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第二部
25 頼りない雛鳥
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「ラーティ様、私に掛かった呪いはフォルケのせいではないのです」
夫婦の寝室でラーティとルーカスはソファーに腰を落ち着かせていた。
ルーカスがクーペを膝上に、その黒い鱗で覆われた小さな頭を撫でる。他方の手でナディルを抱っこして子供達をあやしながら、彼は凛然と顔を上げ、一連の経緯を説明した。
クーペはようやく安心できたのだろう。ルーカスの膝上にちょこんと座り、彼が説明している間も説明が終わった今も、きらきらおめめを大好きな母親へ一心に向けている。
この子は寝室に戻った後も、ルーカスに突進したりくっついたりしないようにしていた。あれだけの目にあった母親の体調を気遣っているようだ。思いっきり甘えたいのを我慢している。
クーペは今回ルーカスのために力を振るえず、あまり活躍できなかった。ナディルを自分の代わりに守ってほしいという言いつけを守り、母親を助けたかったのにできなかったのだ。さぞ不満も溜まっていることだろう。
クーペはルーカスと同じく若返り、赤ちゃんから成長してきたとはいえ、その本質は前回魔王で闇の精霊リュシーに対抗する力を持つドラゴンだ。
それでも大人しく座って、自分の順番がくるのを今か今かと待っている。
夫婦の寝室に戻ったとき、クーペはルーカスがよろめいたのを見ただけで、窓辺に一人ぽつんと俯いて分かりやすいくらい分かりやすく落ち込んでいた。ズーンと沈むクーペをルーカスが拾い上げ、ナディルと一緒にあやされているうちに、きらきらおめめに輝きが戻ったのはつい今し方だ。
ルーカスに習ってラーティも、その小さな黒い頭をよしよしと撫でてやる。途端、きらきらおめめが半眼に変わった。やはりパパは嫌らしい。
両腕を前に組むような格好で「ぷきゅっきゅいきゅい」と半眼のむくれ顔で頬をプクーと膨らませながら、何やらブツブツ言っている。
半眼の不機嫌顔だが、元気になって何よりだと、未だにぷきゅぷきゅ言っているクーペの頭を撫で続ける。文句は言うが、払い除けたりはしない。
半眼の息子もなかなかに可愛いものだ。黙認しながら、ラーティはクーペの両脇の下を持って抱き上げた。
ママの膝上から動かされ、クーペは「きゅいっ?」と首を傾げた。暫し無言で見つめ合う。
ラーティが自分にけして危害を加えないと、クーペは分かっているのだろう。
なされるがまま、プラーンと胴体が伸びた格好で、短い両手両足を空中でブラブラとさせている。果ては「くあー」とアクビまでして、いいから早く母親の元に戻せという顔でラーティを見やる。完全に野生を失った、息子の油断しきった姿を淡白に眺めながら、ラーティは口を開く。
「ルーカス、ナディルをこちらに」
息子を交換するよう持ち掛ける。
ラーティとクーペのやり取りを何気なく見守っていたルーカスが「よろしいのですか?」と一瞬驚いた表情を浮かべたが、即座に心得て優しく微笑む。互いに息子を交換した。
「悪いがお前はこちらだ」
とりあえずナディルを自らの膝上へ乗せる。ナディルは不思議な顔をしたものの、ラーティの膝から下りようとする様子もないので、そのままでいさせることにした。
母親を独り占めできたクーペは、ご褒美を貰った犬のように、最初は尻尾をパタパタさせていたが。やがて腕の中で安穏と寛ぎ始める。
すると、ナディルが膝上で突然パタリと倒れた。
「どうした?」
明るい茶色のくるくる髪。天然パーマが膝上で花開くようになる。ラーティの問い掛けに、ナディルは無表情に横になったまま、ピクリとも動かない。
けれども具合が悪いわけではなさそうだ。父親譲りの青い瞳、その視線の先が一心に捉えているものに気付く。
ルーカスの腕の中でまったりしているお兄ちゃん、クーペがするように、どうやらナディルも兄弟を真似て甘えているつもりらしい。
産まれてまだ三月も立たないうちにニ歳児の姿にまで成長した。顔立ちは父親に似てきたが、甘え方が不器用なところは母親にそっくりだなと、無表情でいる息子の小さな背中をポンッとする。──と、
「ん?」
黒い鱗に覆われた、先の長いものがラーティの膝にポテッと置かれた。尻尾の先くらいは父親と認めてくれているらしい。
時間的には三時のおやつを過ぎた頃だったが、お昼寝をするにはちょうどいい時間帯だ。日中の騒動でよっぽど疲れていたのだろう。子供達が寝付くまでそう時間は掛からなかった。
*
半日以上経過した明け方近くに、ルーカスとラーティは目を覚ました。子供達を寝かしつけると、ルーカス達も泥のように眠ってしまったらしい。
起きたときにも子供達は相変わらずぐっすりと寝たきりで、落ちかけていた毛布を掛け直すと、クーペとナディルをベッドに残しルーカス達は湯殿に入った。
落としそびれていた体の汚れを落としてスッキリすると、二人並んで湯船に浸かる。
使用人を下がらせた湯殿は静まり返っていた。
「クーペは大分貴方に慣れたようだ」
「……そうだな」
ルーカスにもクーペがラーティの膝に尻尾を乗せているのが見えていた。
初めはあんなに反発していたのにと、二人が出会った頃を振り返る。あの敵意剥き出しだったクーペが、よくここまで慣れてくれたものだ。
「ナディルもあっという間に成長してしまって、どのくらいで大人になるのか検討もつきません」
「私達の子供だ。どう成長しようと心配することはない」
「はい」
意識を遠くへ向けているようにルーカスがぼんやりと言うのを、ラーティが淡々と受け止める。呟きのような会話の裏で、本当はもっと大切な話をしなければいけないことは分かっていた。
約束を守るために住む場所を決めた。重要なことを話さなかったのは、どんな秘密でも共有できるような関係にまだなっていないからだ。夫婦となって日が浅いルーカスには抜けきらない習慣同様に、ラーティとの主従関係が根底にある。
「紋章の傷は……痛くないのですか?」
フォルケ達妖精をなぎ倒した力。本来のラーティなら、わけなく使えるものだ。だというのに。
隣で湯に浸かるラーティの胸元──勇者の紋章を一瞥する。つられてそれを淡白に見下ろす彼の体が小刻みに震えている。これは完全に紋章を使った反動だ。
言われて感覚を確かめるように、ラーティは自らの手を開き、見つめる。
「平気だ。痛くはない」
なだらかな水面のように表情は変わらない──が、
……平気、ではないな。
当人は何でもない顔をしているが、それが嘘だと分からないほどラーティとの付き合いは短くない。向かい合う位置までルーカスが移動すると、体調が芳しくないことはより顕著になった。
「いつもより顔色がよくない……」
痛々しさにルーカスは目を細め、ラーティの頬へ手を伸ばす。湯に浸かっていた腕を引き上げた音が広い湯殿に響いて、腕からポタポタ水滴が流れ落ちていく。
やはり休むとは言ってくれないか……
ルーカスを静かに見下ろす透明感のある青い瞳。昔と変わらず気高く美しい風貌には、負の感情を一切見せない。穏やかなものだと感心する。
「相変わらず痛みを隠すのが上手な方だ」
「…………」
「産まれたときより仕えてきた私に隠し通せるとお思いか」
咎めるように眼差す。すると、ルーカスの心臓の真上に現れた呪いの紋様を、ラーティがチラリと見やる。
不味い。と思ったが遅かった。
ラーティの頬に添えた手を引っ込める前に、彼は掴んだ。
「……お前は痛くないのか?」
手を打たれてしまった。それもそっくりそのまま返された。
普段はオルガノに反発していてもやはり親子か。素っ気ないやり取りしか見せたことのない二人だが、ラーティはオルガノに似てきたように思う。息子もなかなかに隙がなくなってきた。
「大丈夫です。少し違和感はありますが痛くはありませんよ」
何のことはないとあえて軽く答えるが、胸元を労るように触れられた。加えて傷付いた頬と、首筋に残る痣にも優しく触れられる。くすぐったさにクスクスと声が零れた。
フォルケのことが出てきてからすれ違っていた心を、やっと通わせる機会がきたような気がした。
「大丈夫ですよラーティ様。これは後でフェリスに治してもらいますから。それにご存じでしょう? 昔、現役だった頃の私は、このくらいの傷は日常茶飯事でした。寧ろ軽症な方で……」
にこやかにしていると言葉を遮るように、やんわり顎を掴まれた。
「ラーティ様?」
「ルーカス、今のお前は戦士ではなく私の妻だ」
「……ああ確かに、貴方には私を心配する権利がある」
漠然とそう思った。大切な人と共にある、温かい湯船に浸かる心地いい微睡みのなかにいると、不意にラーティの手がルーカスの下肢に触れた。
「っ!」
久しぶりの性交の予感に知らず体が硬くなる。
ナディルを出産して疲弊していた体は、フェリスが癒やしてくれた。今ではもうほとんど本調子だったが、ここ暫くラーティはルーカスの体調を気遣い、ご無沙汰だった。
「お前にとって私は頼りない雛鳥に見えるのか……?」
雛鳥などとんでもない。雛鳥どころか、その下にある立派な男根が立ち上がる予感に、ルーカスはひやりとする。
「ルーカス? どこへ行く」
これ以上の刺激を避け、ルーカスは徐ろにラーティから離れた。
湯船の縁までいくと乗り上げ、そこへ腰掛ける。そうするとラーティより目線が高くなった。
「貴方はまだ休んでいた方がいい」
きっとラーティはルーカスに掛けられた呪いを気にして、当面の間ゆっくり休む気などさらさらない。
そもそも、そんな消耗し切った状態で体を重ねるなどとんでもない。そう念は押した。けれどもラーティは距離を取られたというのに、少しも動揺を見せない。
縁に座るルーカスへ向き直り、距離のある場所からジッとこちらを見据える。
「昨日陛下が言っていたことだが」
「はい」
「急にタメ口を吐けとは言わない。お前にとってそれは難儀なことだと私も理解している」
「…………はい」
「私を呼び捨てろと言っても、お前は出来ないだろう」
「……………………はい」
難儀というより恐れ多い。尊ぶべき方に真心込めて仕えたい。だからこそ難しいのだ。
「焦らせるつもりはない。どれほど時間を掛けても構わない。だが、陛下のおっしゃるように変わらずとも、お前がそのままでありたいのならそれはそれでいいと私は思っている」
それが原因で互いの溝を深めてしまいやすいことは、今回の件でラーティもよく理解したはずだ。なのにそのリスクごと全部、彼はルーカスを受け入れるつもりなのだ。
離れたルーカスの前までラーティが来る。しかし目線は湯船の縁に腰掛けるルーカスの方が上だ。
「ラーティ様はそれで本当によろしいのですか?」
見下ろすと、真剣な顔で一途に見つめられた。
「ルーカス、私は今も対等でありたいと思っている。しかし夫婦の形は一つではない。私達には私達なりの形に合ったものであればいい。無理に型に押し込める必要はない」
分かるな? そう言ってラーティはルーカスの両手を取った。
共にあるためなら形式には拘らないとするならば、そうすることで隙が生じる。このときルーカスは気になっていたことをようやく口にした。
「ですがそうすることでウルスラ様のように、思わぬ横槍が入ることもある」
ウルスラの名を聞いた途端、ラーティが眉間をピクリとさせた。
「ウルスラ……? ああ、それは……」
「オルガノからウルスラ様は眠ったままだと聞いています。ラーティ様を呼び出したのがウルスラ様ではなくフォルケだということも存じています。けれど本来ならウルスラ様はラーティ様の花嫁候補筆頭だった方です。ウルスラ様は今でもラーティ様との結婚を望んでいらっしゃるのでは?」
きっと浮気を問い詰めるような顔をルーカスはしていたのだろう、いつも余裕のラーティが僅かにたじろぐ。
「いや、そうではない。あれとはそういう仲ではなかった」
「は? 仲ではないとはいったいどのような……?」
ラーティは元来感情があまり表に出ない。それがどうしたというのか、このときばかりは珍しく、歯切れ悪く複雑な顔をした。年相応の青年のような苦り顔だ。
「お前が気にすることではない」
「はあ……」
ラーティはウルスラがよっぽど苦手なのか、それとも彼女との間に何かあったのだろうか……。まあいい、対等の関係を望んでくれているだけで十分だったのに、彼はそれ以上の提案をくれたのだから。
「そうか、貴方はまだ若いのだったな……」
「それはどういう意味だ?」
ラーティは目を眇め、訝しむ。彼は愛情表現が頗る素直だ。これまでの行動は全て、駆け引きとは縁遠い純真そのもの。
リスクも何も恐れない。若さ故に、その真っ直ぐな気質が尚更強く出ているのだろうと合点する。
未だ首を傾げているラーティに取られていた片手を離し、指先でこちらへもう少し近付くように促す。素直に傍へ寄ってきた彼の頬をルーカスは両手で包んだ。
「美しい貴方に雛鳥のように慕われるのは思いのほか嬉しいものだ」
ラーティの愛情を疑うような問い掛けは、それこそ愚問というものだ。
若返った顔に古参の影を宿し、オルガノにするようにさらりと言い切り微笑する。あらぬ答えに意表を突かれた様子でラーティが瞬く。
「ルーカス……?」
元従者の機微が読み切れず、惑うラーティの形のいい唇にルーカスは自らを重ねた。目を瞠ったラーティの体が驚いたように小さく動いたが、ルーカスは構わずしっとりと唇を合わせた。
夫婦の寝室でラーティとルーカスはソファーに腰を落ち着かせていた。
ルーカスがクーペを膝上に、その黒い鱗で覆われた小さな頭を撫でる。他方の手でナディルを抱っこして子供達をあやしながら、彼は凛然と顔を上げ、一連の経緯を説明した。
クーペはようやく安心できたのだろう。ルーカスの膝上にちょこんと座り、彼が説明している間も説明が終わった今も、きらきらおめめを大好きな母親へ一心に向けている。
この子は寝室に戻った後も、ルーカスに突進したりくっついたりしないようにしていた。あれだけの目にあった母親の体調を気遣っているようだ。思いっきり甘えたいのを我慢している。
クーペは今回ルーカスのために力を振るえず、あまり活躍できなかった。ナディルを自分の代わりに守ってほしいという言いつけを守り、母親を助けたかったのにできなかったのだ。さぞ不満も溜まっていることだろう。
クーペはルーカスと同じく若返り、赤ちゃんから成長してきたとはいえ、その本質は前回魔王で闇の精霊リュシーに対抗する力を持つドラゴンだ。
それでも大人しく座って、自分の順番がくるのを今か今かと待っている。
夫婦の寝室に戻ったとき、クーペはルーカスがよろめいたのを見ただけで、窓辺に一人ぽつんと俯いて分かりやすいくらい分かりやすく落ち込んでいた。ズーンと沈むクーペをルーカスが拾い上げ、ナディルと一緒にあやされているうちに、きらきらおめめに輝きが戻ったのはつい今し方だ。
ルーカスに習ってラーティも、その小さな黒い頭をよしよしと撫でてやる。途端、きらきらおめめが半眼に変わった。やはりパパは嫌らしい。
両腕を前に組むような格好で「ぷきゅっきゅいきゅい」と半眼のむくれ顔で頬をプクーと膨らませながら、何やらブツブツ言っている。
半眼の不機嫌顔だが、元気になって何よりだと、未だにぷきゅぷきゅ言っているクーペの頭を撫で続ける。文句は言うが、払い除けたりはしない。
半眼の息子もなかなかに可愛いものだ。黙認しながら、ラーティはクーペの両脇の下を持って抱き上げた。
ママの膝上から動かされ、クーペは「きゅいっ?」と首を傾げた。暫し無言で見つめ合う。
ラーティが自分にけして危害を加えないと、クーペは分かっているのだろう。
なされるがまま、プラーンと胴体が伸びた格好で、短い両手両足を空中でブラブラとさせている。果ては「くあー」とアクビまでして、いいから早く母親の元に戻せという顔でラーティを見やる。完全に野生を失った、息子の油断しきった姿を淡白に眺めながら、ラーティは口を開く。
「ルーカス、ナディルをこちらに」
息子を交換するよう持ち掛ける。
ラーティとクーペのやり取りを何気なく見守っていたルーカスが「よろしいのですか?」と一瞬驚いた表情を浮かべたが、即座に心得て優しく微笑む。互いに息子を交換した。
「悪いがお前はこちらだ」
とりあえずナディルを自らの膝上へ乗せる。ナディルは不思議な顔をしたものの、ラーティの膝から下りようとする様子もないので、そのままでいさせることにした。
母親を独り占めできたクーペは、ご褒美を貰った犬のように、最初は尻尾をパタパタさせていたが。やがて腕の中で安穏と寛ぎ始める。
すると、ナディルが膝上で突然パタリと倒れた。
「どうした?」
明るい茶色のくるくる髪。天然パーマが膝上で花開くようになる。ラーティの問い掛けに、ナディルは無表情に横になったまま、ピクリとも動かない。
けれども具合が悪いわけではなさそうだ。父親譲りの青い瞳、その視線の先が一心に捉えているものに気付く。
ルーカスの腕の中でまったりしているお兄ちゃん、クーペがするように、どうやらナディルも兄弟を真似て甘えているつもりらしい。
産まれてまだ三月も立たないうちにニ歳児の姿にまで成長した。顔立ちは父親に似てきたが、甘え方が不器用なところは母親にそっくりだなと、無表情でいる息子の小さな背中をポンッとする。──と、
「ん?」
黒い鱗に覆われた、先の長いものがラーティの膝にポテッと置かれた。尻尾の先くらいは父親と認めてくれているらしい。
時間的には三時のおやつを過ぎた頃だったが、お昼寝をするにはちょうどいい時間帯だ。日中の騒動でよっぽど疲れていたのだろう。子供達が寝付くまでそう時間は掛からなかった。
*
半日以上経過した明け方近くに、ルーカスとラーティは目を覚ました。子供達を寝かしつけると、ルーカス達も泥のように眠ってしまったらしい。
起きたときにも子供達は相変わらずぐっすりと寝たきりで、落ちかけていた毛布を掛け直すと、クーペとナディルをベッドに残しルーカス達は湯殿に入った。
落としそびれていた体の汚れを落としてスッキリすると、二人並んで湯船に浸かる。
使用人を下がらせた湯殿は静まり返っていた。
「クーペは大分貴方に慣れたようだ」
「……そうだな」
ルーカスにもクーペがラーティの膝に尻尾を乗せているのが見えていた。
初めはあんなに反発していたのにと、二人が出会った頃を振り返る。あの敵意剥き出しだったクーペが、よくここまで慣れてくれたものだ。
「ナディルもあっという間に成長してしまって、どのくらいで大人になるのか検討もつきません」
「私達の子供だ。どう成長しようと心配することはない」
「はい」
意識を遠くへ向けているようにルーカスがぼんやりと言うのを、ラーティが淡々と受け止める。呟きのような会話の裏で、本当はもっと大切な話をしなければいけないことは分かっていた。
約束を守るために住む場所を決めた。重要なことを話さなかったのは、どんな秘密でも共有できるような関係にまだなっていないからだ。夫婦となって日が浅いルーカスには抜けきらない習慣同様に、ラーティとの主従関係が根底にある。
「紋章の傷は……痛くないのですか?」
フォルケ達妖精をなぎ倒した力。本来のラーティなら、わけなく使えるものだ。だというのに。
隣で湯に浸かるラーティの胸元──勇者の紋章を一瞥する。つられてそれを淡白に見下ろす彼の体が小刻みに震えている。これは完全に紋章を使った反動だ。
言われて感覚を確かめるように、ラーティは自らの手を開き、見つめる。
「平気だ。痛くはない」
なだらかな水面のように表情は変わらない──が、
……平気、ではないな。
当人は何でもない顔をしているが、それが嘘だと分からないほどラーティとの付き合いは短くない。向かい合う位置までルーカスが移動すると、体調が芳しくないことはより顕著になった。
「いつもより顔色がよくない……」
痛々しさにルーカスは目を細め、ラーティの頬へ手を伸ばす。湯に浸かっていた腕を引き上げた音が広い湯殿に響いて、腕からポタポタ水滴が流れ落ちていく。
やはり休むとは言ってくれないか……
ルーカスを静かに見下ろす透明感のある青い瞳。昔と変わらず気高く美しい風貌には、負の感情を一切見せない。穏やかなものだと感心する。
「相変わらず痛みを隠すのが上手な方だ」
「…………」
「産まれたときより仕えてきた私に隠し通せるとお思いか」
咎めるように眼差す。すると、ルーカスの心臓の真上に現れた呪いの紋様を、ラーティがチラリと見やる。
不味い。と思ったが遅かった。
ラーティの頬に添えた手を引っ込める前に、彼は掴んだ。
「……お前は痛くないのか?」
手を打たれてしまった。それもそっくりそのまま返された。
普段はオルガノに反発していてもやはり親子か。素っ気ないやり取りしか見せたことのない二人だが、ラーティはオルガノに似てきたように思う。息子もなかなかに隙がなくなってきた。
「大丈夫です。少し違和感はありますが痛くはありませんよ」
何のことはないとあえて軽く答えるが、胸元を労るように触れられた。加えて傷付いた頬と、首筋に残る痣にも優しく触れられる。くすぐったさにクスクスと声が零れた。
フォルケのことが出てきてからすれ違っていた心を、やっと通わせる機会がきたような気がした。
「大丈夫ですよラーティ様。これは後でフェリスに治してもらいますから。それにご存じでしょう? 昔、現役だった頃の私は、このくらいの傷は日常茶飯事でした。寧ろ軽症な方で……」
にこやかにしていると言葉を遮るように、やんわり顎を掴まれた。
「ラーティ様?」
「ルーカス、今のお前は戦士ではなく私の妻だ」
「……ああ確かに、貴方には私を心配する権利がある」
漠然とそう思った。大切な人と共にある、温かい湯船に浸かる心地いい微睡みのなかにいると、不意にラーティの手がルーカスの下肢に触れた。
「っ!」
久しぶりの性交の予感に知らず体が硬くなる。
ナディルを出産して疲弊していた体は、フェリスが癒やしてくれた。今ではもうほとんど本調子だったが、ここ暫くラーティはルーカスの体調を気遣い、ご無沙汰だった。
「お前にとって私は頼りない雛鳥に見えるのか……?」
雛鳥などとんでもない。雛鳥どころか、その下にある立派な男根が立ち上がる予感に、ルーカスはひやりとする。
「ルーカス? どこへ行く」
これ以上の刺激を避け、ルーカスは徐ろにラーティから離れた。
湯船の縁までいくと乗り上げ、そこへ腰掛ける。そうするとラーティより目線が高くなった。
「貴方はまだ休んでいた方がいい」
きっとラーティはルーカスに掛けられた呪いを気にして、当面の間ゆっくり休む気などさらさらない。
そもそも、そんな消耗し切った状態で体を重ねるなどとんでもない。そう念は押した。けれどもラーティは距離を取られたというのに、少しも動揺を見せない。
縁に座るルーカスへ向き直り、距離のある場所からジッとこちらを見据える。
「昨日陛下が言っていたことだが」
「はい」
「急にタメ口を吐けとは言わない。お前にとってそれは難儀なことだと私も理解している」
「…………はい」
「私を呼び捨てろと言っても、お前は出来ないだろう」
「……………………はい」
難儀というより恐れ多い。尊ぶべき方に真心込めて仕えたい。だからこそ難しいのだ。
「焦らせるつもりはない。どれほど時間を掛けても構わない。だが、陛下のおっしゃるように変わらずとも、お前がそのままでありたいのならそれはそれでいいと私は思っている」
それが原因で互いの溝を深めてしまいやすいことは、今回の件でラーティもよく理解したはずだ。なのにそのリスクごと全部、彼はルーカスを受け入れるつもりなのだ。
離れたルーカスの前までラーティが来る。しかし目線は湯船の縁に腰掛けるルーカスの方が上だ。
「ラーティ様はそれで本当によろしいのですか?」
見下ろすと、真剣な顔で一途に見つめられた。
「ルーカス、私は今も対等でありたいと思っている。しかし夫婦の形は一つではない。私達には私達なりの形に合ったものであればいい。無理に型に押し込める必要はない」
分かるな? そう言ってラーティはルーカスの両手を取った。
共にあるためなら形式には拘らないとするならば、そうすることで隙が生じる。このときルーカスは気になっていたことをようやく口にした。
「ですがそうすることでウルスラ様のように、思わぬ横槍が入ることもある」
ウルスラの名を聞いた途端、ラーティが眉間をピクリとさせた。
「ウルスラ……? ああ、それは……」
「オルガノからウルスラ様は眠ったままだと聞いています。ラーティ様を呼び出したのがウルスラ様ではなくフォルケだということも存じています。けれど本来ならウルスラ様はラーティ様の花嫁候補筆頭だった方です。ウルスラ様は今でもラーティ様との結婚を望んでいらっしゃるのでは?」
きっと浮気を問い詰めるような顔をルーカスはしていたのだろう、いつも余裕のラーティが僅かにたじろぐ。
「いや、そうではない。あれとはそういう仲ではなかった」
「は? 仲ではないとはいったいどのような……?」
ラーティは元来感情があまり表に出ない。それがどうしたというのか、このときばかりは珍しく、歯切れ悪く複雑な顔をした。年相応の青年のような苦り顔だ。
「お前が気にすることではない」
「はあ……」
ラーティはウルスラがよっぽど苦手なのか、それとも彼女との間に何かあったのだろうか……。まあいい、対等の関係を望んでくれているだけで十分だったのに、彼はそれ以上の提案をくれたのだから。
「そうか、貴方はまだ若いのだったな……」
「それはどういう意味だ?」
ラーティは目を眇め、訝しむ。彼は愛情表現が頗る素直だ。これまでの行動は全て、駆け引きとは縁遠い純真そのもの。
リスクも何も恐れない。若さ故に、その真っ直ぐな気質が尚更強く出ているのだろうと合点する。
未だ首を傾げているラーティに取られていた片手を離し、指先でこちらへもう少し近付くように促す。素直に傍へ寄ってきた彼の頬をルーカスは両手で包んだ。
「美しい貴方に雛鳥のように慕われるのは思いのほか嬉しいものだ」
ラーティの愛情を疑うような問い掛けは、それこそ愚問というものだ。
若返った顔に古参の影を宿し、オルガノにするようにさらりと言い切り微笑する。あらぬ答えに意表を突かれた様子でラーティが瞬く。
「ルーカス……?」
元従者の機微が読み切れず、惑うラーティの形のいい唇にルーカスは自らを重ねた。目を瞠ったラーティの体が驚いたように小さく動いたが、ルーカスは構わずしっとりと唇を合わせた。
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