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1巻
1-1
しおりを挟む第一章 出来のいい義弟と悪い姉
生まれてすぐに母を亡くし、それを不憫に思った父に甘やかされて育ったわたし、ユイリー・ケープハルトの幼少期は、それはそれはもう目も当てられないほどの我が儘小娘――というかクソガキだった。
入ったばかりの使用人が皿を割ったときだって……
「さっそく粗相するなんて、子犬よりもしつけがなってないじゃないの。あなた、人以下ね」
などと、宣うクソガキである。
雇われの身でなに最速でやらかしちゃってるわけ? サイテーなんですけどぉー。
どんくさいったらありゃしないわ。見ているだけでイライラしてくる。クビよクビっ!
などと、本気で思っていたクソガキである。
「使えない人間など我が家には必要ありませんわ。ふふっ。だって、お父様が雇っているのに、なにを遠慮する必要があるのかしら? 使用人に気遣いなんて無用の長物……ですわよね?」
令嬢よろしく「ホホホホ」と笑って、意地悪く扇を片手でパタパタさせながら、悪口陰口ばかりに舌がよく回る。人を貶めることに余念のないこの生き物をなんと呼ぼう。
――そう、正しくクソガキで(以下同文)。
性根が腐ったまま生きてきたお陰で、わたしには一人もお友達と呼べる相手がいなかった。
「ふんっ、別にいいのよ。わたし伯爵令嬢だし、お金もあるし、一人でも生きていけるもの……」
不安になると決まってわたしはこう言って自分を慰めた。
今となっては過去の自分を恥としか思っていないが、当時のわたしは陰で皆からとんでもないクソガキ認定をされていることに心底憤っていた。
使用人達からはもちろんのこと、お父様以外の近しい人達からも敬遠されている。
そんな状況を理不尽に感じ、自分を持ち上げない奴らをタコのように茹で上げたい、と調理場に行って大釜で湯を沸かすくらい荒んでいたわけだ。
もちろん、泡を食ったお父様に止められたけど。
わたしの住むシンフォルースは、海岸に面した資源豊かな大国でタコが沢山獲れる。
人を茹でるのを止められたわたしは、その鬱憤を晴らすため、料理長に大釜でタコを大量に茹でさせた。それを一人もっきゅもっきゅと頬張っていても、お父様は「我が娘は(頬袋に食べ物を詰め込んだ)子リスのような愛らしさだね」とべた褒めの激甘。
後に「タコ茹で事件」と言われるようになるこのときも、やっぱりお父様はわたしをお叱りにはならなかった。そう、正しくクソガキが誕生したルーツはここにある。
伯爵家の当主であるお父様に頼めば欲しいものはなんでも手に入ると豪語し、使用人や従者を使い捨ての消耗品のように扱い、我が儘が服を着て歩いているようなわたしを許してしまう……。お父様は超親馬鹿だった。
国王の右腕とも称されるお父様も人の子である。多少は大目に見てやってほしい。が、一つだけ、どうしても当時のわたしを止めてほしかったことがある。それは――
ラウレンティウス・スピアリング。
お父様以外で唯一、わたしに安らぎをもたらしてくれる人物だ。
後に、とんでもないクソガキだったわたしが彼に犯した数々の愚行を死ぬほど後悔することになるのだが、それはひとまず置いといて……
彼と初めて顔を合わせたのは、わたしが十歳で彼が六歳の頃。普段わたしには甘い顔しかなさらないお父様が、いつになく改まった様子でいらしたから、その日のことはよく覚えている。
*
春の木漏れ日が優しく溢れる、ある日の昼下がり。お父様に部屋まで呼ばれたわたしは、そこにいた人物に目を奪われた。
黄金色の髪と瞳、褐色の浅黒い肌を持つ異国の美しい少年。ここまで綺麗な人間を見たことがない。
口をポカンと開いて驚くわたしに、お父様は言った。
「今日からこの子はユイリーの弟になるんだよ」
いきなり義弟ができた事実よりも、この綺麗な少年と知り合えたことが、ただただ嬉しかった。頬が勢いよく紅潮していくのを感じる。
「弟……? お父様、この子はなんという名前ですか?」
無遠慮にも上から下まで舐めるように眺めるわたしの問いに答えたのは、綺麗な少年だった。
「……ラウレンティウス」
「ら、らうれ……」
あまりに長い名前に、舌がもつれる。このままでは呼ぶたびに噛みそうだと思ったわたしは、彼の呼び方を勝手に決めた。
「じゃあ、あなたは今日からラースね! わたしはユイリー。今日からラースのお姉さんになるの。よろしくね」
「ユイリー? ラース……?」
「そうよ。短いから言いやすいでしょ?」
「……うん」
ラースの故国、ローツェルルツが奴隷の反乱で崩壊したのはつい先日のこと。王子だった彼は処刑から逃れて、複数の家臣に守られながらうちに辿り着いた。
なんでもラースは遠い昔、もう何世代も前にうちから嫁いでいった血筋の、その子孫の末裔だとかで、つまり遠縁に当たるそうだ。
その微かな希望を頼りに訪れたラース達を、お父様は受け入れたのだという。王の有力な補佐官であったお父様は、早急に王との謁見を申し出、名目上は亡命としながらもラースを養子に迎え入れることを承諾させた。さらには、ラースと共に亡命してきた家臣達も引き取ったのだ。なんという懐の深さ。
しかし、そう説明を受けている間もわたしは目の前の美少年に釘付けで、お父様の話をほとんど聞いていなかった。
初めて会ったときラースはとても大人しくて、周囲の人間を極度に恐れていた。反乱によって国を追われ、家族を亡くし、全てを失った幼い王子は深く傷つき弱っていた。
塞ぎ込みがちなラースに、お父様はとても優しく接し、家族として受け入れるのに少しの躊躇いも見せなかった。
そんなお父様の姿に、当時、政治に全く興味の欠片もなかったわたしも感銘を受け――この新しくできた義弟を守らなければならない、そう思った矢先……
「うちにはユイリーしかいない。だから君が成人したとき娘を娶って家督を継いでくれないか?」
「お、お父様っ⁉」
お父様がとんでもない爆弾を落とした。
最初はなにかの冗談かと思っていたのだが、それからというもの、お父様が同じ話をラースにしているのを、ことあるごとに聞かされ続けることになる。
そうして体にビリビリと電流が走るような、運命と勘違いするくらい衝撃的だったラースとの出会いから一年ほどが経過した。
この頃にはラースはすっかり我が家に馴染み、明るさを取り戻していた。彼からはいつもお日様の匂いがした。
というのも自ら申し出て、乗馬や剣技などの訓練を受け、日差しを浴びることが多かったからだ。体を動かすのが好きなラースは常日頃から稽古に励み、けして鍛練を怠らない。
聞くところによると座学のほうも優秀らしく、ラースは多分、相当に頭がいいはずなのだ。なのに、我が儘なわたしの言うことを素直に聞いて、ニコニコと天使のような笑みを見せる。
社交性にも優れる完璧を絵に描いたような義弟。
もはや愛される要素しかない四つ年下の義弟を、周りは放っておかなかったし、一番身近にいるわたしがラースに惹かれないわけがなかった。
むしろ、わたしは彼があまりに周囲に愛されすぎて焦っていた。
このままでは伯爵令嬢という立場以外なんの利点もない平凡で冴えないわたしなど、すぐにでも視界の隅の隅に追いやられる。
いずれ爪の先ほども、いや、ちんまいミジンコほども気にされなくなるハウスダストなゴミカス未来へGO!
――を想像し、焦ったわたしがなにをやったかというと……ラースを己の装飾品のごとく扱い、所有権は自分にあるかのように振る舞った、のである。
当時行方不明だった自制心を、今からでもとっとこ探しに行きたくなるくらい最悪な行動のツケは、もちろんすぐに回ってきた。
あんなに懐いてきて可愛かったラースが、徐々にわたしを避け始めたのだ。
しかし、ラースに夢中になっていた当時のわたしは、「わたしにしては珍しく嫌がらせもしないで可愛がっていたというのに、なんで?」と厚かましくもショックを受け、原因が分からず悩んでいた。
どうにかして離れていくラースを引き留めたくて、とにかく必死だった。
矜持も体面も、なにもかもをかなぐり捨てて一心不乱に謝罪した。
ストーカーのように毎日つきまとい、先回りして中庭の垣根からひょっこり顔を出すくらいには、色々とやってのけたものだが、結局どんな言葉も受け入れてはもらえず肩を落とす。
さらには周りからどんな噂を耳にしたのか、時が経つにつれて、ラースは一緒の空間にいることすらそうそう許してはくれなくなった。
まあ今となっては言われなくても分かる。
所有物扱いされたら誰でも嫌になるし、あとはきっと、ラースになにかとんでもないことをしてしまったに決まっている。
でもあの頃のわたしはそれすら理解できず、「わたしはラースに爪の先どころか、ちっちゃなミジンコほども気にされていないんだ」と見捨てられた子犬のような心境で、こっそりラースを眺める時間だけが増えていった。
許してもらいたくても許してもらえないこともあるのだと、唯一無二の癒しを失って。
そうして少しは学んだかと思いきや、諦めたわたしがまずしたことはラースをいじめることだった……
愛情と増悪は紙一重とは言うけれど。ええ、分かっているわよ。自分でもサイッテーな救いようのない人間だったってことは。
自分のことを振り返りもしない。裏切られたと思い込み、とにかく荒れていたあの頃。
ラースの持ち物を取り上げ、お気に入りの玩具を隠し、ドアを開けると部屋中カエルだらけなんてこともしてやった。中庭を散策しているラースめがけて、バルコニーからカエルを沢山降らせたこともある。ラースやその隣を歩く友人に投げつけもした。
お陰で「カエル姫」なんて不名誉なあだ名が使用人達の間でつけられるくらい。
なぜそうまでしてカエルに固執したかというと、珍しモノ好きのお父様が取り寄せた特大サイズの食用ガエルが調理場にたまたま大量に仕入れてあったからだ。他意はない。
使えるものはとことん使う。わたしは素直なお子様だった。
ぬちょっとしていて気持ち悪いし見た目はアレだが、嫌悪感よりもわたしの中にドロドロと渦巻く薄汚い復讐心の方が勝っていた。
お陰で義弟はとてつもないカエル嫌いに育った。
ちなみに嫌がらせで使ったカエルは、全部綺麗に回収されてお父様の胃袋に収まっている。そしてもちろん、このときもお父様はわたしをお叱りにはならなかった。
ちょっと困った顔はしていたけど、カエルに怯えて泣いているラースの頭を、お父様はポンポン叩いて慰めていたっけ。
そうしてわたしはラースに相手にされない鬱憤を、カエルを使った復讐で晴らしていたわけだ。しかし、一方的に当たり散らしておきながら、心はいつもズキンと痛んで寂しくなった。
……もちろんわたしはすっかりラースに嫌われてしまった。
カエル同様、ラースの大嫌いな存在へと、出会って一年ちょっとという短い期間で転身し、落ちるところまで落ちた。ラースにとって「カエル、イコール、わたし」として立派に認識されたのである。ワー、パチパチ……嬉しくない。
年齢を重ねるにつれ、わたしは縋りつきたくなるくらい、酷い後悔の念に苛まれるようになっていった。
結局どうにもこうにもいかなくなったわたしが取った手段は、妄想の世界に逃げること。
冴えない現実から目を背け、屋敷の書斎に入り浸り、本に没頭する。
そうして現実を忘れようとしていたというのに、わたしはあろうことか、本の中でもラースによく似た登場人物に惹かれてしまったのだ。
それもBL本! 腐女子爆誕‼
いやいやいや爆誕じゃないわよ。じょーだんじゃない。
どこまで絶望の淵を突っ走れば気がすむのだと突っ込みを入れながら、最初はお馬鹿な自分を否定した。けれど「頭の中でならどう妄想しようと勝手よね?」と結局自分を甘やかし、ずるずるとフリーダムな妄想の世界に引きずり込まれていったのだった。
すっかり引きこもりになり、現実から逃げ続けて早、六年。
十七歳になったわたしがある最悪なことに気付いたのは、伯爵令嬢として華々しく社交界デビューを飾ったときだった。
パーティーで次々とダンスを申し込まれ、相手の男性と触れ合うたびに、体が拒否反応を示すようになったのだ。最初は軽い違和感程度だったそれは、最終的には、手を繋ぐだけでゾッと全身に鳥肌が立つまでになった。
それでも、慣れないお酒でなんとか気を紛らわせながら頑張っていたのだが……
わたしはせっかくの社交界デビューを這う這うの体で逃げ出した。真っ青な顔をして帰り、お父様の不在の代わりに家にいたラースに、何事かと駆けつけられてしまう始末だ。
「いったいどうしたんだ? なにか……嫌なことでもされたのか?」
「なんでもないのよぉー、ちょっと気分が悪いだけ! だから、わたしのことはほっといてちょーだいっ!」
「……酒臭い。酔っぱらってるのか」
「ぜぇったい、触らないでよぉ? 自分の部屋くらい自分で歩いていけるんらからぁ」
明らかに舌が回っていない。
酒が入り、疲弊した体で暫く玄関先をふらふらと漂っていたら、見かねたラースに舌打ちされて軽く抱き上げられてしまった。ふわりと彼の香りが広がり、心臓が早鐘を打つ。
そんな自分を悟られないよう嫌々と暴れてもまるで歯が立たず、そのまま自室へ運ばれてしまう。
「姉さん、なにやってるんだよ……」
「触るなぁー、バカァー」
厳しい顔でこちらを見下ろすラースから逃れたくて、ぐいっと彼の広い胸を押した。
「っ、たくしょうがない人だな」
「一人で歩ける! 下ろして!」
「無理だから――って、髪を引っ張るな! ああ、くそっ。なんだってこんな面倒なんだよ、あんたは!」
「ら、ラースが怒ったぁ」
「怒ってない! 怒ってないから泣くな!」
「嘘らぁ~」
完璧なる絡み酒だ。
小さな子供のように唇を噛んで、メソメソと腕の中で泣き始めた姉を抱えるラースは、さぞ困ったことだろう。
わたしに呆れたラースの声だけが耳に残っている。
ちょっとだけ心配しているような顔を見せた気がしたんだけど、使用人が持ってきたボウルに吐いて寝ちゃったから、部屋に着いてからのことは正直あまり覚えていないのよね。残念ながら。
それから朝起きて正気に戻ると、ラースからこっぴどく怒られた。暫くの間、お酒を禁止されたのは仕方ないことだ。
普段から体を鍛えているラースは力が強い。だから無様にも酔い潰れそうになっている姉を、かなり小柄な方とはいえ軽々持ち上げられたわけなんだけど。
当時、ラースは弱冠十三歳だったが、既に並みの大人に負けないくらいの腕力と肉体を手に入れていたし、お父様の代理を安心して任せられるくらい頭も良く弁も立つ。
この頃にはもう、将来有望な美しい義弟に対する女性からの熱い視線が半端ないことになっていた。
ラース以外の男性などあり得ない、などという熱狂的な女性までいて、「これは成人したら大変なことになってそうだわー」と他人事のように思っていたのだが、それが今回のパーティーで一変した。
最悪なことに、わたしも義弟を取り巻く女性達の中の例外ではなかったようなのだ。
わたしは最初、この鳥肌現象は引きこもり生活が長かったせいで、男嫌いになってしまったのだと思っていた。
しかし、ラースに触れられてもちっとも鳥肌は立たなかったし、何年ぶりかで傍にいられることが、ちゃんと口を利いてくれることが、嬉しいとさえ感じていた。
――義弟以外の男の人には触られたくない。
そう思っている自分に気付いて、愕然とした。
それまでわたしはラースのことを弟として愛しているし、この執着じみた想いは、所有物がなくなったことへの不満がまだ心のどこかに残っているのだろうと思っていた。
ラースに似た登場人物が出てくるBL本を読むのは、相手にされない寂しさを紛らわすため。そう解釈していたのに、まさか恋愛対象としてラースを見ていただなんて。
よりにもよって社交界デビューの年に、ラースに固執しまくるこの感情の正体に気付くとは。
困ったことに、どうやらわたしは相当にラースを愛しているようだ。おそらく初めて出会ったときから。
お陰で社交界に行ったのは一度きり。あーあ、これでわたしは一生独り身確定かぁ。
いったいこれはどんな罰なんだろう。あれほどいじめ抜いた相手を好きになるとかあり得ない。なにより自分の気持ちを知った途端に失恋とか最っ高に惨めだわ。
だけどまあ、今までラースにしでかしたことを思えば、当たり前の結果だ。
わたしだって幸せな結婚とか恋人とか、普通の女の子が夢見るようなことに憧れぐらいある。
今回それが叶わないと分かったことは確かにショックだったけど、わたしには本がある。だから全部が全部ダメになったわけじゃない。好きなものがあるだけ、まだましなんだ。
全てを諦めて――しかし、それからすぐだ。
なにもかも望まぬ方向に変わってしまったのは。
わたしの十八の誕生日。シンフォルースでは成人となるその年に突然訪れたお父様の死。
お母様はわたしを出産したときに既に亡くなっている。
一人娘だったわたしは伯爵家の家督を女の身でありながら引き継いだのだが、本来、女が当主になるなどあり得ないことなのだ。
しかし特例として王命が下された。
このような措置が取られたのは、お父様が優秀な王の補佐官であり、王の友人だったからに他ならない。
お父様は最期まで、こんな不出来なわたしを愛してくれた。
けれど、そのお父様が残された最期の言葉が問題だったのだ。
『うちにはユイリーしかいない。だから君が成人したとき娘を娶って家督を継いでくれないか?』
どうやらお父様は本気でわたしをラースの妻にしたかったらしい。
今までも、ことあるごとに繰り返されてきたフレーズ。きっかけは慣れない遠い異国の地で苦労するラースが、少しでも早く我が家に馴染むようにと、気を遣われただけだったのかもしれない。
ラースがうちに来たばかりの頃は、それを聞くたびどう反応したものか困って、わたしはオロオロと顔を真っ赤にさせていたものだ。しかし、ラースに避けられるようになってから、わたしはそれを全力で拒絶するようになっていった。
お父様がラースにその話をするたび、「ご存じでしょう? 冷えきったわたし達の関係を。ですからもう少し配慮していただけないものでしょうか……」と、気まずい思いで一杯になった。
一生独り身確定だと思っていたし、ほとんど冗談としか受け取らなくなっていたというのに。
最期のとき、お父様の言葉を真摯に受け止めていたラースの顔が忘れられない。でもってわたしは、「わたしのこと心底嫌いなくせにラースは本当にそれでいいのかしら?」なんて他人事のように思っていたのだ。
こうしてわたしは、お父様を亡くした十八の誕生日に女でありながら伯爵家の家督を継いだ。
けれど、将来有望株の義弟と違って政治的な才覚などまるでないわたしは、当主として正式な場に出るのが心底苦手だった。
小さい頃はあんなに平然と人をあしらっていたのに、引きこもり生活が長かったせいか会話すら億劫で、人前に出るのは好きじゃなくなっていた。
だから、どうしようもなく嫌なときは体調不良を理由に逃げた。
ううっ、またやっちゃったわ。本当にダメダメな当主……と己を責めながら、仮病がバレバレでも構わず布団の中に潜って丸くなる。
そうして嫌なことが過ぎ去るのを待っていると――不思議なことに決まってラースが助けてくれるのだ。
わたしの代行として当主の仕事を処理してくれたことを、後になって人伝に聞かされる。
思わぬ助けにホッとして、けれどそのたび自分を情けなくも感じていた。
そんな折、それまで飴に集る蟻のように寄ってきていた取り巻き達は、手のひらを返して次々とわたしの周りから消えていった。
傷付いてる場合じゃないわよ、わたし! しっかりしろ! 大人のわたしがラースを守らないといけないんだから!
とまあ初めは布団に潜り込みながらも、なんとか必死に自分へエールを送って、一応姉らしく頑張ろうとしていたのだ。しかしそれも、お父様が亡くなった途端、消えていった彼らがどこへ行ったのか、知ったときのショックで一気に萎えた。
取り巻き達が次に集った先はラースの元だったからだ。
あの、幼き頃の「タコ茹で事件」以来、わたしにはムカつくたびにタコを茹で上げる習慣ができていた。
だからこのときも、タコを茹で、一匹だけじゃ腹の虫が治まらないわ! と、タコを一匹、二匹、三匹、四匹……と丸飲みする勢いでどか食いした。そうして腹痛で医者にかかるくらい愚かなわたしについてくる人間なんて、ただの一人もいなかった。
正直、涙も出たし、悔しかった。なにより出来損ないの自分が一番嫌いになった。
一人で生きていくしかないんだなぁ、とボンヤリ思って、人間って所詮こんなものなのね、とつくづく実感した。
でもあと四年、ラースが成人するまでの四年間だけ我慢すればいい。そう思ってなんとかやりくりしていたら、
『――姉さんは当主に相応しくない』
グサリと刺さる止めの一発を吐かれた。
わたしの心はラースにバッサリ切り捨てられた。
これってあれね。傷口に塩ってやつ。要は自分が成人したらサッサと家督を譲れってことね。嫌いなわたしを嫁にするという罰ゲーム付きでも、お父様の遺言だから致し方ないと……
でも、自分が不出来なのはちゃんと分かっていたから特に反論はしなかった。
とはいえ、あの台詞を思い出すだけで傷口をえぐられるように胸がズキンと痛くなる。
まだ当時十四歳だったラースに浴びせられた冷たい言葉。励ましでもなく、感謝でもなく、貶めるためだけのそれにわたしは深く傷付いて、誰もいない場所で静かに泣いた。
心に深い爪痕を残したその言葉は、同時にわたしへの最終勧告となり、しおらしく受け入れるのかと思いきや……
「ふんっ。わたしはあなたのお嫁さんになんてならないわよーだっ」
しおらしかったのはほんの数分間だけだった。
結構こたえたけど、泣くだけ泣いてすっきり再起を果たしたわたしは完全にやさぐれていた。
なにも言わずに姉の代役を淡々と続けるラースは、養子に迎え入れてくれたお父様に強い恩義を感じている。だから彼が密かにわたしを助けるのは、偏に伯爵家の威信を守るためなのだろう。
伯爵家を大切に思っているラースに家督を譲ることに、わたしはなんの異論もない。しかし、プライドをここまでズタボロにされた上、便宜的に娶られるなんてサイテーだ。
それにわたしはラースのことを愛しているけれど、ラースは違う。
どんなに体裁を取り繕っても、本心ではきっと、嫌いな相手との結婚なんて望んでいないはず。だからお父様の遺言に逆らうことになっても、それだけはどうしても避けたかった。
やっぱり大切な弟には幸せになってもらいたいものね。
と、いうことで。お姉さんは隠居生活の準備をします! お父様、ごめんなさいっ!
こうしてわたしはラースが成人するそのときに、家督を譲って家を出る――隠居することを決めたのだった。
四年間当主として居続け、ラースが成人したら家督を譲って家を出る。
そうして全てが終わったら田舎でのんびり隠居生活をしよう。
大好きな本だって沢山読めるように手配すればいいんだし、誰の目を気にすることもなく暮らしていけるなんて、腐女子で引きこもりのわたしには天国じゃない?
そう自分に何度も言い聞かせながら、どうにも全てが空回りするばかりだった当時のわたしは、密かに隠居生活の準備を進めることにしたのだった。
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