、何故大人しくおすわりしてこちらを見ていたのか。
今でこそルーカスの使役獣という立場を確立し、自由にドラゴンの姿で動き回っているけれど。ルーカスに拾われた当初は、周りにドラゴンと知られないための配慮で、人前では犬の姿でいるよう教えられていた。仕草が犬っぽいのはその影響だろう。
そういえばグランドキャッスルに赴いたルーカスが若返って帰還した一年程前に、掘っ建て小屋の見張りに当たっていた兵士の一人から報告を受けたことがある。
子ドラゴンはルーカスから、人の家に勝手に入ってはいけないと教育を受けている。
他にも、子ドラゴンが夕食時の匂い漂う民家の前におすわりして、犬の姿でおめめを輝かせ民家を眺めていたという報告を、オルガノは幾度も受けていた。
こいつ──何を待っているのかと思っていたら、私が寝室から出てくるのを待っていたのか?
子ドラゴンにとって、バルコニーは家の一部に含まれないらしい。
こちらが素気なくベッドやソファーで寛いでいたのを、バルコニーで礼儀正しく焦げながら、おすわりして待っていた姿が脳裏にちらついた。
解明に目を眇める。よくよく見ると花にまみれた子ドラゴンが大事そうに腹に抱えている、真白な物が目に入った。
「それは何を持っている? 手紙か?」
結界に衝突して焦げながらも、咄嗟にそれだけは守ったらしい。手紙には少しの汚れもない。
「ルーカスに渡すために持って来たのか?」
途端、ずぽ! とプランターから顔を出した、子ドラゴンの表情がパアッと花が咲いたように明るくなった。短い両手で手紙を持ちながら、コクコク頷いている。
先刻まで子ドラゴンの頭上や尻尾の先からチロチロと出ていた白煙はすっかり収まり、あちこち焦げている。けれども当人は母親への届け物に注力していてお花満開だ。
プランターと合わさって、子ドラゴンのいる一帯だけ、空気が浄化されたように光り輝いているこの神聖感。
ようやく合点がいく。
菓子目的の侵入ではなく、さしずめ召喚された母親を追うのに夢中で(追い越して)結界に気付かず衝突。結界の真下にあるオルガノの寝室のバルコニーに落ちてきた、といったところだろう。
つまりルーカスの知り合いであるオルガノに、これから来るはずの母親の元に案内して欲しい。ということのようだ。
それにしても──わかってもらえたのがよっぽど嬉しかったのと、届け物をルーカスに渡せると思って子ドラゴンは安心したらしい。
まるで穴掘りが得意な土属性の魔獣、モグウララのようにずぽずぽと。プランターの中を出たり入ったりしている。新しい遊びを覚えた子供の反応だ。
モグウララの出現場所は、必ず花が近くに咲いている草原と決まっている。
花好きの魔獣で、大好物な食べ物も花の草食系。攻撃性も低く、よく地中から顔を出して花見をしている。たまに出る場所を間違えて民家に侵入するくらいの、あまりにも害のない魔獣なので、退治されることはほぼない。
草原で一匹、地面から顔を出し、ボーと花見をしていたモグウララの横を通りかかった冒険者が、試しに花冠を作ってあげたらえらく喜んで懐かれたという話もある。
なかには一緒に花見をしたという強者がいたりなど、冒険者たちの間では癒やし系として定評のある魔獣だ。
「いいか、ルーカスの息子。ルーカスのところへは連れて行ってやる。だがその前にそのなりをなんとかしないと、あの折り目正しい男が悲鳴を上げそうだ」
焦げドラゴンが「きゅい?」と首を傾げたので、折り目正しい男が誰かを「お前の母親だ」と教えてやる。すると──
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
プランターから子ドラゴンが勢いよく、何故か体を横倒しに寝転がるようにして、ゴロゴロと転がり出てきた。
ここにきて新技でも覚えたか。
黒い鱗に覆われた体でゴロゴロと。名付けるなら新技、転がり回る石とでも呼ぶべきか。
以前は勇者としてあらゆる魔獣と対峙してきたオルガノだが、こんな斬新な脱出方法を見たのは初めてだった。
思わず見入ってしまったオルガノを余所に、子ドラゴンはおすわりして、焦げた部位を急ぎペロペロと舐め始めた。ルーカスに心配をさせてはいけないと思ったらしい。
*
バルコニーにいたオルガノは、ルーカスたちが城下町に入ったと報告に来た配下の声に、子ドラゴンとのやり取りで一時間ほどが経過していたことを知った。
ルーカスたちが王城へ到着する。その前に、あのおめめキラキラりんドラゴンの焦げをなんとかしなければならない。
オルガノと子ドラゴンのやり取りを、ハラハラと見守っていた者たちを寝室から出し。ルーカスたちが早く到着したときの時間稼ぎでガロンを先に王の間へ送る。
ガロンが掻い摘んで事情を説明している間に、子ドラゴンの治療を済ませる算段だ。
「陛下は子供の扱いに慣れているんですね」
治療にあたっている城の魔法使い以外で唯一寝室に残った新米兵士が、椅子に座るでもなく佇むオルガノに感心したように言う。
守衛は閉じた扉のすぐ向こうにいる。オルガノの警護ではなく、壊れたバルコニーの残骸の撤去で残った新米兵士が、あらかたの掃除を終えて寝室に戻ってきたのだ。
「仮にも父親だからな」
半血兄弟といえど容赦はしない。ラスクールの王族における苛烈な血の歴史を知らないわけではないだろうに。
新米兵士に子供の話をされて、一瞬わざとか? と勘ぐる己の業に、オルガノは苦笑する。
次いで伏し目がちに「もう下がれ、修復は専門の者に任せる」そう突き放すような物言いをするも、気に障ったわけではない。単に潮時だっただけだ。
まして守衛のなかでも末端の新米兵士など、普段なら気にも留めないところだが……空気を読んだ新米兵士が頭を下げ、部屋を静かに出ていくのをオルガノは何とはなしに呼び止めた。
「新米兵士お前、名前はなんという」
立ち止まり、新米兵士はオルガノに向き直る。様子を窺う動作があって、それから──クスリと笑った。
「お前……?」
怪訝に眉を顰めるオルガノの抱いた不審。
それを正面に受けながらも、新米兵士に王の気分を害したと恐れる様子は微塵もない。
不敵な笑みを湛える気配がして、新米兵士が頭に被った不格好に見える大ぶりのヘルムを脱ぐ。
「──名は光。しかし我らの名は、時代と共にうつろいゆくもの。誰も我らの真の名を知ることはできない」
「っ!」
ヘルムを取った青年の顔が露になる。
青年の目は、人のものではなかった。竜と同じ、縦長の瞳孔をした黄金の爬虫類の目をしていた。
「その頭に浮かぶ光輪……神の意志に逆らい、神より永命の呪いを受けた、呪いの証。天空の守護者、お前は天界人か」
青年はオルガノに向かい、目を逸らさない。
「神が創りたもうたこの世界には壊してはならないものがある。しかし神の意志に逆らい、神より永命の呪いを受けた我らは、それを打ち砕くために存在する」
「永命の呪いを受けた滅びてはいけない種……永命絶対種か」
「流石は残忍な異端の王と人々から恐れられる『闇の勇者』。博識でいらっしゃる」
共に寝室にいる魔法使いが「陛下!」と鋭い声を上げるのを、オルガノは片手で制す。
「おや? 守衛は呼ばないのですか? 新世代の光の精霊に選ばれた神の気に入りである貴方を、私は敵対者とみなしているかもしれないのに」
「私に何かするならとっくにしているはずだ。殺意を持った者なら、ルーカスの息子が反応する。呑気に挨拶されている時点で、お前に私を害する気がないのは明らかだ。別の利害があってやってきたのだろう? でなければ神によって生存を意図的に隠され、歴史の表舞台に立つことを禁じられてきた永命絶対種が、わざわざ姿を晒す危険を冒して天界を降りてくる意味がないからな。だが今は──母親が必要だ」
「くっ、そうですね……こればかりは致し方ありません」
突然出てきた「母親」という脈絡のない単語にも、青年は臆することなく頷く。
オルガノは話を中断し、息をつくようにゆっくりと、賛同した青年のやや斜め上に視線を向けた。
そこには光輪に食いついて、青年の頭のすぐ横にプラーンとぶら下がっている黒い塊があった。
青年の頭にある光輪を新しいオヤツと思ったらしい。光り輝くドーナツとでも思っているのかもしれない。
黒い塊、本来なら現在治療中のはずの子ドラゴンは、確かにオルガノが城の魔法使いに命じて治療を受けていた。
けれど実際はほとんど治療の必要がないくらい焦げた部位は回復しており。強靭なドラゴンに本当に必要だったのは、表面についていた油汚れならぬ焦げ付きを落とすことだった。
正確には治療が終わった子ドラゴンは、オルガノと青年が話している前で、魔法使いにお風呂に入れられていたのだ。
白い石鹸は泡立ちがいいらしい。寝室に運び込まれた大ぶりな桶の中で、頭に泡を乗っけた子ドラゴンが大きなおめめをキョトンとさせ泡々に洗われているのを、オルガノは立ち見しながら青年と会話していたはずが……青年に気を取られた隙に、子ドラゴンは桶から出てしまったようだ。
先ほど魔法使いが叫んだのは、子ドラゴンの脱走を知らせるためでもあった。
洗い途中で体のあちこちに泡がついているけれど、黒い鱗は艶々していてとても健康的だ。これならルーカスも安心するだろう。青年の光輪にプラプラぶら下がっているのを除けば。
一方、自身の真横でプラプラと振り子のようにぶら下がっている子ドラゴンを、青年は外すでもなく、無言で見ているし。そろそろ切り上げるか。オルガノがそう思った矢先──光輪を口に入れてあむあむしている子ドラゴンのお腹がきゅーるると鳴った。
「あの、陛下。とりあえずこの子にお菓子をあげてやってくれませんか?」
「…………」
どうりで洗われている最中も泡まみれでこちらを見ていると思ったら。
青年の遠慮がちな言葉に、先刻まで散々菓子で煽っていたのを、オルガノは思い出した。
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