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第二部

22 恐れるもの

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「ルーカス……?」

 最愛の人の声を聞いたような気がして、ラーティは馬を走らせながら屋敷のある方角を見た。ザワつく感覚に、手綱たずなを取る手に力が入り、眉をひそめる。

 ……今、ルーカスの声が聞こえたような気がした。

 ガロンにルーカスを守るよう言ってすぐに、ラーティはウルスラとの面会を切り上げ、城を出た。来るときの足にした、自身の愛馬に跨がり、疾走しっそうする。

 元々駿馬しゅんめと名高いラーティの愛馬だが、馬術を得意とするラーティの全力が加わると、従者達は主であるラーティの早駆けにとても追い付けない。後ろを付いてきているはずの従者達の姿は、途中で見えなくなった。

 従者達を置き去りに、ラーティは一人、石畳いしだたみの街道を駆け抜け、人里離れた屋敷に続く獣道を最速で走り抜ける。

 そうしてちょうど、屋敷の屋根の先端が見えてきたところだった。

 遠目に主の姿を認めた門番が開門し、ラーティは疾走する馬ごと敷地内へ入った。

 手綱たずなを強く引く。勢いづいた馬が落馬しそうなほど直立し、いななくのを制して落ち着かせる。すると、慌てた様子でわらわらと大勢の使用人達がやってきた。

「ラーティ様、お帰りなさいませ。お早いお帰りでござますね。いかがなさいましたか?」

 物腰の柔らかい、白い顎髭あごひげを生やした品の良い老夫──ガロンやメイド長のタリヤの影に隠れてすっかり存在の薄い執事長の問いかけに、ラーティははやる気持ちを抑え、息一つ乱すことなく答える。

「執事長、ルーカスはどこだ?」

「ルーカス様はお子様達の姿が見えないとおさがししております。かなり前になりますが、護衛のバルバーニと中庭をお捜しするとおっしゃっておりました。私共は別の場所を捜しておりまして……──ラーティ様?」

 話の途中でラーティは馬を降り、目をぱちくりさせる執筆長に手綱たずなを託して先を急ぐ。

 言われた通り向かうさなかにも、不穏な魔の気配が中庭の方から漂ってきていることに、ラーティは気付いた。

 嫌な予感がする……

 大丈夫だ。ルーカスにはガロン達が付いている。不安を殺し、足を早めた。

 そして五分とかからないうちに辿り着き、ラーティは見た。可憐な小さい青い花、リビオラが咲き乱れる中庭に、愛する人がぐったりと横たわる、無残むざんな姿を。





 ──ルーカス愛している。だから無理はするな。一人で抱え込むな。私に頼れ。

 城から戻ったら、ちゃんと話をするつもりだった。しかし目の前にいるのは……

「ルーカス?」

 返事はない。

 目を閉じて横たわっているルーカスの意識はなく、その横に、ラーティはいつも通りの落ち着き払った様相ようそうで腰を下ろす。軽く地面に片膝を付き、伴侶の具合を見る。

 血の気の失せたなめらかな頬に、そっと触れる。けれどもルーカスはピクリとも動かない。

 死を間近にした獣のように弱々しい息吹いぶき。ルーカスの体は死に向かい、今このときも、生気が失われていくのを感じた。

 朱に染まった頬。赤く腫れた喉にくっきりと残る、手の形をした痣。ルーカスの襟首から胸元まで、衣服は破れていた。はだけた胸元の、丁度心臓の真上には、奇怪な黒い紋様もんようが浮かび上がっている。

 ラーティにはそれが何の類いのものなのか、すぐに見当がついた。魔王討伐の折り、似たようなものを幾つか目にしたことがある。

「これは……呪いの紋様か……」

 顔色一つ変えず、ラーティは淡々とした口調でつぶやく。

 先程感じた魔の気配はおそらくこれだろう。呪いを掛けられたときの余波で衣服は破れたのか、千切れた布の端からは、微かに魔力の痕跡こんせきを感じる。

「ラーティ様……?」

 後方から、ナディルを腕に抱くバルバーニが、おそるおそる声を掛けてくる。

 最愛の人が倒れているのを目にしたにしては、ラーティはあまりに冷静すぎた。不審に、フォルケは眉をひそめ他の妖精達も警戒を強くしたが、ラーティは気にも止めず。その視線はルーカス一人に注がれていた。

 五十を越える妖精の存在に気付かないわけがない。けれどもラーティは中庭を占領する異種族の存在など無いかのように振る舞う。

「ルーカス……すまなかった」

 来るのが遅くなった。そう言って、もう一度ルーカスの頬に触れる。

 昔と違い、戦士の力を失ったルーカスの細身の体は、抱き締めると花の香りがした。産まれたときからずっと、ラーティを主と定め守り続けてくれた。いつだって温かく受け入れてくれる、かけがえのない人。

 ──しかし、ルーカスの頬は切られ、首を絞められ、呪いを掛けられた。

 そのかたわらには、横たわる母親の腕にひっしとしがみつく、黒い鱗に覆われた息子の姿があった。

 ルーカスの腕に顔をくっつけ伏せている。クーペの小さな体は、小刻みに震えていた。

 いつもキラキラと大きなおめめを輝かせ、お子様全開に生き生きと遊び回っている息子が、耐えるようにギュウッと目をつむり、静かにしているのだ。閉じた瞳からは絶え間なくしずくこぼれ、ルーカスの腕に落ちて服にじんわりと染み込んでいく。

 クーペは自分を拾い育ててくれたルーカスを、本当の親のように慕い、同時に守っていた。クーペにとって彼は何よりも大切な存在だ。

 そんなクーペが大暴れするでもなく、ただルーカスの腕におでこを当てて突っ伏している。まるで助けられなかったことを一生懸命謝罪するように……

 きっとルーカスの言い付けを守って、クーペは手を出さなかったのだろう。でなければルーカスがここまでやられているのを、この子がただ大人しく見ているわけがない。

 ルーカスの語らぬ過去に、フォルケが深く関わっていることで事態が起こり、そしてルーカスも……おそらく彼の気性からして、子供達を守るために己を盾にしたのだろう。

 母親の体に寄り添って、無力な自身を静かに責め続ける黒く小さなその背中に、ラーティはいたわるように手を置き、立ち上がる。

 これはあってはならないことだ。

 ラーティは自分達より三歩ほど離れた場所で立ち尽くすバルバーニを振り返る。彼の腕に抱っこされているナディルは、正確な状況は分かっていなくても、倒れた母親に抱きつく兄弟の悲痛な様相に何かを感じ取ったのだろう。放心し引きつった口を半開きに戦慄わななかせ、顔をグシャグシャにして泣いていた。

 愛する妻の無残むざんな姿と、傷付き酷く心を痛めた二人の息子の姿。

 静かな水面みなもに落ちた一滴のしずくが、やがて大きな波紋となるように。麻痺した感覚の中で、中庭に吹いていた風がピタリと止んだ。

 心の中に湧き起こるかつてないほどの怒りが、ゆっくりと渦を巻き形になるのを、ラーティは感じていた。

 普段から滅多なことでは感情を動かされないラーティが、己のものではないかのような、とどめがたいほどの強い感情にまれた。





 どのくらい気を失っていたのだろうか。久方ぶりに感じた、大気が動く懐かしい力の気配に、ルーカスは意識を取り戻した。

 うっすら目を開けて、鈍痛のする頭を片手で押さえながら、ゆっくりと半身を起こす。

 ルーカスの影からうねり、でた黒い闇──呪いの残渣ざんさに体をおかされる前、頭に響いた声は誰のものだったのか。不安に顔を曇らせ考えあぐねていると、ぬうっと視界に黒いものが入ってきた。

「クーペ……?」

 どアップで、顔を近付けてくる。目が溶けそうなほど涙をちょちょ切れさせたクーペの、そのひたいについた一筋の傷に、ルーカスは目を止めた。前回勇者オルガノに討伐されたときの傷だ。

 昔は歴代最強と恐れられた、凶悪な前回魔王カオスドラゴンが……

 素直に心配してくれるクーペに「私は大丈夫だ。すまない」そう言って頭をでる。すると、クーペは鼻先をルーカスの腹にピッタリとくっつけて、次の瞬間盛大にぴーぴー泣かれた。

 すっかりルーカスの子供になったクーペを愛しく思っていると──今度はそでをツンツン引かれる感覚に、顔を上げる。

 蒼天そうてんの瞳を持つ父親よりも明るい色合いの、幼い青い瞳がこちらを見下ろしていた。

 気付かなかった。いつの間に隣に来ていたのだろう。

 クーペをあやす視界の端に、腕にナディルを抱えたバルバーニの巨体をとらえていたはずが、どうやらその腕は抜け殻だったらしい。

 ナディルは地面に足を付け、ヨロヨロといささか不安定な足取りで、必死に自立していた。それも泣き濡れた顔で、ルーカスの袖をつたなつかんでいる。

 妖精の子宮から誕生した影響で、普通の子供より成長が早いと分かってはいた。けれど、いざ息子が立っている姿をの当たりにすると、胸に熱いものが込み上げてくる。

 ナディルの見た目が二歳児まで成長したのは、つい今朝方けさがただった。産まれてまだ三月みつきっていないのにと、ルーカスが驚いていると……母親を求めてナディルが小さな手を伸ばしてきた。当然と応えて、先に抱えていたクーペごと一緒に、ギュッと胸元に抱き締める。

 それから程なくして、子供達は泣き止み、落ち着きを取り戻した。ルーカスはホッと胸を撫で下ろす。

 ──が、ようやく子供達をあやすことができた安堵に余裕を取り戻し、辺りを見渡した視界に入ってきた光景に、ルーカスは目をみはる。

「あれは……」

 安心したのもつかの間だった。ルーカス達のいる場所より数十メートル離れた先──中庭の中央に巻き起こる風。砂塵さじんを呑み込み弧を描く嵐の中心には、ラーティがいた。

 ふいに耳を掠めたうめき声に、ルーカスは反射的に子供達を抱き寄せる。地べたに半身を起こした格好のまま、周囲を見渡す。辺りには強風に吹き飛ばされた、フォルケの仲間の妖精達が倒れていた。

 これは……勇者の力だ。





 怒りに大地が揺れ、空には黒い雲が渦巻いている。荒ぶる風が草木をなぶり、中庭に咲くリビオラを散らした。

 勇者の紋章に秘められた力を使えば、このくらい可能だ。本来のラーティであったなら、強風の一つや二つ起こすことなど、造作ぞうさもない。

 けれど今のラーティは、傷付いた勇者の紋章で力を無理矢理行使している。

 こんな無茶な使い方をしては、貴方の体が壊れてしまう……。

 状況が分からぬまま止めようとして、ルーカスは気付いた。凛然とたたずむラーティの前に相対する存在に。ラーティは一人ではなかった。彼の見据える先にはフォルケがいた。

 圧倒的な勇者の力にすべなく、周辺の草木同様、全身を嬲られ、引き裂かれた衣服のいたるところに血をにじませている。

 ひたいから流れる血が目に入ったのか、フォルケは片目を閉じていた。

 しかしラーティは牙を剥いた獣のように容赦なく、腰元の剣を鞘から引き抜く。

 対峙するフォルケは、剣を構える力すら残されていないようだ。「くっ」とうめき、だらりと利き手を他方の手で押さえながら、辛うじて立っている。風前ふうぜん灯火ともしびだ。

「ラーティ、様?」

 ルーカスの呼び掛けは、ラーティの周りを渦巻く強風にかき消されて、彼の元には届かない。

「ルーカスに呪いを掛けたのはお前か?」

 フォルケを射抜く、鋭利えいりな刃物のような鋭い眼差まなざし。そこから深い怒りを感じ取り、ルーカスはハッとする。

 ラーティはフォルケがルーカスに呪いを掛けたと誤解しているのだ。

 それも、少しの沈黙の後に、フォルケは何を思ったのか。負傷した体を不利とも思っていないような不敵な顔で、更に誤解を招くことを言った。

「……だとしたらどうする?」

「何だと?」

「彼に呪いを掛けたのが私だとしたら、どうするつもりなのかと聞いたのだ」

 何故そんなことをと思うルーカスの疑問など、視線を交え、にらみ合う二人の殺気には敵わない。

 挑発めいたフォルケの回答に、ラーティは冷ややかな目を向ける。

「呪いの術者であるお前を殺せば、ルーカスは助かる」

 いつも穏やかにルーカスの名を呼ぶラーティの声は低く、陰り。感情を圧し殺した眼光に潜む、言葉通りの決意に、背筋がゾクリと粟立あわだつ。

 ルーカスは自身の胸元──心臓の上に浮き出た紋様と、フォルケの首筋に再び現れた紋様を見やり、手を強く握る。

 ラーティが誤解した原因は、おそらくこのそろいの紋様のせいだ。「くそっ、これでは……ティアーナのときと同じではないか……」失意に暗く呟くルーカスを心配して、腕の中にいるクーペが「きゅいっ?」と鳴いた。その隣でナディルも心配そうに首をかしげている。

 ラーティは魔王討伐の折りに、呪いの知識を得たのだろう。呪いを打ち消すには、術者を倒すのが定石セオリーだ。ルーカスに掛けられた呪いが何かまでは特定できていなくても、彼はこの呪いがルーカスの命を奪うものだと、その本質を見抜いていた。

「……そうだと思うならそうしろ」

 他人事のように言いながら、フォルケは「だが、」と付け加える。

「きっと彼はそれを望まないだろうが……」

 言いざま、フォルケはルーカスをチラリと振り返る。次いでラーティも、地面に子供達を抱えた格好で座り込んでいるルーカスを見た。覚醒したルーカスに、二人は気付いていた。

「……構わない。どれほど恨み言を吐かれようと、ルーカスを失うことに比べれば安いものだ」

 ──なりふりなど構っていられるものか。

 ラーティは切なの表情を浮かべ、ルーカスから視線を外した。自嘲気味に吐き捨てた声は悲壮にまみれていた。

 まるで、瀕死ひんしの獣のような目だ……。

 ラーティがこれほど追い詰められるまで、何故気付かなかったのだろう。

 ルーカスはラーティが何を思ってこれほどあらぶっているのか、理解した。彼は恐れているのだ。我を忘れる程に、ルーカスを失うことを恐れている。
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