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第二部

31 背徳の騎士

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 戦士として、また子を守る母として、気概きがいを示したルーカスの姿に、その場の誰もが強い衝撃を受けていた。

 彼の後ろ姿しか見えていないはずの、背後に控えるガロンとタリヤにも伝わるほどの気迫……彼の中に眠っていたものを間近にとらえ、ラーティは息を呑む。

「ルーカス……」

 前方のロザリンドを見据みすえたまま動かない、ルーカスの無機質な人形のような顔付き。一切の感情を抑え込んだ、光を宿さない虚無の瞳。

 全てを見透かすような、感情が読めない眼差まなざしは、いつになく黒々と見えて──自然、首筋がゾクリと粟立あわだつ。

 はっきりと見開かれた漆黒しっこくは、魔女の持つ純黒の瞳とは違う、人のものだが。静けさをたしなむルーカスは、まるで人としての最大を超えた先を見ているようだ。

 そんな彼との会話もままならず、往生おうじょうしているラーティよりも先に、ロザリンドが声を掛けた。

「──当時の貴方あなたは強かった。しかし今の貴方では……私に遠く及ばない」

 ロザリンドの言う通りだということは、ルーカスは元より、ラーティにもわかっていた。

 戻ったのはあくまで戦士の心だけだ。体は変わらず戦士に不向きな、細身のそれだ。だというのに、このも言われぬ安定感。ただひたすらに、頼りになる者の器を感じているのは、ラーティだけではないだろう。

 魔女の挑発に圧倒されることなく、ルーカスは円卓を挟んだ向かいの双眸そうぼうを見つめ……そして答えは、ゆっくりとつむがれた。

「ならば手加減でもしてくれるというのか」

「ふふ、ご冗談を。私も多くを抱える身。大切な友人である貴方を傷付けるのは忍びないですが……別次元に存在するといわれている神の呪いから解き放たれた世界に残る脅威は、極力排除せねばなりません。それにご存じでしょう? 私は冗談は嫌いです」

「そうだったな……」

 またも互いに沈黙し、やがて覚悟を決めたようにルーカスは目をつむる。

 辛うじて淡泊な反応を見せるのみの彼が、再び目を開ける頃には、彼の中で何か重要な決定がされてしまったことを、ラーティは感じていた。

「ラーティ様、どうかクーペを連れて後ろへ下がっていてください」

 こちらを見ようともせず、ルーカスの口から出た言葉に、反対する感情をどうにか抑える。

 静かな口調で「どうするつもりだ?」と問う。

 ルーカスの下した決断がどうであれ、賛同する意思は変わらない。だが……どうしても思い出してしまう。妖精貴族にボロボロにされ、地面に倒れていた彼の姿が、耐えがたい苦痛と共に、脳裏に焼き付いている。

 勇者が恐怖を口にするなど、あってはならない。だというのに、あのときの絶望がぎり、卓上に置かれた互いの手に視線を落とす。平静を装うはずが、彼と繋いでいる手を再びグッと握る。

 情けなくも、すがるような心地でいると知ったら、彼は夫をどう思うだろうか……

 少しの間を空けて、ようやくルーカスはゆっくりこちらを向いた。

「ルーカス……?」

 彼の体から湧き上がる闘志が、戦士にしては細身の体に染み込むように、徐々に落ち着いていく。

 ビリビリと体の芯まで痺れるような熱さは収まり、一見すると平常に戻ったように見える。──が、

 戦気を己の体に馴染ませたルーカスの身の内は、いつでも戦えるよう戦気を宿したままだ。

 繋いでいる手とは別の、他方の手で、ルーカスが頬に触れてきた。

 口を閉ざす彼の酷く落ち着いた様相ようそう。穏やかな眼差まなざしは揺るぎなく。確固たる意志の滲む、静かな面持おももちには、こんなときだというのに欠片かけらも弱さを感じない。

 しかし、そんななかでかすかに感じた、このなんともいえない危うさはなんなのか。

 答えが見えないままルーカスに応えて、ラーティは自らに触れてくる優しい感触に頬を寄せ、「愛している」と想いをこめて、その手のひらに口付ける。

 けれど次に聞こえてきた言葉に、ラーティはその意味を知ることになる。

「貴方は休んでいなければならない」

「っ!」

 ルーカスの下した決断がどうであれ、賛同する意思は変わらない。そう示しながらもその実、前回の妖精貴族のように、一人で立ち向かわせるような愚行をおかすつもりは、ラーティにはさらさらなかった。

 いざとなれば自分は何の迷いもなく、勇者の紋章を行使する。そしておそらくその代償が高く付くことも、ルーカスは勘付いていたのだ。

 傷付いた紋章の力の行使は、想像以上の苦痛と、体への負担が大きい。しびれるような指先の感覚は消えず、いまだ体の震えは小刻みにやってくる。

 先日使ったそれを連続してまた使えば、きっとラーティは数日、体を動かすことができなくなる。ひどければ、寝たきり目を覚まさなくなることすらありえる。

 息子の身を案じて、ルーカスは戦士として目覚めたのだと、ラーティは思っていた。だがそれは、半分までしか合っていなかった。

 息子の危機と、そして夫の変化にルーカスは応えたのだ。

「まさかお前は……」

 自らの意志とは別の、それは本能的なものだ。

 ラーティの声は震えていた。危うさの正体に気付き、愕然がくぜんとする。

 彼は本能的に動いたのだ。夫と息子、そのどちらも家族を守るために、半ば強制的に・・・・・覚醒した。

 間違ってもラーティに紋章の力を使わせないために、眠っていた戦士としての力──戦気せんきを目覚めさせたのだ。

 若返ってからのルーカスには、依然いぜんとして穏やかな気性が備わっていたが、戦士としての何か大切なものが欠けてしまったような気がしていた。

 追放され、若返ったことで失われてしまった戦士としての闘志。

 喪失感に、ラーティは自身の罪深さを思い知ると共に、同時に思っていたことがある。

 それは目覚めなくてもいい力だと。

 自分が力を付け、大人になった頃には、ルーカスは四十代の老兵となっていた。体力の衰えを本人も感じていたことは、ラーティも薄々知っていた。

 それでも戦い続ける老兵の姿に、もう休ませてやりたい。そう何度思ったかしれない。

 おそらくは、誰もが心の奥底で思っていたことだ。

 けれど心の安寧あんねいをもたらすルーカスが傍にいてくれることは、ラーティにとって何よりの癒やしだ。足手まといなどと、心に浮かべたことは一度もない。

 ルーカスを初めて抱いたとき、彼は多くの不安にさいなまれながらも、彼をほっするラーティを潔く受け入れた。

 妻として、母として、子供たちと共にただ幸せに甘んじてくれればいい。そうであってほしいと、ラーティはルーカスを妻としてからずっと願っていた。

 長年の戦士としての重圧から解放された、痛みのない優しい世界で、安穏あんのんと自分の妻でいてくれればいい。それ以上に、ラーティがルーカスに望むものはなにもない。

 心の底から慈しみ、愛し、自らの腕の中に囲って離さずにいた。

 砂糖には麻薬と同等の依存性や中毒性があるといわれているが、ルーカスはきっと、甘い砂糖菓子か何かでできている。

 妖精王からたまわった子宮の影響か、男にしては匂いも感触も、甘やかで柔らかい彼をもう手放せない。だというのに。

「私はまたお前を、戦いの場に引き戻してしまったのか……」

 真の勇者となり、魔王討伐を果たしたことで、ルーカス・フォリンという壁を越えたつもりでいた。

 しかし戦士として覚醒した彼を目前にすると、それすらかすむ。

 ……これが、この男の生きざまか。

 物事を極めた、最後に行き着く場所──ルーカスはいつだってラーティの究竟きゅうきょうの目標であり続ける。

 こんな緊迫した場面でも、畏敬の念を抱かずにはおれない。かつての英雄と、過去のものとするには、彼はいまだあまりに壮大そうだいだ。
 
 他者のために、再びお前は立つというのか……。

 そんな相手が妻となってくれたことを誇りに思い、肩を落とすラーティに、ルーカスは少し困ったようにして穏やかな表情を浮かべる。

「私は騎士であった父セザン・フォリンの教えを受け継いだ時より、こうなるよう定められている」
 
「だから私のせいではないというのか」

 ──慰めを言うな。

 不本意ながら、そうなってしまった事実に無念を抱き、己の力が及ばないくやしさに、声を強くする。

「ラーティ様……お忘れか、私がかつて何者と呼ばれ、何であったかを」

 今も共にいるだけで伝わる、静かな水面みなものような感情の奥底、細身の体に宿る戦気せんきは紛れもなく彼の中に長年根付いていたものだ。けれどそこには、包容に似た温かさも含まれる。

 これが他者のために強くあろうとした者の境地きょうちか。

 オルガノの代で王族の代替わりが起こる以前にいた、ラスクールの旧王族に仕えていた騎士、ルーカスの父セザン・フォリン。

 ルーカスの父親のことは、本人から聞いている。

 セザンは庶民の出でありながら、努力だけで王族付きの騎士団長にまで上り詰めた。

 けれど王族の婚約者に不義密通ふぎみっつうしたと背徳はいとくの汚名を着せられ、ルーカスが幼い頃、目の前で極刑に処されたと。

 騎士道精神を重んじるセザンは忠誠を誓った王族に最後まで従い、逃げることなく主君を信じて場に留まったが……。当時の王族は腐りきっていた。

 審議は数ヶ月行われたが、セザンの主は一度も彼を擁護することはなく、刑は下される。

 背徳はいとくの騎士。

 最後はそう汚名を着せられ、無惨にも殺されたときの情景を話しながら、ルーカスは寂しそうに遠くを眺めていた。

 幼かったラーティが思わずルーカスのそでつかむと、彼は追憶をやめ、優しく頭をでられた。

「もうずいぶんと昔のことですよ」そう言いながら、大人の穏やかな目を向けられたが……そんな一言で片付けられるようなものでないことは、子供心にもわかった。

 そうなるに至るまで、彼はどれほどの時をかけ、想像を絶する苦しみの中で活路かつろ見出みいだしたのだろうか。

 セザンをうしない、ルーカスは罪人の子供として母と二人、身を寄せ合い貧しさの中で生きてきた。

 けれども、平民ではあるが騎士団の団長にまで上り詰めた男を父に持ち、その手ほどきを幼い頃より受けていたルーカスの中に、騎士の誇りは受け継がれる。

 彼は父親と同じく、誇り高き騎士の心根を持つ戦士となった。壮絶そうぜつな過去など微塵みじんも感じさせないほど強い男に。

 だからこそ、今それをあえて持ち出したルーカスの意図に、ラーティは歯噛みする。そうとまでしなければ、自分を説得できないと思われているのだ。

「お前には驚かされてばかりだ」

「申し訳ございません」

「心配に制止はするが、お前の下した決断ならば異を唱えるつもりはない」

 謝罪に頭を低くしたルーカスのつむじを見ながら、嘆息たんそくする。

「何度でも言うが、私はお前の夫だ。お前は私の妻であることを忘れたか。少しは信用してほしい」

 皮肉るように、台詞せりふを返す。すると……子供のように真情を吐露とろする夫に、ルーカスはキョトンとして、目を二、三まばたいた。

 そんな顔をしてこちらを見るな……

 ふてくされた子供のようにしてしまったのを、恥じる。

 普段からまったくといっていいほど、本心を口にしないラーティに、それも人前で感情を表に出されたことが余程珍しかったのだろう。

 こちらの顔色をうかがうルーカスが、繋いでいた手をほどいた。

 手を伸ばし、閉口へいこうするラーティの頬に、元々当てていた手とほどいた他方の手、その両方で顔を包み込むようにされる。ルーカスの両手にラーティは手を重ね、彼を見つめ返す。

 するとルーカスは、おもむろにラーティの傍近くに唇を寄せ、互いにひたいを合わせながら、そっと優しくつぶやく。

「!」

 目を見開くラーティの視界には、いつもの温厚な顔付きのルーカスがいた。

「……お前は……こんなときにそれを言うのか」

 名を呼び捨て、愛しているとささやかれた。それも驚くラーティに、彼は「今回だけですよ?」と茶目っ気を含めて言うのだからたまらない。

「以前、貴方が気にしていたように見受けられましたもので」

「だからといって……」

 完全に不意を突かれた。

 恨みがましい目を向けるも、サラリと言われて、惑うのはこちらの方だ。

 述べる口調の温かさは、誰に対しても誠実で温かい、普段のルーカスそのもの。しかし……彼に触れられている頬から伝わる、力強い脈動。若返った細身の体からほとばしる熱さ。

 誰かを守ろうとする、強い心が力となって自身を優しく包み込むのを感じ、静かに息を呑む。

 この男はいつだってそうだ。

 どうしてお前はそうまっすぐと、私の名を呼ぶのか……

「ですからどうか、お願いします」

 狡猾こうかつさではなく、ただただ愛しさだけを乗せて、名を呼ばれては……従うほかあるまい。

 ラーティを王子としてうやまいながらも、ルーカスはこうして時折、願いを通してしまうことがある。

 いったいその手法は誰から教わったものなのか。

 何事か口を開こうとしたが、それはやめておく。戦士としての凄みの一切を押し隠し、彼はただただ心配させないよう、なごやかに笑っているのだから。

「強いな。お前はどこまでも……」

 ルーカスの優しさはいつだって、かたくなになりかけていた心を溶かしてしまう。

「口出しは無用か」

 諦めを呟き、返事を聞くまでもなく、行動する。ルーカスの膝にちょこんと座って、焼き菓子を両手に両親のやり取りを不思議そうに見上げているクーペを抱き上げる。

 食べるのを中断していた息子のおててにある焼き菓子は、最後の一枚だった。ラーティが立ち上がりざま、卓上の焼き菓子を四枚ほど取って与えると、そのまま両のおてていっぱいに持った。

 母親から離されたクーペは、おてていっぱいに焼き菓子を持ち、首をかしげてルーカスを見ていたが、「大丈夫だ。すぐ終わる」そう言って彼に頭をでられると、父親の抱っこでも我慢することにしたようだ。またモグモグと、半眼で焼き菓子を食べ始めた。

 やはり少し不満はあるらしい。それとも単に、癖になってしまっているのか。

 不満顔でモグモグと焼き菓子を食べる大切な我が子を腕に、向かいに座るロザリンドを一瞥いちべつする。

 それから後方に少し距離を空け、控えるガロンたちの方へと席を立つ。そうしている間も、ルーカスは穏やかに、ラーティたちを見守っていた。
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