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1巻
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さらに月日が経ち、あれから四年が経過した現在。
二十二歳となる今でも叶わない想いを引きずるわたしは、結婚を諦めて、未だ恋人の一人も作れずにいる。
ラースがわたしの代わりに仕事をこなして帰ってくるのを、毎日のようにエントランスの階段の隅でこっそり眺めながら、「やっぱり今日もカッコいいわ」と呟く。
そうして一人だけ時が止まったかのように動けず、落ちぶれた自分とは正反対の華やかな義弟が、明日十八歳の成人を迎える。
ラースが家督を継げるようになるその日はつまり、わたしの存在が不要になる日でもある。
そして相変わらず、独りぼっちの寂しさを募らせながらラースに拒絶され続けるこの家に、わたしの居場所はない(キッパリ)。
この四年間、わたしが毛布に包まって嘆いてる間も、淡々と伯爵家のために尽くす義弟はもはや神々しい生き物だった。
昔も今も、それはもう後光が差すくらい素敵で……
ラースに言われた通り、わたしはまず見た目からしてこの家の当主には相応しくないのよね。
生前はシンフォルース随一の美女と謳われたお母様に似ず、地味で目立たない平均的な顔立ち。腰まで真っすぐ伸びた黒髪と黒い瞳は我ながら陰気臭い。その上、長年引きこもりで日光を浴びていないから色白で血色も悪い。
身長も低く小柄で、胸があるのがせめてもの救いだと自分でも思うくらい、見た目も中身も凡庸で冴えない伯爵令嬢だもの。これじゃあとても当主だなんて言えない。
うん、やっぱりわたしじゃあてんでダメだわ。
最近では、着替えが面倒だからと寝間着で屋敷をうろつく始末。
もちろんそんな格好でいるのは屋敷の中だけに限られるけど、それを目にしたラースは毎回顔を顰める。徹底的に知らんぷりで通していたらとうとう先日、不精にもほどがある、と苦虫を噛み潰したような顔で注意された。
それでもめげずに寝間着でうろついていたら、昨日はものすごい目で凄まれた。
仮にも伯爵家の当主として誉められた姿ではない。
そう訴えるラースの非難の視線が、彼の前を通り過ぎるたびに背中に刺さるのを感じながら、無言の圧力に屈せず今のところどうにか耐えている。まあほとんど風前の灯火だが。
とりあえずわたしから言えることは…………ラースが、ラースがっ! ここのところめちゃくちゃ機嫌悪くて怖いーっ! 半泣き。ということだった。
以前はわたしがいても空気みたいに素通りしてたくせに!
なぜだか最近、ラースはことあるごとにわたしに突っかかってくる。
今ではすっかりわたしにお小言を言うのが趣味というか、習慣? になってしまっているようで、実に板に付いた小姑っぷりだ。
ちゃんと迷惑かけないように布団の中か書斎で大人しくしてるのにー! いったいなにが気に入らないっていうのよぉーっ。
ハッ、もしかして……! いよいよ家督を継ぐから、ラース、緊張してお腹でも壊しているんだろーか。
……うーむ、それは不味いぞ。ここは念のため、腹痛の薬でも調合するよう医師に申し伝えることにしよう。
それにしても、ラースってば、昔はあんなに可愛くて天使だったのに、今ではいつも周りに女性を侍らせる天性のタラシに成長しちゃって。
わたしには口も愛想も悪いのに、世渡り上手で外面も良い。世の中って不平等。落ちこぼれの自分とは雲泥の差だ。
ラースには異国の血が混じっているせいか、筋肉質だがスラリとした肢体はエキゾチックで妙に色っぽい。その褐色の肌と黄金色の髪と瞳は人を惹きつけてやまない。
ラースは正真正銘の美青年だ。
文字通り美少年から美青年へ、立派に成長したラースを見るたび思う。わたしなどいなくても彼は十分豊かな人生を送ってゆける。むしろわたしが足を引っ張っているのだから、隠居宣言してもきっとサラッと許してくれるはず!
明日、ラースは成人する。四年前に決めた通り、ラースを自分というしがらみから解放してあげよう。
どうにかこうにか思考がまとまり、わたしは伯爵家を出ることを義弟に伝えるべく、布団から抜け出した。そして、寝間着姿で決意を新たに、足取り軽くラースの部屋へ向かうのだった。
第二章 隠居宣言
少し想像してほしい。
好きな人の体に厭らしく手を回す女達という凄惨たる光景など、誰が望んで見たいものだろうか?
もちろんわたしは見たくない。見たくない。見たくない。……だ、か、ら、見たくないってのにっ!
眼前のカウチソファーに女達と寝そべっているラースに、わたしの目は釘付けだ。
さっきまで、ルンルンでラースの部屋に隠居宣言しに来たわけよ。それが、なんで、ラースの情事を目撃しなきゃならないわけ?
時刻はもう昼の十二時を回ったというのに、部屋の中はカーテンが閉ざされたままで薄暗い。化粧と香水と他に、お香だかなんだかのよく分からない官能的な臭いが充満していた。
そして、なにより酷かったのが。
き、キスしてる……
ラースと隣に寝そべる女の一人が濃厚な口づけをしている。
わたしは部屋の扉の前で呆然と立ちながら、込み上げる吐き気にグッと口元を手の甲で押さえた。
普段から女を連れ込んでいるラースが、部屋の中でなにを行っているのかなんて知らなかった。幼い頃に拒絶されて以来、それ以上嫌われるのが怖くて彼の部屋に近づくこともできなかったのだから。
でもまさか……体を動かすのが好きなのは知っていたけど、運動は運動でもまさかそっちの方にいくとは思ってもいなかった。ショックで頭の中が真っ白だ。
はぁ……それにしても、なんなのこの不快な臭い。でもってものすごくクラクラする。
全身から血の気が引き、ガクンと膝から崩れそうになるのを必死に我慢した。――これ以上、ここにいたくない。ぐらつく頭で部屋を出ていこうとした、そのとき。
「姉さん?」
ようやくわたしの存在に気付いたラースが、目を丸くしてこちらを見つめている。
気付くの遅い。キスし過ぎなのよっ! 馬鹿ラース!
チラッと視線をやると黄金色の瞳と目が合う。
「また日を改めます……」と言おうとして気が付いた。
明日はラースの誕生日。家督を譲る前に、隠居のことを伝えるタイミングは今日しかない。
し、仕方ない。逃げるのだけはどうにか堪えよう、とぐっと足に力を込める。そのとき、耳障りな甲高い声が室内に響いた。
「いやだ! あれがラースのお姉様? てっきり使用人だと思ったわ!」
「でもあの格好! 寝間着でうろつくなんてはしたない。使用人の方がまだわきまえているのではなくて?」
「ふふふっ。これまた随分と子供じみたご当主様ですこと」
こ、子供――ッ⁉
さっきから随分好き勝手言ってくれるじゃない!
小馬鹿にしたような女達の笑い声に、できることならこのまま回れ右して、自室か書斎に引きこもりたかった。とりあえず、四散しかけた理性と知性を総動員して、どうにか体裁を守ろうと努める。
落ち着けわたし。わたしは大人、わたしは大人、わたしは大……
「お母様はシンフォルース随一の美女でしたのに……残念ですわね。ああ、でもお飾りの当主としては上出来よ? 一目で似非者だって分かりますもの」
――今、なんと?
ラースとキスしていた女から発せられた言葉に、わたしはぷちっとキレた。
ソファーに寝そべりながら、女達の中心にいる義弟――ラースに冷たい視線を送る。そして、汚らわしいものでも見るような、恨み辛みのこもった蔑みの目で女達を睨みつける。
「おだまりなさいッ!」
怒りに燃えたわたしの激しすぎる感情に当てられて、女達がビクリとひるんだ。
よくもわたしのコンプレックスど真ん中を刺激してくれたわね? 誰かタコっ! タコ持ってきてっ! と、猛烈にタコを所望するくらいに腹を立てていた。
「いやだわ、部屋の中に虫が」
わたしはそう呟くと、躊躇することなく、ポケットから取り出した物を女達に向かってぶん投げた。
売られた喧嘩だ、遠慮することはない。
「キャ――ッ! やだっ、なによコレッ⁉」
「冗談じゃないわよ! ヴィンテージものの留め金が!」
「お父様からいただいた珍しい異国の毛織物がパアじゃないっ!」
気持ちいいくらい狙った通りの甲高い悲鳴が次々あがる。
先ほどわたしが投げつけたのは、ハーブ入り害虫防止スプレーだ。正規の使用方法を丸っと無視して蓋を取り、中身の原液が飛び散るようにして投げたのだ。
綺麗な弧を描いて飛んだそれは狙い通り女達に降りかかり、部屋の壁にパリンッと当たって壊れた。容器の素材はガラスだから極力女達に当たらないよう注意はしたが、彼女達にはそんなことは関係ない。カンカンにお冠である。
今にも掴み掛かってきそうな女達を前に、一呼吸してから腹にグッと力を入れると、わたしは人差し指を立てて口の前に当てた。
「皆様、お静かに」
さっきまで言われっぱなしのサンドバッグだったのに、害虫防止スプレーをぶん投げるという所業。さらにはシーッと子供にするみたいに注意されて、状況を掴めない女達はポカーンとしている。
「それ以上当家で騒がれるのは少々、いえ、ものすごーく迷惑ですわ。お帰りくださいな」
してやったりと笑うわたしを見て、我に返った皆様は、一律「はぁ?」と額に青筋立てて怒り心頭だ。そこでようやく義弟再登場。もちろんこっちも怒ってた、相当に。
「姉さんっ⁉ なにやってるんだよ!」
ラースが出てくるまで大分間があったな、と悠長なことを考えてる場合じゃないんだけど、ラースのこんなに怒った顔を見るのは久しぶりだ。
もちろん彼も頭から原液を被っている。扉の前にいるわたしの近くまで来たラースからは、ハーブの爽やかな匂いがした。
「わたしが当主を務めるこの屋敷に無断で入り込み、淫行にふけるなんて許せません。それに、大人しく帰るならそれを不問にすると言っているのです」
しらないっ。わたしはツンッとラースから顔を逸らした。
すると、彼は目を眇めて声を荒らげる。
「姉さん!」
はい、嘘です。調子に乗りました。無断でもなんでも、ラースの知り合いが屋敷を出入りするのにいちいちわたしの許可なんていりません。他になにも言えないから立場を乱用しました。でもちょっと格好つけたかったんです。
内心では平謝りだが、ここで素直に謝るわけにはいかない。頑として自分の方を向こうとしないわたしを、ラースは咎めるように見据える。
今更風紀を乱すなと言われても……ということなんだろうけど、でもここで、負けるわけにはいかないのよ!
そう思っていると、「お、お父様に言い付けてやるわ!」「似非者のくせして生意気よ!」「ラースに助けてもらわないとなにもできない木偶が偉そうに!」と罵詈雑言が女達から飛んできた。
ちっとも応えていない様子に逃げ出しそうになるが、ここが踏ん張りどころだ。
……仕方ない、こうなったら奥の手だわ。
「そうですか。では皆様が当家でどのような振る舞いをなさっているか、うちの執事からご両親に連絡させましょうか? 結婚前の純潔を尊重している貴族の方々なら、きっと大いに関心がおありだと思いますの」
数撃ちゃ当たると言うが、やっと一撃が効いたようだ。一斉にピシッと固まった女達を前に、わたしは「お帰りはあちら」とドアを指してにっこり笑った。
「どうぞ、お引き取りくださいませ」
あと少し。あともう少しで女達をラースの部屋から追い出せる!
しかし、ここで思わぬ邪魔が入った。
「――きゃっ! ラース⁉ それを返しなさい! ラース!」
実はもう一つ予備のスプレーをポケットに忍ばせていたことがバレて、それをラースに取り上げられてしまったのだ。まだなにか言うようなら、隙を見てもう一度吹きかけてやろうかと思っていたのに……これでは台無しじゃないのっ!
取り返そうと必死に手を伸ばしたが、ラースに高く持ち上げられてしまって届かない。
それでも諦めきれなくて、わたしより一回り以上大きいラースの体によじ登ろうとしたら、今度こそキッパリ怒られてしまった。
「ユイリー、これ以上は駄目だ」
「……っ!」
「それと君達も引いてくれ」
ラースは冷たい表情で言うと、片手でわたしの体を難なく取り押さえた。ラースに名前で呼ばれるなんてことは滅多になくて、わたしは口を噤んだ。
しかし、ラースの様子に圧倒されたのは女達も同じだったようで、全員青い顔をして息を呑み、大人しく押し黙っている。
ちなみに取り押さえたといっても、ラースはわたしが一応当主であることを考えてか、手荒に扱ってはいない。傷付けないよう注意深く抱き上げられて、わたしは俯きがちに彼を一瞥した。
これは……本気で怒ってる? 怒ってるよね? 怒ってるかぁ。
ラースはわたしがどんなに我が儘を言っても、ハチャメチャなことをしても、結局最後には許してくれる。わたしにはぶっきらぼうで口は悪いし、顔を合わせれば喧嘩ばかりだけれど、ラースが他人に好かれるのは理解できる。
ラースは見た目だけじゃない。どんな人も大切にする、優しくて良い子なのだ。
当主の仕事だってなにも言わずに助けてくれるし……ラースって世話焼きタイプ? そういう性格なのかしら?
力のあるラースに抱えられると、互いの身長差があり過ぎてどうしても足元が浮いてしまう。宙に浮いた足をぷらぷらとさせていたら、なんだか酷い無力感に襲われた。
嫌いな姉にも優しくできるなんて、ラースは懐広いわよね。でもあの女にはキスで、わたしにはこれって…………扱いの差が酷い!
それがどうにも腹立たしくて、わたしはラースをキッと睨んだ。
「そんな顔しても無駄だよ」
いつもなら喧嘩したり、わたしが近づいたりするとすぐに距離を取るくせに! なのに今日は抱き上げられたまんまだし……本当に最近どうしたの?
丁度、胸の下に回されたラースの腕に力が入って少し体に食い込んだ。硬く逞しい腕をまざまざと感じて自然と頬に熱が集まる。
こんな状況にもかかわらず、ラースに触れられるのがこんなにも嬉しいだなんて……サイテーだわ。わたしってこんなに気持ち悪い人間だったんだ……嫌な感情を知ってしまった。
「……お前達はもう帰りな」
不機嫌を隠そうともせず、ラースはため息混じりに女達に言った。
女達が帰ってようやくラースの腕から解放されたわたしは、静かになった部屋の窓をさっそく開けた。
一刻も早く換気がしたい。そうして一人せっせと空気を入れ換えている間も、姉弟喧嘩は続いていたりする。
「明日であなたは成人するというのに、女を侍らせているだなんて……今は亡きお父様とお母様に申し訳が立たないじゃないの!」
「それ、一日中引きこもって、寝間着でうろついてる姉さんには一番言われたくないんだけど」
「うっ」
ソファーに座り直したラースの呆れた声にギクリと肩が強張る。片手で髪を掻き上げながら、ラースは気だるげに続ける。その姿にも胸が高鳴ってしまうのだから、わたしは大概重症だ。
「ったく……女を全員怒らせて帰らせるなんて、子供じゃあるまいし」
疲れ切った様子のラースを前に、わたしはカーテンをぎゅっと握り締めた。
……確かに図星だけど。散々言われて腹が立ったんだもの。
「それと気軽に男の部屋に入ってくるなよな」
「一応ノックはしたわよ? あなたがキスするのに夢中で気付かなかっただけでしょ?」
「俺が自分の部屋でなにしようと文句を言われる筋合いはないと思うけど?」
だからって! と、喉から出かけた言葉をグッと呑み込む。
今夜、十二時きっかりにわたしはラースに家督を譲って家を出る、予定だからだ。でもってここから遠く離れた田舎に用意した別邸で、本に囲まれた隠居生活を送ることになる。そうなればもう二度と、こうして言葉を交わすこともない。姉弟ごっこは今日でおしまいだ。
こんな姉弟喧嘩もできなくなる。そう思うとなんだか切ない。
……困った。想像するだけで寂しさに胸が押しつぶされそう。
「つーかさ、こんなものいったいどこで手に入れたんだよ?」
まさかわたしが出ていくなどと微塵も思っていないであろうラースが、先ほどわたしから取り上げた害虫防止スプレーを眼前で揺らす。
「それ? 中身は自分で調合したから普通では売ってないんじゃないかしら。あなた専用の虫除けに丁度いいんじゃないかと思って」
「姉さんってサイテーだな」
ラースはそう言って小さく息を吐いた。それを横目に見ながら、わたしは密かに自嘲する。
自分が最低な人間だなんて、これまでの言動にくわえて、さっきの女達との一件で嫌というほど思い知っている。
「冗談よ。あなたと話をした後で書斎に行くつもりだったの。書斎の空気を入れ換えるついでに使おうと思っていたのよ。本が虫食いだらけになったら嫌だから」
本当はそのために作った害虫防止スプレー。それがまさか義弟に集る虫に使うことになるとは、わたしだって思ってもみなかったわよ。と、やっぱり文句の一つも言ってやりたい。
「それよりも、最低なのはラースの方じゃないの! 毎日毎日、飽きもせず女を部屋に連れ込んで不潔だわ」
それに卑猥だわ。ムッと口を噤んで鼻白む。
感情的になりだしたわたしとの会話が面倒になってくると、ラースは大抵その場からいなくなる。そうやって逃げられ続けてきたから、今回も同じパターンかとわたしは構えていた。
「不潔って……ああ、そうか。姉さんって男っ気ないもんな。ああいうのは全部そう見えるのか」
あれっ? なんで? やっぱりラースがおかしい。ラースが逃げない。
以前のラースはわたしが近くにいるのも嫌がった。本当にここ最近の話だが、なぜだかラースはわたしを避けようとしなくなった。
それとも今回は、女達を帰されたのがよっぽど腹に据えかねているのだろうか。思わずキョトンと眺めていたら、彼は綺麗な黄金色の目を伏せて小馬鹿にしたように笑った。
きっとわたしが笑えるくらい間抜けな表情をしていたのだろう。恥ずかしさに頬がカッと熱くなる。
「てか、姉さん、好きな奴いるの? それ以前に人を好きになったことある?」
「しっ、失礼ね! わたしにも好きな人くらいいます!」
…………BL本の登場人物だけど。それにもっというと本命はあなたなんですけど。
というのはもちろん内緒だ。
ムキになって言い返すと、ラースの眉がピクッと動いたような気がした。
「……へぇ。そんな格好でうろついてる姉さんの姿を見たら、そいつ幻滅するんじゃないの?」
「っ!」
確かに、いくら楽だからって寝間着――ネグリジェで屋敷をうろつくのはやっぱり不味いか。でもなー楽だしなー。
わたしは自分の格好を見下ろした。こんな格好で屋敷をうろつくため、ラースには日々怒られているがそれも慣れた。今ではなにを言われても右から左、のはずなのだが……
「わ、わたしはいいのよ! どうせ誰も見ないんだから」
「ふーん」
好きな人の口から出た『幻滅』という言葉に動揺して、思わず早口で捲し立てる。
それにしても、さっきからダラダラとソファーで寝そべっているのに、どうしてそう絵になるのよ。わたしがやったらトドがデーンと昼寝しているようにしか見えないのを、完璧な美貌でカバーする。
我が義弟ながらカッコいいにもほどがある。
「正式の場ではちゃんとした格好で出てるんだから、別にいいでしょ?」
懲りもせずに言い張ると、ラースは「はいはい」と妙に鼻につく相槌をした。
なんなのよー! いつもそう文句ばっかり言って……わたしの寝間着姿が癇に障るならこっちなんか見なきゃいいじゃない……
だらしなく顔だけ動かして、じっとこちらを見つめるラース。
はだけた胸元から覗く褐色の肌が妙に色っぽい。
先ほどまで女達と口づけを交わしていた男らしい肉厚の唇が、艶やかに孤を描く。
わたしは義弟から漂う色香にオドオドと視線を床に泳がせた。
「な、なによ?」
「ネグリジェってさ、脱がせやすいようにできてるって知ってる?」
「…………へ?」
「セックスしやすいように」
「せ、セッ……って……」
カーテンの端を握ったまま絶句するわたしに、ラースが声をあげて笑い出した。
流石女ったらしなだけのことはある。わたしが普段使えないような単語を臆面もなく言ってみせるのだから。
さっきからラースは恥ずかしいことばかり言う。遠慮のないラースの発言が大人の世界過ぎて、わたしは顔を真っ赤にしながら俯いた。
もう二十二歳なのに。引きこもりで普段から人とあまり話をしないから、そういう話題には気軽に参加できないし、ノリにもついていけない。
とはいえ興味はあるし、なにをするのかはBL本を読むくらいだから知っている。けれど、そういう行為を実践したことがない手前、どう返せばいいのか分からない。
ここでも義弟との差を見せつけられたようで、やるせなさに小さく唇を噛む。泣きそうだ。
「……姉さん、嘘だよ」
わたしがすっかり落ち込んでいることに気付いてやり過ぎたと思ったらしい。ラースはばつが悪そうに言う。
「……からかったの?」
「ただそういう意味で捉える奴もいるってことだよ」
上目遣いでラースを見つめると、彼は一瞬息を呑んで、ふっと顔を逸らした。
完全に憐れまれている。
ラース以外に想える相手が見つからなくて、処女を卒業することができなかったのは確かに痛い。だって仕方ないじゃない。他の男性に触れられることを想像するだけで、鳥肌が立って気持ちが悪くなるんだもの。
うー、わたしって馬鹿だわ。こんな女ったらしで冷たくて自分を嫌ってる相手なのにどうしようもなく好きだなんて。それに……
――もし抱かれるなら、最初はラースがいい。
とか、性懲りもなく思ってしまうのだから救いようがない。
一度だけでも思い出として残しておきたい気持ちに駆られて、ラースの部屋の前まで来てノックをする寸前で我に返り、慌てて引き返したことなら何度もある。
そもそも、抱いてほしいって自分から夜這いをかけられるくらいの度胸があったら苦労しない。
こんな会話の最中にも、ラースとの情事を想像し、わたしが赤面しているなど目の前の当人は知るよしもないだろう。
「なに? 随分顔が赤いけど……やらしいことでも想像した?」
「っ!」
勘がいいことこの上ない。
また元の調子に戻って楽しげにクスクス笑いながら、ラースは余裕の表情でソファーに座り直した。その姿をボーっと眺めながら、わたしはさっきからどうしても確かめたくてうずうずしていたことを、無意味だとは分かっていても聞いてしまっていた。
「……ラースは」
「ん?」
「ラースもその……この格好、そう思って見てるの?」
「……ははっ、なに言ってんだか」
意を決して尋ねるも、少しの沈黙の後、乾いた笑いで一蹴された。相手にすらされていないことをはっきり見せつけられ、途端、わたしは現実に引き戻された。
想い人にここまで見下される前に、もっと早く関係自体を切り捨てるべきだったのかもしれない。未練たらしく当主の座に託けて居座り続けるのではなく、さっさと屋敷を出るべきだったのに。
「はぁ…………わたしはそんなことをあなたと話すために来たんじゃないのよ」
「じゃあ、なにしに来たんだよ?」
少しでも長くラースの傍にいたくて、今までどうしても去ることができなかったのだ。でも――
「姉さん?」
なにも言わないわたしを、ラースが訝しげに見つめる。わたしは表情を引き締め、改めて彼に向き直った。
頑張れわたし! 言うなら今よ!
「ラウレンティウス・スピアリング……お父様の遺言通り、明日、あなたが十八になる誕生日にわたしはあなたに家督を譲ります。わたしは田舎にでも引っ越して隠居するつもりなので、後はあなたの好きになさってください」
さらに月日が経ち、あれから四年が経過した現在。
二十二歳となる今でも叶わない想いを引きずるわたしは、結婚を諦めて、未だ恋人の一人も作れずにいる。
ラースがわたしの代わりに仕事をこなして帰ってくるのを、毎日のようにエントランスの階段の隅でこっそり眺めながら、「やっぱり今日もカッコいいわ」と呟く。
そうして一人だけ時が止まったかのように動けず、落ちぶれた自分とは正反対の華やかな義弟が、明日十八歳の成人を迎える。
ラースが家督を継げるようになるその日はつまり、わたしの存在が不要になる日でもある。
そして相変わらず、独りぼっちの寂しさを募らせながらラースに拒絶され続けるこの家に、わたしの居場所はない(キッパリ)。
この四年間、わたしが毛布に包まって嘆いてる間も、淡々と伯爵家のために尽くす義弟はもはや神々しい生き物だった。
昔も今も、それはもう後光が差すくらい素敵で……
ラースに言われた通り、わたしはまず見た目からしてこの家の当主には相応しくないのよね。
生前はシンフォルース随一の美女と謳われたお母様に似ず、地味で目立たない平均的な顔立ち。腰まで真っすぐ伸びた黒髪と黒い瞳は我ながら陰気臭い。その上、長年引きこもりで日光を浴びていないから色白で血色も悪い。
身長も低く小柄で、胸があるのがせめてもの救いだと自分でも思うくらい、見た目も中身も凡庸で冴えない伯爵令嬢だもの。これじゃあとても当主だなんて言えない。
うん、やっぱりわたしじゃあてんでダメだわ。
最近では、着替えが面倒だからと寝間着で屋敷をうろつく始末。
もちろんそんな格好でいるのは屋敷の中だけに限られるけど、それを目にしたラースは毎回顔を顰める。徹底的に知らんぷりで通していたらとうとう先日、不精にもほどがある、と苦虫を噛み潰したような顔で注意された。
それでもめげずに寝間着でうろついていたら、昨日はものすごい目で凄まれた。
仮にも伯爵家の当主として誉められた姿ではない。
そう訴えるラースの非難の視線が、彼の前を通り過ぎるたびに背中に刺さるのを感じながら、無言の圧力に屈せず今のところどうにか耐えている。まあほとんど風前の灯火だが。
とりあえずわたしから言えることは…………ラースが、ラースがっ! ここのところめちゃくちゃ機嫌悪くて怖いーっ! 半泣き。ということだった。
以前はわたしがいても空気みたいに素通りしてたくせに!
なぜだか最近、ラースはことあるごとにわたしに突っかかってくる。
今ではすっかりわたしにお小言を言うのが趣味というか、習慣? になってしまっているようで、実に板に付いた小姑っぷりだ。
ちゃんと迷惑かけないように布団の中か書斎で大人しくしてるのにー! いったいなにが気に入らないっていうのよぉーっ。
ハッ、もしかして……! いよいよ家督を継ぐから、ラース、緊張してお腹でも壊しているんだろーか。
……うーむ、それは不味いぞ。ここは念のため、腹痛の薬でも調合するよう医師に申し伝えることにしよう。
それにしても、ラースってば、昔はあんなに可愛くて天使だったのに、今ではいつも周りに女性を侍らせる天性のタラシに成長しちゃって。
わたしには口も愛想も悪いのに、世渡り上手で外面も良い。世の中って不平等。落ちこぼれの自分とは雲泥の差だ。
ラースには異国の血が混じっているせいか、筋肉質だがスラリとした肢体はエキゾチックで妙に色っぽい。その褐色の肌と黄金色の髪と瞳は人を惹きつけてやまない。
ラースは正真正銘の美青年だ。
文字通り美少年から美青年へ、立派に成長したラースを見るたび思う。わたしなどいなくても彼は十分豊かな人生を送ってゆける。むしろわたしが足を引っ張っているのだから、隠居宣言してもきっとサラッと許してくれるはず!
明日、ラースは成人する。四年前に決めた通り、ラースを自分というしがらみから解放してあげよう。
どうにかこうにか思考がまとまり、わたしは伯爵家を出ることを義弟に伝えるべく、布団から抜け出した。そして、寝間着姿で決意を新たに、足取り軽くラースの部屋へ向かうのだった。
第二章 隠居宣言
少し想像してほしい。
好きな人の体に厭らしく手を回す女達という凄惨たる光景など、誰が望んで見たいものだろうか?
もちろんわたしは見たくない。見たくない。見たくない。……だ、か、ら、見たくないってのにっ!
眼前のカウチソファーに女達と寝そべっているラースに、わたしの目は釘付けだ。
さっきまで、ルンルンでラースの部屋に隠居宣言しに来たわけよ。それが、なんで、ラースの情事を目撃しなきゃならないわけ?
時刻はもう昼の十二時を回ったというのに、部屋の中はカーテンが閉ざされたままで薄暗い。化粧と香水と他に、お香だかなんだかのよく分からない官能的な臭いが充満していた。
そして、なにより酷かったのが。
き、キスしてる……
ラースと隣に寝そべる女の一人が濃厚な口づけをしている。
わたしは部屋の扉の前で呆然と立ちながら、込み上げる吐き気にグッと口元を手の甲で押さえた。
普段から女を連れ込んでいるラースが、部屋の中でなにを行っているのかなんて知らなかった。幼い頃に拒絶されて以来、それ以上嫌われるのが怖くて彼の部屋に近づくこともできなかったのだから。
でもまさか……体を動かすのが好きなのは知っていたけど、運動は運動でもまさかそっちの方にいくとは思ってもいなかった。ショックで頭の中が真っ白だ。
はぁ……それにしても、なんなのこの不快な臭い。でもってものすごくクラクラする。
全身から血の気が引き、ガクンと膝から崩れそうになるのを必死に我慢した。――これ以上、ここにいたくない。ぐらつく頭で部屋を出ていこうとした、そのとき。
「姉さん?」
ようやくわたしの存在に気付いたラースが、目を丸くしてこちらを見つめている。
気付くの遅い。キスし過ぎなのよっ! 馬鹿ラース!
チラッと視線をやると黄金色の瞳と目が合う。
「また日を改めます……」と言おうとして気が付いた。
明日はラースの誕生日。家督を譲る前に、隠居のことを伝えるタイミングは今日しかない。
し、仕方ない。逃げるのだけはどうにか堪えよう、とぐっと足に力を込める。そのとき、耳障りな甲高い声が室内に響いた。
「いやだ! あれがラースのお姉様? てっきり使用人だと思ったわ!」
「でもあの格好! 寝間着でうろつくなんてはしたない。使用人の方がまだわきまえているのではなくて?」
「ふふふっ。これまた随分と子供じみたご当主様ですこと」
こ、子供――ッ⁉
さっきから随分好き勝手言ってくれるじゃない!
小馬鹿にしたような女達の笑い声に、できることならこのまま回れ右して、自室か書斎に引きこもりたかった。とりあえず、四散しかけた理性と知性を総動員して、どうにか体裁を守ろうと努める。
落ち着けわたし。わたしは大人、わたしは大人、わたしは大……
「お母様はシンフォルース随一の美女でしたのに……残念ですわね。ああ、でもお飾りの当主としては上出来よ? 一目で似非者だって分かりますもの」
――今、なんと?
ラースとキスしていた女から発せられた言葉に、わたしはぷちっとキレた。
ソファーに寝そべりながら、女達の中心にいる義弟――ラースに冷たい視線を送る。そして、汚らわしいものでも見るような、恨み辛みのこもった蔑みの目で女達を睨みつける。
「おだまりなさいッ!」
怒りに燃えたわたしの激しすぎる感情に当てられて、女達がビクリとひるんだ。
よくもわたしのコンプレックスど真ん中を刺激してくれたわね? 誰かタコっ! タコ持ってきてっ! と、猛烈にタコを所望するくらいに腹を立てていた。
「いやだわ、部屋の中に虫が」
わたしはそう呟くと、躊躇することなく、ポケットから取り出した物を女達に向かってぶん投げた。
売られた喧嘩だ、遠慮することはない。
「キャ――ッ! やだっ、なによコレッ⁉」
「冗談じゃないわよ! ヴィンテージものの留め金が!」
「お父様からいただいた珍しい異国の毛織物がパアじゃないっ!」
気持ちいいくらい狙った通りの甲高い悲鳴が次々あがる。
先ほどわたしが投げつけたのは、ハーブ入り害虫防止スプレーだ。正規の使用方法を丸っと無視して蓋を取り、中身の原液が飛び散るようにして投げたのだ。
綺麗な弧を描いて飛んだそれは狙い通り女達に降りかかり、部屋の壁にパリンッと当たって壊れた。容器の素材はガラスだから極力女達に当たらないよう注意はしたが、彼女達にはそんなことは関係ない。カンカンにお冠である。
今にも掴み掛かってきそうな女達を前に、一呼吸してから腹にグッと力を入れると、わたしは人差し指を立てて口の前に当てた。
「皆様、お静かに」
さっきまで言われっぱなしのサンドバッグだったのに、害虫防止スプレーをぶん投げるという所業。さらにはシーッと子供にするみたいに注意されて、状況を掴めない女達はポカーンとしている。
「それ以上当家で騒がれるのは少々、いえ、ものすごーく迷惑ですわ。お帰りくださいな」
してやったりと笑うわたしを見て、我に返った皆様は、一律「はぁ?」と額に青筋立てて怒り心頭だ。そこでようやく義弟再登場。もちろんこっちも怒ってた、相当に。
「姉さんっ⁉ なにやってるんだよ!」
ラースが出てくるまで大分間があったな、と悠長なことを考えてる場合じゃないんだけど、ラースのこんなに怒った顔を見るのは久しぶりだ。
もちろん彼も頭から原液を被っている。扉の前にいるわたしの近くまで来たラースからは、ハーブの爽やかな匂いがした。
「わたしが当主を務めるこの屋敷に無断で入り込み、淫行にふけるなんて許せません。それに、大人しく帰るならそれを不問にすると言っているのです」
しらないっ。わたしはツンッとラースから顔を逸らした。
すると、彼は目を眇めて声を荒らげる。
「姉さん!」
はい、嘘です。調子に乗りました。無断でもなんでも、ラースの知り合いが屋敷を出入りするのにいちいちわたしの許可なんていりません。他になにも言えないから立場を乱用しました。でもちょっと格好つけたかったんです。
内心では平謝りだが、ここで素直に謝るわけにはいかない。頑として自分の方を向こうとしないわたしを、ラースは咎めるように見据える。
今更風紀を乱すなと言われても……ということなんだろうけど、でもここで、負けるわけにはいかないのよ!
そう思っていると、「お、お父様に言い付けてやるわ!」「似非者のくせして生意気よ!」「ラースに助けてもらわないとなにもできない木偶が偉そうに!」と罵詈雑言が女達から飛んできた。
ちっとも応えていない様子に逃げ出しそうになるが、ここが踏ん張りどころだ。
……仕方ない、こうなったら奥の手だわ。
「そうですか。では皆様が当家でどのような振る舞いをなさっているか、うちの執事からご両親に連絡させましょうか? 結婚前の純潔を尊重している貴族の方々なら、きっと大いに関心がおありだと思いますの」
数撃ちゃ当たると言うが、やっと一撃が効いたようだ。一斉にピシッと固まった女達を前に、わたしは「お帰りはあちら」とドアを指してにっこり笑った。
「どうぞ、お引き取りくださいませ」
あと少し。あともう少しで女達をラースの部屋から追い出せる!
しかし、ここで思わぬ邪魔が入った。
「――きゃっ! ラース⁉ それを返しなさい! ラース!」
実はもう一つ予備のスプレーをポケットに忍ばせていたことがバレて、それをラースに取り上げられてしまったのだ。まだなにか言うようなら、隙を見てもう一度吹きかけてやろうかと思っていたのに……これでは台無しじゃないのっ!
取り返そうと必死に手を伸ばしたが、ラースに高く持ち上げられてしまって届かない。
それでも諦めきれなくて、わたしより一回り以上大きいラースの体によじ登ろうとしたら、今度こそキッパリ怒られてしまった。
「ユイリー、これ以上は駄目だ」
「……っ!」
「それと君達も引いてくれ」
ラースは冷たい表情で言うと、片手でわたしの体を難なく取り押さえた。ラースに名前で呼ばれるなんてことは滅多になくて、わたしは口を噤んだ。
しかし、ラースの様子に圧倒されたのは女達も同じだったようで、全員青い顔をして息を呑み、大人しく押し黙っている。
ちなみに取り押さえたといっても、ラースはわたしが一応当主であることを考えてか、手荒に扱ってはいない。傷付けないよう注意深く抱き上げられて、わたしは俯きがちに彼を一瞥した。
これは……本気で怒ってる? 怒ってるよね? 怒ってるかぁ。
ラースはわたしがどんなに我が儘を言っても、ハチャメチャなことをしても、結局最後には許してくれる。わたしにはぶっきらぼうで口は悪いし、顔を合わせれば喧嘩ばかりだけれど、ラースが他人に好かれるのは理解できる。
ラースは見た目だけじゃない。どんな人も大切にする、優しくて良い子なのだ。
当主の仕事だってなにも言わずに助けてくれるし……ラースって世話焼きタイプ? そういう性格なのかしら?
力のあるラースに抱えられると、互いの身長差があり過ぎてどうしても足元が浮いてしまう。宙に浮いた足をぷらぷらとさせていたら、なんだか酷い無力感に襲われた。
嫌いな姉にも優しくできるなんて、ラースは懐広いわよね。でもあの女にはキスで、わたしにはこれって…………扱いの差が酷い!
それがどうにも腹立たしくて、わたしはラースをキッと睨んだ。
「そんな顔しても無駄だよ」
いつもなら喧嘩したり、わたしが近づいたりするとすぐに距離を取るくせに! なのに今日は抱き上げられたまんまだし……本当に最近どうしたの?
丁度、胸の下に回されたラースの腕に力が入って少し体に食い込んだ。硬く逞しい腕をまざまざと感じて自然と頬に熱が集まる。
こんな状況にもかかわらず、ラースに触れられるのがこんなにも嬉しいだなんて……サイテーだわ。わたしってこんなに気持ち悪い人間だったんだ……嫌な感情を知ってしまった。
「……お前達はもう帰りな」
不機嫌を隠そうともせず、ラースはため息混じりに女達に言った。
女達が帰ってようやくラースの腕から解放されたわたしは、静かになった部屋の窓をさっそく開けた。
一刻も早く換気がしたい。そうして一人せっせと空気を入れ換えている間も、姉弟喧嘩は続いていたりする。
「明日であなたは成人するというのに、女を侍らせているだなんて……今は亡きお父様とお母様に申し訳が立たないじゃないの!」
「それ、一日中引きこもって、寝間着でうろついてる姉さんには一番言われたくないんだけど」
「うっ」
ソファーに座り直したラースの呆れた声にギクリと肩が強張る。片手で髪を掻き上げながら、ラースは気だるげに続ける。その姿にも胸が高鳴ってしまうのだから、わたしは大概重症だ。
「ったく……女を全員怒らせて帰らせるなんて、子供じゃあるまいし」
疲れ切った様子のラースを前に、わたしはカーテンをぎゅっと握り締めた。
……確かに図星だけど。散々言われて腹が立ったんだもの。
「それと気軽に男の部屋に入ってくるなよな」
「一応ノックはしたわよ? あなたがキスするのに夢中で気付かなかっただけでしょ?」
「俺が自分の部屋でなにしようと文句を言われる筋合いはないと思うけど?」
だからって! と、喉から出かけた言葉をグッと呑み込む。
今夜、十二時きっかりにわたしはラースに家督を譲って家を出る、予定だからだ。でもってここから遠く離れた田舎に用意した別邸で、本に囲まれた隠居生活を送ることになる。そうなればもう二度と、こうして言葉を交わすこともない。姉弟ごっこは今日でおしまいだ。
こんな姉弟喧嘩もできなくなる。そう思うとなんだか切ない。
……困った。想像するだけで寂しさに胸が押しつぶされそう。
「つーかさ、こんなものいったいどこで手に入れたんだよ?」
まさかわたしが出ていくなどと微塵も思っていないであろうラースが、先ほどわたしから取り上げた害虫防止スプレーを眼前で揺らす。
「それ? 中身は自分で調合したから普通では売ってないんじゃないかしら。あなた専用の虫除けに丁度いいんじゃないかと思って」
「姉さんってサイテーだな」
ラースはそう言って小さく息を吐いた。それを横目に見ながら、わたしは密かに自嘲する。
自分が最低な人間だなんて、これまでの言動にくわえて、さっきの女達との一件で嫌というほど思い知っている。
「冗談よ。あなたと話をした後で書斎に行くつもりだったの。書斎の空気を入れ換えるついでに使おうと思っていたのよ。本が虫食いだらけになったら嫌だから」
本当はそのために作った害虫防止スプレー。それがまさか義弟に集る虫に使うことになるとは、わたしだって思ってもみなかったわよ。と、やっぱり文句の一つも言ってやりたい。
「それよりも、最低なのはラースの方じゃないの! 毎日毎日、飽きもせず女を部屋に連れ込んで不潔だわ」
それに卑猥だわ。ムッと口を噤んで鼻白む。
感情的になりだしたわたしとの会話が面倒になってくると、ラースは大抵その場からいなくなる。そうやって逃げられ続けてきたから、今回も同じパターンかとわたしは構えていた。
「不潔って……ああ、そうか。姉さんって男っ気ないもんな。ああいうのは全部そう見えるのか」
あれっ? なんで? やっぱりラースがおかしい。ラースが逃げない。
以前のラースはわたしが近くにいるのも嫌がった。本当にここ最近の話だが、なぜだかラースはわたしを避けようとしなくなった。
それとも今回は、女達を帰されたのがよっぽど腹に据えかねているのだろうか。思わずキョトンと眺めていたら、彼は綺麗な黄金色の目を伏せて小馬鹿にしたように笑った。
きっとわたしが笑えるくらい間抜けな表情をしていたのだろう。恥ずかしさに頬がカッと熱くなる。
「てか、姉さん、好きな奴いるの? それ以前に人を好きになったことある?」
「しっ、失礼ね! わたしにも好きな人くらいいます!」
…………BL本の登場人物だけど。それにもっというと本命はあなたなんですけど。
というのはもちろん内緒だ。
ムキになって言い返すと、ラースの眉がピクッと動いたような気がした。
「……へぇ。そんな格好でうろついてる姉さんの姿を見たら、そいつ幻滅するんじゃないの?」
「っ!」
確かに、いくら楽だからって寝間着――ネグリジェで屋敷をうろつくのはやっぱり不味いか。でもなー楽だしなー。
わたしは自分の格好を見下ろした。こんな格好で屋敷をうろつくため、ラースには日々怒られているがそれも慣れた。今ではなにを言われても右から左、のはずなのだが……
「わ、わたしはいいのよ! どうせ誰も見ないんだから」
「ふーん」
好きな人の口から出た『幻滅』という言葉に動揺して、思わず早口で捲し立てる。
それにしても、さっきからダラダラとソファーで寝そべっているのに、どうしてそう絵になるのよ。わたしがやったらトドがデーンと昼寝しているようにしか見えないのを、完璧な美貌でカバーする。
我が義弟ながらカッコいいにもほどがある。
「正式の場ではちゃんとした格好で出てるんだから、別にいいでしょ?」
懲りもせずに言い張ると、ラースは「はいはい」と妙に鼻につく相槌をした。
なんなのよー! いつもそう文句ばっかり言って……わたしの寝間着姿が癇に障るならこっちなんか見なきゃいいじゃない……
だらしなく顔だけ動かして、じっとこちらを見つめるラース。
はだけた胸元から覗く褐色の肌が妙に色っぽい。
先ほどまで女達と口づけを交わしていた男らしい肉厚の唇が、艶やかに孤を描く。
わたしは義弟から漂う色香にオドオドと視線を床に泳がせた。
「な、なによ?」
「ネグリジェってさ、脱がせやすいようにできてるって知ってる?」
「…………へ?」
「セックスしやすいように」
「せ、セッ……って……」
カーテンの端を握ったまま絶句するわたしに、ラースが声をあげて笑い出した。
流石女ったらしなだけのことはある。わたしが普段使えないような単語を臆面もなく言ってみせるのだから。
さっきからラースは恥ずかしいことばかり言う。遠慮のないラースの発言が大人の世界過ぎて、わたしは顔を真っ赤にしながら俯いた。
もう二十二歳なのに。引きこもりで普段から人とあまり話をしないから、そういう話題には気軽に参加できないし、ノリにもついていけない。
とはいえ興味はあるし、なにをするのかはBL本を読むくらいだから知っている。けれど、そういう行為を実践したことがない手前、どう返せばいいのか分からない。
ここでも義弟との差を見せつけられたようで、やるせなさに小さく唇を噛む。泣きそうだ。
「……姉さん、嘘だよ」
わたしがすっかり落ち込んでいることに気付いてやり過ぎたと思ったらしい。ラースはばつが悪そうに言う。
「……からかったの?」
「ただそういう意味で捉える奴もいるってことだよ」
上目遣いでラースを見つめると、彼は一瞬息を呑んで、ふっと顔を逸らした。
完全に憐れまれている。
ラース以外に想える相手が見つからなくて、処女を卒業することができなかったのは確かに痛い。だって仕方ないじゃない。他の男性に触れられることを想像するだけで、鳥肌が立って気持ちが悪くなるんだもの。
うー、わたしって馬鹿だわ。こんな女ったらしで冷たくて自分を嫌ってる相手なのにどうしようもなく好きだなんて。それに……
――もし抱かれるなら、最初はラースがいい。
とか、性懲りもなく思ってしまうのだから救いようがない。
一度だけでも思い出として残しておきたい気持ちに駆られて、ラースの部屋の前まで来てノックをする寸前で我に返り、慌てて引き返したことなら何度もある。
そもそも、抱いてほしいって自分から夜這いをかけられるくらいの度胸があったら苦労しない。
こんな会話の最中にも、ラースとの情事を想像し、わたしが赤面しているなど目の前の当人は知るよしもないだろう。
「なに? 随分顔が赤いけど……やらしいことでも想像した?」
「っ!」
勘がいいことこの上ない。
また元の調子に戻って楽しげにクスクス笑いながら、ラースは余裕の表情でソファーに座り直した。その姿をボーっと眺めながら、わたしはさっきからどうしても確かめたくてうずうずしていたことを、無意味だとは分かっていても聞いてしまっていた。
「……ラースは」
「ん?」
「ラースもその……この格好、そう思って見てるの?」
「……ははっ、なに言ってんだか」
意を決して尋ねるも、少しの沈黙の後、乾いた笑いで一蹴された。相手にすらされていないことをはっきり見せつけられ、途端、わたしは現実に引き戻された。
想い人にここまで見下される前に、もっと早く関係自体を切り捨てるべきだったのかもしれない。未練たらしく当主の座に託けて居座り続けるのではなく、さっさと屋敷を出るべきだったのに。
「はぁ…………わたしはそんなことをあなたと話すために来たんじゃないのよ」
「じゃあ、なにしに来たんだよ?」
少しでも長くラースの傍にいたくて、今までどうしても去ることができなかったのだ。でも――
「姉さん?」
なにも言わないわたしを、ラースが訝しげに見つめる。わたしは表情を引き締め、改めて彼に向き直った。
頑張れわたし! 言うなら今よ!
「ラウレンティウス・スピアリング……お父様の遺言通り、明日、あなたが十八になる誕生日にわたしはあなたに家督を譲ります。わたしは田舎にでも引っ越して隠居するつもりなので、後はあなたの好きになさってください」
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