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ラース視点

社交界の日のこと

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 忘れもしない。
 十七になったユイリーが社交界デビューで家を出て行ったあの日──

「いったいどうしたんだ? 何か……嫌なことでもされたのか?」
「何でもないのよぉ~ちょっと気分が悪いだけだものぉ~だから~わたしのことわぁ~ほっといてちょ~だいっ!」
「……酒臭い。酔っぱらってるのか」

 華々しい社交界に出て行ったはずの、四つ年上の義理の姉が。数時間とたないうちに帰ってきた。それも盛大に酔っ払って。

「てか、ぜぇぇぇぇぇったい! 触らないでよぉ? 自分の部屋くらい~自分で歩いて~いけるんらからぁ~~」
 
 おい。明らかに舌が回ってないぞ。大丈夫か? それも自分で歩いて行けると言いながら、玄関先でふらふらクラゲのように漂っていること数分。

 触るなと言うから。綺麗なドレス姿で漂う姉をただ黙って見守るしかない。が、覚束無おぼつかない足取りで壁にぶち当たりそうになったのを。すんでのところで、ふわふわ変なステップで回避した──のを見て、俺は考えを変えた。

 チッ

 舌打ちしたのは苛立いらだったからじゃない。危なっかしくて心配で仕方ないからだ。
 この人、意外と反射神経はいいんだよな……。
 それも抱き上げたら抱き上げたで。ユイリーは文句しか言わないし、暴れるし、とにかく手が掛かる。でも久しぶりに触れた体は柔らかくて。まろやかな曲線を描くその体は、すっかり大人の女性だった。知らず知らずのうちに、ユイリーが大人になっていたことに、俺は酷く動揺した。

 俺らしくない。
 今年で十三になるけど。女性の扱いにはそこそこ慣れている。養子でも伯爵家の子息である俺に言い寄ってくる女は多い。
 今回だって酔っぱらいの一人や二人、上手くあしらえるはずが……今、目の前で酔い潰れている義理の姉、ユイリーにだけは。いつも、どうしても。俺は上手く立ち回ることができないでいる。
 
「姉さん何やってるんだよ……」
「触るなぁ~バカァ~」
「ったくしょうがない人だな」
「一人で歩ける~! おろせぇ~」
「はいはい、無理だから──って髪を引っ張るな!」
「やぁーだぁー」
「ああっくそっ! 何だってこんな面倒なんだよあんたは!」
「ら、ラースが怒ったぁ~~」
「怒ってない! 怒ってないから泣くな!」
「うそらぁ~~」

 嘘だろっ!? 泣かれた!?
 そんなに、俺は怖い顔してたのか……? 
 
 俺が狼狽ろうばいしていることにも気付かず。ユイリーはさっきから腕の中でもぞもぞ頼りなく動いている。赤い顔して泣きながら、酒の入った力の入らない手で、胸元をペチペチ叩いて。本人は必死に暴れてるつもりのようだが。やっぱり可愛いだけだ。
 ああ、つまりこれは……完全に失敗したのか。今まで女性を泣かせたことなんて一度もないのに……。

 ユイリーは俺のことを義弟おとうととしか見てくれないから。そのせいか、普段から妙に強がってばかりで。滅多に泣かない。泣いたところを見せてくれない。だから今回、俺の腕の中で弱音を吐くように、泣き顔を見せてくれたのは。何だか頼ってくれたみたいで嬉しい。
 姉だと必死に取りつくろっていても。ユイリーは同年代の中でもかなり小柄な方だから。四つ年下の俺より小さくて軽い。と言っても胸はある。それに、抱き上げたユイリーの体からは、ふんわり甘い香りがした。

 ますますもって不味いな……
 鼻を近づけなくても香る誘惑の匂いに。俺はユイリーをさっさと自室まで運び込んだ。そうしないと危うく、その無防備に半開きになった血色の良い唇に、無理矢理キスしてしまいそうになったからだ。
 この可愛い酔っぱらいを襲うわけにはいかないと。どうにか自制して。熱く火照ほてった小さな体をベッドに下ろすと、

「ふわふわ~」
「うんそうだね」

 ユイリーは気を良くしたようで。毛布をポンポン叩き始めた。

「姉さんは昔から毛布好きだよね……」

 良かった。涙は引っ込んだようだ。
 毛布の触り心地に夢中で、すっかり機嫌が直っている。ついさっきまで唇を噛み締め、子供みたいに泣きじゃくっていたのに。変わり身の早いことだ。
 ニコニコしながら、今度はベッドの上をゴロゴロし始めた。

 くっそ、可愛すぎるだろ……
 どうかこのまま寝落ちしてくれないだろうか。じゃないと今にも手を出してしまいそうで困る。と思っていたら──

「ヴッ気持ち、悪い……」
「ん?」
「吐いちゃ──ゲー」
「…………」

 よし、いいぞ。
 やっぱりユイリーはユイリーだった。俺の欲望を一瞬で退却させた。
 グッと顎を引いて、思わず手を握り締める。

 幼少期、カエル(食用)をアルフレッドと投げ合うことに夢中になって。俺をいじめる目的を忘れ果てた。ユイリーはあの頃からちっとも変わっていない。

 そもそも、ユイリーが投げたカエルは全部、アルフレッドが受け止めていたし。実際カエルが俺に当たったことは一度も無かった。
 アルフレッドにはあれだけ遠慮無く投げれる癖に。ユイリーは俺に投げるとき、かなり手加減をしていて。いつも決まって失速したからだ。

 へにゃへにゃ地面に落ちたカエルが、足元に転がっているのを見すぎたお陰で、カエルが苦手になったのは正直情けないが。本気でそれを当てることができないのに、虚勢きょせいを張り続けるユイリーの姿に。投げられる度、笑いを堪えるのに必死だった。
 まあ、それをやられた当初は嫌われたと思ったし。流石さすがにショックで泣いていたところをユイリーの父上、フィリスティア卿に見られたのは。当時六歳の子供だったとはいえ、思い出す度、未だ羞恥しゅうちで顔が熱くなる。

「──失礼致します。ラース様、ボウルをお持ちしました」
「ジェーンか。ありがとう。後は俺がやるから下がってくれ」
「畏まりました」

 実は先程まで。騒ぎを聞きつけてやって来た使用人達が、床にまき散った嘔吐物を淡々と清掃していた。

 こちらから指示するまでもなく。俺が過去を振り返っている間にも、物音一つ立てずに動いて。ジェーンが調理場からボウルを持ってくる頃には、汚れた床はすっかり綺麗になっていた。
 そうして完璧に役目をこなした彼らは、ジェーンが来る少し前に部屋を出ていった。空気のように存在を感じさせない。これはきっと、堅物で有能な執事長、アルフレッドの教育の賜物たまものだろう。

 ボウルにゲーゲー吐いているユイリーの背中を摩りながら。俺は二人きりになった静かな室内でため息をついた。

 こんな状態で毎回帰宅されたら、心配し過ぎてこちらの身が持たない。
 過保護なのは分かっているが。こっそり後をつけて。何が起こっているのか、確かめた方がいいかもしれない。

「姉さんは……またりずに社交界へ行くつもりなの?」

 聞いた途端、
 どうにか吐き気が止まって、ベッドにぐったりしながら、お気に入りの毛布を撫でていたユイリーが。ピタリとその手を止めた。

「姉さ……──!」

 ユイリーがまた、盛大に泣き始めてしまった。

「もうやだぁ~~行きたくない~~」
「……社交界で何か嫌なことでもされた?」
「やなの~~」
「どうして? 本当に何かあったのか……?」

 だとしたら由々しき事態だ。そんなことをユイリーにしたヤツには即刻制裁を……と頭を働かせながら、とりあえずその小さな頭を撫でて、落ち着くよう華奢きゃしゃな背中を優しくトントンしても。ユイリーはシクシクと泣いたままだから。俺は少し油断していた。

「ラース以外にさわられたくないのぉ~~っ!」
「…………ん?」

 それはいったいどういうことだ?
 どうやら、ユイリーが正気に戻る前に、ちゃんと確かめなければならない。重要事項が発生したようだ。

「……俺ならユイリーに触ってもいいの?」
「ラースは綺麗だからいいのーっ」
「そっか。じゃあもう社交界には行かなくていいよ。俺がちゃんとユイリーをお嫁さんにする。責任取るから」
「ホントぉ?」
「俺が姉さんを幸せにする。だから無理して行かなくていいんだ。その代わりもう二度と、他の男に姉さんを触らせないって。約束してくれる?」
「はーい。約束するぅ~~」

 あんまり純真に、キラキラした瞳をこちらに向けながら、素直に約束されたので。その腰まである長い艶やかな黒髪をぐしゃっと握るくらい、強引に引き寄せて掻き抱きたい衝動に駆られたが。ここは我慢だ。
 この酔っ払ってすっかり幼児化している小動物を怖がらせてはいけない。下手すれば逃げられるどころか、怯えて二度と近付いてこなくなるかもしれないからだ。

「ユイリーに今、誓いのキスしてもいい?」

 いずれは結婚するんだし。このくらい、いいよな?
 悩みに悩んだ末、譲歩したこの提案にどんな反応を示すのか。いつの間にかベッドに顔を埋めて突っ伏しているユイリーに、思い切って話し掛けたのだが。

「…………」

 返事がない。というか、伏せったままピクリとも動かない。

「ユイリー?」

 まさかアルコール中毒でも起こして……
 嫌な予感にその細い肩を優しくすると、ユイリーがクルリと体を反転させて仰向あおむけになった。でもって豪快にベッドの上で大の字になると、

 きゅーきゅーきゅーきゅーきゅー

「……泣きながら寝てる」

 はぁっ何でこの人……やることなすこと行動がとことん規格外なんだよ。
 ……可愛いけど。
 
 こちらが懸想けそうしている間に。ユイリーはすっかり意識を手放して眠っていた。その小さくて可憐な唇で、何やらむにゃむにゃ言っている。それにしても、寝息すら小動物みたいで可愛いとか。どうなってるんだこの人は……

「仕方ないな……」

 どうせ起きたらさっきまでの会話も忘れてるだろうし。明日は起きたらまず真っ先に、お酒は暫く禁止だとキツく言わなくては。あと、それとなく社交界へは出さないように、フィリスティア卿にも取り計らってもらうよう進言して……

 その健やかな寝顔を眺めながら。
 とりあえず、眠ってる間にキスをして。こっそり誓わせた。

 このときからだ。俺がユイリーを他者の目に触れさせないよう、囲ってしまおうと本格的に動き始めたのは。
 俺にとってユイリーは普通の女じゃない。とんでもなく可愛くて、物凄く世話の掛かる最愛の人──ユイリーに対する強い独占欲が増したのを感じながら。ユイリーこそが自分にとって大切な、一生守るべき唯一の人だと、はっきり俺は自覚した。
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